AgneiyaIV
第三章 深淵の鴉 
4.姦計(5)


 男二人の道行ほど、色気のないものはない。
 ここ半月あまりの『逃亡生活』において、リナレスは痛感した。しかも相手が女装の少年くれば、あとは笑うしかないだろう。それも、思いきり狂気じみた笑いだ。笑え、笑ってしまえば楽になる、そう自分自身に言い聞かせるが。
 笑えないどころか。

「……」

 街道沿いの宿場町、その裏通りにある若干薄汚れた宿の中二階――質素ではあるがそこそこに値の張った部屋の寝台に眠るかの少年を見ると。笑いではなく、別のものがこみ上げてくるのだ。別のもの、つまり、平たく言えば。
「欲情してますね」
 ぱちりと開いた眼は、黄昏色の青灰。化粧で顔立ちはごまかせても、瞳の色を変えることはできない。アグネイヤ四世に似せた面差の中、妖しく光る黄昏の瞳を間近に見て、リナレスは情けなくも小さな悲鳴を上げる。不覚にも、時折忘れてしまうのだ。ともにあるのがアグネイヤ四世とはまるで別の人物である、ということを。

 アヤルカス国王の目を欺くため、彼が派遣した兵の前で、リナレスは偽のアグネイヤ四世とともに逃亡を図った。使者として離宮に現れた士官、彼を前にして

 ――では、紫芳宮へ出向く支度をして参りましょう。

 リナレスは尤もらしい言葉を残し、わざと彼らの目に偽皇帝を印象付けるようにしてから、こっそりと裏手から逃亡したのだ。当然、それに関しては彼らも警戒はしていたらしい。離宮の周囲は兵士に囲まれ、蟻一匹這い出る隙もなかった。しかし、そこを

 ――紫芳宮へ参ります。

 それを口実に、リナレスと偽の皇帝は堂々と突破したのだ。無論、そこで大人しく引き下がる兵士たちではない。護衛を名目に彼らの乗る馬車を取り囲み、無事セルニダの門が見える場所までやって来た、そのとき。様子を窺うため馬車の中を覗いた兵士は愕然とすることになる。そこはもぬけの殻だったのだ。一体いつ、皇帝とリナレスが見張りの目をかいくぐり脱出したのか。
 答えは簡単だった。馬車の、座席に下に身を潜めていたのである。
 騒然となる兵士に紛れ、二人はまんまと逃走を成功させた。兵士らに自身の姿を確認させるのを忘れることなく。また、自分たちだけに目を向けるように。アグネイヤ本人と、彼女を守る『暗殺者』には、追跡の手が及ばぬように。そう、皇帝は乳兄弟であるリナレスと逃亡しているのだ、と、印象付けて。
 あれから、早くも半月が過ぎようとしている。よくぞここまで、つかず離れず追手を引きつけて逃げられたものだ。我ながら感心する。
(だが)
 油断は禁物。明日にでも、捕えられるかもしれない。そうなったら、自分はアグネイヤを誘き寄せる餌に使われるか、それとも彼女の居場所を吐かせるために拷問され、命を落とすか。どちらにしろ、明るい明日は待ってはいない。そうなった場合、せめてこの忌々しい金細工師の少年だけは逃がしてやろうと思うのだが。なかなかどうして、彼も頑固だった。あくまでもアグネイヤの身代わりとして、ともに逃げる――そう言って譲らない。それは、アグネイヤのためなのか。それとも、リナレスの身を案じているからなのか。
(……)
 考えると悪寒がするので、それは考えないことにして。おそらくリナレスの知らぬ、エーディト自身の目的のために、同行しているのだと彼は無理やり自分を納得させた。

 ――念のためですよ。

 そう言って皇帝に扮したエーディトは、相変わらず女装をやめてはいない。染めてしまった黒髪は、いつかは元の亜麻色に戻るだろうが。それまでは敵の目を欺くためアグネイヤを演じ続けるのだろう。そうして、アヤルカスの手の及ぶ地域を出るころには、少年の姿に戻り――それから。それから、彼はどうするのか。

