AgneiyaIV
第三章 深淵の鴉 
7.連鎖(8)


 凶刃が目の前に迫る。最早ここまで、ルーラは敗北を覚悟した。敗北、そしてその向こうにある死を。
(妃殿下)
 最後に脳裏を掠めるのは、暁の瞳の皇女だった。高飛車で傲慢で自信に溢れた――でも、肝心なところで優しさを垣間見せる少女。彼女を守ることができなかった、それだけが心残りだ。ルーラは静かに目を閉じる。刃が心臓に到達するまで、あと、どれくらいか。
 しかし。
 そのときはやってこなかった。代わりに、くぐもった悲鳴が耳朶を打ち、どさりと思いものが倒れる音がする。同時に響く、馬の嘶き。
「……っ?」
 目を開けば、先程の刺客が地に倒れ伏していた。その首筋から、短剣の柄が生えている。街道を守る警備隊が、騒ぎを聞きつけてやって来たのか。こんなうらぶれたところに? それとも、盗賊の類か。新手でないことは確かなのだが、味方とも言いきれぬ。剣を握り直すルーラだが、残る二人の刺客も、ルーラではなく別の方向に目を向けている。別の方向――高く響く蹄の音に、ルーラも思わず視線を巡らせた。同時に、自身の動きを阻む楔を力任せに引き抜く。
「く……っ」
 激痛が走った。鮮血が頬を濡らす。ルーラは左肩を押さえながらゆらりと立ち上がる。その気配に気づいた刺客の一人が、我に帰ったか再びルーラに刃を向けた。繰り出された剣をかろうじて交わし、微妙に体勢を整えながら、木を背にして背後を守る。根に足を取られぬよう、細心の注意を払いながら、彼女は紙一重の動きを繰り返していた。
 そこへ。
 高く風を切る音とともに、矢が放たれる。狙いはルーラではなく、
「……!」
 彼女を狙う刺客だった。首筋を矢に貫かれた男は、くるくると回転しながら大地に吸い込まれていく。その姿を半ば呆然と見つめていたルーラの前に
「正義の騎士参上」
 おちゃらけた言葉とともに、一陣の風が舞い降りる。漆黒の駿馬より降り立ったのは、同じく黒衣に身を包んだ、若干細身の少年であった。彼はルーラをその背に庇うと、残る最後の刺客に剣を向ける。剣――短剣を。
「……」
 刺客の喉から、嘲りの笑いが漏れた。長剣に短剣で立ち向かう気か、と。そう思ったのだろう。けれども少年は何ら気後れすることもなく、
「偏見は、身を滅ぼすって。言われなかった?」
 全く緊張感のない言葉を投げかけつつ、刺客へと挑みかかる。刺客はそんな彼を受け流すつもりで軽く険を払ったのだが。その刃の下をかいくぐり、あっさりと懐へと潜り込む。刺客が体勢を立て直す間もなく、
「――ね?」
 短剣が鳩尾を抉り、刺客は声を上げることなく絶命した。
「この程度の腕で刺客って、たかが知れてんねえ」
 少年はゆっくりと短剣を回し、刺客の内臓に空気を送り込んでから引き抜いた。噴出する鮮血を浴びることなく、するりと身をかわす。その動きは流石だった。ルーラは彼の動きの一部始終を眺めていたが、
「大丈夫?」
 くるりと振り返った少年、その前髪の奥に光る赤紫の瞳を確認した刹那、その場に膝をついた。味方だ、と。思ってよいかもしれない。そう言える相手だろう、この少年は。
「ティル」
 彼の名を呟けば
「ご無沙汰」
 辺境の盗賊は、ぱちりと気障に片目を閉じる。が、ルーラの様子に幾分顔色を変え、
「これ……あんた、ちょっとまずいんじゃないか?」
 脇腹と肩、双方の傷口を己の革帯できつく縛りあげ、血止めを施した。まずいどころではない。ルーラは礼を言おうと唇を動かしかけたが、声を発するまえに、ふっと意識を手放した。



