AgneiyaIV
第三章 深淵の鴉 
6.皇女(1)


 払暁――その言葉の忌々しさに、彼女は知らず眉をひそめた。白々と明けゆく空とは裏腹に、心には重く黒い雲が立ち込めている。足音を忍ばせ、静かに階段を上がったところで、
「待たれよ」
 衛兵に声をかけられた。ここから先は、なんびとたりとも立ち入ることは許されぬ。言葉にはせずとも、こちらに向けられる槍の穂先が語っている。そうでなくとも、皇宮の最奥にあるこの塔は、余人は立ち入れぬ場所である。各国の王室には必ず存在する、高貴なる血を持つ罪びとが幽閉される場所。公然の秘密となっているその禁域に、現在留め置かれているのは皇帝アグネイヤ四世、その人であった。日替わりに世話をする侍女一人を除き、ほかは誰も訪れてはならぬと言い渡されている。皇帝処刑のその日まで。
「国王陛下より、許可を戴いて参りました」
 言って彼女は懐から書状を取りだす。衛兵の一人がそれを受け取り、中を開いた。今一人の衛兵も書状に気を取られ、一瞬そちらに目を向ける。その、僅かな時間で充分だった。
 彼女の手がするりと動き、手にしていた瓶を床に落とす。と、そこからとろりとした液体が零れだした。えも言われぬ芳香を放つそれを
「ああ、大変」
 取り乱した彼女が途方に暮れた目で見つめるのを気の毒に思ったか、今一人の衛兵が瓶を拾おうと手を伸ばす。が。ふいにくたりとその身体がくずおれた。
「貴様」
 白紙の書状に目を剥いた衛兵が、同僚の異変に気付き剣に手をかける。しかしその前に彼女は衛兵の喉を短剣で抉っていた。短い呻き声とともに、彼は同僚の上に倒れこむ。その屍を踏み越えて、彼女は顔色も変えず奥の扉を開いた。鍵がかかっていない、その事実に違和感を覚えた、――そのときに引き返せばよかったのかもしれない。
「こちらには、皇帝陛下も姫さまもいらっしゃいません」
 震える声に、彼女は足を止めた。部屋の中に居たのは、中年の婦人である。彼女もよく見知った女性――キアラ公女ルクレツィアの侍女アガタだった。
「カイラ殿」
 呼びかけに、彼女――カイラは、己の愚を悟る。はめられた、と思ったときはもう遅い。背後の扉は閉められ、両脇を二人の兵士に取り押さえられていた。
「なんだ、君か」
 がっかりだ、と、けだるげに呟きながら現れたのは、ジェルファ。アヤルカスの若き国王。その柔和な美貌を前に、カイラは口元を歪める。
「陛下自ら待ち伏せとは。私はお呼びではないということですわね」
 ジェルファが待っていたのは、真実のアグネイヤ四世。自らの身代わりとなって処刑される哀れな人物を助け出す、ちゃちな正義感を持って現れた彼女をここで捕らえ、辱めるつもりであったのだろう、この国王は。あの皇女ならばやりかねない。どれだけ危険を冒しても、自らの命が脅かされることになっても、自分の代わりに誰かを犠牲にすることを厭う。それが、偽善ではなく本心からのものであるから。余計にカイラの神経を逆撫でする。アグネイヤという少女そのものの存在が、今では疎ましい。その彼女が処刑されると聞いたとき、それほど嬉しかったか。だが、どうせならば自身のこの手で始末をつけたい、そう思って舞い戻った紫芳宮において。彼女は事実を知ったのだ。
 処刑されるのは、アグネイヤ四世ではなく。身代わりとなった彼女の妃ルクレツィアなのだと。
