AgneiyaIV | ||||
第三章 深淵の鴉 | ||||
7.連鎖(3) |
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グランスティアに赴いてから、どれだけの日々を過ごしたことだろうか。病身の王太子を演じている手前、部屋に引きこもることも多く、外気に触れることはない。健康な身にはそれが辛く、けれどもこれは道ならぬ思いを抱いた自身への罰であると。そう考えればさして辛くはないだろうか。 早朝、まだ誰も起き出さぬであろう時分、ルーラは久方ぶりに寝室の窓を大きく開けた。清々しい朝の空気が、冷気と共に入りこんでくる。冬の冴えた空気、この他を寄せ付けぬ気高さが、主人である王太子を思い出させる。 「殿下」 だが、そっと呼ぶ名は、果たしてどちらの『殿下』なのか。「妃殿下」と。自身は呼びたかったのではないか。雪を染める薄紫の薄明に、彼女は眼を細める。冴えた空気に交わる、紫の光。あの夫婦は、この朝未来の光景によく似ていると、ふとそう思った。 あの二人が寄り添い、真の夫婦となって。ディグルがフィラティノア国王に、クラウディアが神聖帝国皇帝に、それぞれ就くこと。それが、自分の望みだった。アヤルカス、その背後にあるミアルシァに併合された神聖帝国、クラウディアなればかの国の帝冠を主張することができる。 (戦、か) 平和を代価に、望みを叶える。それを、クラウディアは望むだろうか。 ルーラは、笑った。 答えは、是。クラウディアならば、真実のアグネイヤである彼女であれば、まことの平和を得るために、立ち上がるだろう。多少の犠牲を払ってでも。 彼女がアグネイヤ四世として、帝冠を戴くその日まで、自分は傍にいることができるだろうか。彼女を支えていられるだろうか。先を想像すると、溜息が洩れる。 「殿下」 室内に響くのは、女中頭の声。次の間からかけられたその声に、ルーラは我に返った。今はまだ、ルーラには戻れない。王太子を演じなければならない。 無口な『王太子』は、鈴を鳴らすことで女中頭に応えた。ならば、ということで、扉の向こうから更に声が聞こえる。 「早朝に、申し訳ございません」 またしても、火急を告げるものだった。今度は、何か。王太子に帰還せよと国王の命令でも出たのだろうか。不規則に刻まれる鼓動、それを押さえてルーラは先を促す。果たして、女中頭からの答えは、見事に暗い期待を裏切ってくれた。 ツィスカが戻ったのだ。こちらの様子を報告するため、一時的に東の離宮に戻った彼女は、国王に呼び出されたという。 (陛下に?) 道理で、戻りが遅かったわけだ。東の離宮とグランスティアは休憩を入れることなく馬を飛ばせば、半日の距離である。すぐに戻ります――そう言ってクラウディアの元へ一時帰還した彼女が、王宮へ呼ばれた。当然、呼び出したのは国王である。国王がツィスカを重用していることは判っていたが、なにを彼女に託したのだろうか。 「只今、戻りましてございます」 先触れの侍女に案内されて姿を現したツィスカは、慎み深く戸口で膝を折った。平伏す彼女をその場に残し、取り次ぎ役はそそくさと姿を消す。そうしろと予め言い置かれていたのだろう。ルーラは、ツィスカのほかに人の気配がないことを確認すると、寝台から起き上がった。ツィスカ、そう呼び掛ければ、金髪の娘は顔を上げる。夜通し馬を飛ばしてきたのか、白い面には疲労の色が濃く表れている。彼女は今一度深く礼を取ると 「恐れながら、ルナリア様」 王宮に戻ってほしい――彼女は挨拶もそこそこに、端的に告げてきた。それは、国王からの命令なのか。国王が、療養中の王太子を呼び戻そうとしているのか。ルーラの脇を汗が伝った。ディグルは、未だ帰還せず。おそらくは、ユリシエルに辿り着いたころだろう。目的地が冬薔薇と判っているからまだよいものの。無事に辿り着いたか否か、オルネラの密偵からの連絡もない。よもやその命が脅かされているとは思わぬが、病が悪化して倒れてはいまいか、そのことだけが不安だった。 ここで王太子を演じるよりも、旅行を装って彼を追いたい衝動に駆られるルーラであったが、クラウディアとの盟約がある以上、勝手な振る舞いは出来ぬ。 「わたくしは一度王宮に戻りましてのち、セルニダへと向かいます」 ツィスカの思わぬ言葉に、ルーラは眼を見開いた。セルニダへ、何故――と問いかけて、 「それでは」 一つの推測に行き当たる。