 粗末な寝台に横たわるエーディトを見つめ、リナレスはそう遠くない未来に思いを馳せる。
「いやですよぉ、わたしを襲ったら。言いつけますよ、陛下に。若様はそっちの趣味があった、って。あああわたしの清らかな身が汚されてしまったら、陛下も我が師もそれはそれは嘆くことでしょうねえ、陛下は二度とあなたを許さないかもしれませんよ?」
「馬鹿」
 こつん、と、エーディトの額を爪で弾く。襲うわけがない。こんなあやしい、女装癖のある少年を。
「まあ、それは冗談としてですね、若様」
 何が冗談だ――渋い顔のまま、リナレスは自分の寝台に横たわる。なるべくエーディトを見ないようにして、
「なんだ?」
 返事だけをする。と、エーディトは
「随分と簡単に逃げられましたよね、わたしら。もしかして、泳がされているんじゃないでしょうかね?」
 ぽつり、と。いつになく真摯な口調で呟いた。それに関しては、リナレスも同様のことを考えている。あるいは、ジェルファ一世は、既にアグネイヤ四世が逃亡を図ったことを知っていたのではないか。離宮に残り、捕らわれたふりをして逃亡したリナレスらは、あくまでも囮であると解っていて。それで――。いつか、アグネイヤ四世と接触する、その機会を狙っているのではないか。
 見張られている。
 その可能性は高い。だからこそ、アグネイヤの向かったカルノリアとは反対の、アマリア方面へと足を向けたのだ。アウレリエの領地も避け、クラウディアのいるフィラティノアすら嫌い、ただひたすら西へと。偽りの道を進んで。その先に待ち受けるものは、何もない。巫女姫たちは、フィラティノアを経由してアーシェルという辺境へ向かったはずだった。そちらへも、ジェルファの目を向けてはならない。あくまでも自分たちは見当違いの方向へと行かねばならない。
 これは賭けだった。ジェルファがもしも彼らの陽動に気づき、カルノリアへと目を向けたのであれば。身を呈してアグネイヤを守るには、今、自分のいる場所はあまりにも遠すぎる。
「まあ、とりあえず。これからアダルバード辺りに行ってみますかねえ。それから、ヒルデブラントに少し滞在して。アマリアは、いてもあまり面白くないんですよね、こう、娯楽に乏しい土地と言いますか……割に品行方正な人が多くて、どちらかというと、堕落したアダルバードの方が……」
 ぼそぼそと喋り続けるエーディトを無視して、リナレスは目を閉じた。
 どこでもいい。どこへ行ってもいい。ただ、アグネイヤ四世を守ることができれば。あの孤独な皇帝の命を守るためならば、自分はどうなっても良い。兄・バディールがクラウディアに命を捧げると誓ったように、自分もアグネイヤに命を捧げることを誓う。
(兄者)
 フィラティノアで消息を絶った兄、――今は彼の面影すら遠い。

 逃亡を続けるリナレスが神聖帝国皇帝処刑についての情報を得るのは、この翌日のこととなる。



 目覚めたとき、室内には誰もいなかった。どころか、気配すら残ってもいなかった。傍らの寝台に置かれていたはずの、アグネイヤの荷物。それも消えている。ということは、ルーラが気を失っている間に彼女は宿を引き払ったのだ。
(……)
 木戸の隙間から洩れる光は、薄明の淡い紫。その光と同じ色の瞳を思い出し、ルーラは強く眉を寄せる。半身を起こし、緩められた襟元を合わせようとして、彼女はぎくりと身を固くした。半ばまで肌蹴られた短衣、その下にあるはずの乳房がないことを改めて認識して、アグネイヤはどう思ったのだろう。いや、彼女の力だけでは、ルーラを寝台に運ぶことなどできない。ジェリオも手を貸したはずだ。
「……っ」
 知られてしまった。あの、刺客にまで。自分が、偽りの女性であることを。王太子の男妾であることを。アグネイヤはルーラを恐れている。軽蔑している。おそらく、彼女はクラウディアにも事実を告げるだろう。ルーラがアグネイヤを襲おうとした、そのことも含めて。

 もう、終わりだ。

 絶望に、視界が黒く染まる。自分の帰る場所も、いるべき場所もなくなってしまった。失ってしまった。昏い笑みを浮かべ、ルーラはかぶりを振る。頬を一筋、溢れた感情が伝った。
 と。その滴が導いたのか。ぽたり、と音がした先を見れば、そこには封書が置かれている。走り書きではあるが、おおらかな字はクラウディアの筆跡によく似ていた。アグネイヤからの手紙、である。何を今更、と、破り捨てようとした彼女だったが、思い直し封を切った。中から現れたのは、銀色の指輪と紙片だった。紙片に目を走らせたルーラは、ごくりと唾を呑みこみ、思わずそれを手の中で握りつぶす。

