AgneiyaIV
第三章 深淵の鴉 
8.女帝(2)


 華やかな新年の余韻冷めやらぬ宮廷に、悲鳴にも似た声が響き渡る。
「姫様、姫様」
「リーゼ様」
「リーゼロッテ姫」
 侍女たちが口々に名を呼び、探し求めるのは、美姫と名高きエランヴィアの至宝――国王夫妻の愛娘リーゼロッテである。赤みがかった金髪と、琥珀を思わせる金の瞳。母后がアダルバードの血を引いているせいか、南方には珍しい異国めいた容姿を持つ姫君は、宮廷に於いても目立つ存在であった。少し探せばすぐに見つかる、そう高をくくっていた侍女たちの顔から、色が失せて行くのに十二分な時間が経過している。約半日、王女の姿が見えないのだ。初めは国王夫妻や王太子らには報告せずにいた側付の侍女たちだが、
「申し訳ございません」
 侍女頭に申し出て、王女の所在が不明であることを告げたのは、既に日も傾き始めた頃であった。
「まあ、リーゼが」
 娘によく似た儚い美貌を持つ母后は、眩暈を覚えて椅子に凭れかかる。それを傍らで支える女官が、
「何をぐずぐずしておるのです! 人手を集めて殿下をお探しなさい」
 恐縮しきって跪いたままの侍女頭を怒鳴りつける。髪に白いものが混じった、小太りの中年の婦人は、更に色を失いあたふたと君主の間を辞した。その後ろ姿を見送った国王が、
「……」
 うう、と低い呻きを漏らす。
「陛下」
 泣き出しそうな顔で、王妃が夫を見上げた。実際、淡い金の瞳が潤んでいる。
「やはり、あの縁談(おはなし)はお断り申し上げたほうが……」
 王妃に言われるまでもない。国王自身、受けるか決めかねていた。

 ――貴国のリーゼロッテ王女を、王太子の妃に。

 フィラティノアから正式に申し入れがあったのは、年が明けてからすぐのことである。アヤルカス国王に袖にされて以来、リーゼロッテは塞込んでいた。表面的には明るく取り繕っていたものの、心には深い傷が残っているに違いない。国王夫妻は腫れものに触るように王女に接していた。その彼女に、再び縁談が持ち上がったのだ。新興国とはいえ、フィラティノアは北の大国。嫁ぐに申し分のない国である。しかも、王太子の妃ともなれば、これ以上はない良縁だ。
 しかし。
 フィラティノア王太子には、既に妃がいた。その彼女を離縁してリーゼロッテを迎えるのであればともかく、

 ――側室、ですって?

