AgneiyaIV | ||||
第三章 深淵の鴉 | ||||
7.連鎖(4) |
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「――どう思う?」 「どう、って?」 気だるい午後の光の中、つかの間の陽光を愉しむかのように 「まあ、密偵として侵入した、って感じではないけどね。これからどうするかは不明だけど」 カルノリア第一将軍が息女、シェルマリヤ。エルナは彼女に対する印象を、さらりと語った。 従姉であるソフィア皇女の窮状を訴え、彼女を救ってくれるよう嘆願に来た。そう、シェルマリヤは言っていた。更には、ソフィアの夫であるセグ第二公子が暗殺されたこと、その背後には国をまたいだ陰謀が存在していることも告げている。 レンティルグ辺境候とタティアン大公、その二人が繋がっている――そう言われても、クラウディアは驚かなかった。二百年前、神聖帝国崩壊の陰で糸を引いていたのもレンティルグだと言われている。当時の辺境候が、カルノリア大公を唆したのだ。 ――あなたの妃こそ、神聖帝国皇帝となるに相応しい。 真に受けた野心多きカルノリア大公は、主君である義兄に刃を向けた。帝国崩壊以後は、皇帝を堕落に導いた、及び『簒奪者クラウディア』に協力したとして、帝室の忠実なる下僕アインザクト大公家を滅ぼしたのである。だが、カルノリアは巫女姫を手に入れることができなかった。故に神聖帝国ではなく、カルノリア帝国を名乗ったのだ。しかし、帝国となったカルノリアは、レンティルグと縁を切った。利害の不一致が生じたのか、それとも別の問題が起こったのか、定かではない。だが、以来カルノリア帝室とレンティルグ辺境候との間に交流はなかった。 「二百年」 クラウディアが呟く。 「二百年の時を経て、毒蜘蛛が再び糸を張り巡らせ始めたわけ」 同じだ。神聖帝国崩壊のときと。毒蜘蛛に唆された鴉が、主君を裏切る。今度はその道化をタティアン大公が演じるのだろう。カルノリアを倒し、自らが帝冠を戴くために。 「フィラティノアを、アインザクトと同じ道を辿らせるわけにはいかないわね」 クラウディアの独白に、エルナがくすりと笑う。さすが将来の国母様――茶化す風でもなく言う彼女に、クラウディアは軽く肩をすくめて。 「でも、わたしはクラウディアよ。事実上最後の神聖皇帝と同じ名前の」 「ルクレツィアでもあるよね? 創始の皇后」 間髪を入れぬ答えに、クラウディアは眼を細める。クラウディアが滅ぼし、ルクレツィアが創造する――その意味を込められた名前かもしれない。今、自身が名乗っている名は。本来であれば、片翼が担うはずであった運命を、はからずしも自身が負っている。それは、過ちではないのか。小さな不安が心に生まれる。クラウディアは軽く唇を噛みしめた。 「手駒は揃っているよ」 エルナは、背を押そうとしている。ルーラよりもより強い力で。 「アグネイヤじゃなくても、皇帝にはなれるんじゃない? クラウディアにルクレツィアに巫女姫に皇帝の側室――なんだか、二百年前の再現だね」 その通りだ。 今まで、――と、クラウディアは考える。自分は、フィラティノアを手中に収めることだけを考えてきた。女王としてこの国の王冠を戴くことだけを。だが、それだけでよいのか。それだけで、自分は満足するのか。 (しない、わね) 苦笑が零れる。エルナは小さく頷いた。 ――妃殿下! ――ルクレツィア妃殿下! 成婚披露の日、民衆の間から湧き上がったあの歓声。クラウディアに対する期待と歓迎の声。あのときに、民衆に対して礼を取った自分、 (ああ) 身体の奥底から生まれいずる大いなる渇望――野望。力が欲しい、幼い頃から願っていたその想いを、燻っていた焔を煽られた瞬間だった。ここで自分が帝位が欲しいと言ったら。神聖帝国を奪還すると声を上げたら。どれだけの人々が呼応してくれるだろうか。少なくとも、片翼よりは上手く駒を進めることができる、そう思う。 (巫女姫と、カルノリアの姫と、ミアルシァの姫) 三人の妃を持ちながら、それを利用することなく終わった片翼。