AgneiyaIV
第三章 深淵の鴉 
8.女帝(10)


 熱が下がったのは、翌日の朝だった。目が覚めたとき、傍にいたのはセシリア。冬薔薇の女主人である。彼女は目が合うと、穏やかに頷き
「もう少し、お休みなさい」
 アグネイヤの額の汗を拭いつつ、言葉をかけてくれた。セシリアの背後にジェリオの姿を探したが、やはりそこに彼はいない。幾許かの落胆と、安堵を抱いて、アグネイヤは目を閉じる。同時に、ジェリオの声、息使い、感触、体臭――全てが蘇って来た。まだ、彼を覚えている。おそらく、生涯忘れることが出来ないであろうと思う。愛しいからでもなく、憎いからでもない。ただ、忘れられない。身体が、忘れてくれない。心はディグルを求めているというのに、何故、と。矛盾した現実に唇を噛みしめる。
 そうして、また、眠ってしまったらしい。次に覚醒したときは、夜だった。暮れて間もないのか、それとも夜半も過ぎたころなのか。時刻の見当は全く付かない。寝台から離れた机の上に、申し訳程度に燈された灯りが揺れている。揺らめきの向こうにいたのは、セシリアではなく。

「おや、目が覚めたのかい?」

 見知らぬ女性だった。声は低く、背が高い。一瞬、ルーラを思わせる雰囲気を纏っていたが、彼女とは違う。如何にも女性的な身のこなしで、こちらに近づいてきた婦人は、手にした燭台を掲げて、まじまじとアグネイヤを見下ろしている。蝋燭の炎が映えているのか、女性の瞳は赤紫に見えた。髪の色は黒ではなさそうだが、この瞳の色は――アグネイヤは、こくりと息を呑む。
「あたしは、エルナ」
 あなたは、と尋ねる前に彼女は名乗った。エルナ、と、アグネイヤは口の中で彼女の名を繰り返す。北方系の名だ。ということは、やはり、神聖帝国の血をひいているのかもしれない。けれども、そんな人物がこの館にいるとは、聞いたことがなかった。単にセシリアが伏せていただけかもしれぬが、おそらくアグネイヤが初めて対面する相手だろう。
「いえ、やはり、本名を名乗ったほうが宜しいでしょうかしらね」
 女性の口調が変わる。彼女は脇机に燭台を置き、優雅に礼をした。ミアルシァ宮廷風の礼を。
「お初にお目もじいたします、レギーナ・エレオノーレ・マルガレーテ・フィネ・ヒルデガルトでございます。以後、お見知りおきくださいませ」
 その名は紛れもなく北方の貴婦人のものだった。けれども、彼女の所作はミアルシァのもの、なれば、導き出される結論は一つ。彼女は封印王族だ、ミアルシァの。古代紫、もしくは赤みの強い瞳を持って生まれた者には、北方風の名がつけられる。神聖帝国皇太后リディアもそうであった。だが、ミアルシァの封印王族が、なにゆえ冬薔薇にいるのだろうか。怪訝に思うアグネイヤをよそに、エルナは傍らの椅子を引き寄せ、
「失礼」
 断りを入れてからそこに腰を下ろす。一つ一つの仕草が、粗忽ではない。寧ろ洗練されていると思う。こちらを見下ろす涼やかな眼は、妃の一人ルクレツィアを思い出させた。
「セシリアは?」
 不安になって尋ねれば、エルナはにこりと笑った。口元だけの笑みに、背筋が寒くなる。
「休んで戴きました。徹夜されたので、お疲れでしょうから。ここはわたくしが、代わりましたの」
 言われて、はいそうですかと頷くほど、アグネイヤも甘くはない。エルナはアグネイヤが更に警戒を強めるのを楽しそうに見ていたが、
「お身体の調子は如何? 大分宜しくなりまして?」
 世間話でもするかのような軽い口調で尋ねてきた。
「お陰さまで、だいぶ」
 身を起こそうとしたアグネイヤだったが、下穿き以外一切の衣服を身につけていないことに気付き、慌てて敷布を胸元まで引き上げる。この細い灯りでは判らないだろうが、彼女の肌にははっきりと、ジェリオの愛撫の痕が残っているはずだった。それが、今回の体調不良の理由だと気付かれるのは、恥ずかしい。それでも、エルナは何らかの事情を察しているのだろうか。酷く楽しげにアグネイヤを見つめている。