 使者の口上を耳にしたリーゼロッテの目が吊り上がった。

 ――わたくしを何処まで馬鹿にすれば気が済むのかしら。

 美姫と謳われ甘やかされて育った王女は、二度までも誇りを傷つけられたのだ。漸く明るさを取り戻したかに見えた彼女は、再び塞ぎがちになり。よもや自ら命を絶ったりはせぬかと不安に駆られた国王が王女の周囲を警戒し始めた矢先に、この事件だった。
 今頃、世を悲観した王女が何処かで人知れず自害しているのではと、周囲に緊張が走る。
「リーゼ」
 娘の名を呟く国王に
「陛下」
 宰相が渋い顔を向ける。国王も寵臣の言わんとしていることを悟って頷く。フィラティノアには、マリエフレドも嫁いでいる。ヒルデブラント王弟の次女――この姫君も、先年リーゼロッテ同様アヤルカス国王に袖にされていた。フィラティノアは、アヤルカスに良き印象を持たぬ国々の姫を集めている、それは気のせいではないだろう。
「我が国は小国です。なれど」
 位置的にミアルシァとアヤルカスの狭間にある――宰相の言葉に、国王は頷いた。それが何を意味するか、判りすぎるほどに判っている。だからこそ、今回の縁談には慎重にならざるを得ない。フィラティノアと縁を持つ、それは暗にミアルシァ及びアヤルカスとの敵対を仄めかすものだ。フィラティノアとしても、両国への牽制の意図を以て、申し入れをしてきたのだろう。
 リーゼロッテ輿入れの支度金として、莫大な金額も提示されている。台所事情の苦しい小国にとっては、願ってもない条件だ。だが、そのために王女を犠牲にしてもよいものか。子煩悩な国王は苦渋の決断を強いられていた。
 王族たるもの、国と民を守るためには自らを犠牲にせねばならぬ。自身も、アマリアの両替商の娘を妻に迎えたのは、父の画策とはいえ持参金目当てでなかったとは言い切れない。今では互いに尊敬しあい、認め合ってはいるが、婚礼の当初は愛情のかけらすら存在していなかった。国家存続のためには、愛娘といえど犠牲にせねばならない――側室といえど、フィラティノアは大国、祖国にあるよりも良き暮らしを送れるだろう。そうでも思わねば、自身の心に折り合いをつけることは出来ない。
 彼は宰相と顔を見合わせ、深い溜息をついた。
 フィラティノアの申し入れを蹴って、リーゼロッテをミアルシァの王族もしくは有力貴族に嫁がせるか。それとも、アマリアを頼るか。決断の時は、迫っていた。


