AgneiyaIV
第三章 深淵の鴉 
6.皇女(5)


 年が明けてからも、彼女の生活は変わらなかった。日がな一日塔に閉じ込められ、生きながら埋葬されたような感覚を味わい、夜は夜で夜半過ぎに尋ねてくる義兄とその愛妾に身体を蹂躙される。彼らの欲望は果てることはない。毎晩必ず『そのとき』はやって来るのだ。
「今回は、趣向を変えてみた」
 まるで、宴の演出でも考えるように、義兄は言い。南方の商人から購入したという媚薬を彼女の身体に塗布しては、その反応を楽しみながら目の前で愛妾と交わり――果ては、二人がかりで彼女を犯すのだ。

「女性同士も、楽しいものでしてよ?」

 アリチェと名乗る義兄の愛妾の愛撫は、最高だった。触れられるたびに肌が蕩けていく感覚は、何にも勝る快楽だった。アリチェの指先、掌、唇、舌――全てが、彼女を高みへと導く担い手となっている。義兄に抱かれても昇り詰めることはないが、アリチェに触れられたときは必ず、絶頂を感じた。
 自分は、女性が好きなのだろうか。女性と相性が良いのかもしれない。
 そんなことを考えて。元カルノリア皇女は静かに笑った。肉体の相性を思うようになるなど、病んできた証拠だった。後どれほど、正気を保つことができるか――最後の最後まで、誇りを守りたかったが、どうやらそれは無理らしいと気付いたとき。これ以上、獣の世界に落ちる前に、無用な誇りは捨ててしまえと。開き直ることができた。が、実際にそれを行動に移すまで、どれほどの時間が必要だったか。荒れ狂う感情を抑え、宥めて、漸く彼女は自ら賭けに出た。


 その日は、珍しく義兄一人の訪れだった。彼は取り立てて妙な趣向に走ることもなく、ごく普通に、彼女を抱いた。そうしていると、まるで夫婦のような錯覚を覚える。自分と義兄は夫婦で、時折愛妾を交えて倒錯的な行為に走る――膿んだ古王国の宮廷ではそのようなことが良く行われていると聞くが、彼女の育ったユリシエル、カルノリアの宮廷はそこまで爛れてはいなかった。無論、それは彼女が知らぬだけであって、実際は何が行われていたか判らない。母后の元に侍る美貌の神官、彼と母后とのよからぬ噂を耳にすることもあったが、皇女たちは挙ってそれを否定した。
「……」
 彼女は、傍らに身を横たえる義兄に目を向けた。半分だけ血がつながっているせいか、亡き夫の面影が其処此処に見て取れる。切れ長の目も、筋の通った鼻も、懐かしい彼によく似ていた。
 本当は、この青年の花嫁になるために、セグにやって来たのだ。だが、国境まで迎えに来た彼の弟――第二公子と出会ったとき、運命は変わった。一目惚れ等という単純なものではない。だが、初めて視線を交わした刹那、心がときめいたことは確かだった。国境からセグディアへと向かう道すがら、二人は親睦を深めていった。それは、恋と呼ぶほど激しいものでも、愛と呼ぶほど深いものでもなく。ただ幼い憧れに過ぎなかった。
 公都で対面した未来の花婿に対して、彼女は良い印象を持たなかったことを覚えている。彼の花嫁になるのであれば、このまま国へと戻り、巫女として神殿に上がりたい。そんな風に思った。けれども、これは国と国との結びつきである。我儘は許されない。彼女は第二公子に心を残しながらも、第一公子との婚姻を受け入れることにしたのだ。
 が。

