AgneiyaIV
第三章 深淵の鴉 
9.動乱(4)


 エリシア妃出立の報を携えて、ヴォルフラムが宮廷に上がったのはその日の午後であった。冬薔薇よりの使いとして皇帝と対面することは幾度かあった、が、かつての侍従武官として彼の前に立つのは久方ぶりである。
「そうか、もう、発たれたか」
 シェルキスは感慨深く息をつき、深く椅子に沈みこむ。公的な謁見ではなく私的な対面ということで、ヴォルフラムは皇帝の執務室に通されていた。壁近くに佇む小姓と侍女二人、そのほかには誰もいない。ヴォルフラムも固有名詞は出さずに、ただ「件の夫人」とだけ皇帝に告げる。傍で聞いているものにとっては、なんのことやら意味が判らぬだろう。宮廷内に潜む反皇帝派の勢力と、何処にあるか判らぬ異国の密偵の目、耳。それらを避けるために、ここでは具体的な名を出すことを憚られる。神聖皇帝のことも、「暁の姫君」と。ヴォルフラムは表現した。その言葉にシェルキスは息を止め、遠くに視線を投げる。皇帝シェルキスにとっての暁の姫君は、アグネイヤ四世でもルクレツィア一世でもない。遥か遠き日に出会った、神聖帝国皇太后にしてアヤルカス王太后でもあるリディアなのだ。かの姫君の凛とした姿を思い出した皇帝は、つめていた息を静かに吐いた。ミアルシァの血を引く姫なれど、今は甥の手によって離宮に押し込められている。優秀なる宰相も同じ場所に置かれていると聞くが――まさか、世間の噂通りに二人の間に道ならぬ行為があるとは思えぬ。けれども心が騒ぐのは、リディアが初恋の姫君だからだろうか。
「貴殿はここには戻らぬのか、ヴォルフラム」
 皇帝の言葉に、元侍従武官はかぶりを振った。
「もう、私は歳をとりすぎました」
 故郷に帰り、隠居をするという。彼は、シェルキスの母スヴェローニャ夫人と同郷だった。
「そう、か」
 シェラが嫁ぎ、エリシアが去り、ヴォルフラムもまた、帰郷する。ひとりまたひとりと、傍にいた者たちが消えていく。孤独の海に投げ出される皇帝の慰めとなるものは、最早、ないに等しい。嘆く皇帝に、ヴォルフラムは穏やかな微笑を向ける。
「ナディア大公妃も、アレクシア皇女殿下も、いらっしゃるではないですか」
 ナディアの名が出た刹那、室内の空気が揺れた。それを、皇帝もヴォルフラムも感じ取ったが、敢えて反応は示さない。シェルキスは小さく笑い、頷く。妹と娘、近い血縁に在る二人だが、常に傍にいられるわけではない。殊に頼りとしたい妹は女官長としての勤めも忙しく、時折食事を共にするくらいである。娘に至っては、ほぼ一日図書館に籠りきりで食事の席にも現れぬことがしばしばだった。エルメイヤの補佐となった今は、皇太子の公務に忙しく。更に距離が出来たような気がする。
「シェルマリヤ姫は、息災だそうですよ」
 現在は、今一人の暁の姫君のもとにあるのだと、ヴォルフラムは言葉を添えた。
「シェラは、私よりも良き主君を見つけたようだな」
 皇帝の苦笑に、
「拗ねておられるのですか、陛下」
 元侍従武官はからかうように尋ねる。シェルキスは、この上なくシェラを頼りにしていた。帝室に連なる者の中で、唯一自身と同じ黒髪を持っていたからかもしれない。それが血の絆に思えて、何よりもかけがえのないものと感じられて。ともすれば、我が子以上に目をかけていたのかもしれない。それを知っていた義弟は、敢えて娘を義兄である主君に差し出した。この娘を嫁がせることはない、と、その証であるように彼女に男装をさせ、男子のような教育を施した。それなのに、何を思ったのか。神聖皇帝即位の際に、同時に即位したアヤルカス国王の元へと送り込むような真似をした。結果的にシェラが嫁いだのは神聖皇帝であったが――義弟の行動に、最も衝撃を受けたのはシェルキスであった。
「シェラは、私の少ない身内の中の一人だからな」
 半ば投げやりとも思える独白に、ヴォルフラムの視線が揺れる。彼もまた、真実を知る者のうちの一人。皇帝の言葉の奥に潜むものを感じ取り、痛ましげに主君を見上げた。


