AgneiyaIV
第三章 深淵の鴉 
5.冬薔薇(ふゆそうび)(2)


 ユリシエルに到着したその日は、街外れの簡素ではあるがそこそこ小奇麗な宿に投宿した。まだ夕刻にもなってはいなかったが、旅の疲れを癒すためにはそれなりに時間をかけて休んだ方が良いとの判断からだった。ジェリオの提案を、アグネイヤは二つ返事で承知した。長旅の疲れで、心身ともに弱り切っている。ただ追手を逃れての逃亡が、これほどまでに辛いものなのか。彼女は改めて実感した。以前の一人旅の際は、クラウディアに会うという目的があった。彼女になり替わり、クラウディアとして命を落とす。それを目標に走り続けることができた。
 しかし。今度は違う。
 地位を追われ、命を狙われ。いつ果てるともなき逃亡の旅路についてしまったのだ。
 今後のことを考えると、気が重くなる。とりあえずの目的地であるユリシエルには着いた。ついたところで、どうするか。ジェリオの記憶は相変わらず封じられたまま。彼が生母に関する記憶を思い出さぬ限り、この広い街を虱潰しに『セシリア』なる名を持つ女性を求めて歩き回るのだ。
 逃亡者である自分が、人探しとは。それを考えると、苦笑がこみ上げてくる。
「あー、さっぱりした」
 布で頭を拭きながら、ジェリオが言葉通りのさっぱりした顔で入室してきた。一足先に宿に設けられている湯殿に行って来たのだ。
「あんたも行ってくれば?」
 勧めてくれるのはありがたいが、アグネイヤは男装である。女性の湯殿に入るわけにはいかない。かといって、男性のそれは――問題外である。
「ああ、そういうことか」
 アグネイヤの思いを察してか、ジェリオはなんでもないと言った風にごそごそと自身の荷物を漁り出す。そうして、そこから女性用の裾の長い服を取り出した。どこから調達したものか。
「こういうこともあろうかと、用意しておいた。これ着て行けば、女湯に行けるだろ」
 ぽいと放り投げられたそれを受け止め、アグネイヤは「ありがとう」と素直に礼を述べる。が、同時にこういうものがあるのなら、先に渡してほしかったと思う。これに着替えるのならば、今、ジェリオの前で服を脱がなくてはならない。
「むこう、向いていてくれ」
 互いの裸身は既に見ている。見ているだけではなく、触れもした。とはいえ、こうして着替えを見られるのは恥ずかしい。アグネイヤは彼に背を向け旅装を解いた。ぱさり、と軽い音がして足元に服が落ちていく。下着姿になった彼女は、その上に先程の衣装を纏おうとして。
「……!」
 背後からその手を阻まれ、抱きしめられた。薄物一枚を通して、ジェリオの体温を感じる。上気した、逞しい肉体。思わず彼女は息を呑んだ。
「奮発して、湯殿付の部屋にすれば良かったな」
「ジェリオ」
「そうすれば、一緒に入れた」
「……っ」
 耳まで赤くなったアグネイヤの首筋に唇を寄せて、
「なーんてな」
 くすりと笑った彼は、あっさり彼女を解放した。
 からかわれた、そう思った途端、軽い怒りが込み上げる。彼女は乱暴に服を纏うと、手布を持ち、
「行ってくる」
 あからさまに不機嫌な声を置いて、部屋を出た。
 その後ろ姿を見ていたジェリオが、ぷっと吹き出したことに彼女が気づいたかどうか。



冬薔薇(ふゆそうび)、か」
 ひとり部屋に残ったジェリオは、寝台の上にごろりと転がった。湯殿に行くついでに、帳場でその名を問うてみれば、

 ――お客様、そちらに行かれるおつもりでしょうか?