 それからカイラはルクレツィアが幽閉されている場所を突き止め、日々彼女を救い出そうと試みていた。だが、警護の壁がは思ったよりも厚く。なかなか思うように事が進まぬ。ついに、処刑当日の朝となった今日、なぜか件の場所の警備が薄くなった。それも罠かと警戒してはいたのだが、姫君を救う、その想いに逸る心を押さえることはできなかった。真実のアグネイヤ四世であるならばまだしも、囚われているのは身代わりである。事実を知るものであれば、間違っても救出になど来るわけがない。そう考えられたのことだ、と勝手に判断をしたのが誤りのもとであった。
 とはいえ。ジェルファの目的がアグネイヤ四世であるならば、自分には用はないだろう。カイラがそう言うと、ジェルファも当然といった面持ちで頷いた。
「サリカは、僕が思っていたような娘ではなかったらしい。意外にあれで、強かなところがあったのかな」
 やっぱり、マリサの双子の姉妹だ――彼はさも可笑しそうにくすくすと笑いだす。それは、捉えるべき獲物を見誤った肉食獣の、負け惜しみとも思える笑いであった。彼はカイラを一瞥すると、兵士に向かって彼女を解放するよう命を下す。カイラは自由になった両手を大袈裟に擦りながらも、とりあえず、といった風体でジェルファの前に膝を折った。彼女の主人はミアルシァの国王であり、ジェルファではない。主以外に平伏すのはドゥランディアの誇りが許さぬ。なれど、ミアルシァに繋がる彼に対しては粗雑な扱いをすることもできず――逡巡ののちの苦肉の策である。彼女の心中を感じ取ったか、ジェルファの笑いが変わった。どこかしら馬鹿にしたような、嘲るような笑みが形良い口元を彩る。
 いかに現ミアルシァ国王の甥とはいえ、彼の一存でカイラを処分することは出来ぬだろう。高を括ってはいたが、心の隅には幾許かの不安があった。ここは、ミアルシァではない。アヤルカスだ。しかも、その王宮の奥深く。この場でカイラが命を奪われても、本国にその事実は伝わらない。文字通り、闇に葬られる確率も無きにしも非ずなのだ。ジェルファ自身が、どれほどカイラの重要性を理解しているかも今一つ不明である。ことによれば、そのあたりの一介の暗殺者と同列に見ているのかもしれぬ。ルクレツィアが、いまだカイラの立場を正確に理解していないのと同様に。
「サリカが来ないのだから、仕方がないね」
 今日は風が強い――それに等しい、軽い調子でジェルファは呟く。仕方がない、とは。
「陛下」
 それは、間違いなく身代わりの処刑を意味している。身代わりの、ルクレツィアの処刑を。
「陛下、ルクレツィア様はいずこに? あの方を神聖皇帝の身代わりとするのは、おやめください」
 にじり寄るカイラを、ジェルファは物珍しげに見下ろす。ドゥランディアの獣にも、人の心があったのか、そんなどこかしら小馬鹿にした色が、彼の双眸に浮かんでいた。
「陛下、わたくしからもお願いいたします。どうぞ、姫さまを。姫さまを、お助けください」
 縋りつかんばかりの勢いで、アガタがジェルファに手を差し伸べる。迫りくる二人の女性の迫力にも動じず、若き国王は
「ふうん?」
 気のなさそうに小首を傾げた。
 彼は何を考えているのだろう。心が読めない。カイラの心に焦りが生まれる。ともすれば、少年一人房術で落とせぬことはない。異性などろくに知らぬであろう童貞に等しい少年であれば、簡単に落とすこともできる。それには、アガタと衛兵が邪魔だった。カイラは
「陛下。私の話をお聞きください。――その、できますれば、二人きりで」
 暗に人払いを要求するも、見かけによらず狡猾な少年王はその願いを一蹴した。
「ルクレツィアを助けたいの?」
 玩具を取り上げられた子供に尋ねるように。彼は無邪気に問いを投げる。アガタは即座に頷いた。カイラも一瞬遅れて「はい」と答える。
「そう?」
 彼はまた、小首をかしげる。そうしていると、まるで少女のようだ。無垢で残酷な、少女の――。