「――ルーラ?」
 明け方、否、それよりも少し前。離宮に到着したアーシェル辺境伯を迎えたクラウディアは、 彼の腕の中で血の気を失っている友人の姿に顔色を失った。
「ルーラ、……ルーラ!」
 クラウディアの声にも、ルーラは反応を示さない。固く閉ざされた瞼はもう二度と開かぬのではないか、そんな不安を掻き立てられる。
「お嬢さん、どいて」
 そんななか、ティルは冷静だった。
「早く、手当てしたほうがいい」
 彼はルーラを客室の一つへと運んで行った。そこで改めて医者を呼ぼうとして、
「あ、一応これ秘密なんだっけ?」
 ちらりとクラウディアを振り返る。秘密、という言葉に、クラウディアは眉を寄せた。ルーラは、表向きは王太子の側室であるが、その実裏巫女である。立派な男性なのだ。男性としての象徴は失われているが、身体は女性ではない。完全に成人男子のそれである。果たして、離宮付きの医師がそれを知っているのか。
「それは……」
 この際、そんなことは言っていられない。医師を呼ばなければならない。けれども、その医師をどこまで信用することができるか。かの人がレンティルグに繋がっていないとも限らないのだ。クラウディアは唇を噛んだ。どうすればいい――必死に考えを纏めようとするが、上手く頭が働かない。
(なんてこと)
 こんなに取り乱してしまうなんて。片翼以外の他人に、これほど執着していたなんて。暗い笑いが込み上げて来そうだった。
「あたしがやるよ」
 蓮っ葉な台詞とともに進み出てきたのは、エルナだった。彼女は寝台に横たわるルーラの服を、
「貸して」
 受け取ったティルの短剣で器用に引き裂いていく。露わになるのは、予想通り男性の身体。豊かな乳房もまろみもない、鍛えられた青年の身体だった。
「……」
 無言で見つめるクラウディアに
「ほんとは、誰よりもあなたに知られたくなかったんだろうけどね」
 エルナは乾いた笑みを向ける。彼女はルーラの上半身だけを剥き出しにすると、傷の様子を丹念に確かめる。
「へえ。応急処置は完璧だね」
 高評価に、ティルが
「お褒めにあずかり光栄」
 気のない返事を返す。
「で? オレらは何をすればいい? 見張りか?」
 ちらりと扉に目をやるティルに、クラウディアは
「そうね……とりあえず、綺麗な布とお湯。それを用意するように小間使いに声をかけて頂戴」
 漸く落ち着きを取り戻し、指示を出す。了解、と、退室しようとするティルの背に
「あ、それから」
 エルナが更に言葉を投げる。
「煮立てた油も宜しく。出来れば鍋ごとね」
「へいへい」
 ティルはひらひらと手を振った。煮立てた油? と、クラウディアが首を傾げれば、
「見てりゃ判るよ」
 エルナは軽く応じる。そしてその言葉通り、答えはすぐに判った。小間使いたちが控えの間まで運んできた布と湯でルーラの傷口を清めたエルナは、
「内臓は無事みたいだね」
 ほっとしたように息をつきながら
「ほい。油取って」
 人差指でティルを招いた。ティルは言いつけ通り鍋ごと油を持参したらしい。不穏な音を立てる黒い鍋を
「これ、なにすんの?」
 怪訝そうに眉をひそめながら差し出す。エルナはそれをクラウディアに渡すように言い、ティルには寝台に乗ってルーラを押さえるよう依頼した。その間にもエルナは休むことはない。ルーラの口に布を押し込み、傷口を露わにしている。ティルがルーラの枕元に座り込み、その両腕を一つに纏めて押さえこんだのを見計らい、エルナは徐に煮立てた油に匙を入れた。そこから一掬い油を取りだすと。
「ごめんね」
 ルーラの傷口、脇腹にそれを垂らしたのである。

「……!」
「うげ……」

 クラウディアとティル、二人の悲鳴が上がると同時に、ルーラの身体も大きく跳ねた。身を捩り、苦悶を訴える彼女を
「ほら、少年! しっかり押さえる!」
 思わず放しそうになったティルにエルナの叱咤が飛ぶ。油で傷口を焼くのだ。そのために、エルナは油を用意させた。確かにこの方法は野蛮かもしれぬが、確実に傷口を塞ぐことができる。それでも、ルーラの激痛は計り知れない。ぽたりと一滴零れるたびに、陸に揚げられた魚の如く跳ねまわる。
 目を背けたくなる衝動を堪え、クラウディアは強く唇を噛んだ。
 少女めいた感傷、恐怖心は全て消し去らねばならない。全てを見る強さを持たなければならない。そうでなければ、皇帝になどなれない。真実のアグネイヤを名乗る資格もない。
(ルーラ)
 心の中で、幾度も呼び掛ける。苦悶の中で必死に生きようとしているルーラに。否、それはルーラに対してだけではなく。弱く折れそうな自分自身への呼びかけでもあったに違いない。
 クラウディアは強く握りしめた拳を震わせながら、ただひたすらルーラの回復だけを願っていた。



