AgneiyaIV
第三章 深淵の鴉 
3.出奔(4)


 神聖皇帝アグネイヤ四世。まがりなりにも夫であるかのひとに対面したことは、数えるほどしかない。皇宮へと潜入したカルノリアの密偵たちが、巫女姫をかどわかすという暴挙に出た折に遭遇したのが、初対面で。その後は式典の折に傍に座ることは座るが、別段言葉を交わすことはなかった。ことに、アグネイヤ四世が離宮へと身柄を移され、政治の実権を皇太后及び宰相が握ってしまったのちは、シェラは巫女姫付の武官のごとく、イリアの元にとどまっていたのだ。
 ゆえに。皇帝からの呼び出しには驚いた。
 カルノリアの大事に関わること、直ちにアシャンティまで来るようにとの報せを得たシェラは、半信半疑でかの土地まで馬を飛ばした。そこで聞かされたのは、従姉でもある皇女ソフィアの悲運と、彼女の侍女シェリルの不本意な末路。そして、大陸の闇に蠢く陰謀の一端であった。

 ――ルカンド伯の暗殺も、この件に関わっていると見たが?

 皇帝の古代紫(むらさき)の瞳に正面から見据えられ、シェラは言葉を失った。ルカンド伯暗殺に関して、シェラが知ることは何もない。けれども、大方の予想はついている。彼の殺害を示唆したのは、父だ。そして、その手引きをしたのは、シェルニアータ――ルカンド伯の義理の娘にして、シェラの姉。ルカンド伯はカルノリアへの利権のためにシェルニアータを迎えたが、その実、身の内に密偵という名の毒蛇を招き入れてしまったのである。おそらく、シェルニアータは父である第一将軍に事細かにルカンド伯の情報を流していたのだろう。彼の動きに危機を覚えた第一将軍は、刺客を放ち伯爵を暗殺した。
(まさか、ルカンド伯の裏に、セグまで関わっているとはね)
 シェラは苦笑した。流石の父も、そこまでは気付いてはいないだろう。否、気付いたところで王族相手に手を出すことは難しい。一介の伯爵であるルカンドであればまだしも、セグの公子を暗殺するとなると、相応の準備も人手も必要となる。あるいは、大陸の狼エルディン・ロウを雇えば良いのかもしれぬが。そういった外部の者に機密を漏らすことをカルノリアの重臣たちは何よりも嫌った。人種の坩堝であるから、おおらかであると見られがちであるが、その実カルノリアは保守的であった。だからこそ、異国の魔術師、錬金術師、及び占い師等を平然と身辺に侍らせている皇妃が、胡乱な眼で見られるのだ。
(そういえば)
 伯母――皇后ハルゲイザの傍に侍る、神官アロイス。彼は今も伯母の気に入りなのだろうか。目にも鮮やかな金髪と、若草を思わせる澄んだ緑の瞳。女性と見まごうほどに整った容貌を持つあのよそ者に、伯母が心を許してからどれだけの年月が経ったであろう。考えてみれば、アロイスも異邦人である。歴とした出自は解ってはいない。ただ、西方で医学の基礎を学んできたという触れ込みで、皇宮へといつの間にか入り込んでいたという。シェラが物心ついたころには既に伯母の傍らにあったのだから、かれこれ二十年近くはいるのではないか。『よそ者』を厭う重臣たちも、皇后の彼に対する入れ込みように眉をひそめることはあっても、表だって抗議することはできないでいた。だからこそ、異質の存在でありながらも、あの男は長らく宮廷に仕えていられるのだろうが。
 もしや、彼も陰謀に加担しているのではないか。
 ふと、不吉な思いが胸をかすめる。
 これは一度、帰国をした方がよいのかもしれない。思ったのだが。
(ねえさま)
 シェラは寝台に横たわる皇女を見下ろし、密かに息をついた。彼女を置いて、ここを出るわけにはいかない。

 塔に食事を運ぶ係は、下級貴族の娘に与えられる仕事であった。彼女らは日々交替して、ソフィアの世話に当たっているという。囚われの皇女に食事を与え、情交の後の始末をし、部屋の掃除をする。湯浴みの手伝いをする。それくらいしか仕事はなく、寧ろ楽なものだと思うのだが、どの侍女も、口をそろえて言うのだ。

