AgneiyaIV
第三章 深淵の鴉 
4.姦計(3)


 余韻が、体の隅々に残っている。
「ん……」
 甘い息をつき、アグネイヤはジェリオに身を摺り寄せた。じかに触れる肌は、温かく、熱い。魂までも温めてくれるような、そんな気がする。ここ数日覚えていた、寂しさ、疎外感。それが、このひとときの愛撫で払拭されたようだ。自分のあまりの現金さに僅かに苦笑を洩らせば、ジェリオの掌がゆっくりと彼女の頬を包みこんできた。
「あれだけ可愛がってやったのに、まだ、ご不満か? お姫様」
 耳朶に当たる声に、身体が震える。
 可愛がる――以前、旅の途中でよく耳にした言葉だ。それは、こういった行為を指していることなのだと薄々は気付いていたが。まさか、自分がその行為に馴染んでしまうとは思いもしなかった。とはいえ、彼に全てを許したわけではない。最後の一線だけは、守られている。そこで彼が満足しているはずがないと思いつつも、どうしても、彼の優しさに甘えてしまう自分がいる。

 ――いい、か?

 潤んだ瞳で尋ねる彼に、頷くことは出来なかった。まだ、指や舌を受け入れるだけで精一杯である。あの恐ろしい彼の一部を迎え入れることはできない。第一、それが自身の中に埋め込まれるなど――不可能としか思えないのだ。そのかわり、と。彼女は自ら進んで彼のそれを口に含んだ。そうすれば、彼も少しは楽になれると気づいたからなのだが。
 高貴なる姫君の思わぬ奉仕に、ジェリオは若干驚いた様子ではあった。が、しかし。どうすればよいのか戸惑うアグネイヤに、的確な指示を与えてくれた。
 彼女のぎこちなくはあるが想いの籠った愛撫を受けて、ジェリオは絶頂を迎え――アグネイヤは、彼の放った欲望を余すことなく呑み下した。
 行為のあと口付けした際にその味が残っていたのだろう、ジェリオは苦い笑みを口元で噛み殺し、

 ――悪りぃ。

 アグネイヤを抱き寄せ、頬を寄せてきた。同時に施された、あやすような愛撫が心地よくて。アグネイヤは彼の腕の中で暫しの間眠りに落ちた。目が覚めた後、隣に彼がいることを確認し、肌に彼の名残があることにも悦びを覚えて、思わずその身に縋りついてしまったのだったが。それは、はしたない行為ではなかったのか。

