AgneiyaIV
第三章 深淵の鴉 
7.連鎖(6)


 アインザクト。その名は、長きに渡って禁忌とされてきた。ことに、神聖帝国に関わるものにとっては。
 否。
 初めは禁忌であったのかもしれない。けれども、時が経つにつれて、封印された。忘却の彼方に追いやられた。そんな、悲劇の香り漂う名前だった。
 クラウディアは目の前に跪く少女を、無機質に見つめる。
 帝国の末裔として、その名は幼い頃より耳にしていた。民草の記憶から消されても、神聖帝国後継を名乗る者たちの間には、密かに語り継がれていた――語り継がねばならぬ名である。神聖帝国崩壊後、帝都を脱出し故郷へと帰還したクラウディア一世。同時に逃亡を果たしたものの、行方知れずとなっていた巫女姫フィオレーン。大公を出産したのち、城下へと逃れたシェルダ・ルダ。その一人として手中に収めることのできなかったカルノリア大公の怒りの矛先が向かったのは、今一人の大公、アインザクトの元であった。
 初代皇帝の庶子を祖に持つ名門、アインザクト。最後の大公は、女帝クラウディアの擁立を陰に日向に助けた人物である。

 ――皇帝エルメイヤ三世の暗殺を指示したのは、アインザクト大公である。
 ――クラウディア后と結託し、帝位を簒奪した大罪人。

 カルノリアは宣言し、アインザクトへ攻め込んだ。帝国崩壊、アインザクト大公家不利、といった状況を見てか、小領主であったヒルデブラント及びアダルバードはカルノリア大公に加勢し、かの名門はふた月にわたる熾烈な戦闘の果てに滅亡した。大公夫妻は自害、公子も討ち死にしたと聞く。残された他の公子公女も殺害されたとされており、事実上アインザクトは断絶したはずである。仕えていた古参の者たちも、生き残りは少ないはずだった。二百年という歳月の中で、血も恐らく絶えてしまったはず。そう、思っていたのだが。
「アインザクト大公の、末裔に当たるのかしら?」
 金髪に翠の瞳。ツィスカの容姿は、アインザクトの血を引く者の特徴であった。金髪か、もしくは亜麻色の髪か。エルメイヤ三世も、祖母がアインザクトの出であったため、亜麻色の髪と翠の瞳を持っていたという。
「世が世なら、公女様というわけね」
 クラウディアの言葉に、
「とんでもない」
 ツィスカは頬を赤らめる。
「傍系の娘です、そんな、公女を名乗ることなどできません」
 できません――そう幾度か口の中で繰り返し、ツィスカは眼を伏せた。何を考えて、アインザクトの末裔がフィラティノア国王に仕えたのか。国王もツィスカの素性を知った上で、手元に置いたのだろう。狡猾なるグレイシス二世のこと、なんらかの形で彼女を利用しようとしていたのだろう。もしかしたら密偵とは名ばかりの、愛妾なのかもしれない。
「数々の御無礼、お許しください、陛下。私情を挟んではならぬと己に言い聞かせるあまり、無礼な行動を重ねてしまいました」
 深々と頭を垂れるツィスカ、クラウディアは苦笑を浮かべてそれを受け流す。無礼と思うほど無礼なことをされた覚えはない。ただ。
「アレクシア殿下の手紙を、盗み読みされた……くらいかしらね?」
 それを言うと、ツィスカの表情が変わる。
「鴉との文通が気に入らなかった、だけではないでしょう。わたしがカルノリアに通じているとでも?」
「いいえ、そんな」
 慌ててかぶりを振るが、その動揺ぶりは普段の彼女らしくなく。見ていて滑稽なほどであった。ツィスカが妙に淡々としていたのも、本人が言うように己を律していたからだけではない。アレクシア皇女と親密である、その点を不満に思っていたのだろう。アインザクトの仇であるカルノリア、その娘と懇意にしている――それだけで、ツィスカの中ではクラウディアに対する採点が辛くなっていたことは否めない。
「アインザクトの屈辱は、聞いてもいるし判っているつもりではあるけれども」
 クラウディアは一段声を低く落とす。
「だからといって、あなたがたの心の裡を全て理解しているわけではない。当然ね、当事者ではないのだから」
「――陛下」