「じゃあ、ルクレツィアの代わりに、君が死ねる?」

 発せられる言葉は、ある程度予想していたものだった。ここで是と答えれば、彼はどうするのだろう。本当に、ルクレツィアを解放してくれるのか。それとも?
「死ねないよねえ、命は一つしかないもの。誰かにあげるわけにもいかないからねえ」
 まるで独り言の如く、彼は言う。独り言――彼の目には、もう、カイラもアガタも映ってはいない。その視線の先にあるのは、おそらく。
「――代わりは、いないよねえ」
 言葉は、唇の端で消えた。


 神聖皇帝アグネイヤ四世の処刑が執り行われたのは、その日の昼であった。立会者は、アヤルカス国王ただ一人。このときに皇帝として命を終えた者の名は、どの歴史書にも記載されてはいなかった。



 ひとり、星空を見上げる。流れ星はなかった。心も騒ぐことはなく。至って平安であった。
(大丈夫)
 自身に言い聞かせる。クラウディアは、バルコニーの手すりに身を預け、強く眼を閉じた。大丈夫、片翼は死んではいない。生きている、と。片翼の命が奪われれば、相応の衝撃を受けるはずだ。それは、痛みかもしれないし、心のざわめきかもしれない。どのような形かは不明だが、判るのだ。きっと、判るはずだ。
 サリカが、そう言っていたから。