 私はこれで、そういってヴォルフラムが去ったのち、入れ替わるように近習が午後の謁見時間の開始を告げに現れた。自身の思いに耽っていた皇帝は、
「ああ」
 すぐに行くと応え、椅子から身を起こす。
 神聖皇帝ルクレツィア一世の即位を受けて、重臣たちの間に動揺が広がっている。偽りの皇帝を廃し、カルノリアこそが真実の神聖帝国の後継であると宣言をすべきだと主張するものが多数派を占めていた。彼らは煮え切らぬ態度の皇帝に愛想を尽かし、次第に開戦派のタティアン大公の元に集うようになっている。
 同じだ。かつての神聖帝国崩壊時と。
 軟弱なる皇帝エルメイヤ三世は、その決断力の鈍さを嫌われ、暗殺された。自身もそれと同じ運命を辿るのかと、シェルキス二世は明るくない未来を想像する。それならばそれでよい、自身の命が失われることでカルノリアが救われるのであれば。けれども、自分が帝冠を戴いている間は、カルノリアを押さえなければならない。動いてはならない。神聖帝国に牙を剥いてはならない。

 ――偽りの皇帝を戴く国は、滅びる。必ず滅びる。

 正統ならざるものが冠を手にすれば、必ずや天の怒りに触れて、国が傾くと。『代弁者』たる巫女姫が叫んだという逸話が残っている。カルノリア帝国の始祖は、その言葉を恐れたのかもしれない。簒奪者として神聖帝国を名乗ったとして、一代で滅びてしまっては何にもならぬ。自身の正統性に不安があったからこそ、初代カルノリア皇帝は、神聖帝国ではなくカルノリア帝国を興したのだ――今は、その気持ちが痛いほどわかる。
「私も」
 早く、帝冠を正統なるものに渡さねばならない。返さねばならない。なぜなら。
 カルノリア皇帝シェルキス二世。彼は、先帝の血を一滴たりとも受け継いではいないのだから。



「ご無沙汰しておりました、殿下」
 声をかけられたとき、それが誰なのか。一瞬分からなかった。だが、曖昧に会釈を返したのち
「ああ、ヴォルフラム」
 漸くその名と顔を思い出す。
「ねえさま?」
 きょとんと自分を見上げる弟エルメイヤに、アレクシアは穏やかな笑みを向ける。この方は、お父様の古いお友達なのよ、と。お友達――エルメイヤは口の中で繰り返した。宮廷深く押し込められ、顔を合わせる者と言えば母か医師か侍女たちか――限られた世界でしか生きていない幼い皇太子は、『友達』という言葉に酷く敏感であった。彼は淡い翠の瞳に好奇の色を浮かべ、真直ぐにヴォルフラムを見上げる。
「お友達?」
 するとヴォルフラムは照れくさそうに顔を赤らめ、
「陛下には、良くして戴きました」
 とだけ答える。その台詞に、アレクシアは顔を顰めた。
「辺境にいらしていたのですよね? また、戻っていらっしゃるのではなくて?」
 アレクシアを始め皇女たちは、父の最も傍近くにいたヴォルフラムは帝都を離れ代官として辺境にあると聞いていた。いまここに彼がいるということは、代官の任を解かれたと思ったのだが。また、何処かに赴任するのか。それとも、暇乞いにやって来たのか。遠い面影はうっすらとしか思い出せないが、やはり幼い頃に数度見かけた彼とは違い、随分と老いている。僻地で苦労を重ねてきたのではないかと不安を覚えるアレクシアに、
「辺境も、楽しゅうございましたよ」
 ヴォルフラムは笑顔を向ける。
「それはそれは美しい冬の薔薇を愛でながらの日々は、忘れ難い想い出の一つです」
「冬の薔薇」
「ええ。銀色に輝く、誇り高い薔薇でした」
 何かの謎かけだろうか。アレクシアは首を傾げる。傍らで更に目を輝かせたエルメイヤは、「見たい」と無邪気に騒いでいた。侍女たちは困惑気味に主人を宥めながら、「後で薔薇園に行きましょう」――エルメイヤが何よりも好む、温室に連れていくことを約束している。
 故郷に帰ろうと思う、そう告げるヴォルフラムに、アレクシアは頷いた。
「叔母には? ご挨拶はされたのかしら?」
「これから伺うところです。それでは、これにて失礼いたします」
 律儀な男は皇女に最敬礼する。アレクシアは「お元気で」と言い残し、弟や侍女らと共にその場を後にした。振り返れば、まだヴォルフラムが其処に佇みこちらを見守っている。アレクシアは軽く手を挙げた。応えるように元侍従武官が頭を下げる。が。その表情が僅かに変わった。
「殿下」
 鋭い声が呼んだのは、自分かそれとも弟か。アレクシアが判断する前に侍女たちの間から悲鳴が起こる。それに紛れるようにして