 ――自分の代わりに、クラウディアを頼む。

 そのような主旨が書かれた、ごく短い手紙だった。その僅かな文章の中に

 ――クラウディアが知らないのであれば、ルーラの性別を彼女に告げるようなことはしない。
 ――自分は、国を追われた。神聖帝国再興のため、いつか来るその日まで、身を隠している。
 ――これからもクラウディアの傍にいてほしい。彼女を守ってほしい。

 アグネイヤの想いが詰まっていた。あくまでも自分のことよりも片翼を想う気持ちが、痛いほど伝わって来て。それが、なぜか悔しくて。ルーラは低く呻き声を上げた。自分がどれほどクラウディアを想っても、アグネイヤには及ばない。双子の絆の中に、割って入ることはできない。クラウディアがアグネイヤを憎みつつ、嫌いつつ、それでも深く愛している――その気持ちを知るだけに、殊更、アグネイヤが憎かった。誰よりもクラウディアの心を占めるアグネイヤが。敬愛する人に、唯一認めた人物と同じ顔、同じ声を持つ彼女が、疎ましかった。
 神聖帝国が滅びた今、アグネイヤ四世はただの人である。唯一残っていた存在価値さえ失った、哀れな小娘である。明日なき逃亡に身を委ね、どこへともなく流れていく、その彼女を受け止めるべきは、フィラティノア。けれども、自分は。
 アグネイヤが消えることを心の底で望んでいた。願っていた。
 それなのに。
 アグネイヤは、ルーラに片翼を託した。その甘さが、心の広さが、アグネイヤへの憎しみをさらに募らせる。
 ふと、手にした指輪。アグネイヤが残していったそれは、精巧な細工が施されていた。おそらくは、当代随一の細工師、オルトルートの作品だろう。指輪の内側を見れば、そこには文字が刻まれている。飾り文字で書かれたそれは、古代の言葉。
 ルーラにその文字が読めたのであれば。彼女はそこにアグネイヤの――アグネイヤ四世の想いの全てを悟ったことだろう。

『覇王、ここに帰還せり』

 二代目オルトルートであるティルデが、覇王(アグネイヤ)のために作成した指輪。それを手に握りしめて、ルーラは鋭く虚空を睨み据えた。



 国境を越えてから、どれほど経ったろう――カルノリアの首都・ユリシエルは、目前に迫っていた。北都、と呼ばれる優美なる都。クラウディアの友人でもあるアレクシア皇女の住まうかの街に想いを馳せて、アグネイヤは乗合馬車の窓から思わず身を乗り出した。
 左手に見える峻嶮な山々、その頂は白く霞んでいる。あの場所は、一年を通して雪が溶けることはないのではないか、そう思わせるほど白く美しく輝いていた。対して右手には、街並みが見える。壮麗、とはいえぬが、雪に耐えうる堅牢な建物が続き、積雪を避けた大通りは活気があふれ、多くの人々が行き交っていた。
 この道、オルテンシア街道が行き着く果てに、ユリシエルがある。
 アグネイヤは冷えた唇を舌先で湿らせると、ほっと白く息を吐く。
「風邪ひくぞ」
 傍らに座るジェリオが、外套にくるまった姿で忠告を入れる。アグネイヤは頷き、慌てて硝子戸を閉じた。ぱたり、と音がして室内に温もりが戻ると、乗り合わせた他の乗客たちも安心したように目を閉じ、再び眠りに落ちる。
「寒かった……よね?」
 すまない、と、アグネイヤはジェリオをはじめとする乗客たちに詫びた。南方育ちであるアグネイヤも、それなりに寒さには弱い。弱いが、それよりも好奇心の方が勝っている。異国への期待と不安はさることながら、ジェリオの生まれ故郷を見ることが出来るかもしれぬという思いに興奮していた彼女は、雪に喜ぶ幼子同様、さして寒さを感じてはいなかったのだ。
「ガキだな」
 苦笑するジェリオは、隣に腰を下ろしたアグネイヤを抱き寄せ、その身体を外套の下に招き入れた。傍から見れば、男同士がなにやら雰囲気を作っているようにも見えるだろうが。北方生まれの割には寒さに弱いジェリオは、そのようなことに頓着はしないらしい。
 気温は日の出前が最も低いと言われるが、太陽が顔を覗かせた今も、体感温度はかなり低かった。これも、北国故なのだろうが――それでも、ジェリオの腕に抱かれて、彼の胸に頬を寄せると、この上なく温かくなる。
「もう少し、寝てろ」
 今日中には、ユリシエルに着く、と、ジェリオが囁いた。アグネイヤは頷き、目を閉じる。ジェリオの鼓動が、耳に心地よい。馬を売って、乗合馬車を使ったのは正解だったかもしれない。ふとそんなことを考えて、己の現金さに苦笑をもらす。

