AgneiyaIV
第三章 深淵の鴉 
7.連鎖(2)


 王太子妃は、月に数度侍女とともに遠乗りに出かけることがある。
 その情報を得たのは、ある意味幸運だったかもしれない。
 何の紹介状も持たぬ自分がのこのこと王太子夫妻の住まう離宮に出向いたところで、門前払いをされるのがおちである。今の自分は、カルノリア第一将軍の令嬢でも、神聖帝国皇帝の側室でもない。ただの小娘であった。身なりは騎士のそれに近い、それだけが怪しむべきものではないという証にはなるのだが――奈何せん、身元を証明するものを持たずして、なんとしよう。
「……」
 シェラは、自身の指に嵌められた、従姉の指輪に視線を落とす。鴉の紋章が刻まれたこの指輪、これが効力を示すのは、カルノリアに於いてだろう。ここはフィラティノア、不穏な言い方をすれば、敵地に当たる。王太子妃クラウディアがカルノリア第四皇女アレクシアの友人である、そのことに縋ればまだなんとか取り次いでもらえるだろうか――考えていた矢先に、件の情報を得たのは、日ごろの行いが良かったためか。信仰心は厚くないほうだが、こんなときばかり感謝しては、神々も苦笑いを浮かべたくなるだろう。

「――妃殿下かい? ああ、時々あの茶屋で休憩されるよ」

 教えられて出向いたのは、表通りにはあるが何の変哲もない普通の宿屋、そこに併設された昼は食堂兼茶屋、夜は居酒屋といった風情の店だった。たいして品が良いとはいえない。そんなところによくぞ平気で足を踏み入れるものだと感心する。聞けば、王太子妃は気さくに庶民とも会話をするそうだ。暗殺を恐れてはいないのだろうか、あまりにも無防備すぎると天を仰ぎたくなったが、
「妃殿下を暗殺? そんな、俺たちが黙っちゃいねぇよ、なあ?」
 件の茶屋の一隅に席を取ったシェラが、近くに屯する男たちに尋ねたところ彼らは口々に

「おうよ、妃殿下に失礼かます奴は、俺が許しちゃおかねえし」
「何言ってるんだ、妃殿下をお守りすんのは、オレ」

 我先にと護衛役に名乗り出るのだ。異国から嫁いできた妃は、思いのほか人気があるようだった。
 シェラはそれを幾分苦い思いで受け止める。クラウディアの片翼であるアグネイヤ、神聖皇帝たる彼女は、離宮に押し込められ不遇の日々を送っていたというのに。双子と言えば、姿かたちどころか内面まで酷似しているという。一方が好かれ、一方が疎まれることなどあり得ないと思うのだが。
 そういえば、神聖帝国に於いてもクラウディアの人気は高かった。宴のたびに密やかに

 ――クラウディア殿下が帝冠を戴いていれば。

 そんな会話が交わされたのを耳にしている。それほどまでに人心を掌握している王太子妃、シェラは個人的にクラウディアという人物に興味を持った。いったい、どのような姫君なのだろう、と。遠乗りをするくらいだ、余程のじゃじゃ馬なのだろう。アグネイヤ同様、常に男装をしているのだろうか。そんなことを考えていると、店内に異様なざわめきが巻き起こった。
「おおっと、お出ましだ」
 隣の席の男が、声を裏返して叫ぶ。ざわざわと押し寄せるどよめきの波の向こう、芝居見物にでも出かけるような、派手な衣裳を纏った婦人が現れた。否、見た目は派手だが、その生地は軽い。仕立ても動きやすいように工夫されている。一目でシェラはそれを見抜いた。
「あら、ありがとう」
 席に案内された黒髪の婦人、高く結いあげた髪に差した花は、彼女の瞳と同じく赤みの強い紫色だった。古代紫――神聖帝国の色彩。人垣の向こう、その人はいた。フィラティノア王太子妃クラウディア。アグネイヤの片翼。アグネイヤと同じ顔、同じ声、けれども纏う雰囲気はまるで違う。
(馬鹿な……)
 シェラは我が目を疑った。クラウディアの周囲には、光が舞っているかのように見える。彼女の視線が動いた先にも、指先が示す場所にも。光の粒子(つぶ)がきらきらと舞い降りていくような錯覚を覚えるのだ。
 美しさ、という点においては、従姉と変わりはなかった。美姫と名高いリーゼロッテ姫、彼女とも。巫女姫とも。
 けれども、その存在感は圧倒的だった。
 ひっそりと朝靄に薫る白薔薇の如きソフィア皇女や、神秘纏いし三日月を思わせる巫女姫イリア、艶やかな大輪の花と称えられるリーゼロッテ姫にはない、強い生命力のようなものも感じる。否、これは。生まれながらの覇者。王者たるものが持つ輝きなのか。
 眩しい、と。シェラは思った。一種の近づき難さがクラウディアにはある。才気のないものが近づこうものなら、瞬時に斬り捨てられる、そんな恐ろしさが先に立つ。怖い――そう、怖いのかもしれない。彼女に器を測られるのが。底の浅さを見透かされるのが。
 怖いのだ。