 ――塔には、行きたくありません。

 華やかな宮廷の陰湿な部分を目の当たりにして、喜ぶ娘はいない。貴族階級にあったとしても、下級のそれに位置する家の娘は、両親の期待を一身に背負い、宮廷において少しでも上の階級の令息との縁を結ぼうと躍起になっている。そのためには、大公なり公子なり、その妃たちなりの侍女となることが望ましい。が、概ね王族の傍に侍るのは、家格は低くとも名家の娘と決まっている。そうでない場合は、宮廷内における雑務を担当することとなるのだが。宴や式典、その他諸々の表舞台に携わることを彼女たちは求めるのだ。間違っても、捕らわれ人の世話などという地味な役目には付きたがらない。しかも、情事の後始末をさせられるなど――若い娘には耐えがたい仕事だろう。
 はじめは、うまく公子の目にとまれば、お手付きとして側室の一人に加えてもらえるかもしれないと喜んでいたであろう娘たちも、公子の性格を知るにつれ、彼を敬遠するようになってくる。
 自然、塔に関わる仕事は、誰もが嫌がるものとなっていた。が、それがシェラにとっては好都合であった。うまくセグディアに潜入し、公宮に娘が上がっているという貴族と接触することができたのだ。彼女が宿下がりをしたことをきっかけに、その貴族の妾腹の娘という触れ込みで、塔の仕事を得たのである。初の夜勤となった今夜が、ソフィア皇女に対面するまたとない機会であった。できることであれば、そのまま彼女を連れて逃亡するか。それとも、自身が身代わりとなり、皇女を逃がすか。思案しては、いた。
 しかし。ソフィアと対面して、その考えは大きく揺らいだ。
「……」
 眠る従姉の髪を優しく梳いて、シェラは今一度息をつく。カルノリアの至宝、ユリシエルの名花と謳われた美しき皇女、ルフィーナ・イルザ・ソフィア・イリーナ。彼女は見る影もなくやつれていた。やつれ果てていた。
 婚礼の折に送られた指輪、それが今では親指すら受け付けない。それほどに、彼女はやせ細っていたのだ。食事もろくに取らない、とは、塔付の侍女たちがこぼしていた。ソフィアが健康を損なえば、叱責されるのは彼女らである。自分の身可愛さに、彼女らは初めは必死に食事を勧めていたが。

 ――もう、好きにしてください、と申し上げるよりほかございませんわ。

 最年長の侍女がこぼした言葉に、他の侍女たちも揃って頷いていた。
 ソフィアが彼女たちにとって荷物であることは間違いない。
(せめて、少しは体力を回復してもらわねば)
 それが最優先だった。ふっくらとしていた頬は肉が削げ落ち、これがあのソフィア姫か、と嘗ての彼女を知る者は驚くだろう。おそらく、暗殺されたソフィアの夫も、冥府で嘆いているに違いない。なにより、この姿を皇帝シェルキス二世に見せることはできない。汚辱にまみれ、生気を失った皇女の姿を見たら、彼はどれほど悲しむか。
 心優しき伯父の悲痛な心の叫びを想像するだけで、シェラの胸も痛んだ。

 今宵は、ソフィアも少しは安心して眠ることができるだろうか。せめて、自分が傍にいるときだけでも、心安らげれば良いのだが。
(わたしは、シェリルの代わりにも、夫君の代わりにもなれませんが)
 ここにいる間は、従姉の拠所でありたい。


「エリシュ」
 呼ばれて、それが自身のことであると認識するまでに、しばしの時を要した。塔を出て、侍女の詰所へと戻ったシェラを迎えたのは、侍女頭である。彼女は呆れたような、驚いたような。複雑な表情をシェラに向けて。
「あなた、よく朝まで塔にいられましたね」
 表情と同じ呆れが混ざった声でそう述べた。詰所に待機していた侍女も、同様の目でシェラを見つめている。初めてシェラがここを訪れた日に、