 宿の使用人は驚いた風に両手を振って、今までもそんな風に冬薔薇に興味を持った人々がいたが、すべてに向かってこう断りを入れている、

 ――あそこは、庶民の遊べる店ではありません、貴族専用の店です。

 と。
 曰く、冬薔薇は所謂普通の娼館とは一線を画している。王侯貴族を相手にできるほどの教養を備えた女性、また、彼らの目に適うような美貌を持つ女性しか店に置かず。簡単に身を売ることもしないのだと。彼女らの持つ楽器、歌、舞の芸で客をもてなし、客もまたそれで満足して帰るという。第一、その店の娼婦を買うとしたら、非常に面倒な手続きを踏まなければならぬ上、法外な金額を要求されるのだ。それこそ、財力・権力のあるものしか立ち入ることはできない。否、運よく立ち入ったとしても、貴族ならざる庶民であれば、娼婦たちの顔を見ることができるかどうか。
 とんでもないところだ、と、ジェリオは嘆息した。
 あの女装の金細工師は何と言ったろうか。ユリシエル一の娼館・冬薔薇の女主人セシリア――その言葉を聞いた刹那、雷に打たれたような衝撃が走った。その人こそ、自身の知るセシリアに違いない、直感したのだが。今ではその勘すら疑わしい。本当に、そのセシリアが自分の母なのか。
 のこのこ出かけたとしても、貴族相手の娼館へなどはいることも難しければ、その女主人に会うことなど不可能ではないのか。
 暫しの間思案した揚句、ジェリオは身を起こした。手早く服を纏い、剣と財布だけを持って部屋を出る。
 日は、まだ高かった。歓楽街の灯も、当然消えている。今のこの時間であれば、とりあえず建物だけは、外観だけは目にすることもできるだろう。ジェリオは通りに出た際に目についた辻馬車を止めた。中に乗り込みながら行先を告げれば、御者は先程の宿の男のように眼を見開いて
「お客さん……」
 何か言いかけたが。ジェリオの容姿が南方のそれであることから、何も知らぬ物見遊山の客だとでも思ったのだろう、それ以上何も言わずに馬に鞭を入れた。馬車を使ったからなのか、割と簡単にその屋敷は見つかった。そう、屋敷――貴族の館、と言っても過言ではないほど、華美ではないが瀟洒な作りの建物の前で馬車は止まり、
「着きましたよ」
 御者は淡々と告げた。
「冬薔薇」
 ジェリオは白壁の建物を見つめ、名を呟く。掲げられた『冬薔薇』の看板と政府発行の公娼館の紋章がなければ、それと気づかぬ佇まいである。御者はジェリオも圧倒されていると思ったのか、
「お宿まで、送りますかい?」
 ただ見物に来ただけであろうと、帰途を促したのだが。ジェリオは彼にここまでの代価を支払った。まさか、中へ入る気では? と、訝る御者の視線をよそに、ジェリオはゆっくりと正門へと向かう。門の両脇に佇む屈強な男性達は、近づいてくる闖入者を胡乱な眼で見つめたが。
「お帰りなさいませ」
 門の内側から響いた声に、ぴくりを眉を動かす。そして、それはジェリオも同様であった。
「また、これはもう……お出かけになられるときも、戻られるときも、突然ですよね。一報を入れて下されば、夫人も納得されますのに」
 困ったものだ、と肩をすくめながら現れたのは、白髪の紳士であった。貴族の家令を務めているのではないかと思われる洗練された物腰と、品のある面立ちを持ったその男性は、まるで自身の子を見るような眼をジェリオに向けてから。
「なんとなく、貴方様が戻られるような予感がしておりましたのか……今日はそわそわと落ち着きませんでしたよ。ささ、早く中へ。外は寒うございましょう?」
「あ……ああ」
 この紳士は、自分を知っているのだ。だが、自分は彼が誰だかわからない。奇妙な罪悪感を抱いたまま、彼は導かれるままに敷地内へと足を踏み入れる。そこは直接馬車の乗り入れが可能な、舗装された路面が続いていた。道の両脇に繁るのは、店の名の通り冬の薔薇。白く可憐な花々が、客を迎えるかのごとく艶やかに咲き誇っている。その香りに酔いながら、ジェリオは紳士に案内されて娼館の裏手へと回った。どうやらそちらが、私的な施設――主人及び使用人たちの居住区となっているらしい。