 もしもあのとき、第二公子の求婚を受け入れなければ。
 予定通り第一公子に嫁いでいたならば。

 夫は――第二公子は、若くして倒れずに済んだのかもしれない。そう思うと、自身の軽率な行動が悔やまれてならなかった。王族の婚姻に、愛や恋は必要ない。幼い頃からそう教えられて育ってきたはずなのに、それを破った自分が悪いのだ。自分の心の正直に生きた結果がこれとは、過去を振り返ると苦笑を通り越して自嘲が漏れる。どこまでも愚かなのだ、自分は。全ての非は自分にあるのに、夫の仇を討とうなどおこがまし過ぎる。だから、天はシェリルまでも彼女から奪ったのだ。
「義兄上」
 そっと傍らの男に呼び掛ける。眠っていたのか、と思っていたが。彼はすぐに目を開いた。暗がりなので、瞳の奥に揺らめく色を見ることはできない。
 彼女は、構わず続けた。
「いつ、わたくしを正式に妃にしてくださるのですか」
 世間話のように、さりげなく。尋ねてみる。義兄は驚く風でもなく。ああ、と面倒くさそうに頷いた。
「父の喪が明けてから、だな」
 既に没しているであろうと噂のあったセグ大公、彼の死亡が公にされたのは、つい先日であった。大公の地位は第一公子である義兄が継ぎ、大公妃は戴冠式を待たずして実家へと追いやられた。息子を亡くし今また夫を亡くした大公妃は、昔ほどの気概もなく。追われるがまま、公都を後にしたのである。
 名実ともにセグの支配者となった義兄は次なる野望へ向けて、必ずやカルノリア皇女を妃に迎えるはずだった。が、いまだ彼女の扱いは囚われの姫君である。格子つきの塔に幽閉され、毎夜の如く新大公とその愛妾に弄ばれる日々を送る皇女ソフィアは、大公妃としての称号を得てはいない。
 身も心も彼に屈し、妃の称号を得れば、ここから出ることができる。セグの情勢も、中央諸国の動きも、把握することもできる。
 シェラと再会し、幾分心を落ち着けたソフィアは、冷静に判断を下した。抵抗するばかりが能ではない。従ったふりをして、相手の隙を突く。だが、その計画を実行するには、彼女は優し過ぎた。清らか過ぎた。既に穢されてしまった身と言えど、いまだ心は亡き夫の元にある。自ら進んで、その夫の仇である男に身体を開くことはできない。
 葛藤はあったが、徐々にソフィアは義兄の愛撫に反応するようになっていった。自らを抱くのが、義兄ではなく夫であると。頭の中で挿げ替えを行い、彼を愛するように義兄を愛した。応えた。
 その甲斐あってか、最近の義兄はどことなく穏やかだった。乱暴にソフィアを扱うこともない。アリチェに対するように優しく、濃厚な愛撫を彼女に施すのだ。
 そして。ソフィアも芝居ではなく、その愛撫に感じ始めていた。
「――神殿に、婚姻の届は出してある。式は、いずれ執り行えばいいだろう」
 義兄は半身を起し、ソフィアの顔を覗き込んだ。
「それに、今更形式的な届など。必要ないだろう?」
 お前は既に俺のものだと言わんばかりの傲慢な言葉に、ソフィアは吐き気を催した。身体さえ奪ってしまえば、女性は簡単に靡くと思っているのだろうか。大切な人々を無残に殺害された怒りが、恨みが、快楽で消えるとでも思っているのか。本気でそんな風に考えているのだとしたら、許せない。
(公子様……シェリル……)
 彼らの仇は、この手で取る。たとえ、刺し違えてでも。
 それがどれほど愚かしくおこがましい妄想であったとしても――自分は命を賭して目的を遂げる。遂げねば、ならない。