「わたしにとって、アレクシア殿下は友人。過去の経緯がどうあれ、直接的には何も被害を被っているわけではない。遠き祖先が受けた辱めを雪ぐ、そんな気持ちを彼女に対して持つことはないわね。今後一切」
「……」
 ツィスカの瞳が揺れる。不安げに。心細げに。だが、その奥に憤怒の色が見え隠れするのをクラウディアは感じ取っている。ツィスカも二百年前の亡霊に踊らされている哀れな傀儡の一人なのだ。確かに、理不尽に攻撃を受け没落させられたアインザクトは哀れだと思う。その忠義心も見上げたものだと思っている。けれども、自分たちは今を生きているのだ。未来を見据えているのだ。過去はすべて水に流す、そう言っているわけではない。過去は過去、現在は現在、未来は未来として別に存在すると割り切らなくては、一歩たりとも前に進むことは出来ないのである。
「どう? わたしに失望した?」
 揶揄するように問えば、
「いいえ」
 否定はするものの。ツィスカの表情は硬く暗い。先程の感激は何処へやら、翠の瞳は闇の奥底に沈みこんでしまっていた。
「わたしに光を見るのか、それとも、アインザクトの影に引きずられながら歩むか。決めるのは、貴方自身ではなくて? ツィスカ。わたし個人を見限るのであれば、見限ればよいでしょう。誰も貴方を責めはしない」
「……」
 唇を噛み締め、俯くツィスカ――その苦悶の色が濃く浮き出ている横顔に、クラウディアは哀れを覚えた。おそらくこの娘は、生まれてこのかた『復讐』のことだけを念頭に生きてきたのだろう。それが、血に眠る宿命なのか、それとも親から吹き込まれた怨念なのか。どちらであっても、そこにツィスカ自身の意志はない。意志なくして憎しみの血を時代に繋げていくことこそが役目であると、信じて疑わない。それはそれで、一つの生き方だ。否定はしない。そもそも、この世に絶対正義など存在しないのだから。
「餞の言葉、というわけではないけれど」
 クラウディアは、そっとツィスカの髪に触れる。畏れ多い――金髪の密偵は、反射的に身を縮こまらせたが
「わたしは、帝冠を戴くわ。神聖帝国の。帝王と呼ばれるか、覇王と呼ばれるか。どちらになるかは判らないけれどね」
 真実の神聖帝国復活を、約束する。ツィスカの耳元に囁けば、彼女は再び大きく眼を見開いた。
「我が手元には、巫女姫が存在する」
「――まさか」
 ツィスカの声が震える。アインザクトにとっても、巫女姫の存在は大きい。一説には、巫女姫フィオレーンの妹を北へと逃したのはアインザクト大公だと言われている。大公は、諸侯同様、皇帝よりも寧ろ巫女姫を崇拝していたのだから。巫女姫、の名は彼らには効果絶大のはずだった。案の定、ツィスカの態度から険が消える。巫女姫を手中に収めた、と。クラウディアの宣告を聞いた瞬間に、揺れていた心が――止まった。
「旅立つ前に、会ってお行きなさい。エリアス……エルナの弟としてわたしに仕えている従者、『彼女』こそが当代の巫女姫イリアです」
「おお」
 少女は顔を覆った。嗚咽がその喉から漏れる。巫女姫と繰り返す声は、惨めに震えていた。けれども、そこに曇りはない。巫女姫に対する畏敬の念が込められているのが、痛いほど伝わって来る。半ば狂信的なその想いに、クラウディアは若干辟易した。若い娘特有の感情の昂りと言ってしまえばそれまでであるが、これほどまでに一途な想いを露わにするとは。生真面目な分、恐ろしくもあった。この想いを受け止めてこその巫女――果たしてあのイリアに、それだけの度量があるだろうか。
(無理……ね)
 線の細い、まだ子供子供した巫女姫の姿を思い浮かべ、クラウディアは苦笑した。しかし、自分たちはその想いの前面に立たされることになるのだ。幾千幾万のツィスカを前にしても、その狂気じみた想いに押しつぶされぬよう強い心を持たねばならない。押し潰されてはならない。
 自身がこれから進むべき道の険しさを想像し、クラウディアは戦慄した。それは、恐怖か、それとも。自身の力を試す、そのことへの昂揚か。
 それから幾つかの言葉を交わしてツィスカが退室したのち、クラウディアは長椅子に腰を落とした。夜が明ける。暁の星が太陽を呼び起こす。その前の、朝未来の闇のなんと深く暗いことか。