 ――こんな仕事をするくらいなら、お城を辞したいですわ。

 そう嘆いていた娘だ。彼女は塔の仕事に不平を言わぬどころか、辱められたソフィアの身体を清め、朝まで彼女についていたのであろうシェラに、珍獣でも見るような眼を向ける。同情だけでそこまでできてしまうシェラに、ある意味感動を覚えているのかもしれないが。その眼は決して温かいものではなかった。
「その、第二公子夫人は、……落ち着かれていましたか?」
 侍女頭の問いに、シェラは頷く。
「ああ、あなたの亜麻色の髪、それに安心されたのでしょうね。カルノリアにも、そんな髪の方は多いのでしょう? 夫人は、ずっと傍にいらしたお気に入りの侍女が出奔してから、それは寂しそうにしていらっしゃいましたし。――まあ、ねえ、いくら夫人の覚えめでたい侍女とはいっても、第二公子様が亡くなられてからは、その、……」
 少し言いにくそうに言葉を切ってから、侍女頭は辺りを憚るように声を落とす。
「第一公子様のお妃になられるとか、そんなお話も出ていたようですけど。お断りになられたそうで」
 だから、塔に閉じ込められてしまったのだ、と。噂好きの雀さながらに彼女は語った。
「あの侍女殿もご一緒に閉じ込められるところでしたのよ。それを恐れて、先に逃げ出してしまったのでしょうね。ええ、若い娘さんですもの、恐ろしかったことでしょうね」
 もともと、ソフィアの婿は第一公子であった。が、見合いの席に同席していた第二公子とソフィアが恋に落ちたため、彼女は第二公子と縁付いたのだ。そこまでは、シェラも知っている。だが、そこから先は、神聖皇帝を介して聞かされたことであり。いま一つ確証がないものであった。
 第一公子としては、是が非でもソフィアを手元にとどめておきたいことだろう。大国の皇女であり、陰謀の一端を垣間見てしまった生き証人である彼女は、公子にとって離しがたい存在である。無論、ソフィアの心を奪ってしまえば、彼女は想い人の不利になるようなことは決して漏らさぬと考えるであろうが。仇を愛するほど、ソフィアは気楽な娘ではない。寧ろ、彼女は古風な考えの持ち主である。二夫にまみえられるほど、尻も軽くはない。
(切り替えの早い利己的な女性であれば、このような思いはせずとも済んだものを)
 シェラは内心嘆息する。けれども、そこが従姉の良いところなのだ。何物にも屈しない、意志の強さ。たおやかな見かけとはまるで違うその性格に、見る目のない者たちはどれだけ驚かされてきたことだろう。ソフィアは決して大人しくはない。従順でもない。四姉妹の中では最も気丈で芯が強い。それゆえ、シェルキス二世も彼女を異国へと嫁がせる気になったのだ。
「第一公子様は、皇女殿下を妃に迎えられるおつもりですか?」
 シェラの問いに、侍女頭は眉をひそめる。奥で繕いものをしていた若い侍女も、ソフィアの朝餉の支度をしている娘も、それぞれ密やかに視線を交わしていた。
「その、おつもりではあるようですけど……」
 侍女頭の歯切れが悪い。
「あのような扱いをされては、皇女殿下も公子様には心を開かれないでしょう」
 あれではまるで、抱き人形だ。公子の嗜虐心を満たすために飼われている獣――それでしかない。
「大公様は、どうお思いなのですか? ご嫡男のなされることには、口をはさまぬ主義なのでしょうか?」
 大公――その言葉がシェラの口から零れた刹那、侍女頭の顔色が変わる。さっと血の気が引いたその顔を見て、シェラは何かしらこの国の暗部に触れたような気がした。
「君主様は……」
 奥の侍女が言いかけるのを、侍女頭が視線で制す。彼女はシェラに向き直ると、
「それに関しては、いずれわかります」
 そっと耳打ちした。以降、侍女頭がシェラの問いに答えることはなく。彼女は宮廷へと戻って行ったのである。
 ソフィアに朝餉を運ぶために、侍女の一人が去った後。シェラは、残った侍女に声をかけた。侍女は繕いものをしていた手を止め、恐る恐る顔を上げる。一人この詰所に残された時点で、シェラの質問を受けることになるだろうことは、察していたのだろう。針を使う彼女の手はひどく覚束なくて。それが哀れに思えて、シェラは彼女を早く苦しみから解放すべく、先程と同じ問いを投げかけたのだ。
「大公様は、御子息のされることには無関心なのですか?」
 びくり、と。侍女の肩が揺れる。彼女は震える手でおくれ毛をかきあげると、周囲を見回す。そこに、自身とシェラのほかに誰もいないことを確かめると、彼女はか細い声で告げたのだ。
 私が言ったことは、内緒にしてください――前置いた彼女の唇から洩れた言葉は。
「多分、多分ですけど。君主様は、亡くなられているのではないか……皆、そう申しているのです」
「――まさか?」
 これにはシェラも驚いた。セグ大公が既に亡き者となっている――そんなはずはない。だとしたら、第一公子が黙っているはずがない。彼は父の葬儀もそこそこに、急ぎ大公の名を継承しそうなものであるが。