「……?」

 ふと、古代紫の瞳がこちらを見た。どくり、と、心臓が跳ねる。見られている、その感覚が心地よくもあり、また、恐ろしくもあり。シェラは耐え切れず、瞬きをしてしまう。
 一拍置いて目を開いたときにはもう、クラウディアの関心は別の方向へと移っていた。それはそれでほっとしたが、どこかしら虚しさが湧きあがる。選ばれなかった、そのことへの屈辱、悲壮感。惨めな敗者の感覚が、心臓から指先へとゆっくり流れていくような錯覚を覚えた。

 若き王太子妃は、そこで少々酒を嗜み市井の人々との会話を楽しむと、零れんばかりの笑みを残して去って行った。侍女らしき金褐色の髪の女性が、何がしかの金を卓上に置いていく。王太子妃の飲み代だろう。主人は恐れ多いと返上するのかと思っていたが、有り難く押し頂いていた。侍女の姿も扉の外に消えると、喧騒は一気におさまった。皆、美しく気さくな、けれども冒し難い威厳をもつ王太子妃のことを語りながら、寛いでいる。そのまったりとした雰囲気に飲まれそうになっていたシェラは、慌てて席を立った。
(いけない)
 折角遭遇できたのに。これではみすみす機会を逸してしまう。彼女は代金を乱暴に置くと、小走りに表へと飛び出す。大きく開け放たれた扉、その前に立って通りを望むが、悲しいかな王太子妃と侍女の馬影は認められなかった。
「くそ……」
 唇を噛んで落胆するシェラに
「なにか、御用?」
 声をかけるものがあった。そちらに目を向ければ、茶屋の塀に背を預けた女性が一人、意味深長な笑みを浮かべて佇んでいる。金褐色の髪の――王太子妃の侍女だった。
「――って、妃殿下が仰っていたけど?」
 侍女にしては、ぞんざいな口をきく女だ。シェラは眉を潜めた。どれほどの家柄の娘か知らぬが、一介の侍女にこのような無礼な口をきかれる覚えはない。
「あたしも、あんたに見覚えがあるよ」
 侍女の笑みが濃くなった。逆にシェラの怒りも露わになる。自分を知っている――ということは、シェルマリヤの身元を認識していると、そう告白したも同然であった。一国の姫君ではないものの、神聖皇帝の妃の一人にして、カルノリア皇帝の姪に当たる自分に向かって、不埒な言動をするとは。
「来なよ。案内するから」
 シェラの怒りなどお構いなしに、侍女は彼女に手招きする。そのまま、茶屋の傍らにとめおいた馬を指して、一緒に乗ろう等と言いだすものだから、シェラの怒りは爆発した。
「失礼だが、侍女殿」
 言いかけるシェラの唇を、侍女は指先で抑える。静かに、そういった意味合いのカルノリアの言葉を優しく耳に囁き、続いて公用語で「ご案内いたしますわ、シェルマリヤ姫」滑らかに告げたのだった。