 タティアンを離れて、丸一日が過ぎようとしている。
 ルーラも、フィラティノアへ向けて出立したことだろう。失神している彼女を残して、宿を引き払うことに罪悪感を覚えたが、顔を合わせるよりはましだった。彼女の――否、『彼』の顔を、まともに見ることはできない。あの青い瞳が怖かった。襲われたからではない、もっと根源的な何か。異性に対する恐怖以前の恐ろしさを、ルーラに対しては感じてしまうのだ。よく、片翼はあの視線に耐えられると思う。あれは、他人の心を抉る目だ。糾弾することしか知らぬ目だ。クラウディアと同じ容姿を持つ自分を、嫌悪する目だ。
 それほどに、ルーラはクラウディアを想っている。クラウディアだけを、想っている。
 だからこそ、ルーラをフィラティノアに、クラウディアの元に返さなければならない。
「……」
 右手の人差指には、指輪を外した跡が残っている。ここに収まっていたのは、純銀の指輪。ティルデが、まだ見ぬ神聖皇帝のために作成した指輪。古語で

 ――覇王、ここに帰還せり。

 そう刻まれた指輪を、ルーラに託した。
「指輪」
 ジェリオの呟きに、アグネイヤは顔を上げる。褐色の瞳を間近に見て、心臓が大きく跳ねた。冷ややかな二つの月に映りこむ自分は、なんと幼く無防備なのだろう――実感した刹那、徐に彼がアグネイヤの右手を掴んだ。
「一つ、おいてきたのか?」
「ああ」
「気に入っていたんだろ? いつもしていたじゃないか」
 寝るときも、入浴のときも。いつぞやは、傷ついたジェリオを叩いた際に、あの指輪が傷口を抉ったこともある。右の薬指と左手の人差指にある指輪は、時々外していたが。あのティルデの指輪だけは、なぜかいつも身につけていた。それは、弱い自分の心を勇めるための呪符だと思っていたからかもしれない。
「クラウディアに、僕が生きていることを伝えようと思って」
 ソフィア皇女がシェリルに指輪を託したのと同じく。家族に自身の無事を知らせる手段として。そうだ、あの指輪はクラウディアも知っている。アグネイヤが――サリカが肌身離さずつけていたと知っているから。だから、他の二つの指輪ではなく、敢えてあの純銀の指輪を選んだのだ。

 本当に?
 本当にそうなのだろうか。

「……」
 自分には、覇王と刻まれたあの指輪が相応しくないと。そう思ったから。だから、クラウディアに送ったのではないか。
(違う)
 心に芽生えた自身への疑問を、アグネイヤは否定した。そんな、弱い心からではない。そう、思いたい。

 ――皇帝なら、切り捨てなさい。弱い心を、切り捨てなさい。切り捨てる、強さを持ちなさい。

 クラウディアの、真実のアグネイヤの。厳しい声が、頭の中にこだまする。切り捨てる強さ。それは、同時に卑劣さでもないのか――クラウディアの行動は強さであっても、自分の切り捨て方は。逃げでしかないのではないか。
 アグネイヤは唇を噛みしめる。
 街道で、漏れ聞いた旅人達の会話。

 ――神聖皇帝が、処刑されるらしい。
 ――あの国は、終わりだ。アヤルカスに併合されて、皇帝陛下は処刑される。
 ――恐ろしい……公開処刑とは。

 自分はここにいる。なのに、皇帝が処刑される。それは、他ならぬ身代わりが立てられているということだ。身代わりは、アグネイヤの代わりに殺される。それが、誰なのか。リナレスなのか、エーディトなのか。それとも、フィアか、別の侍女か。
 救わねばならない、と。街道を引き返そうとしたアグネイヤを止めたのは、ジェリオだった。