「――聞いていたのでしょう?」

 虚空に向かって言葉を投げる。と、背後から小さく溜息が聞こえた。参ったねえと声がして、調度の間に身を潜めていたのであろう、細身の影が滑り出してきた。蝋燭の明かりに映える瞳は赤紫。聖女の瞳を持つ侍女は、胸高に腕を組み、
「アインザクトの公女様がねえ。魔女の懐で娼婦の真似事をしていたとはね」
 半ば呆れたように呟く。以前、ゲルダ街と呼ばれる魔窟で、ツィスカを見たことがある――それは、気のせいではなかった、と。エルナは軽く首を竦める。
「ルクレツィア陛下と呼んだわ、わたしを」
「そのようだね」
 それは、取りも直さずフィラティノア国王グレイシス二世がクラウディアをルクレツィアとして戴冠させようということなのだろう。アグネイヤ四世は死んだ。死んだことになっている。故に、『彼』の血縁者たるアルティナ・ティアーナ・クラウディア・エミリア・ルクレツィアを皇帝として立てる、それが国王の筋書きなのだ。
 グレイシス二世は、知らない。クラウディアこそが、真実のアグネイヤ四世であることを。
「アグネイヤ四世でなくて、御不満?」
 エルナが嗤う。クラウディアも笑った。
「帝冠を戴けるのであれば、名前には拘らないわ」
「言うと思ったよ。男らしいねえ。ああ、ほんとに抱いてほしいね、あんたには」
 茶化すエルナをちらりと見上げる。口調はふざけているが、その目は笑ってはいない。
「そうね……抱いてあげれば、色々と喋ってくれるかしらね?」
「妃殿下?」
「あなたの素性もはっきりと聞かせて戴きたいところよ、エルナ。その名前も、本名なのかどうなのか。知りたいところだしね」
 エルナは何とも答えず、緩く口角を吊り上げたのみだった。ツィスカには通じる心理戦も、エルナには難しいということか。クラウディアは密かに息をつく。
「ああ、そうだわ、先程ツィスカが言っていたけれど。彼女の代わりの侍女が派遣されるわ。迎えに行ってあげて頂戴」
「いいけど? でもまさか、あの娘が生きていた、なんてねえ? あたしゃてっきり殺られちまったと思ってたよ」

 ――私の代わりとして、侍女を一人推薦しておきました。
 ――明日、こちらに向かわせます。

 ツィスカの配慮、なのかもしれない。長らく彼女の元で保護されてきた娘アデルが、晴れて王太子妃付きの侍女として離宮へあがるときが来たのだ。小間使いでもよいと言っていたのだが、折角の口利きである。侍女に取り立てよう――クラウディアはそう思っていた。
 同時に。
 隔離していたレーネをツィスカが始末した。それは、ツィスカが国を離れるからという理由もあるだろうが。レーネの解呪を果たすすべがないと見切りをつけたからだろう。レーネが正気に返ったところで、使い道はない。そう、ツィスカも思ったに違いない。そんな理性で全てを断ち切れるツィスカを、心の片隅で好ましく思う自分がいる。クラウディアは鮮やかな翠の瞳を思い出し、幾許か表情を和らげた。



