AgneiyaIV
第三章 深淵の鴉 
8.女帝(7)


 連れて行かれたのは、先程の部屋だった。そこには人の気配はなかったが、情交の名残は多分に感じられる。ジェリオは快楽の余韻を引きずるアグネイヤを、寝台に投げ出した。まるで、荷物のように。彼女が身を起こそうとする前に、彼はその上に圧し掛かった。膝で彼女の鳩尾を抑え、動けぬようにしてから慣れた手つきで衣装を剥ぎ取る。
 優しさの、欠片もなかった。ただ、飢えた野獣が欲望を満たすためだけに身体を弄っている。そうとしか思えなかった。
 彼はアグネイヤの帯を乱暴に抜き取り、それで彼女の両手首を縛める。抵抗のすべを一つ失ったアグネイヤは、身を捩って抗った。
「いや」
 抗議の声は、口付けに奪い取られる。甘さもない、貪るだけの口付けは、ただ苦しかった。
「抱かれに来たんだろ」
 耳元に投げられる残酷な台詞に、アグネイヤはかぶりを振った。違う、と幾度も声を上げる。首筋を辿るジェリオの唇、そこから「嘘をつくな」そんな意味の言葉が漏れた。彼と情を交わしたことはないが、肌を許し合ったことはある。一線を越えていないだけで、彼はアグネイヤの身体を知っている。何処をどうすれば、彼女が悦ぶか。鳴くか。確実に弱い部分を攻め立てながら、彼女の中の情欲を煽る。
「声、聞かせろよ」
 背骨の脇を指で辿られ、アグネイヤは身を反らせた。
「ここがいいんだろ?」
 繰り返し、同じ部分を弄られる。堪え切れず声を漏らせば、彼は満足そうに口元を歪めた。自分の手でアグネイヤを翻弄している、褐色の瞳に優越感が透かし見られる。彼は知っているのだ。こうすればアグネイヤがそれ以上逆らえなくなることを。愛撫に反応して、潤いを帯びてくることを。
「あいつには、抱かせたのか?」
 あいつ、の部分に毒が籠る。ディグルのことを言っているのだ。ジェリオはやはり疑っている。アグネイヤの心を。彼女が、ディグルに傾いていくことを。それを後ろめたく思う反面、嬉しくもあった。ジェリオとの間に愛はない、けれども、彼が自分に執着している、自分に魅力を感じていると思うと、暗い歓びが湧きあがる。ディグルとジェリオ、兄弟共に自分に興味を持っている――女としての自尊心が擽られた。
 しかし。
 彼の手が彼女の下肢を捉え、強引に身体を開かせた刹那。強い恐怖が襲った。彼自身が秘められた場所に押し付けられ、分け入って来ようとしている。張りつめた欲望の感触。アグネイヤは思わず悲鳴を上げる。
「力、抜けよ」
 命令に彼女は抗った。嗚咽に似た声を上げながら、必死に身体をずりあげる。ジェリオは諦めず、全体重をかけてきたが、それでも彼女の門は固く閉ざされ、開こうとはしない。ジェリオは舌打ちし、むきになって身体を進めた。アグネイヤは苦悶の声を漏らす。嫌だと幾度も叫んだ。
「いや……ジェリオ、お願い。それだけは……」
 いつしか拒絶の声は懇願にかわる。こんな風にこんな場所で奪われたくはなかった。他の女性の匂いのする場所で、穢されたくはなかった。穢される――それが何より嫌だった。

「ディグル」

 ジェリオの先端が花園の扉を破らんとしたまさにそのとき、アグネイヤは心に秘めた青年の名を呼んだ。刹那、ぴたりとジェリオの動きが止まる。暗がりの中、二人の視線が交錯した。冷ややかに冴える、褐色の月。それは、無機質にこちらを見ている。そこに濁った情欲はなかった。興ざめしたのか――アグネイヤは安堵して力を抜く。
 が。
「――!」
 次の瞬間、彼の楔は容赦なくアグネイヤを貫いていた。


