AgneiyaIV
第三章 深淵の鴉 
9.動乱(10)


 エランヴィアがその小さな細い牙を向けんとしたのは、アヤルカスであった。嘗て、姫を妃候補にと打診をしておきながら、あっさりと袖にした国王。彼に対して、姫の父たるエランヴィア国王は良い印象を持ってはいない。彼に袖にされた、そのことが原因で愛娘は長いこと塞ぎこんでしまった。更には、美姫として名高かった姫に対して、

 ――実は、十人並みなのではないか。
 ――田舎の小国の娘、国では美姫でもよそに出れば……。

 他国からの嘲笑も浴びせられた。それが原因かは不明であるが、以前は多くの縁談が寄せられていたリーゼロッテに対し、アヤルカスの一件以後はひとつとして他国からの話は持ち上がらなかった。そう、フィラティノアからの屈辱的な縁談を除いては。

 ――王太子の側室として貰い受けたい。

 小国といえども、一国の姫君である。側室の地位に甘んじるなど、誇りが許さない。けれども、エランヴィアとしては願ったり叶ったりの縁ではあった。大国に挟まれた小国の悲しさ、アヤルカスに捨てられた今は、ミアルシァに頼るしかない、しかし、そのミアルシァも南西の国ながら北方の香りを漂わせるエランヴィアの国名、気風、更にはリーゼロッテの名を嫌い、初めから彼女に対しては食指を動かさなかったのだ。
 姫には悪いが――と。エランヴィア国王は、フィラティノアの申し出に乗り気であった。例え側室であったとしても、大国の妃の一人には変わりがない。正妃より先に男子をあげれば、その立場も逆転することが可能である。それに賭けようと思ったのだ。だが、その矢先。リーゼロッテは死んだ。殺されたのだ。体面を保つために表向きは病死としておいたが、国王は手を回して愛娘の命を奪った者たちを探していた。そうして。辿り着いたのだ、アヤルカスに。

 ――アヤルカスに、抗議を。

 まず、使者がかの国へと向かった。ここで、アヤルカスより謝罪の言葉が出るとは思ってはいない。確たる証拠があるにせよ、茶を濁されて終わりだと。そう思っていた。それでも、亡き姫のために何かしなければ気が済まない。いつまでも、小国が大国の言いなりになると思わないでほしい――その思いを込めての抗議であったのに。
 言いがかり、その一言で使者は返された。なおも言い募ろうとする使者の一人は、『不敬』であると捕らえられ――見せしめのつもりか、殺害された。彼の遺体を持ちかえることは許されず、遺髪のみを胸に抱いて帰国した他の使者らは、屈辱に咽んだという。

 だから、と言って。エランヴィアが牙を向けるはずがない。剥いたが最後、完膚なきまでに叩きのめされる。それが判らぬほど愚かではないから。アヤルカスも、高を括っていたのだ。

「本当に、大丈夫であろうか」
 灯りの落ちた寝所。国王の安息所たるそこに侍るのは、王妃でも愛妾でもない。長い金糸の髪に裸体を隠した、硬質の美貌を持つ娘である。正確には、美形とは言えないかもしれない。美しいというよりも、綺麗、整った品のある面差を持つ娘である。それが、先程までは寝台の上で獣のごとく乱れていた。国王の上で快楽に悶える姿は、どの遊び女よりも妖艶で美しかった。また、その身体も類稀なる美質が備わっており。甚く国王を満足させ、男性としての自信を取り戻させてくれたのである。
「疑っておいでなのですか、我が主君を」
 国王の胸に頬を寄せ、娘は甘く囁いた。闇に光る緑の瞳は、猫を思わせる。国王は彼女の髪に指を絡め、「そうではない」囈のように繰り返した。
「本当に、見返りは必要ない、と」
 エランヴィアには、大国に『献上』するような美姫はもういない。それなのに、援助をしてくれるというのか。フィラティノアは。そんなうまい話が――彼は、腕の中で微笑む、ツィスカなる娘を不安げに見つめた。かの国は、何を思ってエランヴィアに加担してくれるのだろう。この国には、なにもない、と言うのに。
「リーゼロッテ姫は、王太子殿下の御妃となられるはずだった御方。その方を無残にも殺害された怒りは、我が主君にもございます」
 幾度も聞かされるツィスカの言葉、それを簡単に鵜呑みに出来るほど、エランヴィア国王は暗愚ではない。何か裏がある。この妖しき猫の手を取れば、ただでは済まない。そんな予感はある。それでも、アヤルカスに受けた屈辱、日々国内に高まるかの国への不満、それを解消するためには。
「形だけでよいのです」
 ツィスカが唇の端を吊り上げる。ただ、アヤルカスに対して宣戦布告をすればよい。軍勢を整えるだけでよい、と。エランヴィアに不穏な動きがあると、そう思わせるだけでよい。
「そうして、貴国にどのような益がある?」
 其処が判らぬ。国王の問いにツィスカは
「それは、追々」
 更に笑みを濃くするだけだった。