 ――マリサが刺客に斬られたとき、僕も凄い痛みを感じたよ。

 サリカに感じることができて、クラウディアに感じられないことはない。二人は、双子なのだから。
「妃殿下」
 幾分間延びした声が、自分を呼んでいることに気付き、クラウディアは眼を開く。背後の扉が開き、青緑の瞳を持つ侍女が顔を覗かせていた。彼女の手の中で揺れる焔が、その瞳を赤紫に染めている。金褐色に染めた髪も、焔の色に染まって、どこかしら幻想的に見えた。こんな『女性』に誘われれば、男は自然と靡くだろう――場違いなことを考えて、クラウディアはくすりと笑う。同時に、くしゃみを二回。
「おやおや、そんな薄着で外に出るから」
 しょうがないね、と、ぼやきながら。エルナは自身の肩掛けを外し、クラウディアにかける。礼を述べるクラウディアに、聖女の瞳を持つ侍女は、小さく頷いた。
「大丈夫だよ。皇帝陛下は、死んじゃいない」
 なんてことを言ったらダメなんだろうけどね、――彼女は舌を出した。その仕草が女性よりも女性的、否、少女めいて見える。
「ああ、もう、身体完全に冷えちゃってるし。お茶入れたから、飲も。あ、妃殿下は、お茶よりお酒のほうがお好みだろうけどね」
 それもちゃんと用意して置いたと誇らしげに告げる彼女は、クラウディアの手を引き、室内へと連れ戻す。そうして、ゆっくりと窓を閉め。片手を折って空に向けて祈りを捧げた。今年最後の空に向かって、エルナは何を祈ったのだろう。興味はあったが、敢えて尋ねることはしなかった。クラウディアは居間に当たる部屋に用意された席に着き、侍女が注いでくれた茶に口をつける。その視界の隅に映る人影に、彼女は思わず茶器を乱暴に机に置いてしまった。
「ルーラ?」
 王太子の側室が、そこに居た。彼女は、王太子の病気見舞いにとその部屋を訪れていたはずである。出かけたのはつい先程のことであるから、もう戻ってきてしまったのか。あるいは、ディグルに追い返されたのか。
 明日の新年の祝賀会への出席は出来ぬと使いに来たのは、元クラウディアの侍女であった娘・ツィスカであった。彼女はクラウディアが名代として祝賀会へするように、とディグルからの伝言を携えていたのだが。
 クラウディアは、違和感を覚えていた。ツィスカの態度は平素と何ら変わりない、けれども、何かしら隠し事がある。それを見抜いてしまうのは、女の勘なのか。それとも、認めたくはなかったが、夫婦であるからこそわかる、何か。絆のようなものが、自分と夫との間に芽生えてしまっているのかもしれない。ともあれ、その違和感の正体を確かめるべく、彼女はルーラを見舞と称してディグルの許に向かわせたのだ。よもや、愛妾を撥ねつけるほど、ディグルも冷淡ではないだろう――残念ながら、クラウディアのその読みは外れた。
「そう、貴女も会えなかったわけね」
 クラウディアの言葉に、ルーラは申し訳なさそうに眼を伏せる。だが、逆にこれで一つの想像が確信へと変わった。クラウディアは侍女に下がる様に言い、エルナのみを部屋に残した。ルーラを席に招き、既に眠ってしまったリィルを除いて、主だったものたちが全て身近に集まったことを確認すると。
「ディグルは、ここにはいないわね?」
 密やかに、自身の予想を告げた。ルーラの表情は曇り、エルナは「あーあ」とばかりに天を仰ぐ。皆、思うところは同じであったらしい。クラウディアは小さく息をつく。
「いつから失踪しているのかは判らないけれども。ツィスカ一人では、限界があるわ。全く、何故わたしに――いえ、ルーラに、協力を求めなかったのかしらね?」
 つんと唇を尖らせるクラウディア。ルーラは
「妃殿下」
 困惑気味に視線を揺らす。
「あなたも、教えられてはいなかったのでしょう?」
 問いに、ルーラは唇を噛みしめた。それが、答えである。自分には言わずとも、ルーラにはそれなりに相談をしていると思っていた。それが。ルーラにも言えぬことなのか。否、ルーラにだからこそ、言えぬことだったのか。
「わたしに、暇を」
 ルーラの申し出に、クラウディアはかぶりを振った。ディグルの向かった先は、おそらくカルノリア。ルーラが掴んだエリシアの消息を頼りに、彼女に会いに行ったのだろう。あの身体で。
 全くどこまで甘ったれなのだ、母を恋しがるのだ、と。クラウディアは呆れた。男は須らく母親の影から逃れることはできない、妻を求めるのも、母を想うからだ。母と交わる想いで、男は妻を抱く――下世話な話だが、かつて剣の師であるセレスティンより聞いたことを思い出す。
「それよりも……今のままではまずいと思わない? ディグルの不在が、あの毒蜘蛛に知られたら。早速刺客が放たれるわよ」
 そうなってからでは、遅い。クラウディアは眼を細め、虚空を仰いだ。使い古されている手法だが、誤魔化すためにはこれしかないだろう。
「エルナ、女官長に伝えて。祝賀の会が終わったら、ディグルと私はグランスティアに向かう、と。ディグルは暫くそこで養生してもらうことにするわ」
「了解」
 おどけて騎士の礼を取るエルナに、クラウディアは「頼んだわよ」と声をかける。そのやり取りを見ていたルーラは、複雑な想いそのままに眉を顰めた。
 ディグルもクラウディアも、自身を必要としなくなっている。そんな風に考えているのではなかろうか。クラウディアはルーラの手を取り、にこりと華やかな笑みをこぼした。
「あなたは、気が進まないだろうけど。ちょっとだけ、ディグルの代わりを演じてくれるかしら」
 王太子の愛妾が離宮に戻ったことを、本宮に住まうのもたちは知らない。保養地へと旅立つ王太子夫妻、その王太子の代わりを演ずる――酷なことではあるが、これを頼めるのはルーラしかいない。ディグルによく似た面差を持つ、ルーラにしか。
「御意」
 ルーラはクラウディアの前に膝を折る。仮初めとはいえ、夫婦の役を演じる。それを強いられるルーラがどれほど辛い思いをするか。
(……)
 クラウディアは、敢えてそのことを考えないようにしていた。


 新しき年を祝う会は、数日間続く。祖国では、少なくとも七日は続いていたような気がするが、ここではそれよりも短く、三日で宴は終了した。それはクラウディアにとってはありがたく、ルーラにとっても都合がよかった。祝賀の会より離宮へと戻った妃を迎える王太子の姿を、本宮よりの従者たちに見せることができたからだ。
 そうして。
 新しき年となって七日目に、王太子夫妻は保養地へと旅立った。名目は、体調優れぬ王太子の療養のためである。馬車に乗り込む王太子は、病人然とし、厚手の上衣を纏い、帽子を目深にかぶっていた。それでも、白い横顔や、それにかかる銀糸を思わせる髪は、人の目を奪うほどに美しく。見送りと称して本宮より訪れた人々も、思わず溜息を漏らしたほどだった。