 涙は既に枯れ果てていた。身体の芯に澱のように疼痛が残っている。起き上がろうと力を込めると、今度は激痛が走った。アグネイヤは歯を食いしばり、敷布に爪を立てる。と、その手を武骨な掌が覆った。
「まだ、動けねぇだろ」
 言葉が終わらぬうちに、広い胸に抱き寄せられる。彼女は自分を蹂躙した男を振り払うこともできず、無言で彼に従った。あれから、どれほどの時間が流れたのだろうか。ジェリオと繋がっていたのは、一瞬のようでもあり、永遠のようでもあり。痛みと恐怖で意識を手放した彼女を放り出すことなく、ジェリオはずっと抱きしめてくれていた。目を覚ました彼女が虚しくもがき始めるのを見て、流石に罪の意識が芽生えたのか。
「悪りい」
 こんな風に抱くつもりはなかった、と。彼は短く詫びた。
 謝るくらいなら、やめてほしかった。最奥に今も残るジェリオの感触に、アグネイヤは顔を顰める。彼女の純潔は、ジェリオに奪われてしまった。もう、元には戻らない。それがたまらなく悔しかった。一度は身を捧げても良いと思った相手だったが、今は違う。彼の心を知った今は、決して触れられたくない相手となってしまっていた。
 それなのに。
「悪りい」
 詫びの言葉が心の上を滑っていく。アグネイヤは彼の腕の中で身を固くしていた。嘗て彼は、アグネイヤの身体だけではなく心も欲しいと言った。今もその気持ちがあるのだとしたら。身体は奪われても、心は渡さない。ジェリオに心を寄り添わせることはしない。ここで、はっきりと自覚した。自分の心は、ディグルに捧げたい、と。

「ちょっと……殺しちまったんじゃないでしょうね?」

 帳の向こうから、声が聞こえる。まさか、という上ずった声と
「勘弁してよ」
 如何にも迷惑だといった口調が後に続いた。抵抗するアグネイヤの悲鳴と、その後の静寂。そこから、最悪の状況を想像されたのだろう。違う、と言いたかったが声が出なかった。腹に力を入れると、芯が疼く。アグネイヤは無言でジェリオの腕を掴んだ。ジェリオは彼女の額に軽く唇を寄せる。
「あんた、大丈夫?」
 予告もなしに帳が捲りあげられた。アグネイヤは慌ててジェリオの胸に縋りつく。恥ずかしい――上気した頬を見られぬよう俯いた。中を覗き込んだ人物――声からして恐らく女性だろう――は、寝台の上で抱きあう男女の姿を確認すると、
「女の子、生きてんの?」
 ジェリオに声をかけた。ジェリオはアグネイヤを抱えたまま起き上がる。顔が見られるのが嫌で、アグネイヤは益々彼にしがみついた。
「大丈夫みたいだね」
 ほっとした声が聞こえる。

「だから、大丈夫だって言ったでしょう」
「って言ってもさあ、あの悲鳴だし。まるで生娘犯しているみたいだったからさあ」
「全く、心配性だよね」

 くすくすと笑い声が続き、
「ごめんね、邪魔して」
 気配は去って行った。
 ジェリオの腕の中で息を潜めていたアグネイヤだったが、人の気配が遠ざかったのを確認すると再び身じろぎした。
「ジェリオ」
 掠れた声で彼を呼ぶ。秘部が痛みに疼いたが、彼女は言葉を続けた。
「セシリアが、心配している」
 帰ろう、――その台詞にジェリオの睫毛が揺れる。彼は
「ああ」
 アグネイヤと同じく掠れた声で応え。それから。徐に彼女の唇を吸った。柔らかく、啄ばむような口付けが施され、アグネイヤは陶然となった。ジェリオとの口付けは、嫌いではない。こうして、甘く嬲ってくれるのであれば、いつまでも――唇を重ねていたい。アグネイヤは彼の首に腕を回した。この上なく甘美な波が、唇から全身に広がっていく。アグネイヤも差し込まれた彼の舌を受け入れ、そこに己のそれを絡めた。
 いつになく、激しい口付けだった。ジェリオはアグネイヤの身体をしっかりと捉え、彼女の唇を夢中で貪っている。彼を虜にしている、その感覚にアグネイヤが酔い始めたころ、一際濃厚な愛撫が施された。
「ん……う」
 脳髄が痺れる。魂まで吸い取られるような、心地よい痺れに襲われる。アグネイヤはジェリオの愛撫に身を任せ、先程とは全く異なる幸福感の中で失神した。