ツィスカは静かに笑った。ルーラの言わんとしていることを汲み取ったのだろう。聡い娘だ。国王やディグルに信頼されるわけである。 「これが、最後かもしれません」 彼女は、セルニダへ赴く。おそらくは、高官に付き従ってかの国へと潜入し、密偵として暗躍するのだろう。ともすれば、幽閉されているリディア皇太后や宰相エルハルトとの繋ぎとなり、神聖帝国の国土奪還を図るのではないか。そして、そのとき皇帝として全面に押し出されるのは。 (妃殿下) 暁の瞳を持つ気高き少女。かの人の面影が、脳裏を過る。ルーラは暫し息を止めた。フィラティノア国王も、思い切った決断を下したものだ。よりによって、滅びの娘の名を持つ皇女を皇帝に押し立て、正統性を主張しつつ戦を仕掛けようとは。しかし、彼は、まだ知らぬだろう。クラウディアを名乗る皇女が、真実のアグネイヤであることを。表向き処刑されたとされるのは、偽りの皇帝である。ならば、今こそクラウディアは、まことのアグネイヤ四世であると名乗り出て、帝都セルニダの奪還を図るべきだ。 興奮に、身体が震えた。ルーラは知らず敷布を強く握りしめる。 いまこそ、彼女の願いが叶うときではないか。 「ルナリア様」 ツィスカはいつになく固い声色でルーラを呼んだ。今後のことに不安を覚えているからか、そう思ったのだが。 「お願いがございます」 自身の代わりに、クラウディアの監視を頼む、そう彼女は告げた。監視、という言葉に苦いものを覚えたが、ルーラはそれを飲み込んだ。クラウディアは、フィラティノアにとって諸刃の剣。ミアルシァに対する切り札であると同時に、獅子身中の虫でもある。 「妃殿下の元には、いま、巫女姫がおります」 それはルーラも知っている。アーシェルの民に崇められている、乳白色の髪と瑠璃の瞳を持つ巫女姫。男子であるにもかかわらず、姫と称される彼の気持ちはいかばかりであろうと、かつての裏巫女は思うのだが。 天は、起て、と。そう言っているのだ。 誰に――クラウディアにか。それとも、蛮族の名を与えられ、虐げられ続けた、フィラティノアにか。アーシェルにか。 このときのために、フィラティノアはヒルデブラントとも姻戚関係を結んでいた。レンティルグとも。あとは、リディア皇太后と呼応することができれば、勝機は十分にある。 「これに合わせて、北にも火の手が上がります」 静かに呟くツィスカ。その言葉を聞き咎めたルーラは、首を傾ける。 北、とは。 「カルノリアです」 どくりと心臓が鳴った。カルノリア、と、思わず呻きにも似た声が漏れる。かの国にはいま、ディグルがいる。そして、クラウディアの片翼たるアグネイヤも、また。 「ツィスカ」 呼びかけに、金髪の娘は小さく頷いた。緑の目が優しく和む。 「エルディン・ロウ――」 唇から零れる忌まわしき名を、けれども彼女は愛しげにその響きを愉しみながら 「漸く、二百年の呪縛から逃れることができそうです」 微笑みさえ浮かべてそう言った。二百年前、最後の皇帝となったエルメイヤ三世を殺害したとされる人物。その名は、現在では大陸の闇を司る組織の通称となっている。数多の暗殺者を抱える組織、あらゆる非合法組織の母体、畏怖と蔑みと双方をこめて囁かれるその名を、初めて聞いたのはいつだったろう。ルーラは眼を細めた。彼女が組織を通じてアルメニア皇女の暗殺を依頼したのは、もう遠い昔のことのように思える。 「これが、最後になるでしょう」 今一度、ツィスカが先程の言葉を口にした。気のせいか、長い睫毛が濡れているようにも見える。ツィスカは、恐れながら――そう自身の非礼を詫びながら、ルーラの元へと歩み寄る。そして、寝台の脇に置かれた小机に 「これを、妃殿下にお渡し願えませんでしょうか」 自身の耳から外した 「巫女姫フィオレーン様より賜ったものです」 遠き時代の巫女姫の名に、ルーラは軽く眼を見開く。暫しの間、ツィスカの言うフィオレーンと、神聖帝国最後の巫女姫の名が合致しなかった。 「これは、エルシュアードの忠誠の証。命を賭して巫女姫をお守りした女騎士の、想いが込められています」 私には、もう必要はないでしょう。ツィスカは言い、立ち上がった。失礼いたしますと短く暇乞いの挨拶をして退室しようとするその小さな背中に向かい 「貴殿は、……」 ルーラは思わず声をかけていた。 「貴殿は、アインザクトの末裔か?」 「……」 ツィスカの口元に、曖昧な笑みが刻まれる。是とも否とも答えず、金髪の侍女は部屋を辞した。 