 侍女たちの間に、この役目がもうすぐ終わるとの噂が広がったのは、それから数日後であった。塔の姫君を開放する、宮廷から通達が流れたのだ。これでやっと、華やかな場所に戻れると、詰め所にいた侍女たちは安堵の息を漏らしていた。
「――ねえさまが、賭けに出たのでしょう」
 明け方、ことを終えて帰還した新大公とその愛妾を見送ったあと、シェラがやって来た。彼女は相変わらずの惨状に幾分視線を尖らせながらも、妙に晴れ晴れとした従姉の顔を見て軽く溜息をつく。さすがに、彼女は察していたのだろう。ソフィアが動いたことを。
 ソフィアは先日早く妃になりたいと申し出た旨を、従妹に伝えた。シェラは小さく頷き、
「ねえさまが、それで良いのであれば」
 特に不平は漏らさなかった。こういう、感情抜きの判断ができるところが、シェラの長所でありソフィアが羨ましく思う部分であった。シェラがソフィアの立場にあれば、最初から縁談を断るか、もしくは黙って第一公子に嫁いでいただろう。そうして、内部からセグを切り崩す。そんなことも、平気でやってのけてしまうかもしれない。父帝の胸の内は不明だが、シェラの父である第一将軍は、ソフィアの輿入れをセグ併合の布石と考えていた節がある。故に、ソフィアが後継ではない第二公子に嫁いでしまったことに大いに落胆していた。切り札として、自身の娘を第一公子に、とも計画した模様だが、それでは主君の娘たる皇女が、自身の娘の臣下となってしまう――その矛盾に苦しみ、結局花嫁候補として一時は名を上げていた次女シェルニアータをダルシアのルカンド伯の長男へと嫁がせた。
 ルカンド伯も野望多き人物である。カルノリアとの縁を持ち、いずれはダルシアを席巻するつもりであったに違いない。だが、その野望は阻まれた。暗殺という悲劇によって。その、暗殺を依頼した人物を、期せずしてソフィアは知ってしまった。
 シェラの語る処によれば、実行犯であるカルノリア士官たちと神聖皇帝が遭遇しているという。自身の他にもあの件にかかわりのある人物がいる、そう思うと僅かに心が軽くなる。なんとかして、神聖皇帝とも連絡を取りたいと思っているが、不幸にして『彼』は、処刑という形で命を絶たれた。かのひとが存命であれば、どれほど心強かったか。ソフィアは口惜しさに身悶えた。
 しかし。まだ、望みが完全に断たれたわけではない。
「シェラ」
 従妹を呼び、ソフィアは問うた。フィラティノアに行ってはもらえぬか、と。
「王太子妃殿下に、繋ぎをつけるおつもりですか?」
 これにはシェラも渋る様子を見せる。神聖皇帝の双子の姉妹、クラウディア。アレクシアと友人でもある彼女であれば、力になってくれるかもしれない。幸いなことに、セグディアとフィラティノア領ザインとは近い距離にある。そこから街道に出てオリアに入れば、上手く王太子妃と接触できるかもしれない。
 カルノリアに向かうよりも、フィラティノアへと発ったほうが、道のりは近く安全だった。エリシュと名乗るシェラが実はカルノリア第一将軍の息女にしてソフィアの従妹であることを知られていない今、彼女が宿下がりと称して宮廷を出ても誰も不審に思わぬはず。何より、当のソフィアが大人しく新大公に従っているのである。彼らも油断しているだろう。
 何も知らぬであろうフィラティノア王太子妃を巻き込むのは心が痛いが、あの陰謀が表面化すれば、フィラティノアにも危害は及ぶ。先に全てを知っておいたほうが、対処のしようもあるのではないか。そう、自身に言い聞かせ、ソフィアは新大公らの目を盗んで少しずつ書きためた書簡をシェラに渡した。
「これを」
 頼みます、と言いかけて。ソフィアは唇を噛んだ。シェラの顔に、シェリルの面影が重なる。あのときもこうして、彼女は冥府への手形となる書簡をシェリルに預けたのだ。ソフィアの窮状を訴える手紙を手にしたばかりに、心優しい侍女は命を摘み取られた。よもや、シェラもシェリルの二の舞になるのではないかと、暗い影が心を満たす。
「大丈夫ですよ」
 心を見透かしたように、シェラは笑った。シェラはシェリルとは異なり、腕に覚えがある。刺客ごときに討たれるほど弱くはない。カルノリアでも、彼女に勝る剣士は数えるほどしか存在しないのだ。
「シェラ」
 どうか無事で、と、願わずにはいられない。