「あら、ジェリオ」
「いつ帰ったのかしら?」

 きちんと化粧を施し、仕立ての良い衣裳を纏った女性たちが、すれ違いざまに彼に声をかけていく。おそらくは、この店に勤める娼婦たちであろうが、市井のそれとは違い物腰も言葉遣いも優雅で丁寧であった。間違っても自身のことを「あたし」「あたい」等というような女性ではなかろう、「わたくし」と言いつつ扇をひらめかせてもまるで違和感を覚えぬ洗練された女性たちに、ジェリオは幾分圧倒される。
 苦手だ。
 頭の中で、声がする。娼婦と言いつつ、この女性たちには色気がない。それは取りも直さず、性欲をそそられないということだ。このような女たちを置いておいて、よくも店が傾かぬものだと彼は半ば呆れ、半ば感心しつつ。そう言えばここは公娼館であったことを思い出す。
 建物に入り、奥の広間に通されると、すかさず小間使いの娘が茶を運んできた。立ち上る香りに酒の匂いが絡まる――どこかしら懐かしいその香りに、ジェリオは思わず目を細めた。
「いま、セイリア様をお呼びします」
 言って、紳士は立ち去った。
(また、お袋の名前を間違えている)
 ふ、と、口元を綻ばせ、
「ヴォルフラム、お袋はセイリアじゃなくて、セシリア」
 これだから、地方の奴は……と、ぼやいて。彼は、はた、と息を止める。今、自分は確かにあの紳士の名を口にした。ヴォルフラム、と。ヴォルフラムは先代の皇帝に滅ぼされた小国の出身で、それゆえに発音が覚束なかった。セシリア、と本人は発音しているつもりだが、どうしてもセイリアに聞こえてしまう。間違っている、と、そのたびに指摘をするジェリオに

 ――変なところに拘りますねえ。男の子はもっと、大らかでないと。

 冗談交じりに反撃してきた。そんな記憶が自然と蘇ってくる。
(俺は……)
 過去を、思い出してきているのではないか。淡い期待が湧きあがる。彼は小間使いに出された茶を口にした。ユリシエル特産の蒸留酒が垂らされた――というよりも、酒に香茶が加えられたといったほうが相応しいその飲み物、舌を転がるふくよかな味に
「あ」
 知らず声を上げていた。喉から胃へと落ちていく熱が、徐々に身体を温めていくと同時に、遠い記憶も解されていくような気がした。室内を見渡せば、そこここに懐かしさを覚える。煤けた暖炉、上に置かれた聖女の置物。壁に削られた痕があるのは、ジェリオが落書きをした名残だ。塗り直しをせず、敢えてそれと判るように残しておいたのは戒めのためだと母が言っていた。
 そうだ。ここは。
「俺の、うちだ」
 思わず零れた言葉。
「なにを当たり前のこと、言っているの」
 一呼吸ほどおいて、咎めるような口調が帰ってくる。ジェリオは碗を持ったまま、ゆっくりと声の主を振り返った。戸口に佇むのは、小柄な女性。長い銀髪を高く結いあげ、青い造花で飾っている。はっと目を見張るほどの美人であるにもかかわらず、つんと顎を上げ両手を腰に当てて胸を逸らしている様は、まるで十代の小娘のあどけなさを醸し出していた。
 こちらを見つめるのは、深い青の瞳―― 一瞬、別の誰かを思い出したが、その記憶は霧散した。
「お、ふ、く、ろ?」
 区切るように、確認するように。絞り出した言葉に、女性は表情を曇らせる。
「初めて見たような顔、しないでちょうだい。馬鹿息子」
 待ち合わせに遅れた恋人を詰る口調で言い放った、その女性。彼女こそがセシリア。自分の生母だ。そう確信した刹那。
「――っ、く?」
 ずきん、と、頭が痛んだ。眉間の辺りで何かが弾ける。力の抜けた手から碗がぽとりと落ち、褐色の液体をまき散らしながら毛足の長い絨毯へと吸い込まれていった。
「ジェリオ?」
 セシリアが、驚きに目を見開く。その顔が、ぐにゃりと歪んだ。ジェリオは低く呻き、左手で顔を覆いながらその場にくずおれる。糸の切れた人形、それはまさにこういうことを言うのだと、頭の中の覚めた自分が静かに嗤う声を聞きながら。