それが、最後だった。 ◆ 「シェラが来てくれて、よかった」 それが巫女姫イリアの偽らざる気持ちであった。 神聖帝国滅亡、逃亡生活を余儀なくされ、流れ着いたのは北の果て。そこでもまた厄介者扱いをされ体よく追い出されて。送り込まれたのが、フィラティノアの王太子妃の元だった。アグネイヤの双子の姉妹だと言うから、彼女によく似たおっとりとした姫君を想像していたのに。 「なにあれ、あの偉そうな態度。取り澄ましちゃって。『ここにいても、宜しくてよ?』ですって。何様のつもりよ。――って、お妃さまだったわ」 頭から湯気の出る勢いで、イリアは一気にまくし立てた。 王太子妃の『厚意』で、イリアは部屋を与えられている。エルナと同室で、一応は帳で区切って個人的な空間を確保はしているが。それでも、「見張られている」そんな印象が拭いきれなかった。しかも、離宮に置く代わりに、髪を切れ、染めろ、男装しろ、と。王太子妃は理不尽な要求ばかり突き付ける。アーシェルに育った胡散臭い自称真実の巫女姫に対する扱いと、偉い違いである。 不満がたまりにたまっていたところに現れたのが、懐かしい顔だった。カルノリア第一将軍の息女シェルマリヤ。イリアと同じく神聖帝国皇帝の妃の一人である。彼女は帝国崩壊以前にアグネイヤの密命を受けて国外へと出ていたのだが。無事ていて良かった。今、イリアが心を許せるのはシェラだけだと言っても過言ではない。 ――シェルマリヤ姫のお世話役として、貴方には姫君の部屋に逗留することを許可します。 クラウディアの一言で、イリアはシェラと共に離宮の客室に移ることになったのであるが。 「一々癇に障るのよね」 どうも、クラウディアを認めることができない。なぜ、アグネイヤのように大らかではないのだろう。常に上から物を見るあの態度が気に入らない。 「――そうだな」 対してシェラは、特に気にする風でもなかった。旅の疲れが出たのか、長椅子にしどけなく身を預けた彼女は、何か考え事をしているのか。イリアの話を聞き流している様子である。イリアもその気配を感じてはいたが、一度堰を切ってしまった言葉は止められない。これではまるで、仕事から帰った亭主に姑の悪口を告げる新妻のようだと、自身の行動を情けなく思ったが。 (しょうがないじゃない) 唇を尖らせ、彼女はドスンと音を立てて寝台に座り込んだ。 つくづく、自身の夫がアグネイヤで良かったと思う。クラウディアであったりしたら、最悪だ。祝福どころか呪詛の言葉を投げてやりたくなる。冥府に君臨する魔王とはあのような性格に違いないと、イリアは心の中で幾度目かの悪態をついた。 「巫女姫」 呼びかけに、イリアはシェラに目を向ける。なに、と首を傾げれば 「以前、神聖皇帝は、暗殺現場を目撃したと言っていたが――聞いたことはあるか?」 想いもかけぬことを尋ねてきた。 「暗殺現場?」 さあ、と言いかけて。ふと思い出す。イリアを救うために、ルカンド伯の別邸へと向かったアグネイヤ、彼女がそこで遭遇した事件のことはうっすらと聞かされていた。カルノリアの士官らしき男たちが、伯爵を殺めていたと。しかも、伯爵暗殺の犯人とされてしまったのだ、アグネイヤは。イリアも街に出た触れによもやとは思ったが。アグネイヤに現場を見られてしまっていては、犯人たちもそういった行動に出ざるを得ないだろう。 「犯人は、――犯人の一人は、今、アヤルカスの牢にいる」 イリアは頷いた。巫女姫誘拐を企んだ人物の中に、犯人がいたのだ。当時の神聖帝国は、非公式に彼らを捕え尋問していた。帝国が併合された今、その扱いはどうなっているのだろう。どさくさに紛れて、闇に葬られてしまった可能性が高い。イリアは唇を噛んだ。暗殺犯は、シェラの旧知の人物だったという。幼馴染を奪われた彼女の胸中は、複雑だったに違いない。しかも、その命令を下したのは間接的にではあるがアグネイヤ四世である。その人物の妻となって、僅かではあるが過ごしていたのだ。 「もしかしたら、彼らは……」 言いかけて、不意にシェラは口を噤んだ。青い瞳を僅かに細め、彼女は天井を仰ぐ。 「私は、大きな間違いをしていたのかもしれないな」 それは、独り言なのか。それともイリアへの語りかけなのか。鴉の血を引く娘は、それきり口を開くことなく、自身の思考の中へと、埋没していった。 |
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