「失礼いたします」
 深夜ともいえる時刻に、部屋を訪ねるものがあった。あからさまに怪しげな行動に、シェラは自ら剣を取って扉を開ける。と、廊下に佇む人影は、
「妃殿下のお遣いです」
 巫女姫に伝言があると言う。ならばそれを伝えると応えれば、
「いいえ、ぜひとも巫女姫様ご本人にお伝えせよと」
 頑なに申し出を拒んだ。
 なんとしても巫女姫当人と対面したい――せねばならない。強く言いきる侍女だったが。その声は、王太子妃にいつもつき従っている侍女のものではない。聞いたことのない声だった。高く細く、澄んだ声。どこかしら、従姉ソフィアの声にも似ているとシェラは思った。そんな声の娘が、この離宮にいただろうか。疑惑と警戒が心の奥からわき上がる。
 それに、イリアが巫女姫であることを知っている。それは、ごく限られた者たちだけのはずだ。用心深い王太子妃が、腹心の侍女以外に重大事項を漏らすとも思えぬ。
「今夜は、遅い。彼女ももう床に就いている。要件は、明日にでも……」
 強い口調で言いかけたときだった。
「シェラ?」
 背後に人の気配――眠たげな声が聞こえた。シェラは舌打ちしたい衝動に駆られる。よりによって、このようなときに本人が登場するとは。
「誰か来たの? お客様?」
 燭台を掲げた、短髪の少年。目を擦りながら現れたのは、他ならぬ巫女姫イリアであった。流石に少年の姿をしているだけあって、すぐにそれと気づかれることはないと思うが。この如何にも少女、といった高い鈴を振ったような声は隠すことはできない。
「なんでもない」
 シェラは彼女を背に庇うようにして部屋に押し戻そうとしたのだが。
「あ……」
 刹那、見てしまったのだ。廊下に佇む少女の姿を。巫女姫の掲げた灯り、蝋燭の淡い光に照らし出されたのは一人のたおやかなる少女。焔の色を受けて若干くすみはしているが、その髪は鮮やかな金髪だった。そして、眼は。おそらく翠色。一瞬、シェラの脳裏を別の人物の面影が過ぎった。唐突に浮かんだその人物は、従姉でも従弟でもなく。
「ア……」
 その名を口にしそうになり、慌てて理性を呼び戻す。そんなはずがない、かのひととは似ても似つかぬ面差である。同じなのは、髪の色と瞳の色だけだ。それなのに。シェラは唇を噛んだ。忘れていたはずの疑念、不安が呼び起こされる。目の前の少女に不吉な影を見て、胃の辺りが急速に冷えて行った。
 そして。
「……」
 件の侍女もまた、シェラの姿を見ていたはずだった。北方には珍しい黒髪。整った、中性的な美貌。白き面の中に輝く、青い瞳。
「巫女、姫?」
 侍女の口から、思わぬ言葉が零れる。
「そうだが?」
 咄嗟にシェラは自身を偽った。そうだ、その手があったのだ。相手は、巫女姫の顔を知らない。更に、都合のよいことに、暗がりでは瑠璃の瞳も青の瞳もさして区別がつかぬだろう。それを考えれば、初めからこうすればよかったのだ。
「え? シェ……?」
 余計な口を挟む前に、
「イ……ルザ、いいからあちらへ」
 適当な名で呼びかけ、巫女姫イリアを肘で押しまくり部屋の奥へと押し戻す。寝ぼけ眼の少女は、何が起こっているのか理解できていないだろう。それはそれでありがたい。シェラはそのまま廊下に滑り出し、後ろ手に扉を閉めた。イリアが出てこられぬよう、体重をかけて扉を抑える。当然、剣は手にしたままだ。が、目の前の侍女はその姿には不審を抱かぬのか。
「私に、何用か?」
 鋭く問いかけると、侍女は唐突にその場に膝をついた。これにはシェラも驚いたが、
「深夜にまかり越しましたる非礼、お許しくださいませ。アインザクトの縁者、ツィスカにございます」
 続く名乗りに更に声を失う。
(アインザクト?)
 遠き記憶の中にある名だ。おそらく、当事者たるカルノリアの主だったものたちの中でも、その名を記憶している者は少ないだろう。二百年前、カルノリアが逆賊として完膚なきまでに叩き潰した名家。血脈は断たれたと思っていたのだが、その血は現在にまで長らえていたのか。しかも、なんという皮肉だろう。ツィスカなるこの娘、シェラを巫女姫と取り違えて膝を屈している。憎い仇であるはずのカルノリア大公の末裔たるシェラに。それを考えると、苦いものが込み上げてきた。違う、と一言云えばいい。巫女姫は先程燭台を掲げた娘なのだと。
「旅立つ前に、一目、ご尊顔を拝し奉ることができて光栄です。ツィスカ、これで心おきなく死地に向かうことができます」
 深々と首を垂れる少女。自分はなんと言葉をかければよいのだろう。巫女姫なればここで祝福のひとつもせねばならぬのだろうが、生憎シェラは神聖帝国式の神事を知らない。どころか、枝分かれし、カルノリアに根付いている神事に関してもまるでわかっていない。不信心の極みである。唯一知っているものと言えば
「ご武運を」
 出陣するものに対して行う、戦女神の祝辞か。
 ツィスカはそれで満足したらしい。面を上げることを許すと、歓喜に満ちた眼差しがシェラに向けられた。彼女は暇乞いの挨拶を述べ、素早く下がる。だが、
「遠からぬ日に」
 ふと、何かを思い出したようにこちらを振り返り、
「姫の元に鴉の屍が届きますことを、お約束いたします」
 一言告げて去って行った。
(鴉の、屍?)
 最後の一言が棘となってシェラの心に突き刺さる。ツィスカなる娘、彼女は何処へ何をしに行こうというのか。命を捨てる覚悟で国を出て行く、『巫女姫』の元を去っていく。ならば、その行先は――
(まさか)
 カルノリア?
 冷ややかな掌が、心臓を掴み取る。そんな感覚に襲われて、シェラは思わず拳を固めた。


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