 国王の寝所を辞した彼女は、自身に与えられた部屋には戻らず、まず裏庭を目指した。庭には下りず、僅かにせり出した露台から庭を眺める。と、その隅でちかりと何かが光った。彼女と共にアヤルカスを経由してこの国に紛れこんだ、密偵である。ツィスカ同様、グレイシス二世の密命を受けたその人物は、定期的にこうして彼女の前に姿を現す。そうして、ツィスカの指示のもと、エランヴィアに『種』を撒くのだ。騒乱の種を。
 密偵の気配が消えると、ツィスカは柵に凭れ空を仰いだ。夜半を過ぎた今は、星の位置も先程とはだいぶ変わっている。巫女の血筋であればこの模様を見て何かしら導き出すこともできようが、残念ながら、彼女にはその力はない。アインザクトも帝室の血を引いているだけあって、時折暁の瞳や黄昏の瞳を持つ者が生まれることがあった。けれども、それは極稀で。かの家に生まれる者の殆どが、緑の瞳をもっていた。ツィスカのように。
(わたしは)
 何処へ行くのだろう。
 ツィスカは自嘲めいた笑みを浮かべる。アインザクトの血を引くといえど、それはかなりの傍系で。間違っても公女を名乗れる立場にはない。それを名乗るべき存在は、別にいる。いや、居た、と。公子たる者は確かに存在はしていたのだが。残念ながら、消息を絶った。あるいは、死んだのかもしれない。そうだとしたら、何と羨ましいことだろう。彼は解放されたのだ。アインザクトの主筋にしては珍しく、粗暴で狂気じみたひとではあったが、それでも大切な公子だった。彼が亡きものとなってしまったら、後を継げるのは、一人しかいない。だが、その人もまた行方がわからないのだ。
 自分はこうしてフィラティノアに加担しつつ、家の再興の機会を窺ってはいるが、他はどうなのか。何を考えているのか。近頃は残党同士で連絡を取り合うことはあまりなく、どちらかと言えば自分は蚊帳の外に置かれている存在である。一度、カルノリアに潜入した残党より、そう遠くない未来にカルノリアに揺さぶりをかけるとの報せが入ったが、あれから、どうしたか。確かに皇妃ハルゲイザが謀反の嫌疑をかけられ幽閉されたとの報せを受けたが。それ以上の話は聞かない。このまま、何もなければ。自分の生きている間に、何も起こらなければ。
 ただ、汚れただけで終わってしまう。
「……」
 ツィスカは先程まで受けていた愛撫を思い出す。老人と言える域に入った男性の、独特の体臭に吐き気を催した。老いてなお、異性の身体を求める男――欲望の強さには辟易する。
 初めは、アヤルカスに訪れた使者を誘惑した。仲間を失い、精神の均衡を失っていた男は、ツィスカの手管にあっさりと陥落する。彼に付いていきたい、その申し出を初めは断ったが、度重なる懇願とツィスカの肉体の魅力の前に彼は陥落した。上手くエランヴィアへと潜入を果たした彼女が次に標的としたのは、国王の近習だった。彼と関係を結び、その伝手を使って、国王の元へ――僅かの期間にどれだけの異性に肌を許したのだろう。妻と離れて久しいウィルフリートの求めに応じたことも入れれば、もう、片手の指では足りぬほどの男性を知ってしまっている。
 元々、ゲルダ街に送り込まれたのは閨で工作をするためだったからであるが。割り切るまではそれなりの時間が必要だった。初めてグレイシス二世に抱かれたときも、役儀を終えて私室に戻ったのちに穢れた身を嘆いて一晩中涙を流し続けた。
 自分は、誰のために動いているのだろう。グレイシス二世か、アインザクトか。それとも。
「陛下」
 神聖皇帝ルクレツィア一世のためか。彼女はかぶりを振った。そう。自分は、おそらくあの覇気に満ち溢れた若き皇帝のために動こうとしている。彼女の治世を望むが故に。