 腕の中の重みが、急に増した。ぐったりと胸に凭れかかる少女の身体を一度強く抱き締めてから、彼は唇を離す。初めからこうして快楽を与えてやればよかった。後悔が過ぎる。幸福そうに眼を閉じているアグネイヤ、その顔を見つめ
「……」
 彼は良心の呵責に苛まれた。強引に奪ってしまった純潔、本当はそんな形で彼女を奪いたくはなかった。こうして、甘い雰囲気の中で彼女を蕩けさせ、徐々に身体を開かせてから、ひとつになりたかった。その方が、共に深い快楽を味わえたはずだった。

 ――ディグル。

 アグネイヤが呼んだ名に、怒りを覚えた。あれは、自分の兄だ。自分の兄にして、アグネイヤの義理の兄にもあたる。彼女は、まだ知らないのだ、自分とディグルの関係を。自分の片翼を妻としている男性だということに気付いていない。思うと、怒りが弾けた。劣情のままに彼女を犯し、中に欲望を放った。途中で彼女が気を失っていることに気付いたが、それでも構わず犯し続けた。彼女の身体を借りた自慰、それに等しい行為は虚しいだけだった。
 彼は後始末を済ませ、寝台から降りる。アグネイヤの身体に敷布を掛け、髪に唇を寄せた。自分が女にした少女。愛しいという気持ちよりも先に、焦げ付いた満足感が胸に広がる。身持ちの固いアグネイヤは、決して他の男には身体を許さないだろう。これで、彼女は完全に自分のものになった――暗い所有感が心を満たす。彼女が目を覚ましたら、もう一度抱こう。今度は、優しく。
「……」
 ふと。気配を感じて鋭く振り返る。薄い帳の向こう、人影が見えた。
 いつからそこに居たのか。廊下には、ヴィーカの姿があった。気心の知れた、ジェリオの敵娼である。鮮やかな金髪と新緑の色をした瞳がイルザを思わせ、気まぐれに関係を持って――はや、十年近くなるか。イルザのことで塞ぎこみ、街を彷徨っていたジェリオに声をかけたのが、幼馴染でもあるヴィーカだった。彼女によってジェリオは女性を知り、また、エルディン・ロウとも関わりを持つようになったのである。
「まさか、とは思ったけど。素人娘にまで手を出していたの」
 呆れたように言うヴィーカ、その脇をすり抜けてジェリオは息をついた。
「あんたらしくないね。血迷った? それとも、また惚れた?」
 蓮っ葉に尋ねるヴィーカの手を掴み、強くねじあげる。普通の娘であれば悲鳴を上げるものだが、ヴィーカは微動だにしない。それがどうした、とでも言うような冷めた目でジェリオを見つめている。
「何があったの? 変だよ。戻ってきてから、ずっと」
 重ねて問われ、ジェリオは口元を引き結ぶ。冬薔薇を出てからこちら、この店に転がりこんでずっとヴィーカに慰めを求めていた。十三歳の時と同じく、彼女はジェリオを受け止めてくれ、その身で彼を癒してくれた。今夜は、ヴィーカが月のものに当たっていたので、別の女性を部屋に呼んだのだが、そこに折悪しくアグネイヤがやってきてしまった。彼女の顔を見た途端、ジェリオの中のあらゆる善意、理性、分別というものが消え去り、かわりに彼女を犯したい、滅茶苦茶にしたいという獣じみた欲望に支配されて。気づいたら、後を追っていた。あのまま、彼女を捉えることが出来なかったら――詮ないことを考える。
