AgneiyaIV
第三章 深淵の鴉 
8.女帝(5)


 女帝ルクレツィアの戴冠、それを伝える早馬が各国に散る少し前。エルナはフィラティノアを離れた。向かう先は、ユリシエル。北の都である。そこにいるはずの、王太子ディグル。ルクレツィア――クラウディアの片翼であるアグネイヤ四世、彼らを無事に保護することが彼女の役目だった。ルクレツィアの戴冠を境に、大陸の情勢は変わる。何処かで戦の口火が切られれば、あっというまに主な街道は封鎖されるだろう。それまでに、そのときまでに二人を発見し、なおかつフィラティノアまで送り届けねばならない。
(面倒なことを頼まれたもんだね)
 馬上に揺られながら、エルナは大仰に息をついた。急ぎの旅とは言え、昼夜問わず馬を飛ばすわけにはいかない。また、同じ馬で全ての行程を進むわけにもいかぬ。要所要所でオルネラの巫女たちと連絡をとりつつ、馬を変えて東を目指す。無論、時には近道と称して主街道ではない裏道を行かねばならない。その際には。

 女の一人旅とはいい度胸だ――距離短縮のために分け入った森、そこで野営をしている処を盗賊に襲われた。あっという間に周囲を囲まれ、抜き身の剣を押し付けられる。彼らは松明の灯をエルナに近づけ、その美貌に気付くと口笛を吹いた。上玉だ、という声がそこここからあがり、汚らしい手がこちらに伸びてくる。エルナは「あーあ」と肩を落とし。
「あんまり、体力使いたくないんだよねえ」
 心底嫌そうに呟いたかと思うと、腰の剣を抜いた。真っ先に狙ったのは、松明を持つ男。その手首を松明ごと切り落とした彼女は、返す刀で今一人の頸動脈を断ち切った。悲鳴もあげず、鮮血に沈む仲間を見て、
「……」
 漸く盗賊たちの中に緊張が走ったときにはもう、遅かった。エルナは嬉々とした表情で剣を振るう。呼吸一つ乱すことなく、五人の盗賊を僅かな時間で冥府へと送り付けた。最後の一人が地に倒れ伏した後、
「やれやれ」
 彼女は盗賊の一人の服で剣にこびりついた血を拭う。血の匂いに獣が集まって来る前に、早くこの場を去らなくては――面倒なことになった、と、舌打ちし、彼女は手早く荷物を纏めた。既に眠りから覚めていた愛馬を促し、更に暗い森の奥へと進もうとすれば。
「……?」
 人の気配が間近にあった。また、盗賊の類か。エルナは顔を顰めたが、先方から殺気は感じられなかった。ただ、其処に人がいる。人の体温を感じられる。それだけだったのだが。何故か肌が泡立った。首筋の辺りがちりちりと焦げ付くように痛む。怯えている――そう考えて、エルナは苦笑した。恐怖などとうの昔に失った感覚だと思っていたのに。まだ、人らしい心が残っていたというのか、自分に。
「誰だい」
 そこに居るんだろう、彼女は声をかけた。返事がなければさせるまで、と。裳をたくし上げ下に隠した短剣に指を伸ばしたときである。
「勇ましいことだな」
 闇の中から低い声が聞こえてきた。当然ながら、男性の声である。このような場所にこのような時刻、女性がいること自体不審なのだ。わけありのか逃亡者か、はたまた密偵の類か。頭の軽い盗賊でなければ、まずそれを疑う。先方もエルナを警戒している模様だ。だからこそ、殺気はないもののそれなりに緊張の糸を張り巡らせていた。彼の感覚が、エルナにも伝わって来るほどに。