 ――療養と称して、おふたりでゆっくりとお世継ぎを作られるおつもりではあるまいか。

 貴族たちの間に囁かれる噂を、敢えてクラウディアは否定はしなかった。そう思ってくれるほうが、好都合である。王太子夫妻の仲は、良くもなく悪くもなく。政略結婚にありがちな、適度な距離にあるのだと。


 久方ぶりに訪れたグランスティアは、以前とまったく変わりはなかった。相変わらずヴァーレンティンが留守を預かり、あの口煩い女中頭が奥を取り仕切っている。今回は、王太子夫妻の来訪とあって、皆が以前以上に気合を入れているのが判るだけに、
(面倒かもしれないわね)
 クラウディアは気が重い。
 けれども、王太子ディグルはあくまでも療養のためにここを訪れているのだ。しかも、その病は胸。血腐れ、とも呼ばれる、血を吐く病である。吐いた血に触れれば、その者にも病魔が取りつく。それを恐れて、彼の傍にはだれも近寄ろうとはしないだろう。そうであってほしいと祈りつつ。
「ディグルの世話は、全て彼女に任せてあります」
 挨拶もそこそこに、クラウディアは一人の娘を紹介した。ヴァーレンティンも女中頭も、初めて見る金髪の娘に不信感を抱いた様子であったが、
「ツィスカにございます」
 国王の口添えで王太子夫妻の侍女となった、というクラウディアの言葉に、
「おお、それは」
「良しなにお願いいたします」
 途端に態度を改める。堅物には、国王の名は何よりも有効なのだと、クラウディアは改めて感心したのだが。彼女とて、全面的にツィスカを信用しているわけではない。ただ、レンティルグに関わりのあるものではない、それだけは信じている。というのも、エルナがそれを保証してくれたからだ。
 王太子夫妻は到着後、数日は二人で過ごしていたが。
「オリアから、使いがやってまいりました」
 ある日、離宮の侍女と名乗る女性が現れると、
「まあ、ではわたくしは王都に戻ります」
 王太子妃は後のことをツィスカに頼み、慌ただしく出立の準備を整えた。王太子のみここで療養を続け、王太子妃は彼の名代として王宮にて政務を取るという。女性に政を任せるなど――と、古い価値観を持つ女中頭は眉を顰めたが、
「夫からの依頼です。断るわけにもいかぬでしょう」
 毅然と言い放つクラウディアに、気圧された模様である。彼女には、夫の病をよいことに、好き勝手にふるまう妻だと思われているのかもしれない。それもそれで、間違ってはいないのだ。クラウディアはそれも否定することなく、彼女らの思うに任せた。いちいち、人の顔色を窺っていたのでは、前に進むこともできなくなる。
「殿下を、お願いしますね」
 ヴァーレンティンと女中頭、それにツィスカにそう言い残して、クラウディアは慌ただしく離宮を去った。滞在期間は、僅かに五日。けれども、これがクラウディアが王都を離れていられる、ギリギリの日数でもある。寧ろ、長すぎたくらいだ。ヴァーレンティンたち、果ては様子を窺っているであろうレンティルグの息のかかっている者たちの目を誤魔化すためとはいえ、少し王都を離れすぎた。お陰で、のんびりと馬車の旅を楽しむこともできない。