「お袋の息子が訪ねてきたんだ」
 乾いた声で告げると、
「お袋の息子って、あなた? じゃなくて……あ、お兄さん?」
 ぽん、と、彼女は手を叩く。ジェリオは視線で肯定する。
「え、でも、お姉さんじゃなかったっけ?」
 ヴィーカの奇妙な発言に、彼は眉を寄せた。姉――は、いない。母が故郷に残してきた子供は、ディグル一人だ。フィラティノアの国王が前妃エリシアとの間に儲けた子供は、一人。そこも、調査済みだった。
「大分前に、若い頃のセシリアそっくりの女の人が訪ねてきてね。自分の親を探しているって言っていたから、てっきりセシリアのことかと思って。教えちゃったんだけど」
 悪かったかしら? ヴィーカは首を傾げる。彼女が言うには、その女性が訪れたのは、年が変わる前であったという。まだ、雪が降り始める前、秋の半ばであったと。
「……」
 ジェリオの脳裏に、ルーラの面影が浮かび上がる。彼女とタティアンで出会ったのは、丁度冬の初めごろではなかったか。彼女はあのときカルノリアに行っていたのだ。カルノリアから、エリシアの消息を得て帰途に就く処であった。ルーラの報告を受けたディグルが出奔し、冬薔薇を訪れた――それだけのことなのだ。
「前に、息子を残してきたって聞いたことがあるんだよね、セシリアから。だから、その子だと思ったけど。女の子だったとはねえ……聞き間違いだったみたいだね」
 ヴィーカは、移民街時代の親子を知っている。決して自らの過去を漏らさなかったセシリアも、近隣に住む愛嬌のある若い娘には、つい子供のことを語ってしまっていたのだろう。そういえば、ヴィーカはディグルと年齢も近い。ヴィーカの中に引き離された我が子の姿を垣間見たセシリアが、思わずそのようなことを口走ったに違いない。
 そして。
「昨日も、冬薔薇を訪ねてきた女の人がいたよ。これがまた、珍しい目の色をしていてね」
 夕闇に映える、青緑の瞳。レンティルグの緑青とも異なる、不思議な瞳。その女は、既に冬薔薇へと向かった、――彼女の言葉が終わらないうちに、ジェリオは店を飛び出していた。
「え、ちょっと、ジェリオ」
 驚いた様子のヴィーカには、
「後でまた来る」
 それだけの言葉を残し、彼は全速力で通りを抜けた。通りを抜けて、ひたすら走る。冬薔薇に向かって。



 お客様です、言われてセシリアに緊張が走った。傍らに控えるヴォルフラムも、表情を険しくする。ディグルの朝餉の支度にサリカがやって来ない、不安になって部屋を覗けばそこはもぬけのからであった。少ない荷物は消えておらず、上着と帽子だけがなくなっている。もしや、セシリアの心を察してジェリオを探しに街に出たのではないか。