「ツィスカ殿」

 もの思いに耽る彼女に声をかける者がひとり。暗がりの中からふわりと姿を現す。細くたおやかな容姿を持つその女性を、彼女は知っていた。アヤルカスの紫芳宮に滞在しているときに顔見知りとなったその人は――
「ロエラ殿」
 ツィスカは眼を見開いた。遠く離れたセルニダにおいて、国王付の女官の侍女を務めていた彼女が何故ここに、と。疑問を覚え、眉を顰める。ウィルフリートの饗応役がかの女官であったために、宮廷内では幾度か顔を合わせていた。それなりに言葉も交わしてはいたが、親しく会話した記憶はない。否、それ以上に。
「何故、ここに」
 尋ねられることを予想していたのだろう。ロエラは薄く笑った。役儀なれば、と、簡潔に答える。よもや、アヤルカス国王の命を受けて、ツィスカの行動を探りに来たのかと戦慄した。国王の部屋に召されたために、武器が手元にはない。が、内心の焦りを悟られぬよう、彼女は平静を装いロエラを見据えた。
「役儀、とは」
「貴方様同様、エランヴィアの動向を探ることですわ」
 緊張が走る。ツィスカは反射的に身構えた。やはりこの女性は、アヤルカス国王の密偵。しかも、ツィスカの目的まで知っている。ならば、生かしておくわけにはいかぬ――緑の瞳の奥に、殺気が燃え上がる。逆にロエラは何処までも冷静であった。彼女は月光を映しこむ青い瞳に不可思議な光を浮かべ、じっとツィスカを見ている。殺気を感じているはずなのに、この落ち着き様は何事だ。逆にツィスカの方が悪寒を覚えた。
「それから。我が長が貴方様にお会いしたいと申しております」
 ロエラは淡々と告げる。どうぞ、ご同行願いたい、と。穏やかに、だが、否と言わせぬ強さで彼女を誘う。
「断る、と。そう申し上げましたら?」
「貴方様には、選ぶ権利はございません」
 徐に、ロエラは髪を掻きあげる。何を、と、不審に思うツィスカは、次の瞬間声を失った。いままで長い髪に隠されていたロエラの耳元、そこに揺れる一粒の耳飾を目にして、衝撃のあまり眩暈すら覚えた。月明かりと星明かりを受けて、神秘の光を放つ星石――瑠璃色をしたかの貴石は、見覚えがあるどころではない。長らくツィスカ自身が大切に身に付けていた耳飾、その、失われたと思っていた対のものだ。
「――いらして、戴けますわね」
 頷くしかなかった。この耳飾りを持っている者、それは、アンディルエの縁者に他ならない。アインザクトは、あくまでも神聖帝国の臣下である。巫女姫のしもべである。