 宮廷中が蜂の巣をつついたような騒ぎに包まれている頃。リーゼロッテは王都の外れ、城壁にほど近い場所に佇む神殿にて祈りを捧げていた。聖像の前に跪き、ただひたすら願う。傷つけられた自身の名誉が回復されることを。国民も、周辺諸国も皆、知っているのだ。彼女がアヤルカスから送り返されたことを。美姫と褒めそやされ、いずれは大国の君主の妃となるであろうと言われてきた自分、その通りの未来を信じていたのに。初めて得た縁は、あっさりと断られた。同時に妃候補として挙げられていた大国の姫君も同時に返されたのだから、恥をかいたのは自分だけではない。そのことが救いであった。
 が、競って敗れた相手が大国の姫ならば、まだ我慢もできよう。
 けれども、最終的にアヤルカス王妃の打診があったのは、ダルシアの貴族の娘だった。王族ではない、一介の貴族の娘、それに負けたのだと思うと悔しくてならない。
 アヤルカス王太后や宰相、廷臣たちの思惑があったにせよ、自分の美貌に国王が靡かなかった――それが一番腹立たしいところか。多くの反対を押し切って、アヤルカス国王が自分を選んでくれたなら。詮ないことを考えて、リーゼロッテは苦笑を浮かべる。
「姫様」
 背後に控えた侍女が遠慮がちに声をかけ、彼女は肩越しに振り返った。
「なに?」
「そろそろ戻られませんと。皆さま、ご心配なさっていますよ」
 気を揉む素振りを見せる侍女に、リーゼロッテは肩をすくめる。
 心配――確かに心配しているだろう。それ以上に、彼女に付き合わされた侍女は、神経をすり減らしているに違いない。王女の我儘につきあわされたとはいえ、誰にも告げずに城を出たのだ。リーゼロッテは小言で済むが、侍女の場合は進退問題にまで発展するかもしれない。侍女が心配しているのは、自分の立場だ。それを思うと、虫唾が走る。
「心配すればいいのだわ」
 リーゼロッテは吐き捨てた。侍女は震えあがる。姫様――掠れた声でもう一度呼びかけられると、リーゼロッテは立ち上がった。そろそろ、いい頃合いだろうか。フィラティノアの申し出に乗り気であった父も、多少考えを改めたに違いない。
(この私に、妾になれなんて)
 馬鹿にしている、と思う。小なりといえど一国の王女だ。側室になどなりたくはない。どうしても自分を得たいの言うのであれば、今の妻を離縁してからもう一度求婚せよと。実際、思うだけで口に出すことはできぬが、せめて心の中で悪態をつくことくらいは許されるか。
「姫様、もう日が暮れます。戻りましょう、戻りましょう、姫様」
 頻りと帰城を促す侍女をリーゼロッテは完全に無視していた。このまま戻らぬつもりはないが、戻ったところで事態が変わるとも思えない。母は泣き落としで父に訴えると思うが、父はそれくらいでこの話を白紙に戻すことはないだろう。莫大な支度金に目が眩み、娘を売る方へと気持ちが傾いてしまっている父は――どれだけ高く娘に値をつけるか、そのことしか頭にないはずだ。フィラティノアではなく、アマリアやアダルバードから似たような条件で縁談がくれば、父は二つ返事でリーゼロッテを送り出すだろう。
 彼女も今年で十九歳。王族としての適齢期はとうに過ぎようとしている。
「……」
 足掻いてもどうにもならない。甘んじて運命を受け入れるしかない。
 美しき姫君は強く唇を噛みしめ、立ち上がる。
「帰ります」
 振り返れば、侍女の顔が嬉しそうに輝いた。だが、その笑顔の向こうに不審な人影を見つけて、リーゼロッテは眉を顰めた。
「誰?」
 呟きに、侍女が反応する。彼女もゆっくりと振り返った。誰何の声には答えず、人影が二つ、こちらに迫ってきた。従容とした足取りからは、敵意も害意も感じられない。この神殿の神官か――剣を下げているところを見ると、神殿騎士か。女性二人の身を案じて、上位神官から遣わされたのかもしれない。そう判断したリーゼロッテは、膝を屈め僅かに首を傾ける。目下の者に対する礼だ。騎士二人も膝を折り、侍女の身体越しに姫君に礼を取る。
「エステファニア・ダイラ・リーゼロッテ王女殿下、でいらっしゃいますね?」
 南方の名と北方の名、異なる地域の名が混在する奇妙な名。改めて呼ばれると、笑いが込み上げる。彼女をリーゼロッテと知って声をかけてきたということは、
「父の使いかしら?」
 そうに違いない。彼女は半ばうんざりと目を細めた。恐らく乳母が、彼女の行きそうなところを父に告げたのだろう。意外に早く見つけられてしまったと半ば残念に思う反面、幾分安堵した彼女に対して、騎士の一人が微笑みかける。
「国王陛下の使いではございません」
「あら?」
 では? 重臣の誰かが気を利かせて派遣したのか。確認を取る前に
「ですが、殿下を送り届けるよう言い使っております――冥府に」
 今一人もにっこりとほほ笑む。口元だけで、眼は笑ってはいない。冷えた笑顔だった。
「姫様」
 異変を感じた侍女が、咄嗟にリーゼロッテの前に立つ。が、それとほぼ同時に、夕陽の一滴が宙を過ぎり。薙ぎ払われた侍女の首がころりと床に転がった。続いて高く上がる血飛沫。頬を濡らす生臭い体液に、リーゼロッテは大きく眼を見開いた。
「ゾエ?」
 侍女の名を呼ぶが、答えはない。床に落ちた首は、恨めしそうに王女を見上げている。その褐色の瞳と視線が合った刹那、吐き気が込み上げてきた。リーゼロッテは口元を押さえ、よろよろと後退する。その彼女の眼の前に、血塗られた剣が突き出された。
 悲鳴を上げる間もない。剣先は過たず彼女の胸を貫いていた。ずぶずぶと自身の肉に吸い込まれていく鋼の塊を、王女はただ見つめている。やがて、その瞳から光が消え、細身の身体が床へとくず折れた。