 ――ヴォルフラム、サリカを探してきてちょうだい。

 彼女が執事にそう依頼をしている処に、来客があったのだ。
 小間使いの言によれば、客は若い女性で、エレオノーレを名乗っているという。北方の貴婦人の名であるのに、何故か
「琥珀楼の、ヴィーカ?」
 彼女の紹介だと言っているそうだ。貴族の娘が何用か、しかも、下町の娼婦であるヴィーカの紹介とは――セシリアは、ヴォルフラムの制止を抑え、客と対面することにした。
「お待たせしたかしら?」
 客間に座す婦人、彼女に向かって声をかける。すると、仕立ての良い衣裳に身を包んだ妙齢の女性が優雅に立ち上がり一礼する。きっちりと結われた髪は、金褐色、に染めた黒髪だった。常人には判らぬが、玄人には容易に判る。娼婦らがよくやる、髪の脱色だ。その証拠に、生え際には黒髪がちらほらと覗いている。最近、手入れを怠っているのだろう。
「レギーナ・エレオノーレ・マルガレーテ・フィネ・ヒルデガルト、と申します。――恐れながら、エリシア妃でいらっしゃいますね?」
 穏やかな笑みをたたえたエレオノーレは、開口一番恐れていたことを口にした。セシリアは表情を変えず、無言で彼女を見つめる。青緑の目であるが、レンティルグの緑青とは微妙に違う。蝋燭の明かりが揺れると、その光を受けた部分だけが赤紫へと変化する。このような瞳を、何と呼んでいたか。セシリアは眼を細めた。かつて、フィラティノアに在った際、ミアルシァの駐在大使は言っていなかったか。

 ――げにおぞましきは、帝国の瞳。

 王太子ディグルにアルメニア皇女が嫁いでくる予定だと国王が漏らしたとき、大使は露骨に顔を歪めた。ミアルシァでは、古代紫の瞳は忌み嫌われる。それと同時に、平素は青緑で灯明りを受けたときには赤紫に代わるという
「聖女の瞳」
 それも、畏怖されていた。
 セシリアの呟きに、エレオノーレの口元が歪む。図星だったようだ。彼女もまた、ミアルシァの封印王族の一人か。ということは、かの国の密偵。それがなぜ、自分の居場所を突き止めて訪ねてくるような真似をしたのか。真意を測りかね、更に表情を険しくする。
「ご用件は?」
 ぞんざいに尋ねるセシリア。エレオノーレは微かに笑った。
「ご子息を、お迎えにあがりました」
 今度こそ、セシリアの身体が震えた。心臓を鷲掴みにされる、それを実感したのは、いつ以来だったろうか。彼女は隠し持った短剣の所在を確かめ、いつでも抜けるように身構える。自分はどうなっても良い、だが、息子は。息子たちは、守らねばならない。
「それは、陛下の御下命? それとも、――王后陛下の?」
 どちらにせよ、この婦人は始末せねばならない。例え、刺し違えても。セシリアの瞳に力が籠る。が。エレオノーレの答えは、意外なものだった。
「妃殿下のご命令です、王太子妃殿下、ルクレツィア妃の」
「るく……れつぃあ?」
「わたくし、妃殿下付きの侍女をしておりますの。王太子殿下ご夫妻には可愛がられておりまして。常から、エルナ、と呼んで戴き、重き信用を得ています」
 毒気を抜かれた。セシリアは声もなく、ただ、エレオノーレを見つめている。脳裏を過ぎるのは、サリカの面影だった。彼女に酷似した面影を持つ少女が、ディグルの妻たるルクレツィアが、夫を呼び戻そうとしている。おそらく、戦が始まる前に。
「出来ますれば、エリシア妃もご同行戴きたいと思うのですが。ご都合は如何でしょうか」
 良い訳がない。自分はフィラティノアへは戻れない。そう、約束したのだ。約束したからこそ、――セシリアは、拳を固めた。エレオノーレなるこの婦人の言葉を全面的に信じたわけではない。けれども、まるきりの偽りではないだろう。なれば、ディグルを彼女に託したほうがよい。早いうちに、彼を故国へと帰還させた方が良いに決まっている。
 セシリアは鈴を鳴らし、使用人を呼んだ。訪れた小間使いに、ディグルに客間に来るよう言伝を依頼する。小間使いは一瞬驚いたようだったが、主人の命に従い部屋を出て行った。