 セグの中にも、闇がある。
 闇なき場所など、この世にあるはずもないが。

 シェラは僅かに目を細め、ソフィアの囚われた塔を窓越しに仰ぎ見た。



「出奔、か」
 近習の報告に、ジェルファは何の感慨もなく頷いた。
 アグネイヤ四世の側室の一人、カルノリア第一将軍が息女シェルマリヤ。彼女の姿が見えぬというのだ。同時に、皇帝の正室であり神聖帝国の象徴たる存在、巫女姫イリアも。捕縛の一隊を向かわせたときには、二人とも消えていた。あるいは、変事を悟って逃亡を図ったか。それとも、カルノリアの鴉が正体を現し、巫女姫を拉致していったのか。
 逃亡したのだとしたら、
(鼠か)
 宰相の懐刀であり、皇太后の信頼も厚い、密偵リナレス。宮廷の中をも嗅ぎまわるあの小賢しい少年が、手を打ったのかもしれない。ならば、探しても無駄だろう。彼は恐ろしいまでに勘が働く。頭が切れる。あの、どこかしら頼りなげな風貌とは裏腹に、かなりの食わせ者だということは幼いころから骨身に沁みて知っている。
 そうだ。
 ジェルファがサリカに触れることが出来なかったのも、あの少年が傍で目を光らせていたからだ。二人きりだと思っていても、リナレスの視線は常にどこからかこちらを見ていた。サリカを守るように。慈しむように。
 ジェルファを牽制するように。
 あれは、あの少年もサリカに懸想しているからだ。護衛に徹することで彼は身分違いの恋を、許されぬ想いを、昇華していた。それが、ジェルファは羨ましかった。触れることが叶わずとも、リナレスは影のようにサリカに寄り添うことができる。彼女の素顔を知ることができる。なにより、屈託のない笑みを向けてもらえる。――乳兄弟、乳を分け合って育ったというだけで。
(兄、か)
 自分は、彼女の兄だ。実の兄だ。半分だけ、否、それよりも遥かに多く血の繋がった。母方では叔父・姪、父方では兄妹。これほどまでに強い結びつきはないだろうに。なぜ、サリカは自分を見ないのだろう。身内だというだけで、恋慕の対象外にしてしまうのだろう。
 それが、悔しかった。
 同じ血の共鳴、なにゆえそれに気づかない?
 双子同士は、あれほどまでに惹かれあっているというのに。
 正直、ジェルファの嫉妬の対象は、リナレスではなくクラウディア――マリサにあった。おそらくこの世で最もサリカの心を捉えているのは、マリサに他ならない。彼女がいる限り、サリカは他の存在に見向きもしない。だから、マリサが嫁いでくれたときは内心手をたたいて喜んだものだ。
 これで邪魔者は消えた、と。
 それでもなお、サリカはジェルファに肉親の情以上のものを抱いてはくれなかった。彼女にとって、ジェルファは叔父。もしくは従兄。ただ、それだけの存在。それ以上の地位を占めるには、どうしたらいい。力づくでも彼女を奪うしか方法はないのだろうか。
「巫女姫と、シェルマリヤ姫の件、如何いたしましょうか」
 更に捜索の手を広げましょうか――尋ねる近習に、ジェルファは頭を振った。必要なし、簡潔に答えると、徐に椅子から立ち上がる。華奢な体を支えるべく、傍らから侍女が二人駆け寄ったが、その手を拒絶して彼は窓辺に歩み寄る。
「残る側室は、ルクレツィア……彼女のみか」
 問いとも独り言ともつかぬ呟きに、近習は侍女と顔を見合わせる。
 ルクレツィアは、ミアルシァの姫。巫女姫やシェルマリヤとは扱いが異なる。アヤルカスを呑みこまんとしているミアルシァの、それも王族の娘には無体はせぬだろう――近習はそう考えているらしい。彼もミアルシァの血を引くものであり、当然かの王室への忠誠心は厚い。いくら『穢れた瞳』を持つ姫君とはいえ、ルクレツィアを粗雑に扱おうという気は毛頭ないはずだ。
 が。
「ルクレツィアを、本宮へ」
 そこで幽閉するのだ、とジェルファは言葉を続けた。近習は驚きを隠さずに
「陛下、それは」
 どういうつもりなのか。尋ねようとする近習を振り返ることなく、
「彼女には、神聖皇帝を務めてもらう」
 静かに笑った。