 ――可愛がってやったのに。

 彼は、アグネイヤが再び彼の愛撫を求めていると、そう考えたのかもしれない。確かに、少し――いな、かなり。積極的な行動と取れなくもなかったのだが。違う、と言って身をもぎ離すことも出来なかった。出来ることならば、このままずっと彼の温もりに包まれていたい。アグネイヤは赤面した顔を隠すように俯き、彼の胸により一層強く頬を押しつける。だが。
「皇女さん」
 呼ばれた『名』に、余韻が薄れた。皇女さん――この期に及んで、彼はまだ、アグネイヤをそう呼ぶのか。一抹の寂しさが、胸に湧き上がる。僅かに身を固くしたアグネイヤの反応をどう受け止めたのか、背に回されたジェリオの手に、より一層力が込められた。頬を包む掌がゆっくりと愛撫を開始し、自然にアグネイヤが顔を上げるように導いて行く。軽い失望を映した顔を見られたくない、その思いが、アグネイヤの身を一層固くさせる。
「あんたの名前、長ったらしいな」
 エリアス・リュディガ・アヤルカス・ティル・アグネイヤ、と、彼女の名を呟いた彼は、
「いちいちそんな長ったらしい名前で呼ばれちゃいないだろ? なんて呼ばれてんだ? 身内からは」
 アグネイヤの頤に指をかけ、強引に仰向かせた。息がかかるほどに、彼の顔が近い。アグネイヤは深い褐色の双眸を凝視した。引き込まれる、そんな錯覚に心が震える。
「サリカ」
 片翼も、母后も、叔父も。彼女のことはそう呼んだ。宵の明星を表す、アグネイヤの幼名。
(ああ)
 ジェリオは忘れているのだ。そのことすらも。グランスティアの離宮で、クラウディアがアグネイヤをそう呼んでいたことも、ミムらの前でそう名乗ったことも、全て。
 忘れている。
 そう考えると、寂しかった。あの頃のジェリオとはまるで別人なのかもしれないと思うと、なにか心が重苦しくなる。愛おしい、そう思った相手は、今のジェリオなのか。それとも、以前のジェリオなのか。解らなかった。解らなくなってしまった。
「サリカ」
 ジェリオが繰り返す。そこで改めて、アグネイヤは自身の名がやけに愛らしい、少女らしい名前だということに気づいて赤面した。
「サリカ」
 今度は、熱く囁くように。彼に名を呼ばれた。知らず、こくりと息を呑む。
「前に、あんたのお袋……コウタイゴウヘイカが、俺たちの仲を認めてくれた」
「え?」
 思わぬ事実に、アグネイヤは目を見開いた。母后は、ジェリオに対してそのようなことを言っていたのか。思った刹那、さらに頬が熱くなる。母后は、こうなることを見越していたのだ。アグネイヤがジェリオに惹かれるであろうことを予測して、そのようなことを口にした――だが。
 ジェリオは元はといえば、フィラティノアの刺客である。エルディン・ロウの暗殺者のひとりである。その彼に、アグネイヤを託すとは。母后もなかなかに大胆な人物だったのかもしれぬ。
「それはそれとして、だな。だったら、俺の方もきちんとしないといけないだろうとか。その、なんだ」
 急に歯切れが悪くなる。言いにくそうに言葉を濁すジェリオに、アグネイヤは首を傾げた。
「俺も、こんな状態ではあるけれども、その……あああ、なんで全部言わせようとするんだ、あんたは」
 今度は一人で勝手にキレたらしい。
 アグネイヤはきょとんと眼を見開いた。その真摯な瞳に気まずさを覚えたのか、それとも、単に自身の中の何かを吹っ切るつもりになったのか。一瞬顔を歪めた彼は、アグネイヤを砕けんばかりに抱きしめる。いつにない激しさに、アグネイヤの骨が悲鳴を上げたが、彼はそのようなところにまで気を配る余裕はないらしい。苦痛にもがくアグネイヤの髪に唇を押しつけて、
「だから。記憶が戻るかどうかは別にして、俺も、お袋に……」
 お袋に?
「……」
 彼の言わんとすることに気づいた途端、心臓が大きく跳ねた。
 逃亡先にユリシエルを選んだ。それは、つまり。
(僕を、母上に紹介するつもりなのか?)
 ユリシエルにいるであろう、ジェリオの生母。彼女の元に行けば、それなりに記憶が戻るかもしれない。戻らずとも、生みの親であれば息子の姿を見間違うことなどないだろう。その人に対面したときに、伴侶であるとアグネイヤを紹介する――考えるだけで、鼓動が速くなる。視界が滲む。どうして良いのか、どう答えればよいのか、わからない。
「ジェ……リオ」
 アグネイヤがかすれた声で彼を呼ぶと同時に、深く唇を重ねられた。わかるだろう? と、彼は尋ねているのかもしれない。唇を吸われる甘い感覚に、アグネイヤが酔い始めると、彼はすかさず舌を差し込んできた。熱い彼の想いが、乱暴に彼女のそれを絡め取る。合わせて背に回されていた彼の手が、体の線をなぞりながら尻へとおりて行き。
「――あ、いやっ」
 背後から攻められそうになり、アグネイヤは慌てて彼から離れようともがいた。
「やめない」
 甘く潤んだ眼が、アグネイヤを見つめる。腹部に押し付けられる彼自身の昂ぶりを感じ、アグネイヤは小さく悲鳴を上げた。だがジェリオは、凌辱から逃れようとする華奢な身体をなんなく組み伏せ、体重をかけて抑え込みながら、
「限界、なんだよ」
 甘さとはかけ離れた、苦渋に満ちた声を漏らす。アグネイヤは、はっとした。彼の中に、葛藤が生まれたのだ。彼の心の奥底に巣くった、ドゥランディア。その毒が、じわじわと彼を冒し始めている。その証拠に、彼の愛撫からは優しさが消えていた。アグネイヤの肌を掴み、弄び、穢そうとする、獣の本能剥き出しの行為になりつつある。
「はなせっ」
 こんなジェリオには抱かれたくない。こんな形で結ばれても、互いに傷つくだけだ。ジェリオもそれは解っているはずなのに――ドゥランディアの呪いには勝てないのか。
「いや……」
 声は、口付けに奪われる。彼は強引に彼女の脚を割り、奥へと指を進めてきた。それを阻むように身をよじらせてはみるものの、彼の巧みな動きの前には無駄な抵抗でしかない。
「あ……っ」
 花園へと続く扉、そこに彼の指先が触れる――アグネイヤが観念して目を閉じたときだった。