 ――生きるんだろう? 何があっても。

 恥をさらしても、生き抜く。そう誓ったのも、自分だ。
 強くなる、それはこうして多くのものを犠牲にしていくことであるのならば、自分は強くならなくてもいい、そういったアグネイヤの頬を、ジェリオが張った。利き手ではない右手で殴ったところに、彼の優しさが含まれていたのかもしれない。
 彼が馬を売り払ったのは、その直後だった。腫れた頬を彼の差し出した布で冷やし、ぼんやりとしている彼女を引き摺るように国境越えの乗合馬車に押し込んで。何も言わせぬように強く抱きしめて――。
 彼自身も、何かを断ち切るかのように、強く眉根を寄せていた。
 一度『行く』と決めたからには、時が来るまで引いてはならない。彼の横顔はそう語っていた。無言の圧力に屈したわけではないが、アグネイヤも彼の内に潜む苦悶を読み取り、自身の心の奥から湧き上がる罪悪感を殺した。
 何かを犠牲に出来る『強さ』。それが、皇帝に、君主に求められるものだとしたら。自分はやはり、皇帝には向かないのかもしれない。
 鉛の如く重く沈む心を抱えて、アグネイヤはユリシエルを目指す。
 果ての都を。



 ルーラ帰還、その報告を受けたのは、夕べの典礼のときであった。神殿を出た王太子夫妻が王宮内を移動する簡易馬車に乗り込もうとした際、駆け付けた小姓がその旨を告げると
「……」
「良かった」
 夫妻はそれぞれに表情を緩めた。無表情で知られる王太子の変化は、無論小姓に解るはずはない。傍らで笑いを堪える侍女エルナと、妻であるクラウディアだけが、かろうじて僅かな変化を読み取っただけか。
「急いで頂戴。今夜はルーラと一緒に夕餉を戴きましょう?」
 御者に速度を上げるよう指示を出し、クラウディアは安堵の息を漏らしながら椅子に深く身を沈めた。
 ルーラが帰郷した。
 その事実は、何よりも嬉しいものであった。
 目的である、エリシア前妃の消息がつかめていれば、さらによいのだが。今は、ルーラが無事であることだけで満足だった。あるいは彼女がこのままどこかに消えてしまうのではないか、そんな不安が胸に渦巻いていただけに、気持も大分軽くなる。
「じゃあ、あたしはもう、お役御免だね」
 ルーラ不在の間のみ、クラウディアの侍女として傍に仕える。そういった約束だった、と、陽気な裏巫女は言う。
「あら、別に良くてよ? 有能な侍女は何人傍にいても構わないし」
 ねえ、ディグル? と話題を振れば、夫は興味なさそうに肩をすくめた。彼にとっては、ルーラ以外はどうでもよいらしい。別にわざわざ遠ざけているわけではないが、最近はツィスカは専ら離宮内の仕事に就かせ、外出の同行を言いつけるのはエルナである。得体の知れぬツィスカよりも、エルナの方が接しやすいという面もあるが、ルーラが戻ったとしても、エルナがいてくれた方が何かと動きやすいことも確かである。殊に、宮廷内の内情を探るには、エルナの存在は不可欠だった。
「そういえば、最近オルウィス男爵夫妻の姿が見えないわね」
 ふと思い出し、エルナに声をかける。エルナも
「ああ、そうだね」
 忘れていた、と、軽く舌を出した。
「男爵夫人が、王妃の使いでタティアン方面に出かけて、消息を絶って。男爵も暫くしてから消えたね。なにか王妃の勘気を被って、始末されたんじゃないの? あの王妃、結構好きだから。トカゲのしっぽ切り」
 魔女じみた「けけけ」という笑い声を上げるエルナ。そういえば、と。クラウディアは、辺境の関守・ラトウィスを思い出す。彼は完全に王妃から見捨てられている。アーシェルの民が彼を許すことはない。水も食料も与えぬまま、小屋で飢え死にさせるだろう。一瞬の苦痛で命を奪うようなことはせず、今まで自身らが受けてきた仕打ちに対する恨みを晴らすまで、甚振り続けるに違いない。
 王妃の実家であるレンティルグ辺境候、そちらの方の動きもなく。いまは粛々とウィルフリートとマリエフレド公女の婚礼の準備が進んでいるだけである。彼らの婚姻が成立したのち、王妃の刃は再びディグルに、そしてクラウディアに向けられるだろう。今度は、どんな方法でやってくるか。
(負けなくてよ)
 王妃との対決を考えると、精神が高揚する。どうやって相手を倒すか、考えるだけで鼓動が速くなる。クラウディアの口元に浮かぶ微笑の意味を察してか、エルナが小さく息をついた。
「お転婆なお妃を持つと、殿下も大変だねえ」
 ルーラもね、と、付け加えて。彼女は車窓の外に視線を向けた。