「ごめんねぇ、あたしももうちょっと早く来られれば良かったんだけどねえ」

 並走する馬から詫びを入れるのは、王宮よりの遣い――エルナである。実際は、王宮への帰還命令などは出てはいない。ただ、クラウディアをグランスティアから発たせるための口実が必要だっただけだ。そして、それは以前から決めてあったこと、だったのだが。エルナが王都を出るのが遅れたのには、理由があるという。
「ホントにお客が来ちゃったんだよ」
 悪戯っぽく片眼を閉じるエルナに、クラウディアは溜息をついた。
「どうせ、ウィルフリート殿が貢物を持ってやって来たのでしょうよ。それか、あからさまに社交辞令のお誘いを持って、マリエフレド姫がやって来たとか。違う?」
「うーん、惜しい。そのどっちも来たんだけどね」
「あ、そう」
 まさか本当に来るとは。ウィルフリートは、まだクラウディアを諦めていないらしい。彼女の中に自分の種を蒔きたくてたまらないのだ。ディグルが逝去すれば、そのまま自身がクラウディアを娶り、国王の地位に就くつもりだろう。浅はかといえば浅はかであるが、ある意味現実的な考えでもある。そんな夫の考えを知っているからこそ、マリエフレド姫も気が気ではない。なんとかクラウディアを牽制しようと躍起になっているのだ。
 間の抜けた従兄夫妻の行動には、辟易する。権謀術数はもう少し美しくあってほしい。彼らには美学はないのか。
 これでは、相手にするのも馬鹿らしい。
「お客人、ね」
 エルナの言葉に、クラウディアは我に返る。視界の端に映る彼女の顔が、舞い散る雪の向こうに一瞬隠れた。
「誰だと思う? とか、無粋なことは言わないよ。アーシェル辺境伯なんだよね、これが」
「アーシェル、辺境伯?」
 咄嗟に言葉を失う。一瞬、誰のことか判らなかった。アーシェル辺境伯――数か月前、新たに爵位を与えられたのは、他ならぬ赤い瞳の盗賊だった。辺境として打ち捨てられていた大地に目を向けてほしいとのクラウディアの訴えは、国王に届いた。彼はかの土地を直轄地として治める所存であったのだろうが、それを更にクラウディアが覆したのだ。

 ――アーシェルに、自治権を。

 土地も痩せ、税を取ることすらままならない領地を持っていたとしても、国益にはならない。自治権を持った土地として扱い、関守の権威が及ばぬようにしてほしいとの王太子妃の申し出は、意外にもあっさり受け入れられた。

 ――但し。

 その言葉を付け加えられて。

 ――アーシェルの件は、王太子妃に一任する。

 あの痩せた土地は、クラウディアに下賜されたのだ。そこから入る権益もクラウディアのものとなると同時に、相応の代価を彼女は得なければならない。穀物も育たぬ、家畜も乏しいあの土地から、何を提供されるのか。
 答えは一つだった。兵である。クラウディアの住まう東の離宮に、衛兵として男子を上げよと触れを出した。おそらくは、それに応えての此度の上京なのだろう。アーシェル辺境伯は。
(妙な感じだわ)
 まだ、あの赤い瞳の盗賊は、正式に辺境伯として叙任されたわけではない。けれども、爵位を授与されるということは、それなりに税を支払わねばならぬのだ。それが、兵役。財力がなければ、労力で税を納める方法である。

 ――勘弁してくれよぉ。
 ――これ以上男手が足りなくなったら、オレたちやっていけませんて。
 ――なに? お嬢さん、オトコ侍らす趣味あったの?

 口達者な少年が次々浴びせるであろう言葉を予想して、クラウディアは苦笑を浮かべる。おそらく、王都からの通達を受けた彼は、文句の一つも言いにやって来たのだろう。ともあれ爵位を持つ人物の訪問といえば、王都へと帰る格好の理由となる。彼もまた、頃合いを見計らったようにやって来る――それがまた、面白い。