巫女姫ならば大いに利用価値がある。カルノリアの姫、シェルマリヤでは役者が不足しているが、それでもエルナの言によれば、彼女は皇帝の気に入りで、専属の密偵のようなことをしていたという。それは、片翼からの手紙にもあった。密偵として活動をしていたシェルマリヤとイリアがセグに於いて遭遇したこと。以来、気の置けぬ仲となっていること――若干の寂しさが、行間からにじむ手紙を見たのは、いつのことだろう。もう、遠い昔のような気がする。 「シェルマリヤ姫は、密偵も勤めていたというわね」 「ああ。何度か、見かけたことはあるよ」 エルナの行動範囲の中にシェルマリヤが姿を現すことも、度々あったという。剣の腕もなかなか、と、エルナが褒めるくらいである。さぞかし優秀な武官なのだろう。それに、器量も悪くないうえ機転も利きそうだ。彼女は側室としてそれなりに有益な人材であったのに――使いこなせなかったのか、片翼は。逸材は、使ってこそ価値がある。それを知らぬ彼女ではあるまいに。 「あとは、ルクレツィア姫。他人の気がしないわね。同じ名前だと」 青紫の瞳を持つ、第三の側室。肖像画を見たこともないうえ、特に気にも留めていなかったので、情報も少ない。どんな人物かも不明だが。キアラ公の妾腹の娘であれば、さして役には立たぬだろう。キアラ公は先代国王の異母弟にあたる人物だが、宮廷における地位はさして高くはない。申し訳程度に公爵の名を与えられただけで、実際は領地も持たぬのではないか。あの国には、そんな名ばかりの貴族が多いと思ったが。 「ルクレツィア、ね」 エルナの口元が歪んだ。聖女の瞳に皮肉げな光が宿る。皮肉――否、蔑みか。 「知っているの、彼女を?」 尋ねると、 「まあね」 気がなさそうに頷いた。どんなひと? と訊く前に、エルナは苦い笑みを浮かべながら 「ありゃあ、使えない。というか、元から使い物にならないように作られたんだ」 「作られた?」 「そう。前に、茜姫で失敗しているからね、ミアルシァは」 投げやりなエルナの言葉の中に潜む名称、茜姫、という呼称に聞き覚えがあった。それは、ミアルシァにおけるリドルゲーニャ――リディアの愛称ではないか。ミアルシァ王室に生まれながら古代紫の瞳を持っていた、そのために本来の名であるリディアを剥奪され、リドルゲーニャなる北方の名を与えられた姫君。現在、神聖帝国皇太后であるかのひとは、他ならぬ双子の母であった。 本来であれば、王室に生まれた古代紫の瞳の赤子は封印王族として殺害されるか、もしくは王宮の奥深くに隠され快楽の道具とされるか、あるいは密偵などの仕事に就くか。どちらにしろ王族としての扱いは受けない。だが、リディアの場合は生まれる前よりアルメニア大公の妃となることが決まっていたために、王族としての立場を追われることなく、また、教育も受けられたのである。それは、彼女が唯一の嫡出子ということもあったからなのだが。 「――ルクレツィアは、本当はキアラ公の娘じゃない。先代の国王の娘だよ」 幾分投げやりな口調でエルナが言う。虚空に視線を彷徨わせながら。 「昔だったら、特に問題はなかったんだろうけどね。彼女は、先代の国王と同母妹との間に生まれた娘だったのさ」 ルクレツィアの生母は、封印王族だった。ミアルシァの王室に、近年全く娘が生まれないわけではない。実際は、古代紫の娘が誕生していたのだ。当然、彼女らは若い王族の伽相手となる。嫡出子であったとしても例外はなく、否応なしに王族の身分は剥奪され、地に落とされた。が、先代国王は伽相手として封印王族である実妹を殊の外寵愛した。夜毎の交わりにより彼女は身ごもり、自身と同じ禁忌の瞳を持つ娘を産み落としたのである。 不幸なことに、初めは瞳に赤が混ざっていることなど気付かれなかった。ルクレツィアの瞳は青だと誰もが思っていた。政略の道具となる姫君の誕生を強く望むミアルシァにとって、ルクレツィアの誕生は願ってもないことであり、正式に戸籍を与えて王族の一員として迎える手はずまで整えられていたのだが。 ルクレツィアの瞳は青紫であった。 そのことを知った先王の落胆ぶりはひどく、すぐさま殺害しろとまで一度は命じたという。 