 王都の端、小さな神殿から火の手が上がったのは、そのすぐ後のことである。



 エランヴィア王女リーゼロッテ姫病死。その報は、程なくフィラティノアに届けられた。無論、正式な使者よりも先に、かの国に潜入していた間諜からの報告のほうが早く。そちらでは、リーゼロッテの死因は病死ではなく暗殺となっていた。
「暗殺」
 報せを受けたグレイシス二世は、苦笑した。自害でもなく、暗殺。おそらく犯人は国内の反フィラティノア勢力であろう。フィラティノアの属国に等しい同盟関係を快く思わぬ廷臣の誰かが、王女殺害を命じた。可哀相なことをした、と、口では言ってみるものの。髪の毛一筋ほども彼は王女を悼んではいない。彼女がいなくなれば、代わりの姫を要求するまでだ。幸いなことに、エランヴィア国王は子沢山である。小国の上に財政も苦しい、それは後宮に愛妾を多く抱え込んでいるせいだ。全く、女性にそれだけの手間をかけるくらいならば、政務に励んだ方が良いものを――グレイシスは、何処か冷めた気持ちで異国の王を思う。
 弔意を示した後は、暫くエランヴィアには関わらぬ方が良い。
 関わらぬようにして、アマリア及びエセルバートにそれとなく接近している様子を見せよ――グレイシスが命じると、宰相は「おや」という風に口元を歪めた。
「随分とかの国にご執心ですな」
 露骨な当て擦りを指示する国王を揶揄するかのように、長年仕えた寵臣は言葉を添える。彼も主君の考えは見通しているのだろう。グレイシスが、エランヴィアに執着する理由はただ一つ。ミアルシァ及びアヤルカスに対する牽制のためだ。それに気付いたエランヴィアが、保身のためにリーゼロッテを殺害したとなれば、娘を溺愛していたエランヴィア国王は犯人探しに躍起となるだろう。そこに付け入る隙が出来る。狡猾な国王と宰相は、顔を見合せて笑った。
 全ては思惑通りに進んでいる。

「そろそろ、ですかな」

 宰相の呟きに、グレイシスは頷いた。
 神聖皇帝の戴冠の準備は滞りなく進んでいる。あとは、諸国に向けて発令を出すのみだ。神聖皇帝ルクレツィア一世。彼女を擁して、アヤルカスを討つ。しかるのち目障りな獅子を駆逐し、鴉を葬り去る。そして、フィラティノアを名実ともに神聖帝国とするのだ。父の代からの長年の夢、それが漸く叶おうとしている。そのために、毒蜘蛛を懐に取り込んだ。まずは、エランヴィアとレンティルグに先陣を切らせよう。次いで、ヒルデブラントを唆し、ミアルシァに侵攻させる。
 アヤルカスにおけるルクレツィアの人気は高い。彼女が皇帝としてセルニダの解放を宣言すれば、闘わずしてアヤルカスはフィラティノアに下るはずだ。
「ダルシアへの牽制は?」
「ティシアノ・フェレオが動くでしょう」
 ダルシアの王座をちらつかせれば、貪欲な大公は間違いなく動く。その際目障りなルカンド伯も合わせて潰しておいた方が良い。彼がカルノリアやセグへと援軍を要請する前に。
「暗殺、ですか」
 問われるまでもない。グレイシス二世は嗤った。
「オルネラから『巫女』を送り込んでいる。夫人に消えてもらえば、ルカンド伯も考えを改めるだろう」
 先代ルカンド伯は、カルノリアを裏切りフィラティノアに付こうとした。それが発覚して刺客に打たれたのだ。今度はその逆を取ってやろう、グレイシスは、年が変わる前から密かにダルシア領内へと密偵を派遣していた。密偵と、――大陸の狼につながる、暗殺者。
「まずは、ツィスカ大公女のお手並み拝見、と行こうか」
 先んじて、ウィルフリートと共に隣国へと送り込んだツィスカ。彼女が内部からアヤルカスを切り崩すのも時間の問題だろう。ミアルシァの支配に反発する、神聖帝国の旧臣を煽り、民衆を扇動し、アシャンティの皇太后らと呼応できれば。流れは一気に加速する。
「楽しみですな」
 降り積もる雪、それに等しい静けさと確実さを以て、時代はゆっくりと動き出していた。


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