 それから、どれほどの時が流れたか。使用人を伴ったディグルが客間を訪れ、
「おや、ご無沙汰」
 エレオノーレが軽い声を上げると
「……」
 愛息は幾分不機嫌そうに表情を変えた。
「エルナ」
 呻きに似た彼の声に、セシリアはエレオノーレが偽りを述べていないことを確信する。彼女は言葉通り、ディグルの侍女なのだ。それにしても、主人に対してこの言葉遣い。フィラティノアの宮廷は、余程躾が悪いと見える。今の女官長は誰なのだろう――セシリアは、記憶にある女官らの顔を思い浮かべた。
「殿下、旅行は終わりだよ。さくさく国に帰ってもらわないと、妃殿下もあたしらも困ることになる」
「……」
「妃殿下が、神聖皇帝として戴冠したら、荒れるよ。その前に帰っとかないとね」
「神聖皇帝?」
 ディグルの形良い眉が顰められる。セシリアは「あ」と声をあげた。息子には、大陸の情勢は語っていなかった。彼は妻が渦中にあることなど全く知らないのだ。エレオノーレは、
「知らないの?」
 怪訝そうな顔をし、セシリアを見た。
「真綿で包んで、大事にお持て成しされていたんだねえ」
 厭味がそれに続く。小姑のような女だとセシリアは思った。自分はこの女性とはウマが合わない。
「まあ、ともかく。なるたけ早く出発したいから、準備だけは整えておいてね。あたしは、即行でやんなきゃいけないことがあるから……と、エリシア妃、この辺りにお勧めの宿はございますか? 数日、逗留したいのですけれど」
 途中から言葉遣いを改める辺り、弁えているのかそうでないのか――判らぬ人物である。セシリアはディグルの準備が整うまでであれば、と、
「こちらに滞在して戴いても宜しいのだけれど」
 言いかけて、ふとサリカの存在を思い出す。彼女がここに居ることを、フィラティノアの人間に知られてよいものか。サリカは、ディグルがフィラティノア王太子であることを知らないでいる。その彼女とエレオノーレを接触させてはまずいかもしれぬ。セシリアが慌てて前言を取り消そうとしたのだが、
「その方が、楽だな」
 ディグルが余計な一言を添えた。セシリアは内心舌打ちしたい気持になる。ディグルの方は、サリカが妻の双子の姉妹だと知っているのだ――というよりも、同じ顔をしているのであるから判らないほうがおかしいだろう。彼は妻に似たサリカに気を許し、サリカも知らぬままに彼是とディグルの世話を焼いている。ディグルがセシリアの息子であると判ったのちは、将来の自身の義兄となるひとだと、より一層親しみを覚えたのかもしれない。こうなった手前、サリカにも自身とディグルの素性を正直に話した方が良いのではないか、そうセシリアは考えた。いつまでも、隠し通せるものではない。まかり間違って、ディグルとサリカが男女の仲にでもなってしまったりしたら、それこそ、ことである。ディグルは錯覚しているのだ、サリカを妻だと思っている。だからこそ気を許しているのだ、と。不幸にもセシリアは思い込んでしまっていた。
「それにしても、そっくりだねえ。こりゃ、肖像画の必要はないわ。一目でわかったよ、この女将がエリシア妃だって」
 エレオノーラが喉を鳴らす。セシリアは危うく声をあげそうになった。彼女は、自分をエリシアと知って訪ねてきたわけではないのだ。
「左様でございます、王后陛下」
 セシリアの心の裡を読み取ったのであろう、エレオノーレは北方貴族の礼をとり、静かに腰を屈める。冬薔薇に王太子が滞在している、その報を受けて彼女はこちらにやってきた。女将であるセシリアに面会を申し出たのは、あくまでも客人たるディグルへの繋ぎをしてほしかったのだ、と。臆面もなく彼女は語った。そこに現れたセシリアを見て、この人こそフィラティノア前王妃であると、エレオノーレは瞬時に悟ったのだろう。なぜなら。それほどまでに、ディグルとセシリアは似ているから。
(ああ)
 ここに来て、血の絆に愕然とさせられる。セシリアは青ざめた顔をエレオノーレに向けたまま、強く唇を噛んだ。『女王』を意味する名を持つこの女性が、占い札の『虚無の聖女』と重なり。セシリアは軽い眩暈を覚えた。


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