 二人は衛兵の目を盗み、王宮を抜け出した。警備の隙をつくことなど、ツィスカは勿論ロエラも容易いことだったらしい。表通りに出て辻馬車を拾った際、ロエラが告げた行先をツィスカは意外に思った。エランヴィア王都の歓楽街、そのような処にアンディルエの縁者がいるのだろうか。と。巫女に対し、神聖な印象を抱いていた彼女の心に疑念が宿る。フィラティノアいに於いて対面した巫女姫、彼女のなんと清冽で美しかったことか。あれこそが巫女姫、我が主君と信じる彼女は、隣に座る『自称』アンディルエの縁者を胡散臭く思い始めた。
「こちらに」
 更に、案内された先が娼婦館であった日には。疑念は一層膨れ上がる。まさか、気高き巫女姫の一族が、このような場所に滞在しているなど――考えられぬ。
「腑に落ちん、と言う顔をしておるのぅ」
 奥の部屋に通され、所在無げに長椅子に腰を下ろしていたツィスカは、不意に声をかけられ飛び上がらんばかりに驚いた。先程まで全く人の気配はなかった。それなのに。僅かに目を別の場所に移していた間に、目の前に人が佇んでいる。老婆だ。数百年の時を経た大木を思わせる、年齢不詳の老婆。自分の何倍生きているのだろうかと、不躾にもまじまじとその顔を覗きこんでしまっていたことに気付き、彼女は素直に無礼を詫びた。すると、老婆は枯れ木を渡る風のような、虚ろな笑い声をあげて。
「いや、初めて会った相手は、皆同じことを思うよ。気になされるな」
 相好を崩す。
「その容姿から見て、御身はアインザクトの縁者と思われるが――間違いではないな?」
 単刀直入な質問だった。迷ったが、覚悟を決めて頷く。そんなツィスカを老婆は楽しげに見つめ、
「西の大公の末裔か。ああ、確かに、陛下の面影が残っておるわ」
 西の大公、アインザクトをそう呼ぶのは、神聖帝国の縁者である。そして、彼らもまた。
「鴉に食い荒らされたと思っておったが、なんのなんの。ご健勝で何より」
 カルノリアを、『鴉』と呼ぶ。
「ご老体、貴方は」
 あの耳飾、対の飾りを持つ者は、アンディルエの縁者だ。不当な方法で人手に渡らぬ限り、シェルダ=リ・アーサの耳飾りを持つのは、
「巫女姫の」
 子孫に他ならない。
 落日の日、巫女姫の身代わりとして炎の中に消えた女騎士シェルダ=リ・アーサ。彼女は巫女姫を送り出す際に、耳飾りを彼女に渡した。自身の形見として。代わりに、巫女姫から指輪を下賜されている。
 カルノリアの兵士の前で、クラウディア一世の、巫女姫フィオレーンの前で。シェルダ=リ・アーサは炎に消えた。彼女はそこで落命したと、『最期』を見た者たちは思っていただろう。けれども。生きていたのだ。生きていたのだ、シェルダ=リ・アーサは。彼女を救ったのが、西の大公アインザクトの兵士だった。
「ほう?」
 ツィスカの話に、老婆が興味深げに耳を傾ける。
「傷を負ってはいましたが、シェルダ=リ・アーサ殿は共にアインザクトへと落ち、その後の戦役では先頭に立って戦っていらっしゃいました」
 アインザクト敗残の日、誇り高き女騎士は、耳飾と指輪を落ちのびる公子へと託した。いつか、神聖帝国が再興されたときには、必ず巫女姫を守るよう。皇帝の剣となるよう。強く願って。その後の彼女の消息は、残念ながら知らされてはいない。ただ、アインザクトの末裔には耳飾と指輪が伝えられただけである。
「元々、耳飾は巫女姫のものだったそうですね」
 幼馴染でもあり、学友でもあったシェルダ=リ・アーサが近衛騎士として宮廷に上がる際、フィオレーンが祝いにと贈ったものだった。
「それを知っているとは。かなり御身はアインザクトの血を濃く継いでいるのであろう」
 老婆の言葉に、ツィスカはふと目を伏せる。そうではない。自分は、それほど強くかの大公の血を受けているわけではない。そう、ツィスカは繰り返した。
「ところで、ご老体。貴方は……」
 アンディルエの、どのような位置にある人物なのか。尋ねれば老婆は思わぬことを口にした。
「妾か? 妾は、巫女姫と呼ばれておったよ。つい、先年までな」
 ふぉふぉ、と。乾いた笑い声を受けて、ツィスカは驚いた。巫女姫、この老婆が――いや、例え数年前だったとしても、姫と言うからには若い娘を想像してしまうのだ。神聖帝国最高位の女性に対する無礼な考えを振り払い、ツィスカは老婆の前に平伏した。
「西の大公が、エランヴィアをつついて何をしようとしているのか。ことによっては、我らも協力を惜しまんが?」
 事実上の協定とも言える申し出に、ツィスカはより深く頭を下げる。長らく出会うことのなかったアンディルエとアインザクト、双方の末裔がまみえた。中央諸国に属さぬ、辺境とも言える小国に於いて。その巡り合わせに身を震わせつつ、ツィスカは顔を上げる。
 時代が動く。自分が命ある間に。歴史を動かす大きな歯車の一つとして、自分も動くことができるのだ。そう思うと、別の意味で身体が震えた。


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