「急ぎの用があってね。邪魔する奴がいたから片付けた」
 じゃあ――言って、彼女は気配の傍を通り過ぎようとした。ざわりと木々が揺れ、風がエルナの髪を跳ね上げる。吹き散らされた雲の間から月が顔を覗かせ、木の葉越しに光を落とす。その、光の中に。
「ああ」
 人が、いた。
 月光に洗い出された見事な金髪。長く背に垂らされたそれは、光の糸のようにも見えた。一瞬、フィラティノア王太子を想像したが、違った。そこに居たのは王太子と同じく長髪の男性。しかもこちらも王太子と優劣付けがたい美貌の持ち主であった。王太子が氷の彫像であれば、男性は生ける彫刻。当代随一と言われる彫刻家でさえ、このように美しい造形を生み出すことはできぬだろう。エルナは柄にもなく暫しその面差に見とれていた。佳い男、――自然感嘆の言葉が漏れる。それを聞きとめた男は、軽く吹き出した。もっと他に言うことがあるだろう、口元が皮肉げに歪む。
「魔性とか、妖魔とか。ここで何をしている、とか」
 低く深みのある声に、エルナはますます酔った。好みだ。全くもって、自分好みの男性である。仕事がなければ、いや、仕事すら放り出して彼に身を任せ、そのまま押しかけ女房となりたい衝動に駆られた。
(だめだめ)
 この男も、自身と同じ曰くつきの人物なのだ。下手に関わって深みにはまったらどうする。エルナはこれ以上ないくらい情けない顔をして、彼から視線を逸らした。一目惚れには懐疑的であったが、その考えはここで見事に崩壊した。一目惚れはある、これは運命の出会いだ。
(ああ、でも、美男美女の運命の恋は引き裂かれると相場が決まっているのよね)
 自分も男子であることは、この際忘れよう。エルナは名残惜しげに彼に一瞥をくれると、馬の腹を擦りあげた。ここ数日の天候は落ち着き、平野部では雪も少ない。この時期を逃すことなく、なるべく迂回をせずに目的地へと辿り着きたい――幸い、今夜は眼が冴えている。このまま、近くの都市まで一気に足を延ばしてしまおう。
 彼女は「じゃあ」と男性に手を振った。男性は曖昧な笑みを浮かべる。古代彫刻の如き、稚拙な笑みだ。こういう笑い方はどうも苦手らしい。
「フィラティノアの様子を知っているか?」
 行こうとしたエルナを呼び止め、男が問いかける。エルナはぱっと彼を振り返り、
「なんで?」
 そう聞き返そうとしたが。思いとどまった。気のせいだ。彼は、エルナの正体に気付いていない。
「あんた、フィラティノアに行くの?」
 代わりに別の疑問を投げかける。男は頷いた。旧い友人に会いに行くのだという。へえ、と、エルナは眼を細めた。昔の女の元に、か。ここ数日の不穏な動きを感じ取って、大事な相手に危機を伝えようとでもいうのかもしれない。彼に想い人がいる、そう思った時点でエルナの運命の恋は消滅した。美形ではあるがそれだけだ。彼女は
「今のとこは大丈夫じゃない?」
 それだけ言って、去ろうとしたが。ふと気になって
「――あんた、名前聞いてもいい?」
 戯れに尋ねてみた。聞いたところで、どうということもない。が、何となく聞いておきたくなったのだ。後のち、何かの役に立つかもしれない。後ろ暗いことがあれば、当然彼も本名を答えることはないだろう。けれども、何処かしらで彼の容姿と名を心に留めておかねば、そんな焦りにも似た思いが脳裏を駆け巡っていた。