「もし、お客様」

 だんだん、という激しく扉を叩く音とともに、声が掛けられた。アグネイヤが目を見開くと同時に、ジェリオもツキモノが落ちたかのように動きを止める。その間にするりと彼の手を交わした彼女は、寝台の隅へと身を寄せた。
「お客様、お客様」
 声をかけているのは、宿の主人だ。彼は、室内で何が行われているか――行われていたかなど、想像もしていないだろう。ただひたすらに、中の泊り客を呼んでいる。
「はい、何か」
 アグネイヤは冷静を装って、声を張った。
「お寛ぎ中のところ、申し訳ございません」
 形式通りの詫びが聞こえ、間髪をいれずに早口の説明が続く。
「お宿の改めでございます。お役人が見えますので、そのまま。そのまま、お部屋にいらしてくださいませ」
 切迫した声だった。アグネイヤは眉を潜め、ジェリオの様子を窺う。彼は頭痛を覚えたか、眉間に皺をよせて歯を食いしばっていたが、事態は察しているらしい。
「……」
 下手に騒ぎ立てるな、そう言った意味合いを持つ視線をこちらに投げてよこし、徐に手を伸ばすと脱ぎ捨ててあった自身の服を身につけ始める。アグネイヤもそれに倣い、寝台脇に置かれた自分の衣装を引き寄せた。
 宿改め――役人の目的はわからぬが。身体も探られてしまったら、男性でないことがばれてしまう。そうなった場合、言い訳はできるのか。ひやりとした感覚が、胃の辺りから込み上げる。アグネイヤは先程までジェリオに弄ばれていた乳房を布で覆いつつ、小さく息をついた。