 目を開ければ、闇が広がっていた。自分は冥府へと堕ちたのだろうか。そんなことを考えながら、僅かに身じろぎする。
「……っ」
 途端、全身に激痛が走った。ここは冥府ではない、うつし世だと皮肉にも教えられることになる。では、あれは夢ではなかったのだ。夕闇の中から生まれた漆黒の駿馬、そこから降り立つ黒衣の騎士。彼は確かに、辺境の盗賊だった。アーシェルにいるはずの、ティル。彼が何故、グランスティアへと向かう街道に忽然と現れたのか。まさか、ルーラを救いに来たわけではあるまい。彼がルーラの危機を知るべき手段は皆無なのだから。
(いや)
 皆無、ではない。彼と共にある、自称真実の巫女姫。リルカインの宣託で知りえたのかもしれない。だがそれはそれで疑問が残る。真実の皇帝を救うのであれば話も判る。が、ルーラを救えなどとあの巫女姫が言うだろうか。確かに、彼女はルーラを殊の外気に入っている様子だったが。
 乳白色の髪と紛い物の瑠璃の瞳を持つ童子の姿を思い浮かべる。彼もまた、男子であることを捨てて生きる定めにある。同じ道を歩むルーラに、親しみを感じているのか。それとも、別に何か理由があるのか。それは判らぬが。
「あら」
 闇の中から声が聞こえ、ルーラは身を固くした。気配はないと思ったはずなのに――それよりも、ここはどこだろう、思って視線を巡らせば。
「気がついた?」
 良かった、と。少女の声がした。これは幻聴だろうか。遠く離れた王都にいるはずの、王太子妃の声が聞こえる。彼女恋しさについに思考回路がおかしくなってしまったのか、一瞬不安に駆られたが。
「るーら、おきた」
 これまた耳慣れた声に、ゆっくりと眼だけを動かす。と、闇の中にぼんやりと灯りがともった。燭台に火を入れたのである。脇机に乗せられた、淡い光の向こう。そこには
「妃殿下」
 懐かしい人の姿があった。
 これは、夢ではない。その証拠に。
「熱は、ないみたいね」
 額に触れる冷やりとした感触。クラウディアの指先が、五感に刺激を与える。
 畏れ多い――言おうとしたが、またしても声が出なかった。腹に力を入れると、引きつるような痛みが走る。起き上がろうとあがいても、一人では無理だった。
「心配だから、ティルに見に行ってもらったの。間に合って、良かった」
 クラウディアの言葉で得心がいく。ティルは王都を訪れていたのだ。リルカインと共に。ならば、時機を見計らってグランスティアに向かうこともできるだろう。まさに、彼がいたからこそ命を拾えた。一人であれば今頃は、あの木の根元で人知れず果てていたことだろう。
 王太子妃とリルカインがいる、ということはここは離宮だ。そこまでティルが運んでくれたのか。彼には感謝しなければならない。
 それにしても、自分はどれほど気を失っていたのか。不安に駆られる。今は、夜。となれば、あの夕暮れの続きだろうか。それとも、翌日だろうか。
「二日間、ぐっすり寝てたよ」
 ティルの声が、彼女の疑問に答える。彼もこの部屋にいたのだ。ルーラはティルの姿を探した。だが、黒髪の盗賊の姿は、闇に紛れて見えない。
「悪いと思ったけどさ、睡眠薬と鎮痛剤、飲ませたんだよね。まあ、オレが」
 どこかしら声に照れが含まれている。睡眠薬と鎮痛剤、それを飲ませることで何か照れる必要があるのだろうか。重く濁った意識の中で考える。
「もう少し、休んで頂戴。そのほうが、傷の治りが早くてよ?」
 クラウディアの声に安堵を覚える。
「わたしもここにいるから。あ、リィルも。安心して頂戴」
 クラウディアは、二晩つききりでルーラを看病していたのか。一国の王太子妃が、こんな取るに足らぬ存在のために――そう思うと、嬉しさと申し訳なさとが同時に湧きおこる。早く回復しなければならない。クラウディアに応えるためにも、早く元通りに、否、それ以上に強くならねばならない。
「申し訳ございません」
 消え入るような呟きが、唇を震わせる。不甲斐ない、己に対する怒りが精神を苛む。
「馬鹿ね」
 拗ねたような声が灯り越しに聞こえた。
「あなたが謝る必要は、ないのではなくて?」
 台詞と同時に、左手が包まれる。冷やりとした掌、それが王太子妃のものだと気付き、ルーラは慌てて手を引こうとしたが、クラウディアは許さなかった。両の掌でしっかりと彼女の手を包み込み、そっと、指先に触れる。柔らかい、湿ったその感触がクラウディアの唇であると認識したとき、ルーラの中で感情が弾けた。
「妃殿下」
 悲鳴にも似た声が、薄闇に響き渡る。
「リィルに教わったの。早く良くなるお呪いなんですって」
 くすくすと笑うクラウディア、悪びれた様子はひとつもない。かわりに、やれやれと言った様子でティルが溜息をつくのが判った。
「早く良くならないと、全身に口付けすることになるわよ?」
「妃殿下」
 引き攣った声を上げて身を強張らせるルーラに
「冗談よ」
 しれっとクラウディアが答える。心臓に悪い冗談はやめてほしい。小悪魔めいた王太子妃を内心非難するものの、そんな軽口を叩いてもらえる、そのことが何にもまして嬉しかった。


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