「セレスティン」

 男はさらりと答えた。綺麗な名前だ、あなたに相応しい――エルナは臆面もなく言い放ち、軽く手を挙げた。
「あたしは、エルナ」
 そのうちまた会うかもね、と。これこそ戯れでしかない一言を置いて、今度こそ彼女はその場を去る。一瞬の邂逅、けれども鮮烈に心に残る容姿。森に棲む魔性でも、夜の魔物でも、月光が見せた幻でもいい。
(久々に、目の保養になったねえ)
 半ば浮かれながら道を急ぐ彼女は、

 ――セレスティン。

 その名が持つ意味を、知らなかった。このときは。


 雪を避け、時には迂回になると知りつつも若干南下もして。エルナが漸くタティアンを抜けてカルノリアに入ったのは、月夜の邂逅より半月後のことであった。ここに来るまでに随分と時間を浪費してしまった。雪の季節に移動をするものではないと、誰に言うと話に文句を並べていた彼女だったが。あと一息で目的地、というところで緊張の糸が切れた。少しくらいは良いだろう、ハリトーンの宿に一泊し、翌朝早々にユリシエルに発つことにした。
 街の様子を探っては見るが、それほど変わった様子はない。ここにもルクレツィア戴冠の報は届いているであろうに。
(いや)
 それを知っているのは、上層部の者だけか。基層に情報が届くのは、だいぶ後のことになる。かといって、もしもカルノリアが戦の準備をしているのであれば、国内全体が浮足立っているはず。それすら感じ取れぬということは、鴉は動く気はないのか。現在の皇帝は、『平和主義者』である。エルメイヤ三世の再来とも言われている文人皇帝で、攻められぬ限り自ら討って出ることはしないであろう。彼の存命の間は。ただ。皇帝に仕える者たちが全て、彼の考えに従うとは限らない。
(つつけば面白そうな国だねえ)
 宿の窓から遠くユリシエルを望み、エルナは嗤った。鴉の巣には、火種が隠されている。病弱な皇太子と、彼を廃除し四女アレクシアを皇帝にとの声も多い。それを厭う皇后は、怪しげな神官を傍に置き、日々彼の言に耳を傾けているという。丁度皇后が皇太子を身籠ったのが、その神官が現れた頃というから。皇太子が実は皇帝の子ではなく神官の子ではないかという噂もちらほら流れていた。また、タティアン大公も妻であるナディア大公妃の擁立を画策しており、北の都には不穏な噂が蔓延している。
 それに。

「宿改めでございます」

 宿の主人が申し訳なさそうに声をかけてきた。二日に一度、多ければ毎日二回ほど、役人が各々の宿をまわって来るという。随分と念入りな巡察だと思ったが、
「首都で、盗賊が頻繁に出没しておりまして」
 かの不埒者がユリシエルの豪商及び貴族を襲った翌日は、必ず日に二度役人が立ち寄るのだ。盗賊、と、鼻で笑うエルナに
「いや、笑いごとではございませんよ、お嬢様」
 主人は周囲を窺い、更に声を潜めてから告げる。ユリシエルの盗賊は、『義賊』なのだと。今時流行らない、――エルナが余計に胡散臭げな顔をすると、主人の声はますます小さくなる。
「アロイス様の息がかかった人々だけを狙っているのでございますよ」
「アロイス?」
 誰のことだと思ったら、それが皇后ハルゲイザの傍に侍っている謎の神官だという。今より十年近く前にふらりと帝都に現れ、数々の奇跡の技を起こして貴族に声をかけられた。その貴族のつてを使い、宮廷に上がった彼は、忽ち諸侯の――殊に貴婦人の心を虜にした。つまり、それだけの美貌と巧みな話術、不思議な術を持っていたのだと主人は言う。
「美貌、ねえ」
 エルナは、先日森で出会った青年を思い出していた。彼も、月が作り上げた精霊かと思う儚さと美しさを備えていた。仮にアロイスが彼のような容貌の持ち主であったとしたら。
「女はころりと参っちゃうだろうねえ」
 あたしもだけどね、その一言は胸にしまい、ふんふんと軽く頷いた。
 貴族の中には、皇后の寵愛を受けるアロイスに阿る者も多い。が、反面その存在に反感を持つ者もそれなりの数に上る。そういった人々が、盗賊を使ってアロイス派の貴族を襲わせているのではないか、嫌がらせをしているのではないか、自分はそう考えているのだと宿の主人は述べた。それも確かにありうることだろう。現に、件の盗賊は決して人は殺さない、傷つけない。婦女子に対しても乱暴をしない。その潔さ、清らかさから彼は『白銀(しろがね)の騎士』と呼ばれているのだという。
「ははあ、御大層な名前だねえ」
 芝居にでも登場しそうな名称である。いかにも大衆受けしそうだ。しかも、白銀の騎士とやらは、銀の髪に白の聖騎士の衣裳で登場するという。これはどんな御大層な演出だとエルナは思わず失笑した。「笑いごとではございませんよ、お嬢様」
 主人の眉が吊りあがる。失礼、と、エルナは咳払いをした。
 彼曰く、そのせいで商売あがったりだという。白銀の騎士が銀髪の男性だということで、宿改めの際はそういった容姿の人々の取り調べがより厳しくなり。当然ながら痛くもない腹を探られた旅人たちは不快な思いを残して去っていくのだ。中には、二度とユリシエル付近には来ないと捨て台詞を残して去って行った、ティノア人商人や観光客もいた。彼らは手軽に安く泊れて、そこそこ清潔なハリトーンの宿を定宿としていたのだが、今回の詮索によってこの街やユリシエルから離れつつある。彼らの向かう先は、
「へえ、タティアン大公領」
 エルナは眼を丸くした。今では、タティアン大公領の公都の方が、ユリシエルよりも栄えているのではないか、そう言われているほどだった。
「惜しいねえ、あたしゃ通ってこなかったよ」
 大袈裟に項垂れるエルナを哀れに思ったのか、主人は気の毒そうに眉を下げながら
「故郷へお戻りの際は、ぜひ、公都をご覧くださいまし。本当に美しい都だと、言われておりますから」
 口ぶりからすると、主人もタティアンの公都を目にしたことはないのだろう。
「ですが、カルノリアに近い大公領も宿改めは厳しいと聞いております。まあ、お嬢様は女性ですし、髪も銀ではないですから咎められることはございませんが」
 主人の言葉に、エルナは礼を述べる。彼とそのようなことを話しているうちに、宿の使用人がエルナが逗留している部屋に役人を案内してきた。役人は、エルナの金褐色に染めた髪と、翠に近い瞳を見て、何事か仲間内で囁きあった後すぐに彼女を解放した。やはり、主人の言う通りであった。