「本当に、そっくりですのね」
 エルナの喉が鳴った。なにが、と、訊こうとして。アグネイヤは口を噤む。自分を見て『そっくり』とは。そんな言葉を口にするということは。この女性は、もしや。
「あら、そこまで鈍い訳ではないのですわね。話が早くて助かりますわ。アグネイヤ四世陛下」
 殊更丁寧にエルナが呼びかける。やはりそうなのだ、とアグネイヤは身構えた。さりげなさを装いながら短剣を探るが、生憎それは何処にもない。服を脱がされたときに持ち去られてしまったのか、普段であれば必ず枕の下に忍ばせておくものを。アグネイヤは密かに拳を固める。組手の経験は乏しいが、相手は女性。機先を制すれば、勝機はあると自身を勇めた。しかし。
「その身体で、わたくしに勝とうというのは間違っておりますわよ、陛下」
 釘を刺され、動きを止める。この女性には、全てを見通されている。逆らわぬのが得策かもしれない、アグネイヤは強く敷布を握った。もしもアグネイヤを殺害する気であれば、彼女が眠っている間に命を奪っていただろう。そう思いなおせば、若干余裕も出てくる。アグネイヤは居住まいを正し、正面からエルナを見据えた。
「物分かりも宜しくて、助かりますわ。陛下。妃殿下もこうですと、もう少し可愛げがありますのにね」
「クラウディアを、知っているのか」
「ええ、よぅく存じ上げておりますわ。わたくし、妃殿下の侍女を務めさせていただいておりますもの」
 しれっと言ってのける大胆さに、アグネイヤは眼を見開く。では、この女性はフィラティノアの者か。フィラティノアが自分に用があるとしたら。
「僕を……」
「オリアにお連れします。妃殿下の命令ですの」
 何も言えなかった。クラウディアは、どういう手段を使ってか、ここにアグネイヤがいることを突き止めた。そのうえで、迎えをよこしたのだろう。なれば、エルナをここに通したセシリアも、アグネイヤの素性を知っているのだ。知っていて――否、いつから気づいたのだろう、アグネイヤが神聖皇帝だと言うことに。ジェリオが話したとも思えぬが、
(陛下)
 シェルキス。彼が明かしていたのか。様々な想いが脳裏を駆け巡る。セシリアには気づかれているかもしれないとは思っていたが、はっきりとそれを確かめたことはない。確かめるのが怖かった、それが一番の理由だった。
「体調が回復され次第、出発いたしますわ。お支度を、なさっておいてくださいませね」
 やたらと慇懃無礼な侍女である。耳障りな言葉にアグネイヤは顔を顰めた。失礼だとまでは思わぬが、心の裏側を引っかかれているような、微妙な不快感を覚える。
 旅は長い、エルナは言い、
「病人二人を連れての旅は、過酷を極めますからね」
 半ば、ぼやきと思われる一言を付け加える。病人二人の部分に引っ掛かりを覚えたアグネイヤは、視線で彼女に問うた。自分の他に病人がいるのか。と。
「ええ、いらっしゃいますわよ。偶然ですわね、王太子殿下もこの屋敷に逗留されていたとは」
 いや、寧ろアグネイヤがこの屋敷に逗留していたのがエルナにとっては僥倖だったと一癖もふた癖もありそうな侍女は笑う。アグネイヤは無意識に息を止めた。
「ディグル・エルシェレオス殿下、義理のご兄妹だというのに、名乗られていらっしゃらなかったのですわね。人が悪いですわ、王太子殿下も」
 軽い笑い声が薄闇に響く。

 王太子。
 ディグル・エルシェレオス。

「あ」
 アグネイヤは、息とともに呻きとも唸り声とも付かぬ音を発した。セシリアの息子にして、ジェリオの兄であるディグル。彼は、彼の素性は、
「フィラティノア、王太子?」
 クラウディアの夫なのだ。どうして今まで気づかなかったのだろう。エリシアは、フィラティノアの失われた妃の名前だ。
「僕は」
 なんということだ。自分は、片翼の配偶者に心を奪われた。しかもその相手は、まかり間違えば自分が嫁いでいた相手だったのだ。