 エリシュなる侍女が宮廷を辞したのは、新大公の妃としてソフィアが塔から解放された翌日のことだった。変わり者の新参侍女が一人消えたところで、気にするものは誰もいない。代わりの侍女を、と、すぐに招集がかかる。これ幸いと娘を宮廷に入れたがる多くの貴族が、挙って大公妃の元へと嘆願の手紙を送って来た。それぞれに娘の自慢を書き添えて、如何に彼女らが教養あふれているか、妃の役に立つか。大袈裟なまでに書き綴られたそれらに辟易しながらも目を通していたソフィアは、手紙を運んでくる小間使いがじっと大きな青灰色の瞳でこちらを見ていることに気付き、小首を傾げた。
 塔から出て、久方ぶりの自由を満喫していたせいもあってか、幾分気が緩んでいたらしい。しどけなく長椅子に凭れて、頬杖を付きながら手紙を読んでいる姿は、若い小間使いの目にははしたなく映ったことだろう。ソフィアは顔を赤らめ、姿勢をただした。それから、照れ隠しで
「香茶を、淹れてくださるかしら?」
 亜麻色の髪の小間使いに命ずる。彼女は小気味よい返事をして、すぐさま茶の用意をしてきた。芳醇な香りの飲み物が、ソフィアの前に置かれる。彼女は礼を述べ、熱い液体を静かに啜った。甘い――えも言われぬ芳香が鼻孔を擽りながら喉に流れ込む。これは、何の香りだろう、思って僅かに睫毛を揺らせば。
「ウィレアです、妃殿下」
 小間使いがにっこり笑う。
「ああ、そう。とても良い香りね」
 心の声を読み取られたのかと驚きながらも、ソフィアは笑顔で応じた。下がってよい、というまで傍にいるつもりか、亜麻色の髪の少女は、若干の距離を置いて壁を背に佇んでいる。ソフィアは香茶を楽しみながらも、時折彼女の様子を窺った。
 もしや、新大公の手の者ではないか。
 自身の動向を、密かに探っていのではないか――考えて、かぶりを振る。だとしたら、動きが判りやす過ぎる。単に粗忽な娘なだけだろう。
 思い直し、彼女は残りの香茶を喉に流し込んだ。
「……!?」
 と。不意に、視界が揺れた。眩暈か、と、額に手を当てようとするが、瞬く間にその手の輪郭も歪み、視野が狭くなる。周囲に、闇が満ちる。力を失った手から碗が転がり落ち、毛足の長い絨毯の中にすっぽりと収まった。
「あ……う……」
 声も出ない。長椅子に倒れこむソフィアの傍に、足音も立てずに近付いてきたのは、件の小間使いだった。彼女は
「いやー、すみませんねー」
 市井の商人の如く砕けた口調でソフィアに呼び掛け、
「ちょっと、お聞きしたいことがあるのですよ、皇女様」
 囁きにも似た密やかな声を、その耳朶に落としたのである。
「話して戴けませんか? あなたがご存じのことを、全部」



 彼がセグを訪れたのは、決して偶然ではない。いつもの如く気まぐれからふらりと立ち寄ったというわけではなく、彼にしては珍しく目的を持ってかの国に足を踏み入れたのだ。
 彼の目的とはすなわち、前大公の第二公子の寡婦となった夫人。カルノリア皇女ソフィアである。得た情報によれば、夫の死後気がふれたとかで長いこと幽閉状態にあったという。それはあくまでも表向きの話で、実際は新大公たる第一公子の玩具として――また、未来の妃として。調教されていたにすぎない。
 彼女が無事に公宮へと戻れたのは、正気に戻ったからではなく、逆に正気を失ったか、完全に新大公の傀儡とされたか、もしくは……あらゆる可能性が考えられるが、ともあれ一度は鴉の娘に目通りせねばならぬことを覚悟して、彼は師の作品を手に、縁あるセグの下級騎士の屋敷へと出向いたのだ。そこでかの騎士の娘になりかわり、城へと出仕した。元々は下働きとしての奉公であったが、新大公妃の突然の解放のためか人手が不足しており、彼はまんまと妃の傍に上がれることになった。
 無論、その間に幾人かの人物の口を塞ぐこともやってのけたが。