「まどろっこしいけど、確実な方法だね」

 翌日ハリトーンを発ったエルナは、周囲を見渡し、ぽつりとひとりごちた。確かに、人種の坩堝と言われる国にあって、銀髪の男女の割合が少ない気がする。この分では、完璧なティノア人の容姿を持ったディグルなど、何度も役人に呼び止められたことだろう。彼のことである、その度に苛立っていたのではないか。あの無表情な王太子の顔が僅かに上気する処を想像し、エルナは口元を緩める。よもや、盗賊と間違われて牢に繋がれていることはないだろうが。そうなったとしても、直ぐに解放されるはず。何故なら。
(白銀の騎士って、大公のまわしもんでしょう)
 少なくとも、彼の息がかかった存在であることに間違いはない。大公が好敵手たるアロイスの力を削ぐために送り込んだ『先兵』。もののついでとしてティノア人や異国人を疑い、彼らの不快感を煽った挙句、自身は懐の広い処を見せて彼らを取り込む。いずれ、タティアン公都マルーシャ・アヤンは、ユリシエルを凌ぐ規模となるだろう。フィラティノアにとって脅威となるのは、カルノリアではなくタティアンかもしれない。このとき、エルナはそう思った。まず先に、タティアンを潰さねばならない。タティアンと、彼に繋がるレンティルグ。どれほど権力を持とうが、『王』を名乗らぬ偏屈な辺境候、彼も危険な存在なのだ。毒蜘蛛と火蜥蜴、その黒い絆を断たねば、フィラティノアに勝機はない。いや、寧ろその『二匹』を取り込むほうが得策なのか。エルナは素早く考えを巡らせる。あくまでも客観的に判断せねばならない。主観で物事を考えてはならない。でなければ、先に待つのは破滅。娘可愛さに判断を誤った、神聖帝国皇太后の轍を踏むことになってしまう。