「ねえさま」

 悲痛な弟の声を、彼女は聞いた。そこで初めて、アレクシアは自身に向かって突き出される刃を見たのである。身を交わすことなどできなかった。咄嗟のことに、思考すら奪われ、ただ立ちすくむことしかできなかった。回廊の柱の影から躍り出た二つの人影、うち一つが彼女の急所をめがけて刃を繰り出していたのだ。侍女の誰ひとりとして、主人を庇うこともない。やかましく声を上げるだけで、凶刃に倒れる皇女を見守ることしかしなかった。腹部に焼けつくような痛みを覚え、アレクシアは壁に凭れかかる。近習のお仕着せを纏った不届き者は、止めとばかりに更に剣を振りあげた。そこに。
「殿下」
 再びヴォルフラムの声が聞こえ、刺客の身体が大きく揺らめき倒れるのを、アレクシアは暗く遠のく視界の中で確認した。ああ、ヴォルフラムが助けてくれた――思う間もなく、彼女は床にくずおれる。同時にどさりと重い袋が落ちたような。何か柔らかいものがぶちまけられたような。耳障りな音を聞いた。
「殿下」
 三度響いた声、それは明らかに自分ではなく。弟に対する呼びかけだった。アレクシアの膝に凭れるように倒れ込んだもの、夕刻の日差しに淡く輝く金髪は、紛れもなくエルメイヤだった。彼の肩口からは、鮮血が吹き出している。腕を斬り落とされてしまったのか、錯覚したアレクシアの喉が高く鳴った。声は出ない、恐怖からか痛みからか、弟の名すら呼ぶことができない。重く凍りついた手は、彼を抱き寄せることも庇うこともできない。刺客は二人いた、うちひとりがアレクシアを、今一人がエルメイヤを狙ったのだ。ヴォルフラムが救ってくれたのは、救おうとしたのは、自分だけ。

「何をなさいます」
「何を為されますか」

 侍女たちが困惑の声をあげている。ヴォルフラムの剣が残る一人の刺客を屠ったとき、二人の侍女が錯乱したのかヴォルフラムを両脇から押さえこんだ。
「なにを……」
 彼の声が遠く聞こえる。続いて、くぐもった悲鳴。重なるように響く、衛兵たちの足音。助かったのだ、と思うと、意識が闇の中へと沈み込んでいく。