「それにしても、簡単にここまで来ちゃいましたねえ」
 ねえ、若様? と、背後を振り返れば。渋い顔をした侍女が次の間から現れた。女性にしては幾分背が高く、精悍な顔立ちである。侍女よりも騎士を務めたほうが良いのではないか、と思われるほど隙のない身のこなしをするその女性は、セグには珍しい黒髪をかきあげて、小さく息を漏らした。視線の先には、ぐったりと倒れ伏すソフィア皇女の姿がある。
「だからって、こんなに強引なことをすることはないだろう」
 咎めるように小間使いを睨みつけるが、その視線にはいまひとつ迫力がない。仰向けに長椅子にくずおれた皇女、その露わになった白い喉に心を奪われているせいか。美女と噂の高い皇女であったが、ここまで美しいとは思いもよらなかった。真昼の陽光を思わせる豊かな金髪、陶器の如く白く滑らかな肌、精巧な女神像を想起させる恐ろしいまでに整った顔立ち。
「これが本当の深窓のお姫様なんですよねえ。陛下や皇女殿下は、規格外ってとこですかぁ」
 けけけと笑う小間使いを手の甲で叩き、侍女のなりをしたリナレスは、ぼんやりと虚空を見つめる緑色の双眸を覗き込む。
「エーディト」
 名を呼ばれた小間使いは、
「なんでしょう、若様」
 いそいそとこちらに近寄って来る。彼もまた、ソフィアの目を見つめて
「あー、薬、効きすぎちゃいましたね」
 自身の失態に気付いた。
 等に幽閉されている間、ソフィアは薬の類を盛られ続けていたであろうと踏んで、少し薬の量を増やしてしまった。媚薬に慣れた身体は、他の薬の効果を薄めるはずであったが、ソフィアの体質なのかそれとも、エーディトの判断が誤っていたのか。
「でもまあ、これで何を聞いても正気にかえったときには忘れていますよ。夢を見た、ってことで」
「いい加減だな」
「どちらにしろ、面が割れた時点でわたしら命はないんですから。やることは大胆にしておきましょうよ。――ああ、妃殿下、わたしの声は聞こえますか?」
 エーディトは、ソフィアの耳元に囁く。皇女の睫毛が僅かに揺れた。聞こえている、と。その合図だった。
「これに、見覚えはありますよね?」
 懐から取り出したのは、カルノリア士官の肩章。女性近衛騎士であるシェルマリヤが持っていたものだ。円の中で翼を広げた鴉、その禍々しい姿にソフィアは一瞬目を見開く。感覚が戻ってきたのか、瞳に生気が蘇っている。
「それから、これ」
 神聖帝国の紋章を刻んだ指輪を目の前に突き出せば、ソフィアの瞳に動揺が走った。
「これは、ご存知はないと思いますが、われらの主人神聖皇帝アグネイヤ四世から下賜されたものです」
 嘘である。
 エーディトがアグネイヤを装った際、彼女の衣裳棚から拝借したものだ。神聖皇帝の所持品には全て帝国の紋章が刻まれている。そのうちの一つに過ぎぬものだが、この効果は絶大だった。神聖皇帝の名と、その紋章が刻まれた指輪、果ては従妹であるシェルマリヤの肩章を見せられたソフィアは、ただ呆然とするばかりである。薬によって身体の自由は奪われていても、思考のほうはしっかりしているはずだとこの時点で二人は確信した。
「もうお分かりかと存じますが、わたくしどもは神聖皇帝アグネイヤ四世の臣下でございます。我が主君の命により、ある事件を探索しておりました」
 切り出したのは、リナレスだった。侍女のなりをしているのが少年だと気付いて、ソフィアに僅かな動揺が走る。だが、彼女の足元に跪きその衣裳(ドレス)の裾に口付ける優雅な姿を目にして、幾分落ち着いたのか。エーディトに支えられながら身を起こし、静かに彼を見下ろしていた。
「アヤルカスに併合される寸前、我らは追手を逃れて国を出ました。過日、大公妃殿下の従妹にあたられ、また、我が主君の妃でもあるシェルマリヤ姫と思わぬ場所で再会を果たし、妃殿下のことを伺ったのです」
 これは、半分は嘘であり、半分は事実であった。
 彼らが逃亡中シェルマリヤと遭遇したのは、全くの偶然であった。セグからフィラティノアへと向かうシェルマリヤと、アダルバードを経由してフィラティノアからセグへと入国を果たしたリナレスとエーディト。彼らは、何の運命の悪戯か。同じ宿に投宿していたのだ。

 ――シェルマリヤ様?