「結局は色々あって。キアラ公に体よく押し付けたんだけどね」 アルメニアとの絆を深めるための切り札として、命だけは長らえさせた。けれども、リドルゲーニャの如くミアルシァに対する脅威となる可能性を潰すために、ルクレツィアには教育を施さなかった。最低限の読み書き、王族としての嗜みだけを教えて、あとは放っておいた。 出来上がったのが、現在のキアラ公女である。 「随分と詳しいのね。かなり長いこと、母国にいたのではなくて?」 棘を含んだ言葉を投げれば、 「さてねえ?」 エルナは、はぐらかす様に笑った。 この裏巫女、実際はどこまで知っているのだろう。調べているのだろう。 クラウディアは時々背筋に寒さを覚えるときがある。傍にいて頼もしい人材ではあるが、完全に信じてしまってよいものか。ルーラの如き実直さも忠誠心も持ち合わせていないエルナの心を、繋ぎとめるにはどうするべきか、どう振舞うべきか。常に神経を尖らせなければならないのも辛い。 どちらかと言えば、シェルマリヤのほうが傍においておくのに楽な存在ではないかと思うのだが。彼女の考えも、まだ今一つつかめてはいない。勘の鋭さだけは並はずれて優れている巫女姫、彼女がなついているくらいだから、腹黒い人物ではなかろう。腹に一物あるのであれば、彼女は敬遠するはずだ。クラウディアを避けているように。 「サリカは、どうする気かしらね?」 ふと、片翼の幼名を口にしてみる。 地位を追われ、国を奪われ、名さえも取り上げられた彼女は。いま、ユリシエルにいるというが、このまま市井に埋もれるつもりなのだろうか。一庶民として、平和に生きることを望むのだろうか。心優しく、斬り捨てることを由としない彼女にとっては、その生き方のほうが楽であろうが。ここまで混迷を招いておいて、自身だけ逃避していく、その姿に幾許かの怒りを覚える。全ては、片翼の甘さから生まれたことだ。自分がアグネイヤ四世として即位をしていれば、こんなことにはならなかった。ミアルシァの横暴も阻止できたし、迎えた側室たちも有効に活用できた。それを思うと口惜しくてならない。 (あなたの手駒、使わせて戴くわよ?) 遠き北の果てにいる片翼に語りかける。 「じゃあ、まあ、とりあえず。少しずつ親睦を深めていきましょうか、ね」 硬質な表情を一変し華の笑みを浮かべたクラウディアは、エルナに向かい客人たちを客間に呼び寄せるよう声をかけた。 ◆ 「……」 ルカンド伯の暗殺。それを依頼したのは、父であるカルノリア第一将軍だと思っていた。父は、娘の夫たる伯爵の嫡男に爵位を与えるために、小うるさい伯爵自身を屠らせたのだと。だが、実際は違う――レンシスらに命令を下したのは、おそらく。 (叔父上?) タティアン大公。彼が伯爵の暗殺を仕組んだのだ。ソフィアの言葉によれば、叔父はレンティルグと通じてフィラティノアの権利奪取も狙っているという。同時にティシアノ・フェレオに対抗するルカンド伯に手を貸して、ダルシアの権益も手に入れようとしている模様だが。詰まるところ叔父の狙いはカルノリアの帝冠である、と。 その過程で、レンティルグによるフィラティノア国王暗殺が計画されているかもしれない。国王暗殺後、王太子もしくはレンティルグに都合のよい人物を傀儡として君主とし、ゆくゆくは国土も何もかもレンティルグのものとすることを視野に入れている。そういうことなのだろう。 この陰謀が成功すれば、大陸の地図は塗りかえられる。 「シェラ?」 名を呼ばれ、彼女は我に返った。気づけば目の前に巫女姫の顔がある。恐ろしいまでに無防備に人を近付けてしまったことに気付き、シェラはびくりと身を震わせた。それほどに彼女に気を許しているのか、それとも、彼女に気配がないのか――その両方ではないかと思うのだが、連日の失態には苦笑どころではすまないものがある。これが害意を持った相手であったら、今頃魂は冥界を彷徨っていたことだろう。 「返事がないから、寝ちゃったのかと思ったわ」 半ば不貞腐れたように頬を膨らませるイリア、その仕草を愛らしいと思う。