 侍女との道行は、妙な気分であった。馬上に揺られるのは慣れていたが、他人の手綱というのは、初めてである。かなり居心地の悪い思いをして、遠くはない離宮までたどり着くと、侍女や衛兵に迎えられた。金褐色の髪の侍女は
「妃殿下の、お客人」
 軽い笑みとともに言い放ち、自らシェラを客間へと案内する。王太子妃の部屋ではなく、客間に当たる場所に通されるとは――あまり、信用されてはいないのだろうか。侍女の態度から、こちらの身元は露呈してしまっているであろうに、それでもなお、警戒を怠らぬとは。クラウディアには、自分は神聖皇帝の妃ではなく、カルノリアの娘として扱われているのかもしれない。もしくは、あの一瞬で、取るに足りぬ人物と看破されてしまったのか。
「失礼いたします」
 長椅子(ソファ)に腰を下ろし、永遠とも思える時間を天井を見つめながら過ごしていたシェラの元に、茶が運ばれてきた。侍女ではなく、小姓が盆を手にしずしずと入室してくる。ありがとう――礼を言いかけたシェラは、先程とはまた異なる驚きに胸を突かれた。
「巫女姫?」
 シェラの前に碗を置いた小姓、黒髪を短く切り、染めてはいるものの。顔立ちと、あの黄昏の瞳は変えることはできない。神聖帝国の柱、真の主である巫女姫、そのひとが何故ここにいるのだとシェラは我が目を疑った。
「久しぶり」
 巫女姫は無邪気にシェラに抱きついてくる。その華奢で柔らかな身体を戸惑いながら抱きしめた彼女は、はっとして周囲を見回した。他に人の気配はないか、確認を怠った。しかも、容易に人を傍に近付けてしまった――武官としてはあるまじき行為である。自身の迂闊さを恥じた彼女は唇を噛みしめた。

「よろしくて?」

 王太子妃その人が現れたのは、二人が再会の喜びを分かち合い、幾分落ち着いたころだった。そういうところまで間合いを見計らっているのかと思うと、シェラは背筋が薄ら寒くなった。先程の動きやすそうな衣裳とは異なる、離宮における略装に着替えたクラウディアは、先程とはまた雰囲気が変わっていた。何が変わっているのか、具体的には判らない。けれども、何処かが微妙に違う。シェラは傍らに控えるイリアを気遣いつつも、クラウディアから目を離せないでいた。
「ああ、あなたも同席していらしたら? 巫女姫。同じ、アグネイヤ四世の妃同士でしょう?」
 言われて、イリアの睫毛が揺れた。どこかしら不安げに揺れる双眸で、彼女はクラウディアを見つめている。シェラは自身の隣にイリアを腰掛けさせると、徐に立ち上がり、クラウディアの足元に跪いた。
 騎士の略式の挨拶を述べると、クラウディアは当然のように右手を差し出す。白く滑らかな指先に唇を落とすと、微かな笑い声が上から降って来た。
「逃れ者は、北へと集う」
 予言の一節か。王太子妃の唇から零れた言葉に、シェラは眼を細めた。
「巫女姫の予言通りね。役者が揃ってきた、ということは」
 微笑が、苦笑に変わっていく。その気配を頭上に感じて、シェラの身が震えた。怖い――また、クラウディアに対して恐怖を覚えた。クラウディアの存在は、根源的な恐怖を煽る。
(違う)
 アグネイヤ四世とは違う。似て非なる、魂の持主だ。
 アグネイヤであれば、二つ返事でソフィア皇女の窮状を救ってくれようものを、この王太子妃はなんとするだろう。そもそも、彼女にソフィアのことを伝えて良いものか、否か。シェラの想いは根底から揺れ始める。
「なにか、大切な用があるのでしょう? シェルマリヤ姫。我が片翼の妃の頼みなれば、無碍にすることはなくてよ?」
 クラウディアの笑みが、遠い。シェラは心のざわめきを押さえながらも、覚悟を決めて異国の王太子妃を振り仰いだ。


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