「お戻りなされませ」
 王太子妃の思うより早い帰還に、離宮の使用人たちは驚いたようであった。しかも、王太子妃は馬車にも乗らず、単騎――否、同じく馬を駆る侍女一人のみを連れての帰還であった。道中恙無くて何より、とは、誰も言えまい。寧ろ貴人をそのような無防備な状態で旅立たせてしまったことに恐れを抱いているのは、グランスティアの面々と同様であろう。
 淑女らしからぬふるまいの多い王太子妃の行動に慣れてはいるであろうが、それにしてもこの季節。この雪の中を、と。痛ましげに顔を歪めるものも多かった。
「先に、湯を使われますか」
 もはや問いかけてはなく、決定事項の如く言いながら、侍女たちがクラウディアの上着を受け取った。年長の侍女の目配せで、若い侍女たちが慌ただしく湯浴みの用意を整えるべく各々の持ち場へと向かう。
「別に」
 いいわ、と言いかけたクラウディアであったが、訪れた客のことを考えるともう少し位は待たせてもよいのではないかと思い直し。
「そうね。お客様には、先に食事の用意をしておいて頂戴」
 傍らで上着の雪を払う侍女にそう告げた。
「エルナも、お湯を使う?」
 こちらは自ら外套の雪を払っている侍女に尋ねれば、彼女は「うふふ」と悪戯っぽく肩をすくめ。
「一緒に入っちゃう?」
 笑えぬ冗談を繰り出す。クラウディアとしては、それでも構わぬが。
「貴女のほうが、見られたくないんじゃないのかしら?」
 寧ろ躊躇するのはエルナのほうではないか。案の定、問いを投げかけるとエルナの頬が染まった。食えないお姫様だね、と、口の中でぼそぼそ呟いて、彼女は軽く唇と尖らせた。
「あたしはその間に、あのいけすかない辺境伯のお相手をしているよ。お目通りするまでに、若干お化粧とか。色々身支度に時間がかかるけどねえ。ほら、女の子だし」
 ぱちりと片眼を閉じたエルナは、ひらひらと手を振りながらその場を去った。一部始終を見ていた別の侍女が、そのあまりの奔放ぶりに眉を顰める。いくら王太子妃の気に入りとはいえ、あの態度は如何なものか。どれほどの大貴族の令嬢――たとえ妾腹であったとしても――なのか、もしもそうであるならば、あれほど品が悪いのは如何なものか、等々。思うところはあるらしい。けれども慎ましやかに、と教育されてきた良家の子女である件の侍女は、エルナに対しての苦言をクラウディアに言いたてることはなかった。ただ、瞳の奥に不満の色を揺らめかせるだけにとどめて。