 ――僕が、皇帝になる。

 あの日放った一言。あの一言が、全ての始まりにして、終わりを告げる言葉だったのだ。
 自分で自分の未来を摘み取っていた。何処までも浅はかで、何処までも愚かな道化。良かれと思ってしたことが、すべて裏目に出て、この様だ。
「ともかく、今夜はゆっくりお休みくださいな。旅先で倒れられては、迷惑ですからね」
 アグネイヤの心など知る由もないエルナは、冷たく吐き捨てると退室していった。視界の隅に揺れるか細い明かりすら、目に痛い。



 アグネイヤの体調が回復次第、ユリシエルを発つ。エルナはそう宣言していた。ディグルは無邪気なのか、それとも感覚が人と異なっているのか。気に入りの娘や母と共に故郷に帰ることに対して、異存はまるでない様子だった。そういうところ、王族と庶民の感覚は異なっているのかと思う。ディグルは、アグネイヤが傍にいることを素直に喜んでいるようだった。国に残している妻の立場を考えれば、これ以上の非道はないだろう――ジェリオは優雅に香茶を嗜む兄を、異界の生き物でも見るような眼で見つめていた。
「結構な行程になるからね」
 エルナはヴォルフラムに依頼して、旅装を着々と整えている。ヴォルフラムもヴォルフラムで、セシリアが難色を示しているにもかかわらず、彼女にフィラティノアに戻れと言う。それでは、シェルキスに合わせる顔がないとセシリアが表情を曇らせれば、

 ――陛下も判ってくださいます。

 寧ろ、ユリシエルを離れたほうがシェルキスの心労の種を一つ減らすことになるかもしれぬと、冷たいとも思われる事実を告げる。最近、シェルキスの周囲に不穏な空気が流れているのは、彼を通じてセシリアも知っていた。それだけに、この時期に冬薔薇を去るのは、それも世話になった皇帝に何も告げずに旅立つのは、セシリアにとっても心苦しかったに違いない。
 病床の息子の世話に明け暮れるセシリアであったが、その一方でシェルキスの密偵としての活動も怠ってはいなかった。彼女は最後の最後まで、ユリシエルを退くその日まで、恩人へ報いることを辞めないだろう。この人はそういう人だ。顔も知らぬ存在だが、父も恐らくはそんな母に惹かれたのだろうとジェリオは考えた。
「フィラティノアには行けない、そう言ってたよな」
 ディグルに茶を注いでいた母の手が、ぴたりと止まる。
 ジェリオは細く開けた窓から外を望みながら、視界の端で母と兄の姿を捉えていた。ここには、エルナもヴォルフラムもいない。二人とも、気を遣っているのか親子の間に水を差すようなことはしない。いい歳をしている割に、母の前ではすっかり子供に帰ってしまう兄は、古の彫刻を思わせる微かな笑みを浮かべながら、母の一挙一動を見守っている――その、妙に甘ったるい空気に自分は馴染めない。だからこうして、少し離れた場所にいる。いっそディグルの前でアグネイヤを弄ってやろうかと思ったが、それも大人げない。母を独占された子供のつまらぬ嫉妬、ディグルの素性を知ってからずっと心に住まう黒い炎が、時々大きくうねりを上げる。
「なんか、不都合があるのか? その、あんたを追いだした今の王妃が居るからとか。変な密約があるとか」
 セシリアは小さくかぶりを振った。
「私はもう、表舞台には出られないの。そういうことなのよ」
 エリシアという存在は、この世からなくなった。消えざるを得なかった。セシリアは言う。
「私の存在そのものが、フィラティノアにとって仇だった。それ以上に、知ってはならないことを知ってしまった、これが一番の問題かしらね」
 謎かけか。ジェリオの眉間に皺が刻まれる。普段は少女めいた母が、時折こういう小賢しい言葉遊びをするところは癇に障った。半端に教養を得た女性の、鼻持ちならぬ部分を垣間見たような気がするのだ。
「私が追われているのは、単に不義と国王暗殺の嫌疑をかけられたからではないわ」
 セシリアの告白に、ディグルの眼差しが揺れる。
「私が握った秘密、陰謀の一端でしかないけれど、向こうはそうは思っていないでしょう。私が全てを知っている、と。だからこそ、私がフィラティノア王妃として宮廷に返り咲き、その罪を告発されることを恐れているのよ。一庶民ではなく、一国の王妃の言葉であれば、それなりに信憑性もある。そうでしょう?」
 頷くしかなかった。ジェリオは母を振り返る。兄はその涼やかな眼差しで母を見つめていた。
「私を失脚させたのは、ラウヴィーヌ。けれども、それを容認したのは」
 フィラティノア国王グレイシス二世だと。セシリアははっきりと言い切った。グレイシス二世――ジェリオにとっては、赤の他人。けれども、ディグルの実父である。兄はどのような思いで母の言葉を聞いているのかと、彼を見やれば。
「父が」
 ギリ、と音が聞こえそうな強さで、彼は唇を噛みしめていた。視線に混じるのは、紛れもない怒り、憎しみ。彼は実父に対して純粋に負の感情を抱いている。
「で? お袋の知った秘密ってな、何よ?」
 そこが肝心、と、ジェリオは尋ねた。以前であれば面倒なことに首を突っ込みたくはないとばかりに、厄介事から逃げていたのだが。こと、自身の身内が関わって来るとはなしはまた、別である。ことの渦中にあるのは、自分の母と兄。おそらく、父もそのことが元で命を落としたのではないか。ならず者の喧嘩に巻き込まれた、と聞かされていたが、本当は違う。父は、カリャオは、殺された。ジェリオの想像は当たっていたのだ。父は、母を捨てた男に殺された。
(貴族かよ)
 何処までも自己中心で、我儘で、人を人と思わぬ連中に、虫けらのように。
「それは、ね」
 セシリアは不意に声を潜めた。そっと周囲を窺い、二人の息子にそれぞれ視線を向けたのち、
「サリカには、言わないでちょうだい」
 ジェリオを見つめながら、真実を告げたのである。