 次にアレクシアが目を覚ましたのは、自室の寝台の上でだった。傷の痛みに顔を顰め、低い呻き声をあげれば、
「殿下」
「姫様」
 侍女たちがこちらを覗きこんでくる。
「陛下に、ご連絡を」
 年長の侍女が命を下し、若い侍女が慌てて頷く。彼女は父帝に皇女の生還を伝えるべく、部屋を後にした。そのやり取りを見守っていたアレクシアは、首だけを動かし、侍女を見上げる。
「エルメイヤは?」
 彼もアレクシア同様、一命を取り留めたのだろうか。侍女は頷き、エルメイヤも現在は侍医の手当てを受けているはずだと答えた。どちらかと言えば彼の方が軽傷で、剣先が肩口を掠めた程度であったという。アレクシアは一歩間違えば内臓を損傷する恐れがあり、それを逃れたのは奇跡だと医師が頻りと感嘆の声を漏らしていたと侍女は付け加える。
「あまり、お声を発してはなりません。傷に障ります」
 侍女は優しく目を細め、アレクシアの布団を直した。彼女は部屋付きの侍女であり、先程の一幕を直に見てはいない。アレクシアとエルメイヤの公務への移動に随行した侍女及び近習はどうなったのか。錯乱し、ヴォルフラムに取りすがっていた侍女たちも、もう落ち着いたころではないかとアレクシアは考えた。近習の姿をして現れた不埒者は、何処の手の者だろう。彼女とエルメイヤを襲ったということは、
(タティアン大公)
 叔父の配下か。母后ならば、エルメイヤを危険に巻き込むことはない。それ以前に、自分に刃を向けるようなことはしない。しない、と思いたい。血の絆を信じていたい。
 ほう、と息をつくアレクシア、彼女に向かい侍女は思わぬ言葉を告げた。
「ご安心くださいませ、殿下。賊は捕らえております」
 どういうことだ。賊はヴォルフラムが二人ともあの場で処罰したのではないのか。まだ、他に存在していたのか――怪訝に視線を揺らす彼女に、侍女は優しく微笑みかける。
「恐ろしいですわね、元侍従武官殿といえど、何処で誰に抱きこまれているか判らないものですわ。大恩ある皇子及び皇女殿下に刃を向けるなど。おお、恐ろしいこと」
「……?」
 何を言われているか、判らなかった。侍女の言葉は言葉として認識はできる。だが、彼女が何を言わんとしているのか。一瞬、思考が止まった。この侍女の言葉によれば、ヴォルフラムがアレクシアやエルメイヤを襲ったかのようではないか。それは違う。彼は自分たち姉弟を救ってくれた恩人なのだ。
「ヴォルフラムが、ヴォルフラム殿が、エルメイヤと私に刃を向けた、と?」
「殿下も幼い頃に見知っていらした人物ですわね。御労しい。そのような方にお命を狙われるなど」
 侍女は手布で目元を押さえる。
 間違っている。アレクシアは身を起こそうともがくが
「いけません、安静になさらないと」
 侍女に肩を押さえつけられる。安静になどしてはいられない、恩人であるはずのヴォルフラムが、刺客にされてしまっているのだ。あのとき同行していた侍女の中に、刺客と通じていた者たちがいる。その者たちが、ヴォルフラムを刺客として衛兵に突き出したのだ。確かにあのとき、ヴォルフラムの剣には血糊がついていた。しかしそれは、刺客を屠った血であり、アレクシアとエルメイヤの血ではない。
 苦しい息の下、アレクシアは必死に侍女に真実を訴えた。侍女は瞠目して聞いていたが、
「まあ、大変」
 皇女の訴えに周囲の過ちを知ったのであろう、おろおろと視線を泳がせ始める。このことを皇帝なりその側近なり、然るべき人物に伝えなければならない。けれども、今皇女の傍に侍っているのは、この侍女だけである。皇女一人を残して部屋を離れるわけにはいかないのだ。少なくとも、先の若い侍女が戻るまでは、彼女は動けない。
「その間にも、ヴォルフラムは濡れ衣のために拷問にかけられてしまうかもしれないわ」
 アレクシアは声を絞り出す。出来れば自身が出向いて彼の釈明をしたいが、この身体では無理だ。力を入れれば激痛が走る。アレクシアはそれに耐えられるほど強くはない。シェラであれば傷の一つや二つ追ったところで、釈明のために這ってでも皇帝の元に出向こうものを。最も近しい血を引いているはずの従姉妹と、自分はなんと異なった生き物なのだろう――アレクシアはわが身を呪った。
「ときに殿下」
 侍女は自分自身を落ち着けるためか、数度深く呼吸をし、アレクシアの金の瞳を見つめる。
「その折に、殿下に随行した者たちの名はお分かりですか?」
 皇帝に進言する際に、合わせて伝えておこうというのだろう。アレクシアは記憶を辿り、共にあった侍女の名を口にした。ヴォルフラムに縋るようにして押さえつけていた侍女たち、悲鳴を上げ、肩を震わせて壁に張り付いていた三人の侍女、うちふたりはエルメイヤ付きの侍女であったはずだが。
「かしこまりました、陛下にお伝えいたします」
「お願い」
 力強い侍女の言葉に、アレクシアは安堵の息を漏らす。一刻も早く真実を伝えねば――若い侍女の帰りが待ち遠しい。己の不甲斐なさに唇を噛むアレクシア、彼女に向かって
「殿下、少し落ち着かれた方が宜しいですわ」
 後はわたくしが――そう言いながら、侍女は水差しと薬を差し出した。鎮痛剤だという。痛みを忘れて眠れば、早く回復する。全身をずるずると這いまわる痛みに辟易していたアレクシアは、素直に侍女の言葉を聞きいれた。
「御目覚めになられたら、全て良い方向に解決しておりますわ」
 侍女の笑顔に、アレクシアは頷いた。そうでなければならない。真実は虚偽を駆逐せねばならない。彼女は与えられた薬を呑み、再び敷布に身を横たえる。早くヴォルフラムを救いたい、その気持ちを押さえて。アレクシアはゆっくりと目を閉じた。
 目を閉じる瞬間に、侍女が微かに笑ったような気がする。
 鮮やかな緑色の瞳、同じ色の瞳を、自分は知っている。アロイス――母が信頼している神官、その名が不意に脳裏を過ぎった。