 厩に愛馬の手入れに出向いたリナレスは、そこで思わぬ人物の姿を見かけ、知らず声を上げていた。シェルマリヤのほうも、アグネイヤの元従者にして宰相の側近たるリナレスを覚えていたらしく。懐かしそうに彼に笑いかけたのだ。リナレスがそこで皇帝と巫女姫の無事をシェルマリヤに伝えると、彼女は複雑に口元を歪めながらも

 ――そうか。

 小さく頷いていた。
 鴉の血をひく姫君であっても、巫女姫が全幅の信頼を寄せる人物である。二人の存命を知っても、暴挙に出ることはないだろう。そのリナレスの判断は正しかったに違いない。シェルマリヤもまた、己が皇帝より依頼された件を彼に告げ、

 ――私が不在の間、従姉のことを頼んでもよいだろうか?

 遠慮がちに依頼をしてきたのだ。そこで初めて、リナレスは知った。カルノリアの第三皇女、彼女が今回の陰謀の鍵を握る人物なのだと。
 元アルメニア皇女と元カルノリア皇女。二人の皇女が、『事件』の中心にある。アグネイヤは目撃者であり、ソフィアは証人であった。皇女という身分が、陰謀から二人の命を守っている――リナレスは、苦い思いを噛みしめる。
 主君の側室との約束を守るべく、彼はセグ公宮へと潜入を果たし、同行していたエーディトもまた、どんな手管を用いたのか。例によって女装して城へと上がったのだ。リナレスまで侍女の姿をさせられたのには辟易したが、このほうが大公妃の傍近くまで行くことができ、非常に都合が良かった。
 暗殺、謀殺、姦計渦巻く宮廷は、警備が緩い。みながそれぞれの手駒を用いて、対象者の命を狙っているからだ。警備を厳しくしてしまえば、偽りの素性を持つ手駒を潜入させにくくなる。
 それが、他の二心を持つ輩にとっても好都合であるのは、言わずもがなだった。
 それにしても。エーディトの手際の良さには、驚いた。彼の手引きがなければ、リナレスといえどこれほど簡単に大公妃の元にやって来ることは出来なかっただろう。密偵としての才覚は、自身よりもエーディトのほうが上なのではないかと、若干心を燻らせるリナレスであったが。

「――シェリル嬢のことは、お悔やみ申し上げます」

 まず、ソフィア気に入りの侍女の死を悼むことから始めれば、案の定皇女を取り巻く気配から最後の険が取れた。自身のために命を落とした娘のことを思い出したのか、皇女の目が僅かに潤む。春の若草を思わせる鮮やかな緑の瞳が涙に滲む様は、リナレスの心を震わせた。彼女の力になりたい、偽りではなくそんな気持ちが湧き上がって来る。彼は唇を湿らせ、言葉を続けた。
 亡きシェリルのためにも、謀殺された第二公子のためにも。
「此度の陰謀の首謀者、及び関わっている者の名前、そして、妃殿下がご存じのことを全て語ってはいただけませんでしょうか」
 穏やかにソフィアの言葉を促す。
 一瞬、瞳の奥に濃い影が過ぎった。俄かにリナレスたちを信頼することは出来ないのだろう。シェルマリヤの使いという言葉も、神聖皇帝の縁者という申請も、まやかしであると多少なりとも疑っているのかもしれない。否、それよりも。彼女自身が知りえる陰謀の恐ろしさに、身が竦んでしまっているのではないか。
「わたくしは……」
 震える唇で必死に言葉を紡ごうとする皇女、どうやら理由は後者のほうであったらしい。話せば楽になりますよ、と、エーディトが優しく背を押せば、呂律の回らぬ舌で皇女は懸命にある人物の名を告げた。
「わたくしは、全てを存じているわけではありません。密約を知ってしまっただけなのです」
 たどたどしい言葉が、真実を告げる。
「ダルシアの、ティシアノ・フェレオ殿。かのひとは、レイファン国王の暗殺と国家権力の奪取を謀っています。それに協力しているのは、セグの新大公。同じく野望を抱くルカンド伯が横槍を入れて、カルノリアと縁を持ちながらダルシアを手中に収めんとしていました」
 南の大国ダルシア、商業国家として巨万の富を持つ国の利権を得るべく、ルカンド伯とティシアノ・フェレオがそれぞれの後ろ盾を探していたのだ。ティシアノ・フェレオにはセグが、ルカンド伯にはカルノリアの第一将軍が。それぞれ支援をしていた。凍らぬ港を求めるカルノリアと、カルノリア・フィラティノア・神聖帝国といった大国の狭間にあるセグ、それぞれにダルシアの利権は魅力的であったのだ。
 同時に、帝国以前の血を持つ名門レンティルグ。毒蜘蛛と称される辺境候が、古の夢を携えて台頭してきた。まずはフィラティノアの王冠を得、そこを皮切りにアダルバード、エランヴィアを制圧していく腹積もりで、タティアン大公と密約を交わしていた。その密約の条件に、ことが成就した暁にはセグをタティアン領土として認知し、タティアン大公を神聖皇帝と認めると。
 二つの陰謀が絡まった結果なのだ。アグネイヤが偶然にも旅の途中で、ルカンド伯暗殺現場に遭遇してしまったのは。
 リナレスは眼を伏せた。
 帝室に生まれついたからには、どのような魔手に絡め取られても否やを唱えることはできない。けれども。
(陛下)
 国を追われ、その存在記録すら抹消されてしまった皇帝。彼女は、帝位に返り咲くことを本心からは望んでいないだろう。人のために、国のために、そうあらねばならないのだと、自身を無理に納得させて、帝冠を戴いたのだ。ここで、中央諸国を取り巻く陰謀を暴き、それを逆手にとってアヤルカスからミアルシァの勢力を一掃し、神聖帝国を再興したとしても。それは、アグネイヤのためにはならない。彼女はこのまま、市井に埋もれることを本当は望んでいるに違いないのだから。