 ルクレツィアの髪は、漆黒。瞳の色は紫――青味の強い菫色である。遠目に見る限り、その色は判然としない。

「だから……だからと仰るのですか、陛下。だから、姫様を……」
 ルクレツィアとともに本宮へと連行された彼女の侍女アガタは、握りしめた手巾(ハンカチ)を揉み絞らんばかりに握りしめ、すがるようにアヤルカス国王ジェルファ一世を見上げた。
「どうやって知ったものか――おそらく、僕と叔母の話を意地汚く盗み聞いていたのだろう、あの鼠は。彼の一報が入れば、サリカは離宮を出る。逃れて、大叔母上のもとへ向かうはずだ」
 長椅子に腰をおろし、侍女の施す按摩(マッサージ)を受けながら、ジェルファは含み笑いを漏らす。
「大叔母上への手は打ってある。かの地に辿り着いたサリカを捉えることは容易――彼女をセルニダに連れ帰るまでの間、ルクレツィアにはサリカの役を演じてもらう。いいな、ルクレツィア?」
 名を呼ばれ、ルクレツィアは顔を上げた。憂いを含んだ菫の瞳が、訝るようにジェルファを見つめる。
 サリカに比べ表情に乏しいルクレツィアは、人形に等しい。否、いくら美しくとも、生気のない美には魅力はない。人形以下だ。尤も、形だけの花嫁と為すには、これほど好都合な存在はない。のちのち、諸国と同盟を結ぶ際には、この娘に役立ってもらおう。それが、ジェルファの思惑だった。それまでの間、アヤルカス王妃として夢を見せてやる。大国の王妃として、日のあたる場所に連れ出してやる。彼女がどれほど夢見てもかなわなかった、公の場へ出席する権利を与えてやるのだ。
 それが、演じる代価。不服というのであれば、幽閉しておくだけだ。
「わたくしは、何をすれば宜しいのでしょう?」
 ルクレツィアが小首を傾げる。思ったほど愚かな娘でないことに気づき、ジェルファはほくそ笑んだ。上手く仕込めば、それなりに使える人材となるやもしれぬ。
「簡単なことだ」
 皇帝アグネイヤ四世として、冠を捨てる。退位の儀式を行えばいい。そののち、後継としてジェルファの頭上に王冠を乗せるだけ。それだけで良いのだ。
 あとは。
「僕の妃として。婚約披露の席に侍ればいい」
「……?」
 菫の目が、見開かれた。
「わたくしに、貴方様の妻になれ、と?」
 白い頬に赤みがさす。やはり、若い娘。女性同士のままごとのような婚礼には、疑問を持っていたのだろう。想いを寄せてはいなくとも、異性と添えることはそれなりに喜ばしいことなのかもしれない。
「いや」
 しかし、即座にジェルファは彼女の夢を打ち砕いた。
「形式だけだ。契は結ばない」
 なんとなれば、彼にはその体力がない。正確には、サリカ以外の女性に注ぎ込む精は、もうない。以前は若さに任せて手近な異性を寝所に侍らせていたが。今は、そんな気力もない。既に先は見えている――この弱い身体に灯る命の火は、決して大きくはない。
 冥府に落ちるその前に、一度なりともサリカの身体を味わってみたかった。あの滑らかな首筋に唇を這わせ、小ぶりではあるが弾力ある胸を思う様弄び、芳しき蜜を湛える清らかな泉に自分自身を――
(……っ)
 考えるだけで、身体の芯が疼く。
 サリカを泣かせたい。許しを乞わせたい。自身に従わせたい。どす黒い欲望が、胸の奥から湧き上がる。
(悔しいだろう?)
 彼は心の内で語りかける。ずっと脳裏から消えぬ、忌々しい存在に向かって。
(どれほど心が通じていても、魂の絆が存在していても。君とサリカは、一つになることはできない。結ばれることはできない。でも、僕はできる。悔しいだろう、羨ましいだろう? ねえ……)

 マリサ。

 彼の唇は、姪の名を刻んだ。
 そうだ。あの忌々しい姪――妹。聡明で美しく、文武に優れた、真実のアグネイヤ。自分を蔑むあの古代紫の瞳は、大切なものを奪われたと知ってなお、清冽な輝きを放っていられるだろうか。長男である自分を差し置いて、常に皇帝たるべく教育を受け、臣下の人望も厚い――彼女の存在は、彼の心に刺さる棘なのだ。