 宿改めという言葉の物々しさに、緊張を隠せぬアグネイヤであったが。部屋を訪れた役人――短く刈り込んだ金髪を丁寧に撫でつけた物腰柔らかな壮年男性と、彼の部下らしき金褐色の髪の青年、秘書らしき亜麻色の髪の女性は、
「男性二人、セルニダの男爵の御子息ですか」
 男爵の息子とその従者、という通行証を目にして、軽く頷いただけで
「御手間を取らせましたな」
 良い旅を――にこやかにあいさつまで残して、去っていった。幾度、瞬きを繰り返す程度の時間であったか。ごく短い時間だと、アグネイヤは認識した。灯された蝋燭も、さして減ってはいない。
 ともあれ、アグネイヤ達が宿改めの対象者でないことは確かであった。でなければ、これほどあっさりと役人が引き下がるわけがない。
「誰を探しているんだろうね」
 壁にもたれ腕を組むジェリオを、振り返る。彼は僅かに睫毛を揺らすだけで、何も答えない。蝋燭の灯を宿す褐色の瞳に、暗い影が走ったのを、アグネイヤは見逃さなかったが、気付かぬふりをした。彼も、それを指摘されたくはないだろう。行為を中断され、不満を持っている彼に対し、安堵の表情を浮かべるアグネイヤ。彼女のほっとした顔など、見たくはないはずだ。
「……」
 アグネイヤは、彼から視線を逸らした。
(僕だって)
 彼の顔を見るのは、辛い。あの、思いつめた瞳――徐々に苦悶の色が濃くなっていく、双眸。変化を目の当たりにしているのだ。アグネイヤが全てを捧げれば、彼の呪縛が解ける。それが保障されているのであればまだしも、確証はない。けれども、ジェリオがアグネイヤを愛おしいと思っている今であれば、情交を以ての解呪が可能かもしれぬ。それも、解っている。解っているだけに、気が重い。身体を許してしまった後の関係を考えると、心に鉛を流し込まれたような沈鬱な気持ちになる。