この無垢な正室だけは陰謀に巻き込みたくない、アグネイヤ四世が願った気持も良く判る。そして、この巫女姫もまた。アグネイヤ四世を夫として慕っているのだ。その不思議な絆の中に、自分は入れない。自分はあくまでも異邦人、側室の一人に過ぎない。アグネイヤ四世が、イリアのために自分を傍に置こうとしてとった苦肉の策があの『求婚』だった。互いに剣を突きつけ合うなか、発せられた言葉。今は、それを受けておいた良かったと、少しだけ思う。 「私は、間違っていたのかもしれない」 「なにが?」 脈絡のない言葉に、イリアが首を傾げる。餌をねだる小鳥を思わせる動きに、シェラの頬が自然緩んだ。 「フィラティノアに来るべきではなかった。我が夫を探すべきだった」 もう少し早く、アグネイヤ四世の存命を知っていれば。処刑されたのがアグネイヤ四世その人ではなく、身代りだと知らされていれば。自分は、フィラティノアには来なかった。クラウディアを頼ることもなかった。 「でも、アグネイヤは……」 イリアの表情が曇る。おや、と、シェラは眼を見開いた。よもや巫女姫は自身の夫の生死を判っていないのだろうか。 「我らが背の君は、御存命だ」 ふ、と、唇の端を吊り上げれば、イリアはぱっと顔を輝かせる。 「やっぱり。ああ、やっぱり。無事だったのね、アグネイヤは」 よかった――彼女は両手で自身の肩を抱きしめ、強く眼を閉じた。おそらく、アグネイヤの魂の緒が切れていないことは感じ取っていたのだろう。けれども、処刑の報が届いたために、不安が生まれた。自身の勘と、耳から入る情報と。どちらを信じればよいのか、この小さな巫女は迷っていたに違いない。シェラは、ここに来る前にセグでリナレスに遭遇したことを手短に語った。リナレスも無事、そうと知ってイリアは更に喜んだ。 が。 「オルトルートの弟子、とかいうおかしな少年も一緒だったな。彼らは、我が君がカルノリアに向かったと。そう言っていた」 続くシェラの言葉に、声を失う。カルノリア――その名のせいだろう。イリアにとって、未だにカルノリアは仇。神聖帝国を崩壊へと導いた、冥府の使者なのだ。彼女はカルノリアを帝国と認めていない。シェルキスとシェラ、その二人は別として、他の者に対してはあからさまに嫌悪を剥き出しにする。 「鴉……」 そう、漏らして。イリアは鋭く眼を細めた。 「なぜ」 一つの言葉に、数多の想いが籠っている。黄昏の瞳が、午後の光の中で、小さく揺れた。 シェラも、理由までは知らない。ただ、リナレスはアグネイヤ四世と巫女姫の無事を告げ、アグネイヤがカルノリアに向かったと。そう付け加えただけだった。シェラも流石にそのときは奇異に思ったが、追手の意表を突くのだろうと思い、深くは追求しなかった。 なぜ――巫女姫の疑問は、至極真っ当であった。 なぜ、国を追われた皇帝は、仇の国へと向かったのだろう。あるいは、シェラの名を当てにしていたのではないか。そうも思ったが、すぐにそれを払拭する。そこまで自分は、買い被られてはいないはずだ。ならば、先帝ガルダイア三世の親友であるシェルキス二世を頼ったか。それにしても、奇妙な話であるが。もしここれで、シェルキスの援助を受けるのであれば、彼女はそれこそ売国奴となる。あの心優しき伯父は何も要求はしないと思うが、狡猾なる宰相、及びシェラの父である第一将軍らは、必ず神聖皇帝の名を利用するだろう。未だ配偶者のないエルメイヤ、かの皇子と娶せて名実ともに神聖帝国を奪うことくらいするはずだ。それを知らぬアグネイヤでもあるまいに。 黙り込む、二人の妃。室内に漂う不可思議な空気を切り裂くように、扉が叩かれる。声をかけてきたのは、王太子妃付きの侍女の一人だった。 「妃殿下が、お呼びでございます」 シェラとイリアは顔を見合わせる。呼ばれたのは、シェラだろうか。彼女が一人立ち上がると。 「エリアス殿もご一緒に、とのお言葉を賜っております」 侍女は丁重に頭を下げる。二人は今一度顔を見合わせ、それからともに小さく頷いた。 |
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