「――っ、何?」
 ぶるっと身を震わせたクラウディアを振り返り
「なに? 寒いの、妃殿下?」
 エルナはしょうがないね、と手ずから薪を籠から取り出し、それを暖炉にくべた。今日は雪も降りそうもないんだけどねえ、と、おどけた様子で窓の外に目をやる。今年は例年になく、寒さの訪れが早かった。晩秋だというのに雪がちらつき、冬の声を聞くころには、王都に積雪があった。南国――とはいえぬが、フィラティノアに比べて温暖なセルニダ出身のクラウディアは、格段に寒さに弱い。少なくとも、オリアの住民よりは。
「なんだか、寒気がして。――風邪かしら? いやね」
 クラウディアは卓上に置かれた香茶を一口啜る。先程、厭な気配が首筋の辺りを通り抜けたのだ。アグネイヤの身に、何か起こっていなければよいのだが――クラウディアは、天井を仰ぎ、ひとつ息をつく。
 クラウディアの隣にちょこんと腰かけたリィルは、彼女のまねをして両手で(カップ)を抱え持ち、ふーふーと中の熱い液体を冷ましてから口に運んだ。その様を、少し離れたところから見つめていたエルナだったが。
「やーねー、考えてみれば、妃殿下の傍仕えって、男ばっかりじゃない? 厳密に言ったら」
 彼女の視線は、リィルから離れることはない。リィルも少女のなりをしているものの、立派な男児である。本来であれば、妃の寝室どころか私室に入ることも出来ぬというのに、

 ――この子、女の子だから。

 見ればわかるでしょう、と、クラウディアが強引に部屋に連れ込んだ。以来リィルは王太子妃付侍女達の、良い遊び相手になっている。
 今、この時間。
 見張りの衛兵の交替も終わったこの時間、王太子妃の部屋に侍る者はいない。なぜか部屋住みとなっている、リィルと。用があるのだと言って入室してきたエルナ。その二人を除いては。
「てか、この子。殿下の隠し子だってもっぱらの噂になっているみたいよ?」
 乳白色の髪に、瑠璃の瞳。フィラティノアの銀髪碧眼に似通った容姿である。そんな噂が流れても不思議ではない。王太子妃は市井にあった王太子の隠し子を見つけ出し、自室に住まわせている――噂の出所は推して知るべしだが。侍女たちの間ではリィルの存在を知らぬものはないくらいであった。
 とりあえず、男二人は故郷に帰して正解だったようだ。ティルが傍にいては、また、ややこしくなる。彼の無駄に思わせぶりな態度を見れば、

 ――王太子妃殿下は、当てつけに愛人を連れ込んでいるようですわ。

 宮廷雀が何を言うかわからない。疾しいところがなければ、噂は噂と笑い飛ばしてしまえば良いのだが、今後のことを考えれば、自身に不利な噂は少しでも排除しておかねばならないのである。
「で? なにか御用? エルナ?」
 香茶を飲み干したクラウディアは、窓辺に佇んだままの侍女に声をかける。エルナは「まあね」と軽く頷いてから、自身も香茶を口に含んだ。
「いい報せと悪い報せ。二つ同時にあるんだけど?」
 茶目っ気たっぷりの眼差しをこちらに向ける。先に、イイコトの方を教えるよ――言い置いてから、彼女はリィルに近づき、その頭を撫でた。その仕草で、クラウディアはピンとくる。
 戻ってくるのだ。
「ルナリアが、帰ってくる」
 予想通りの言葉にクラウディアの頬が自然、緩む。ルーラが帰ってくる。カルノリアから。ということは、エリシアの消息を掴んだのだろうか。リィルのほうは、ルナリアと言われてもあのルーラと結びつかなかったらしい。ルーラが帰ってくる、と、クラウディアが言い直すと、
「ほんと?」
 ぱあっと顔を薔薇色に輝かせた。
「おやまあ、モテモテで羨ましいことだね、ルナリアも。『真実の皇帝』と『真実の巫女』の心をがっちり掴んでいるなんてさあ」
 頭の後ろで手を組み、エルナは唇を尖らせた。ルーラに嫉妬しているらしい。
「茶化さないで頂戴。で? 悪い方の報せ、というのは?」
 クラウディアの問いかけに、エルナは小さく笑みをこぼした。
「まだ、確実なもんじゃないけどね」
 彼女は身をかがめたまま、クラウディアに向き直る。蝋燭の光で妖しく赤く光る瞳が、古代紫の双眸を射た。その魔性を纏った視線に、クラウディアも一瞬気を呑まれる。何を言う気なのだ、彼女は――背筋を冷たい汗が落ちる。先程の悪寒は、このことを告げていたのか。

「神聖帝国が、滅亡するよ」

 エルナの声は、冥府の番人のそれの如く。室内に陰々と響いた。


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