「もし、お客様」

 沈黙を破るかのように、再び主人の声が聞こえた。遠慮がちに扉が叩かれ、
「どうぞ」
 アグネイヤが声をかけると、静かに木戸が開く。そこから顔を覗かせた主人は、
「あのう……」
 言いにくそうに口ごもった。彼の視線が室内を彷徨っている、ということは。誰かを探しているのだ。誰か――つまり、彼女らの知り合いであるらしい、と彼が判断している人物。
「ルーラですか?」
 アグネイヤが尋ねると、主人の頬が染まる。図星だったのだ。先程出かけたきり、ルーラは帰っていないのだろう。
 もう、だいぶ時間はたっているはずなのだが。
 そう考えて、今度はアグネイヤが赤面した。ジェリオと睦み合って、すっかりルーラのことを忘れていた。もしも彼女が部屋に戻っていたならば、隣室の気配を察していたのではないか、アグネイヤのはしたない声を聞いていたのではないか、と。そちらの方が不安になる。
 幸い、彼女は戻っていなかった。だが、それは新たな問題の火種になってしまうかもしれない。アグネイヤは胸を過ぎる予感を振り払い、
「彼女が戻っていない、と?」
 主人の返答を婉曲的に促した。彼は幾分ほっとした顔をして、小さく頷き
「さようでございます」
 頷きに負けず劣らず小さな声で告げる。宿改めの際、ルーラの姿がなかった。それを不審に思った役人が、再びここを訪れたのだと。
 もしや、役人たちが追っているのはルーラなのではあるまいか。
 一瞬、最悪の予想が脳裏を掠めた。だが、そうであればルーラのこと、宿になど泊まることなくどこかで野営をするだろう。そう、昨夜ジェリオと自分が夜露を凌いだあの神殿。あの辺りまで足をのばして。
 宿の主人が恐る恐る続けた言葉、それがさらにアグネイヤの不安を煽る。
「あのご婦人は、まこと、女性でいらっしゃるのですよね?」
 びくん、と、肩が震えた。それを、悟られてしまったのではないか。アグネイヤは慌てて咳払いで誤魔化し、「そうだ」と答える。即答に主人は気を良くしたのか、
「そうでしょう、そうでしょうとも」
 今度は酷く上機嫌になり、満面の笑みを浮かべる。曰く、役人が追っているのは、銀髪の青年なのだそうだ。なんでも最近、カルノリアの首都に出没し、大貴族ばかりを狙って盗みを働いているという。しかも奪った金品は貧しい者たちに分け与えてるのだというのだから、
「義賊、というのでしょうかね、市民たちには人気があるそうです」
 そんな芝居みたいな話があるのでしょうかね、と、主人は首を捻る。
 はっきりとその姿を見た者はいないが、遠目に見たところ、雪に溶け込む純白の衣装をまとった銀髪の青年、と囁かれている。市民たちには、『白銀(しろがね)の騎士』と呼ばれていると、役人が言っていた――宿の主人は言い終えてから肩をすくめた。
「まあ、こういっちゃなんですがね」
 彼は声を潜め、アグネイヤの耳元に囁く。
「ユリシエルは、いま、ちょっとした混乱期にあるそうですよ。それに乗じて、良からぬ人々が暗躍しているとかなんとか。本当か嘘かはわからないですけどね、こちらのご領主さまの奥様、その方がもしかしたら次期皇帝陛下になられるかもしれない、とか。そう言った噂も流れていますしね。タティアン大公領も、この先どうなることか」
 カルノリア帝室の後継者問題を巡り、宮廷どころか国中が揺れていると彼は言う。確かに、病弱な皇太子エルメイヤは、後継としては心もとなく。彼のすぐ上の姉、聡明と名高いアレクシア皇女を皇帝にとの声が日々高まっていることも事実であり。アグネイヤもその噂は何度も耳にしていた。カルノリアは女帝を認めてはいない。もしも、アレクシアを女帝として立てるのであれば、もっと相応しい人物がいるはず――それが、現皇帝の妹にして、先代皇帝の唯一の嫡出子であるタティアン大公妃・ナディアに他ならない、と。彼女を推す人々も少なくはなかった。
「御客様方の目的地は、ユリシエルでございましょう? お気をつけていらしてくださいませ」
 ひとしきり喋ったあと、己の罪悪感を消すことに成功したのか宿の主人は下がっていった。それを見送り、アグネイヤは吐息を一つ。混乱したユリシエルは、国を追われる皇帝が身を隠すに相応しい街と言えるかどうか。先を考えると、溜息しか漏れてはこない。
(僕自身が、皇帝として返り咲くことはなくても)
 自身の血を受けたものが、皇帝として再び神聖帝国を興せばいいのではないか。ふと、そんなことを考えてしまう。それは、心がくじけた証なのか。それとも――。
 それとも。
「……」
 旅を続けるには、まだ、覚悟が足りない。もう少し、強くならなくてはいけない。
 二百年前、陥落する首都を脱出したクラウディア一世のように。巫女姫の身代わりとして、炎に消えたエルシュアードのように。一人、帝国の再興を志し、大陸を彷徨したアグネイヤ一世のように。
 アグネイヤは強く拳を握りしめる。
 どうすれば、強くなれるのだろう。脆い心を捨てられるのだろう。切り捨てられる潔さを持つことができるようになるのだろう。
(クラウディア)
 心の奥で呼ぶのは、ジェリオではない。魂の片翼、まことのアグネイヤ四世。自身と同じ面差を思い浮かべ、アグネイヤは虚空を仰ぎ見る。