「記憶喪失? また、そんな子供みたいな嘘をついて。あなた、幾つだと思ってるの? まさか、自分の歳も忘れたなんて言うんじゃないでしょうね? もう、二十二よ、二十二。いい加減にふらふらしていないで、さっさと恋人見つけて身を固めてもいい頃でしょうに。私があなたくらいの歳にはね……」
 黙って聞いていれば、永遠に続きそうな小言を、
「だから。ちょっと、待てって」
 ジェリオは手で制した。それでも冬薔薇の女主人は、溜まった鬱憤を晴らしたいのか、単に口煩いだけなのか。
「この馬鹿息子」
 を繰り返しつつ、延々枕元で捲し立て続けるのだ。
 先程までは真っ蒼な顔で、彼の手を握りながら必死の祈りを捧げていたというのに。目を開けて、無事な様子を確認して。ちょっと会話をすればこうだ。これだから、お袋は……と思わず口に出しそうになり、ジェリオは微妙な部分で記憶が戻り始めていることに気付いた。
 判るのだ。ある程度は。
 この、年齢不相応の容姿と性格を持つ女性が、唯一の肉親であることも。いま、自身が横たわっている寝台が、紛れもなく自分の部屋のそれで。彼が『放浪』している間、母が気遣って手入れをしていてくれたであろうことも。
 ただし、全てを思い出しているわけではない。時折稲光のように何かが閃いて。それに付随するものがおぼろげに輪郭をとっていく。そういった、非常に不確かな覚醒なのだ。
 現に、生家や母のことは大部分を思い出せても、そのほかの細かいことはまるで浮かんでこない。ここに至っても、アグネイヤに関する記憶は綺麗に消されてしまったままだ。カイラは余程アグネイヤに対して怨みがあるのか、彼女との過去はどうあっても思い出せそうにない。
「いったいどうすれば、そんなに都合のいい記憶のなくし方をするの」
 母からとどめに投げられた言葉に、ジェリオは嘆息した。
 魔女につかまって、性交のたびに記憶を封じられ、別の記憶を植えつけられた、そんなことを言っても信用するわけがない。夢見がちな容貌とは裏腹に、セシリアはどこまでも現実主義者なのだ。北方の人にありがちな、魔術・錬金術の類をまるで信じないカタブツである。ジェリオが説明をしたところで、鼻で笑い飛ばすだろう。
 花の容姿に女丈夫の心、なぜこんな女が世の中にいるのだと、ジェリオは項垂れた。
(ああ、お袋に似ているんだ)
 あの娘は――思い、ふと息を止める。いま思い出したのは、誰のことだ? 脳裏を掠めたのは、確かに古代紫の瞳であったはずなのに。それは、アグネイヤではなかった。アグネイヤではないと断言できる。では、それは。会ったことがあるはずなのに思い出せない、アグネイヤの双子の姉妹なのか。

「聞いてるの、馬鹿息子」
「聞いてる。あと、馬鹿は余計だ。クソババア」
「失礼ね。あなたの口の悪さ、誰に似たのかしら」
「あんただろ。じゃなけりゃ、親父だろうよ」
「父さんは、ガサツだったけどそんな失礼な暴言は吐かなかったわよ」