 アグネイヤの様子を知りたい、思って部屋の前までは足を運ぶものの、扉を開ける段になってどうしても躊躇してしまう。我ながら情けないと思いつつ、ジェリオはそこで踵を返していた。アグネイヤの傍には、セシリアか主にエルナや小間使いが常に付き添っている。顔を出したところで、追い返されるのがオチだ。そのときの自分の惨めな気持ちを想像すると、らしくもなく戸惑いを覚えてしまう。
(全く)
 部屋に戻り、寝台に身を投げ出す。後悔の棘が、常に心臓を突き刺しているような、そんな気がする。だが、気持ちとは裏腹に身体の疼きは抑えられない。ジェリオは掌で顔を覆い、長く細い息をついた。そうして、どれだけの時間が流れたであろうか。まどろみの中にあったジェリオは、人の気配に反射的に剣を手に取った。扉の向こうに、人がいる。このような時刻、誰が訪れるというのだろう。彼は音を立てずに立ち上がり、壁に肩を預けながら勢いよく扉を開いた。
「……!」
 息を呑む音が聞こえる。そこにいた人物が咄嗟に身を翻そうとするのを、何なく捕らえ、
「あんた」
 ジェリオは驚いた。彼の腕の中で身を強張らせているのは、アグネイヤ。床に伏せっているはずの、神聖皇帝である。いつからここにいたのか、彼女の身体は冷え切っていた。これではまた、体調を崩してしまう。
「入れよ」
 ジェリオは彼女を自室に招き入れた。暖炉に火を入れようと背を向けた刹那、ぎゅっと抱きつかれる。背に触れる柔らかな双丘の感触に、彼の欲望がざわりと蠢く。夜更けに異性の部屋を訪れることの意味を、この鈍い皇帝も判っているはずだ。殊に、彼に穢されてからは、嫌というほど骨身に染みたはず。彼にしても、自身の理性の脆さを知ってしまった今は物分かりの良い大人を演じることは不可能だった。
「怖い夢でも見たのか?」
 わざと他愛ない問いを投げる。背中越しにアグネイヤが、かぶりを振るのが判った。
「じゃあ、なんだよ? 俺の味が忘れられないのか?」
 意地の悪い質問だった。常のアグネイヤならば、卑猥な言葉に耐えられず逃げ出してしまうだろう。それを見越してのことだったが。彼女は動かなかった。震える手が、ぎゅっと彼の服を握りしめる。
「サリカ?」
 振り返り、俯く彼女の顎を強引に持ち上げれば、その顔は涙に濡れていた。ジェリオはぎょっとする。一体何があったのだと問い詰めようとして、気づく。アグネイヤは知ってしまったのだ。ディグルの素性を。話したのは、あのエルナという感じの悪い女性だろう。どんな言い方をされたのかは不明だが、アグネイヤを酷く傷つけたことは確かだった。
 確かに、彼女にとっては衝撃だろう。初恋、そういってもよい相手が、既婚者で。こともあろうに自分の姉妹の配偶者であったなど。ジェリオは自身の初恋を思い出した。淡く美しい想い出とは言い難い、苦い経験。
 彼は親指でアグネイヤの涙を拭った。そうすることしか、出来なかった。
「ジェリオ」
 久しぶりに聞いた彼女の声は、幾分掠れている。それすら痛ましく思え、ジェリオは目を伏せた。その彼の前で、アグネイヤは部屋着に手をかけ、するりと脱ぎ捨てる。ほの白い裸身が、酷くまぶしく思えた。
「ジェリオ、僕を」