 宿を出たルーラが向かった先は、裏路地の一角。小さな居酒屋だった。木戸を押し開け中に入れば、景気の良い声が客を迎える。それに応えることなく奥へと歩を進め、気だるげに椅子に身を投げ出している酌婦の一人を捕まえると
「主人を呼んでくれ」
 早口に告げる。酌婦はけばけばしく飾り立てた顔を歪めたが、断る様子もなく。のろのろと身を起こし、厨房へと声をかけた。
「旦那。巫女さんがお見えだよ」
 巫女さん、の言葉に、ルーラの眉が僅かに上がる。この酌婦もやはり
(裏巫女、か)
 いったい、フィラティノアは北方のどこにまで裏巫女を配しているのだろう。男性としての機能を失った、紛い物の女たち。彼女らを諸国に散らし、情報を収集する。それは、フィラティノア王家の昔からのやり方であったと聞く。かの王家のはっきりとした出自はわからない。だが、神聖帝国に関係していることは確かなのだ。傍系の血筋を持つ一族なのか、それとも、生き延びたエルシュアードを祖としているのか。ともあれ、その情報収集能力にかけては、大陸随一であろうと思う。無論、暗殺者集団としても恐れられる大陸の狼・エルディン・ロウのそれには及ばないことは重々承知している。だが、彼らと渡り合ったとしても、遜色はないのではないか。オルネラに身を置いていたときに、ルーラは時折そんなことを考えた。だからこそ、一度エルディン・ロウとは接触を図ってみたい、と。
 アグネイヤ暗殺の要員として、エルディン・ロウの暗殺者を推薦したのは、他ならぬルーラであった。エルディン・ロウであれば、しくじることはない。だが、アグネイヤはその刺客を返り討ちにし、あまつさえ再度放った刺客を取り込んでしまった。
(妃殿下ならまだしも)
 あの頼りない小娘のどこに、そのような力があるのか。信じがたい。大方、身体を餌に媚を売っているのだろうと考えていたのだが――何かが違う。アグネイヤには、クラウディアにはない魅力がある。それが、
 許し。
 癒し。
(ばかな)
 殺伐とした日常に身を置く自分が、安らいでどうする。癒されてどうするのだ。ルーラは唇の端に苦笑を散らす。
「おお、お待たせ」
 椅子に腰かけ、酌婦に身をやつした裏巫女の酌を受けていたルーラの前に、小太りの男性が現れた。裏巫女同士の繋ぎ役。下賤な言い方をすれば、『元締め』と言ったところか。その地位に相応しからぬどこかしら愛嬌のある顔立ちと、人懐っこさを感じさせる温かい声、あしらいの上手い口に騙されている人々はどれほどいるだろうか。ルーラが彼に黙礼を送ると、酒場の主人は前掛で手を拭きながら愛想笑いを浮かべた。
「おやおやこれは、ご婦人、一人旅はさぞお寂しかったでしょう。いま、ご婦人に相応しい貴公子を用意いたしますからね、もそっとお待ちになってくださいね」
 それを聞いた他の客たちが、にやりと下卑た笑いを浮かべる。この居酒屋は、出会いを斡旋する場所としても利用されているのだ。年頃の男女の火遊び、その相手を見繕ってあてがう。居酒屋の二階に設けられた宿は、愛の営みに使われる隠れ家であった。
「ご案内して」
 主人の言葉を受けて、酌婦がルーラに顎をしゃくる。ルーラは黙って彼女に従った。このような手間を取らずとも、直接二階に上がってしまえば良いのだが。どこで誰の目が光っているとも限らない。秘密を隠すには、別の秘密を用いる――オルネラ特有の方法は、ルーラにはまどろっこしく感じられるのだ。
 二階の一番奥、寝台のみが置かれた部屋に通されたルーラを待っていたのは、情事の相手ではなく。一通の書簡であった。彼女が来訪する前に、既に用意されていたのだろう。主人の手際の良さに、ルーラは舌を巻いた。
 探索に出向いた際は、こうして元締めのいる中継点で情報を受け取る。これも裏巫女独特の方法だった。ルーラは書簡の封を切り、中の文書に目を通す。書かれている文字は少ない。当然のごとく、暗号を使った書状である。それを解読しながら読むのは、若干骨が折れる作業であったが、もとより慣れた行為である。僅かの時間で内容をすべて把握した彼女は、眉間に深く皺を刻んだ。
「神聖帝国が」
 滅びる。
 それで、アグネイヤとジェリオは、このようなところにいるのだ。大方、身柄を確保されることを恐れての亡命なのだろう。それも、非公式なものだ。
「……」
 もしも。もしもここで。アグネイヤ四世を殺害してしまえば。主君の妃であるクラウディア、彼女がその正当なる後継者として名乗りを上げることができる。
 ルーラの心に、暗い炎が灯るまで、そう時間はかからなかった。


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