 湯浴みを終え、それなりに身支度を整えたクラウディアが、王太子妃の居間へと姿を現したとき。辺境伯は、食後の茶を楽しんでいた。正式に離宮に上がるということで、相応の姿をしていたが、騎士の正装をさりげなく着崩しているところが彼らしい。彼は緩めた襟元に更に指を入れて寛げながら、エルナと他愛ない会話を繰り広げていたが。
「おー、お嬢さん、お久しぶり」
 クラウディアの姿を捉えると、鷹揚に手を振った。クラウディアに従って入室していた侍女は、それを目にして視線を尖らせる。品がない、粗野だとその目が語っているのを感じ取り、
「ああ、下がっていて頂戴。給仕はエルナに任せるから」
 クラウディアは侍女を退室させた。部屋に残ったのは、クラウディアとティル、そしてエルナのみである。他に侵入者がいなければ、の話だが、ともあれようやく気の置けないものたちだけになった。クラウディアも楚々とした様子は崩さず、二人の許へと歩み寄る。
「二人とも。人目のあるところでは、それなりに振舞って頂戴」
 あまり王太子妃と親しいところを見せてはいけない、と。遠まわしに注意を促したつもりではあったが。
「あれれ。侍女って貴族様にとっては置物と同じじゃなかったわけ? 一応、『人目』なんだ?」
 ティルの言葉に目を細めた。
 侍女はもちろん、従者も護衛もその他の使用人も。貴族は人として扱っていない。それは、その通りだ。ティルに皮肉られるまでもない。
「あなたにしては不用心ね? あの侍女が誰に通じているか、判らないでしょう?」
 それをクラウディアは危惧している。この建物に、レンティルグの息のかかった者が紛れ込んでいないとも限らない。警戒を怠れば、身に危険を招く。危険はそのまま、命取りになる。あの策士と思えた母后でさえ、密かに内を蝕んでいた(ミアルシァ)に気付かなかったのだ。神経を尖らせるに越したことはない。ことに、ここは敵地。クラウディアにとっては、全てが敵に当たる。
 そう。
 突き詰めれば、エルナもティルも。心の底から信頼することは出来ない。
 そりゃそうだけどね――ティルが笑いながら香茶を飲み干した。彼はその赤みの強い紫の瞳を王太子妃に向けると、
「ちょっとは息を抜かないと、疲れちゃうでしょ。オレもさぁ、こっち来たら伯爵だなんだってなんだか形式ばった挨拶されちゃって。肩凝ったんだよね」
 コキコキと肩をまわす。その仕草がまた人を小馬鹿にしている。彼はおそらく相手が国王であったとしても、この態度を崩さぬだろう。それが、生まれ持った器の大きさなのか。それとも単なる愚か者なのか。覇王の瞳を持つ少年を、クラウディアは静かに見下ろす。
「まーでもオレがちっとばっかり窮屈な思いをするだけで、アーシェルが守られるんだったらそれもいいかな、と思うけどね。ホント、お嬢さんには感謝しているよ」
 おちゃらけてはいるが、礼の言葉には偽りはないらしい。それはどうも、と、返礼をして、クラウディアは彼の斜向かいに席を取る。すかさずエルナが彼女の前に置かれた碗に香茶を注ぎ、更に盛った菓子を勧める。
「……」
 クラウディアは鼻をくすぐる芳しい薫衣草の香りに、片翼の姿を重ねた。が、その面影を払うように碗を手に取り、茶に口をつける。香りとは程遠い、強い苦みが口に広がった。
「アーシェルだけを助けるわけにはいかないわ。改革するなら、国全体を見直さなければね。中央集権か、地方自治か。この国にあった方法で治めていかなければならないのは勿論だけど」
「おやおや。もう、女王様気取りですか」
 ティルの茶々には応えない。彼も気にせず、言葉を続ける。
「オレもこんな女王様にだったら、踵で踏まれてみたいかもねえ……ああ、こっち睨まないの、侍女さん」
 不審の目を向けるエルナをあしらい、ティルはちらりと背後を振り返った。
「ああ、リィル?」
 視線の先にあるのは、寝室である。クラウディア個人の寝室――現在、リィルの姿が見えないところをみれば、彼女はそこで午睡でもしているのだろうが。彼女にも会いたいだろうと、クラウディアはエルナにリィルを呼んでくるように声をかける。と、エルナは幾分気まずそうに身じろぎした。何かある、直感的に察したクラウディアは、碗を卓上に置き、立ち上がった。そのまま寝室へと自ら歩いていく彼女を横目に、ティルが頭の後ろで手を組んだまま、口元を歪める。
「誰か、いるの?」
 問いかけにティルの睫毛が揺れる。はぐらかされるかと思ったが、
「うん」
 彼は意外なほどあっさりと頷いた。
 誰が、と考えて。思い当るのは、アウリールしかいない。だが、幾らなんでも、女性の寝室にあの堅物が入るはずがない。しかも、主の不在時に。と、なれば。そこに居るのは女性。まさか、ティルの母フローリアか。
「オレの、妹」
 彼の答えに、クラウディアは眼を剥いた。妹、など。いるはずがない。彼の兄弟は、亡くなった姉だけだったのではないか。
「つい最近、存在が判明してね」
 冗談めかした口調が憎らしい。クラウディアはちらりと彼を睨み、まっすぐ寝室へと向かう。そうして。扉に手をかけ、ゆっくりと開いた。音もなく切り取られる空間、その向こうに衝立がある。だが、人影は思うよりも近くにあった。衝立の前、赤い起毛の絨毯の上に敷かれた羊の敷物(ラグ)に座ってリィルと飯事もどきを楽しんでいたのは。

「……っ!?」

 黄昏の瞳。リィルと同じ瑠璃の瞳を持つ、黒髪の娘だったのだ。彼女はその瞳を大きく見開き、

「アグネイヤ?」

 クラウディアを、そう呼んだのである。


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