 皆まで、言わせなかった。静かに、だが幾分強引に、唇を重ねる。アグネイヤは逃げなかった。彼の首に腕を絡め、身を委ねてくる。薄闇に響く、淫靡な音と息使い。それがジェリオの欲望を柔らかく煽りたてる。幾度か口付けを繰り返したのち、陶然としたアグネイヤを寝台に横たえた。アグネイヤは抵抗もせず、されるがままになっている。彼女の伸びやかな肢体を見下ろしつつ、彼も服を脱いだ。一糸纏わぬ姿で、少女の上に圧し掛かる。首筋に顔を埋め、ゆるゆると唇を這わせ始めると、咎めるようにアグネイヤが彼の肩を押し戻した。
「待って」
 ここまで来て、また、駄目だと言うのか。苛立ちを覚え、彼女の手首を掴む。
「怖いのか?」
 揶揄を込めた言葉に、しかしアグネイヤは違うと答える。
「優しく、して」
 それを言うのがやっとだったのだろう。アグネイヤの頬が夜目にもはっきり判るほど上気している。不思議なほど愛しさを覚え、ジェリオは頷くかわりに口付けを落とした。優しく、丁寧に。もぎ立ての果実を味わうが如く。
「ジェリオ」
 吐息の絡んだ声が、自分を呼ぶ。しなやかな手が自分を抱きしめ、背に快楽の爪痕を刻む。彼女の抱える思惑はどうであれ、今この身体を支配しているのは自分だ。自分の動き一つで、彼女は身を捩り、歓喜の声を漏らす。恥じることなく大胆に自分を求めてくるのは、既に一度身体を重ねているからだろうか。それとも。
 ディグルを忘れるためか。――ディグルに抱かれているつもりで、ジェリオを貪っているのか。
 もう、どちらでもよかった。余計な思考は頭の隅に追いやり、ジェリオはひたすらアグネイヤを求めた。知り尽くした快楽の道を辿り、女となったばかりの少女の熱を煽る。一度異性の血に触れた身体は、あっさりと陥落した。愛撫だけでアグネイヤの身も心も蕩けさせた彼は、時間をかけて花園へと続く扉を開く。甘く薫る蜜を湛えたその場所を自らの手で確かめ、
「いいか?」
 問いではなく、これからなすことを暗に告げる。アグネイヤの身体が一瞬強張ったが、彼女は小さく頷いた。

 それから、幾度情を交わしたのだろう。体力の限界までアグネイヤを求め続けた彼は、彼女の中に留まったまま、眠りについた。目が覚めたとき、彼女が消えていないように。しっかりと強く抱き締める。痛い、と、不満の声が聞こえたが。敢えて無視をした。彼女に触れている限り、欲望は尽きない。目覚めた後も夜明けまで時間があれば、また、欲しい。
 が、覚醒したときには既に夜が白々と明け始めていた。ジェリオは舌を打ち、腕の中で眠る少女を未練がましく抱き締める。彼女の中で、欲望は再び勢いを取り戻しつつある。寝起きだからかもしれぬが、この暁の光の中で、今一度彼女を抱きたい。
 思えば、これが彼の生涯で最も幸福な朝だったのかもしれない。アグネイヤの瞳と同じ色の光に包まれ、彼は闇色の髪に口付けた。


 その、同じ日。
 遠く離れたフィラティノアの王都に於いて、一人の少女が冠を授けられた。神聖帝国二人目の女帝、ルクレツィア一世。後に虚無の聖女、動乱の申し子と称される、様々な逸話に彩られた伝説の女帝の誕生である。


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