 一頻り口論を終えると、親子の間に落ち着きが戻る。セシリアは傍らの椅子を引き寄せ、そこに腰を下ろすと、まじまじと息子の顔を覗き込んだ。細い指先がジェリオの頬に触れ、優しく髪をかき上げる。
「もっと、顔をよく見せて」
 青い瞳が甘く潤む。セシリアは僅かに身を乗り出し、ジェリオの頭を胸に抱きしめた。
「痩せた、わね?」
 甘い花の香りに包まれて、ジェリオは眼を閉じた。温かい。アグネイヤとはまた違う、安らぎを覚える。これが肉親の温もりなのだろう。彼はセシリアを抱き返した。
 そうして、どれくらいの時間が過ぎただろうか。ふと、ジェリオは周囲を見回した。窓から漏れているはずの陽光はなく、部屋には明かりがともされている。一体自分はどれくらいの間気を失っていたのかと考え、
(……)
 まずい、と、舌を打つ。アグネイヤに何も告げずに、ふらりと部屋を出てきてしまったのだ。風呂から戻った彼女は、そこにジェリオがいないことに気づいて、どうしただろうか。見知らぬ異国にたった一人放り出された、と。孤独に身を震わせているに違いない。しかも、少しだけの外出のつもりが、気づけば夜だ。
「ああ、くそっ」
 ジェリオは顔を歪め、寝台から飛び降りる――飛び降りようとしたのだが、
「どこへ行くの」
 母に動きを阻まれた。
「どこ、って。戻るんだよ」
「戻る? 何処に? ここがあなたの家でしょう。また、記憶喪失の振り? いい加減に……」
 言いかける母の肩を押さえ、ジェリオは一言一言区切る様に
「人を待たせているんだ。悪いが、一度そいつのところに戻らないといけない」
 説明したのだが。
「その身体で? 無理よ」
 素っ気なく却下された。それどころか。
「どなたなの? 使いを走らせるわ。此方にいらして戴けばいいでしょう?」
「……」
「なに? わたしに会わせたら、都合の悪い相手なのかしら?」
 詰め寄られて、逆に言葉を失う。まさか、神聖帝国の皇帝だと言えるわけもなく、ましてや憎からず思う女性で、できれば母に紹介をしようと考えていた相手とは、この状況で言えはしない。言えば言ったで必ずアグネイヤの素性について尋ねられるであろうし、そうなったときに適当にはぐらかしても、アグネイヤと口裏を合わせておかなければ、どこでどのような破綻があるやもしれぬ。機転のきくアグネイヤのことであるから、ジェリオに話を合わせてはくれるだろうが。
 母に紹介する女性を、自分がここに居ながらにして呼びつけるのは男としては如何なものか。ここは、ふたりで『挨拶』をするのが筋であろう。
「優雅な趣味を持てとは言わないわ。でもね」
 判っているでしょう? とばかりに言い含めようとする母に、逆らおうとしても逆らいきれない。なぜか自分はこの手の女性には弱いのだ。アグネイヤの母である、神聖帝国皇太后、彼女にも威圧され通しであった。アグネイヤに対しては強気で出られるのに、なぜ、と、自身の不甲斐なさを呪いつつ、彼は嘆息する。
「郊外の、『風花』って宿にいる……エリアスっていうガキなんだけどさ」
 結局、アグネイヤをこちらに呼びつけることになってしまった。自身の情けなさに肩を落とす。これでは一生アグネイヤに頭が上がらなくなるであろう、と、愚にもつかぬことを考えて。再び息をついた。
 セシリアは小間使いを呼び、早速馬車の手配をさせていた。この期に及んで、アグネイヤを少女だといえなかった自分が更に嘆かわしい。ぱたり、と寝台に倒れこみ、左手で顔を覆った彼は、掌と瞼を通して感じる淡い蝋燭の明かりを追いながら、
(どうするよ、俺)
 なんとか母の隙を見て、ここを脱出して。先回りしてアグネイヤを連れ出さなければ。そんなことを考えていた。
 と。
「奥様」
 遠慮がちに扉が叩かれ、先程の小間使いが顔を覗かせる。どうやら母に来客らしい。
「あら、困ったわ」
 ジェリオの身を案じるセシリアは、即座に「お断りして」、と口にしたが。それが……、と、小間使いのほうも困惑気味に答える。その様子からして、賓客のようだが。