 馬を飛ばせば、ハリトーンからユリシエルまで一日とかからずに辿り着ける。流石に東の大国の首都、その規模はオリアと異なり遥かに巨大だ。新興国とはいえ、カルノリアには二百年の歴史がある。大してフィラティノアは百年足らず。五十年と少々しか、その歩みを刻んでいない。古王国ミアルシァや、それに次ぐ古さを誇るダルシア、アヤルカス等とも格が違う。エルナもこれほどの規模の街は、ミアルシァの首都ロカヴェナーゼとアヤルカスのセルニダくらいしか見たことがない。ロカヴェナーゼの記憶は既に遠く、やたらと香臭く気取った街であったことしか思い出せない。
(あんな街)
 懐かしくもない。もはや、故郷ですらない。エルナは街を囲む城門の前で下馬をした。槍を携えた番卒の脇をすり抜け、他の旅人に交じって関所を抜けた。幸い、フィラティノア王室の旅券を所持している彼女を咎める者はなく。案外簡単に街に入ることができた。そろそろ日も暮れかかり、宿を探さねばならないが。目的地がはっきりと決まっている今、そこを訪れることが先決であった。
「冬薔薇に行きたいんだけど」
 辻馬車に声をかければ、御者は渋い顔をした。彼はエルナをまじまじと見つめ、うーんと唸り声を一つ。
「別嬪さんだけどねえ……確かに。でも、あそこじゃ簡単に働けないよ」
 何を勘違いしたのか。エルナが娼婦として働きたいとでも思ったのかもしれない。それならそれで別に構わないのだが、
「ああ、そうだねえ」
 あそこは、公娼館だ。しかも、貴族のみに開かれた館である。それは、エルナも予備知識として知っていた。ルーラが何処をどうして、そこにエリシア妃が潜んでいることを突き止めたのかは不明だが、かなり排他的な空間らしい。いかにも遊び女といった風情の自分が逆立ちしても近づけぬ場所だと思うと、少し悔しい。こうなったら、事前準備をしてから出向くことにするか――御者との会話で、そんなことを考えていたときである。
「冬薔薇冬薔薇って、凄い人気だよねえ」
 嘲笑とも苦笑ともつかぬ声が背後で聞こえた。エルナが振り向けば、そこには派手ななりの女性が佇んでいる。金髪に翠の瞳は、ツィスカを思わせた。が、彼女とはまるで雰囲気が違う。一目でそれと判る娼婦だ。それも、高級娼婦ではない、ただ身体を売って日銭を稼ぐ程度の女性である。下品な化粧を見れば、どの程度の値段か直ぐに弾き出せる。エルナは肩をすくめ、彼女から視線を逸らした。貧乏娼婦には用はない。
「働きたいんなら、店紹介するよ。冬薔薇には負けるけどさあ、あんたならすぐに一番人気取れるって」
 しかし女は強引だった。馴れ馴れしくエルナの肩を叩き、勧誘を始める。これには御者もうんざりしたらしく、さっさと車を出してしまった。
「あ、ちょいと」
 エルナの呼びかけを無視して走り去る辻馬車、代わりに安っぽい娼婦が纏わりついてくる。どこのどいつだと尋ねれば
「琥珀楼のヴィーカ。これでもちょっとは名が知れてんのよ」
 嘘か真か、判らぬことを言う。ナージャ通りの、と後から付け加えたのを聞いて、エルナはははーんと頷いた。ナージャ通りは、文字通り歓楽街である。よからぬ施設が集まった地域で、昼は眠りについているようなところだ。ヴィーカというこの娘、これから店に上がるのだろう。見張り付ではあるが、自由に買い物などをしていられる所を見ると、相応の地位にある娼妓らしい。これできちんと化粧をすれば、それなりに見られた顔になるだろう、そんなことを考えてエルナは、軽く手を振った。
「ああ、あたしは知り合いが居んのよ、冬薔薇に。働きに行くんじゃないの」
「知り合い? へえ?」
 ヴィーカは彼女の顔を覗きこんできた。まじまじとエルナの瞳を見つめ
「あら、珍しい色してんのね」
 エルナの『聖女の瞳』に感嘆の声を上げる。それはそうだ。この瞳は、ミアルシァの秘中の秘。市井には決して降りることのない色だ。封印王族の中でも、この瞳を持って生まれたのは、百年時をさかのぼったとしてもエルナくらいしかいないのではないか。同じ親から、同じ時に生まれた弟でさえ、こんな瞳を持ってはいなかった。エルナは視線を鋭くする。この瞳は好きだったが、故郷のことを考えると呪わしくなってくる。瞳の色の違い、それだけで片や君主として玉座に就き、かたや穢れた身として地に落とされた。親からも見捨てられた自分、兄弟にすら厭われる自分を顧みると、怒りしか覚えない。
 エルナの表情の変化に、ヴィーカは気付いたようだった。彼女は「おお怖」と大袈裟に身を震わせる。
「冬薔薇ね、行ってもどうせ追い返されると思うけど――まあ、琥珀楼のヴィーカの紹介だって言えば、そこそこ受け付けてくれると思うよ? あたしもあそこに知り合いがいるからね?」
「へぇ? だったら、あんたも冬薔薇で働けばいいのに」
「あたし? あたしは無理。あんなお高く止まったとこ、息がつまっちゃう」
 ヴィーカはぺろりと舌を出す。こんな表情を見ていると、意外に彼女は幼く思える。三十歳を過ぎているかと思っていたのだが、実際はエルナよりもずっと年下なのではなかろうか。
「女将のセシリアに言っておいて。今度奢ってもらうから、って」
 彼女は派手に片目を閉じると、大きく手を振った。少し離れた場所で待っていた彼女の監視役らしき巨漢が、渋い顔で陽気な娼婦を迎える。二人は何事か言葉を交わしながら通りを歩いて行ったのだが、暫くしてからヴィーカがちらりとエルナを振り返った。夕景の中に、新緑の瞳が溶ける。まるで猫のようだ、と、エルナはふと考えた。


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