 おかえりなさい。
 よくぞ無事で。
 元気そうね。

 ――会ったときにどのような言葉をかけようか、あれこれ考えていたのだが。実際にかの人を目にしたときには
「ルーラ」
 名を呼ぶことしかできなかった。別れたときと同じ、寸分違わぬ姿でルーラはそこにいた。王太子夫妻を前に、部屋の隅に膝を屈し、言葉を許されるのを待っている。顔にかかる銀の髪が、あのときよりも少し伸びているのではないか――クラウディアはそんなことを考えた。もう、どれだけ彼女に会っていなかったろう。懐かしさと嬉しさで満たされた心を抑えることができず、彼女は自らルーラに歩み寄った。
「顔を見せて頂戴」
 彼女の前に座り込む。と、ルーラは弾かれたように顔を上げた。その眼が、何かに怯えるようにクラウディアを見つめ
「わたしは」
 掠れた声が唇から零れた。
「よかった。また、会えて」
 腕を伸ばし、ルーラの頭を抱きしめる。呆然と王太子妃に従っていたルーラだったが、その小ぶりな胸に顔を埋めていることに気づくと、慌てて離れようともがき、
「妃殿下、お身が穢れます」
 狼狽した声を上げる。まだ、彼女は己の正体を知られたくないのだ――そう思うと、切なさがこみ上げた。もう、解っている。ルーラが女でないことを知っている。それを告げた方が良いのではないかと思う。そうすれば、彼女がこれ以上辛い思いをしなくて済む。
 けれども。
 そこで迷うのだ。クラウディアに穢れた身を知られた時点で、ルーラは王宮を去るのではないかと予想できるだけに。
「気にしないで頂戴。もっと、ちゃんと顔を見せて」
 言われることすら、辛いのだろう。否、辛いに決まっているとクラウディアは思う。思うが、自身の気持ちを優先させたい。片翼が傍にいない今、ルーラの体温を、その存在を感じていたい。
「妃殿下」
 青い瞳に、古代紫の視線が映り込む。ルーラは戸惑いがちに視線を揺らしたが、その瞳の奥にある感情までは読み取れない。しばしの間、困惑した表情でクラウディアを見つめていた彼女だったが、思い出したように
「皇女殿下から、妃殿下へお渡しするように言い使っております」
 懐から小さな革袋を取り出す。皇女殿下? ――クラウディアは首を傾げた。カルノリアのアレクシア皇女、彼女と会ったのだろうかルーラは。一瞬そう考えて、それが思い違いであることに気づいた。ルーラの差し出す革袋、その中から摘まみ出した指輪を見て、
「サリカ……!」
 クラウディアは片翼の名を叫んだ。この指輪には見覚えがある。ティルデに貰ったのだと喜んで片翼がいつも身につけていたものだ。神聖帝国の紋章と、帝室の紋章が刻まれた指輪。確か、この裏には文字が刻まれていて……。
「サリカに、――アグネイヤに、会ったの?」
 問いかけに、ルーラは頷いた。クラウディアは、ああ、と呻き、強く指輪を握りしめる。エルナの報告通り、片翼は生きていた。叔父の魔手から逃れ、逃亡に成功したのだ。
「ユリシエルに向かう、と。そう仰っていました」
 ルーラの言葉に、幾度も頷く。カルノリア、あの国であれば、安全だ。ジェルファの手も届かない。ミアルシァも手を出しようがない。それ以前に、敵対している国に亡命しているなど、考えることもないだろう。
「悪運の強い娘だな」
 背後でディグルの呟きが聞こえる。クラウディアは振り返り
「わたしの分身だもの。強いはずよ?」
 不敵な笑みを浮かべた。その様子を部屋の隅から伺っていたエルナは、とうとう堪え切れずに笑いだす。腹を抱えて転げ回る同胞に、ルーラは不機嫌さを隠さず
「エルナ」
 咎めるように名を呼んだ。それでも、エルナの笑いは止まらない。
「あの人は放っておいて、と。ところでルーラ、エリシア前妃は? お会いすることはできたの?」
 クラウディアの問いかけに、ディグルとルーラ、ふたりの表情がこわばる。ディグルは心持ち身を乗り出し、答えを促すようにルーラの口元を見つめた。
「それは……」
 ルーラは、初めにディグルを、ついでクラウディアを見、
「後ほど。後ほど、殿下にお話しいたします」
 絞り出すような低い声で告げたのだった。


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