「俺は大丈夫だから」
 もう、頭痛はない。至って健康である。そういうと、母も渋々といった様子で部屋を出て行った。お願いね、と後を頼まれた小間使いは、
「かしこまりました」
 礼儀正しく主人を見送る。母の姿が扉の向こうに消えたのを見計らって
「――お袋の客、長くかかりそうか?」
 そっと尋ねる。小間使いは「多分」と目を細めて。
「ご一緒に夕食を取られると思います。もしかしたら、ジェリオ様にも声をかけられるかもしれませんけれども」
「一緒に? 俺と?」
 ジェリオとも顔見知りの相手か。だが、たとえそうであったとしても、こちらにはその人物の記憶がない。顔を見たところで「はじめまして」位の感覚であろう。現に目の前の小間使いの顔も、思い出すことができない。娼婦となる前の見習いの小娘、といった風情の彼女のことも、おそらく自分は知っているのだろう。外傷や病気ではない、怪しげな施術による記憶操作というのは、こういった事態も招くのか。今更ながら、カイラの術にはまってしまった自分が情けなくも憎らしい。
「ジェリオ様」
 呼びかけられて、
「俺?」
 思わず聞き返してしまう。なにか、様をつけられると居心地が悪い。が、小間使いはそれには構わず
「ご気分は如何ですか? 粥などお持ちしましょうか?」
 夕食について尋ねてくる。客とともに席に着け、といわれる可能性もあるのだろうが。あまり表には出たくはない。けれども、とくに空腹を覚えているわけでもないゆえに、
「いらない」
 断ろうとしたジェリオだったが。思い直し、
「何か、軽いものを頼む。あと、酒と」
 彼女に食事を依頼して、体よく部屋から追い出した。母は接客中、小間使いも食事の手配にそれなりに時間を要するであろう。ということは。今が絶好の機会である。ジェリオは寝台から滑り降りた。上着と剣、それに財布を手に取り、足音を忍ばせて窓へと近づく。確かここは三階だった。脱出しようとして出来ない場所ではない。窓を開けば、目の前に生い茂る大木がある。その太い枝ぶりを確かめて、彼が手を伸ばそうとした、そのときだった。
「ジェリオ? 戻っていると聞いたが?」
 扉の向こうから声が聞こえた。母のものではない、ヴォルフラムでもない。男性の声。知らぬはずのそれは、しかし懐かしく。ジェリオの鼓膜を揺すった。
「入るぞ?」
 確認とともに、扉が開く。現れたのは、年配の男性。北方には珍しい黒髪、それを短く刈って丁寧に撫でつけている。品よく整った顔立ちと、物憂げな灰の瞳が印象的なその男性を凝視して、ジェリオは息を止めた。
「そう、亡霊でも見たような目を向けないでくれるか、ジェリオ」
 低く深みのある声が、自分を呼ぶ。
「あ……」
「帰る早々、倒れたというが。あまり、母上に心配をかけるなよ」
 軽く喉を鳴らしても、威厳は微塵も損なわれない。彼は静かにこちらに歩み寄り、ジェリオの傍らで足を止めた。こうして並ぶと、比較的長身のジェリオでさえ、その背の高さにはかなわない。父を知らぬジェリオにとっては、父に等しい存在。逞しい大きな手が、ゆっくりとジェリオの顔を包み込む。
「セシリア殿が嘆かれていたが。本当に、痩せたな」
 実の子を慈しむように灰の目が細められる。ジェリオは彼を見上げ、その目を見つめた。灰に映りこむ、褐色。
「シェルキス」
 自然、唇から零れたその名に、ジェリオは驚いた。
 シェルキス――紫芳宮の地下で、口にした名前。リナレスが「それはカルノリアの皇帝か」と問うた名前。ともあれ、いま目の前にある男性が、シェルキスであること。それは、認識できた。
 母の旧友にして、後見人。
 一時期は、母の恋人かと疑って、その存在を否定した相手。
「窓から何処に行こうとしていた、ジェリオ? また、子供みたいなことをして……母上を困らせるなよ」
 優しく諭す言葉に、頷くことも拒絶することもできず。ジェリオはただ、彼を見つめていた。


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