 黙り込むリナレスを傍らで見つめていたエーディトは、微かな笑みを浮かべた。苦笑とも嘲りともつかぬそれに、当の本人は気付かず。世間に疎そうな深窓の姫君のほうが不審そうにエーディトを見ていた。そんな彼女にはおどけた表情を見せて、エーディトはふと窓に目を向ける。
 リナレスは、アグネイヤ四世のために、彼女が国を取り戻す切り札が必要だと言った。それが、ソフィア皇女であり、彼女の知る陰謀の内容である、とも。しかし、知ったところで、暴いたところでリナレスに何ができよう。彼にはもう後ろ盾はないのだ。皇太后も宰相も、命こそ守られてはいるが、幽閉同然の扱いを受けている。つい先日までのソフィアと同じ状況だ。使えぬ権力者など、当てにしても仕方がない。
 皇帝が片翼を頼ってフィラティノアに逃亡した、そう装ったあとは、カルノリアに向かって皇帝の安否を確かめる――その計画は、途中シェルマリアと出会ったことで脆くも崩れた。あっさりとシェルマリヤの頼みを引き受けたリナレスに、エーディトは違和感を覚えたが
(陛下のため、だったら判りますかねえ)
 今のやり取りを耳にして、それを確信した。
 甘い。どこまでも甘い。
 彼はいまだぼんやりと虚空を見つめる鴉の娘に視線を戻し、鼻を鳴らす。これが、仇の娘――思ったところで、何をするわけでもない。その気になれば、カルノリアの皇帝夫妻からその子女に至るまで皆殺しにすることもできる。いままでもそれが可能だったのに、実行しなかったのはなぜか。
 同じ思いを味わわせたかったからだ。
 落日の、あの屈辱を。
 二百年たっても忘れられない、血に深く刻まれたあの記憶。
 忠義の家臣を逆賊と罵り、正義の名のもとに圧倒的武力で罪なき人々を踏みにじった、鴉。実際にその子孫を目の当たりにすれば、怒りもそれなりに湧いてくる。過去にあれだけのことをして置いて、今は正義面をしている。姦計に心を痛め、正義を貫くような顔をしている。
 この皇女がどれほどの辛酸をなめたかは知らぬが、それは、報いだ。報いの一つだ。
「そろそろ、潮時ですかねえ」
 ぽつりと呟けば、リナレスがこちらを振り仰ぐ。同時に、ソフィアも。二人の視線を受けて、エーディトは小さく笑った。
「こちらの話ですよ」
 眼は、鋭く鴉の娘を射抜いたまま。彼は、その先にある巨大な鴉の帝国を見据えていた。


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