 皇太子及び皇女に刃を向けたとして囚われたのは、十数年前まで皇帝の侍従武官を務めていた人物だった。その報告に、驚いたのは皇帝だけではない。
「ああ、エルメイヤ」
 息子が襲われ、あまつさえ傷を負ったと知って、皇妃ハルゲイザは半狂乱となった。すぐさま息子の部屋に駆けつけるかと思われた彼女だったが、その足が向かった先は神殿。彼女は真っ先に神官アロイスに救いを求めたのだ。
「……」
 后の行動を聞かされた皇帝は、無言で口元を歪める。妻がそこまで弱く愚かな女であったとは、思いたくはない。だが、彼女の行動を目の当たりにすれば、失望も大きくなる。いっそのこと、ハルゲイザを離縁して――そんな思いが胸を過ぎった。彼女さえいなければ、エルメイヤを支持するものは神官アロイスだけとなる。皇后派の貴族たちも、ハルゲイザが失脚したとなれば、あっさりと掌を返すだろう。
 とはいえ。
「ヴォルフラム」
 まさか、彼が。彼が、エルメイヤとアレクシアを襲うとは。考えられなかった。何かの間違いであろうと事実を問いただしたが、被害者である皇女は未だ意識不明、皇太子も錯乱状態であるため安定剤を飲ませて休ませていると聞く。ならば、と、当時二人に随行していた近習及び侍女の言質をとれば、

 ――あのお方が突如、畏れ多くも皇女殿下に刃を向けたのです。
 ――殿下がお倒れになられたら、次は皇太子殿下に。

 彼らは口をそろえてヴォルフラムの犯行を証言する。ヴォルフラムは他にも、彼を阻止しようとした近習二人を殺害し、侍女一人に重傷を負わせた。重傷を負った侍女は、不幸にも先程息を引き取ったという。まだ宮廷に勤め始めて半年もたたぬ若い侍女だと聞き、シェルキスは胸を痛めた。
 それにしても。
「ヴォルフラムに会いたい」
 直にあって真実を問いたい。皇帝の願いは却下された。元侍従武官は、宮廷内の牢に閉じ込められ、厳しい吟味を受けているという。危険な反逆分子の元に、皇帝を近づけるわけにはいかぬと、重臣はもとより側近たちも揃って制止した。

「ヴォルフラム殿は、長らく宮廷を下がっておられたが」
「辺境にてお勤めだったとか」
「それを冷遇と思われて、陛下に筋違いな恨みを……」

 密やかに交わされる会話。そこに尾鰭がつき、広まるのは時間の問題だろう。既に宮廷内にはかつての侍従武官の犯行が広まっている。これでは、幾ら彼の無実を訴えたところで、誰も耳を貸そうとはしないだろう。
「ヴォルフラム」
 誰が信じずとも、自分だけは彼を信じたい。祈るような気持ちで公務をこなすシェルキスであったが。
「陛下」
 側近の一人が耳打ちした言葉に、愕然とする。
「ヴォルフラム殿に殿下の暗殺を依頼したのは、冬薔薇の女主人だと」
 ヴォルフラムが告白したという。シェルキスは絶句した。そんなことがあろうはずはない。あるはずがない。これは何者かの罠だ。セシリアとヴォルフラムを陥れようとする者の――とはいえ、誰が彼女らを陥れようと思うのだろう。セシリアは元はフィラティノア王妃エリシアであるが、今は一介の娼婦館の主人に過ぎない。皇帝の愛妾との噂は流れているが、それ以上の存在ではない。
 だが、衛兵らが踏み込んだ冬薔薇は、もぬけの殻であった。主人一家は既にユリシエルを後にした模様であり、そのことがヴォルフラムの告白を裏付ける状況証拠となる。
 自身の知らぬところで、何かが蠢いている。
 その恐怖に、シェルキスは身を震わせた。最早、悠長なことは言っていられない。早々に、アレクシアに帝冠を渡さねばならない。彼女こそ皇帝に相応しい、唯一の存在である。女帝が認められぬのなら、神聖帝国の如く戸籍を差し替えて彼女を男性としてしまえばよい。
 手始めに、皇妃ハルゲイザの離縁の手続きを進めねば――長い一夜を越え、一睡もせずに議会の承認を得るべく文書の作成をしていた皇帝のもとに、皇女付きの侍女が先触れに導かれて現れた。昏睡状態に在った皇女が目覚めたか、と。ほっと胸を撫で下ろす彼の耳に届いたのは。

「陛下、残念ながら、アレクシア殿下は」

 青ざめた侍女から紡ぎだされる言葉。それを耳にした刹那、皇帝は低く呻き声をあげた。


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