AgneiyaIV
第三章 深淵の鴉 
3.出奔(3)


 侍女が燭台に明かりをともす。寝台の端に腰を下ろしたまま、ソフィアは彼女の一挙一動を見つめていた。薄暗かった部屋に光が差し、辺りは優しいぬくもりに包まれる。が。侍女から逸らした視線を向けた先――明かり取りのために大きく開かれた窓には、頑丈な格子がはめられていた。その無粋な檻が、否応なしに自身の立場を思い知らせてくれる。
 私は捕らわれ人なのだ、と。
「御用がなければ、失礼いたします」
 侍女は丁寧に頭を下げ、退室していった。用がある、と言ったところで彼女はここにとどまる気などないだろう。虜囚のための部屋ではない、けれども公宮の外れの尖塔、その上部に存在するこの部屋は、古来より秘められた場所とされてきた。即ち、その出自を望まれない子供や、公にできぬ愛妾をとめおく場所。ここに入れられたが最後、主人である大公、もしくはその公子たちの許しがなければ外に出ることもかなわない。生きながら埋葬されたも同然だと、ソフィアはかつて夫に聞かされたことがある。

 ――北の塔は、棺の塔と呼ばれているんだよ。

 懐かしい声が、耳に蘇る。
 ソフィアは目を閉じた。そうすると、鮮明に彼の声が聞こえてくるような気がするのだ。

 ――僕が大公になったとしたら……いや、兄上が後を継がれるだろうから、それはないだろうけどね。でも、兄上が大公として立たれたら。そのときにでも、あの塔を取り壊して頂くよう、進言しようと思うんだ。

 これ以上、誰も悲しい思いをしないで済むように。
 優しい公子は、そう言ってほほ笑んだ。けれども彼の夢は夢に終わる。非情の刃が彼の身を引き裂き、心臓を抉り、ソフィアの夫は冥府の客となってしまった。あの日以来、彼女の未来は黒く塗りつぶされ、生きる気力すら失っていた。ただ一つの心の支えは、輿入れの際に故郷より同行していた馴染みの侍女・シェリルの存在だった。明るく素直な彼女は、必死にソフィアを慰めてくれた。ソフィアが自害をとどまったのも、彼女がいてくれたからだ。夫の葬儀の後ひとり宮殿裏の森に入り、そこで毒を呷ろうとした彼女を

 ――いけません、そんなことをされて、公子様が喜ばれると思うのですか?
 ――姫様が儚くなられると仰るならば、私も後を追います。

 泣きながら止めた、優しい少女。彼女まで死なせてはならない、死なせてしまったら、彼女の親族に申し訳が立たない。ソフィアのために婚約を解消してまでセグに同行してくれた彼女に、不幸な末路を辿らせてはならない。
 それに。
 それに――。
 ソフィアには、やらねばならぬことがあった。ふとしたきっかけで知ってしまった、公子の死の真相。ソフィアは夫は病死であると聞かされていたが、実は暗殺であったこと。その首謀者が彼の兄たる第一公子であること。また、夫に直接手を下したのは、義兄の愛妾・アリチェであること。
 事実を知らされた彼女は、初めは半信半疑であった。だが、あるときアリチェを問い詰めると。

 ――まあ、鴉は屍の匂いがお好きだこと。その通り、だと申し上げれば満足でしょうか?

 黒髪の舞姫は、妖艶な笑みとともに告白したのだ。己の罪を。
 思えばあのとき、すぐにセグディアを――セグを出れば良かったのかもしれぬ。そうすれば、第一公子の姦計に落ち、身を汚されることもなかった。生涯愛する夫への貞節を守ることができた。シェリルにも、危険な道行をさせることもなかった。
(シェリル)
 彼女はどうしているだろう。もう、カルノリアへはついただろうか。彼女が父帝に書簡を渡し、セグへと使いをよこすまで、どれだけの時間がかかるのだろう。それまでの間、自分は正気を保っていられるか――正直、自信はなかった。
 また、今夜も。ここを第一公子が訪れる。彼女を抱くために。傀儡とするために。怪しげな東方の媚薬を用い、彼女の意識を混濁させて。そうして、人形となったソフィアを正式に妃に迎え、カルノリアの帝位継承権を欠片なりとも手に入れる。それが、公子の目的なのだ。彼が大公位に就いたとき、同時に南でも王の交代が行われる。交代、そのような生易しいものではない。王位の簒奪。ティシアノ・フェレオもしくはルカンド伯爵の姦計が、ダルシアを滅ぼす。
 そうだ。先のルカンド伯爵を暗殺したのは、他ならぬ彼の嫡男。ソフィアの従妹シェルニアータの夫たる人物である。
 そこまで知ってしまったソフィアを、義兄が離すわけがない。
 義兄にとって、ソフィアは諸刃の剣なのだ。カルノリア継承権のためには必要であり、他方では、陰謀の全てを知る生き証人であり。ソフィアがことを明るみにしてしまえば、セグもティシアノ・フェレオもルカンド伯爵も。すべて潰されてしまう。これが一介の侍女や小国の王女であれば問題はないであろうが――ソフィアは、大国カルノリアの皇女である。彼女の言葉で、東の大国が動く。カルノリアが動けば、利に聡いフィラティノアも、ヒルデブラントも、必ず。それを、義兄は恐れているのだ。
 だから。

「俺を、待っていたのか?」

 耳障りな音ととともに、背後で扉が開いた。燭台を手にした下男が先に立ち、(まれびと)を中に案内する。下男はソフィアを一瞥することもなく、燭台を卓上に置くとそそくさと部屋を出ていった。
「……」
 ソフィアは答えない。俯き、彼から――義兄から顔を背け、精一杯の抵抗を試みる。
「その聖女のような(かんばせ)が、淫婦のそれに代わるのに、さほど時間はかからないと思いますけどね」
 くすり、と笑う声が聞こえた。ソフィアは驚いて顔を上げる。ここを訪れたのは、義兄だけではない。彼の愛妾・アリチェもいたのだ。アリチェは濃い化粧を施した顔に婉然たる笑みを張りつけ、ゆったりとした足取りでこちらに近づいてくる。
「今夜は、わたくしも混ぜてくださいな」
 舞姫の言葉に、ソフィアの目が見開かれる。皇女は舞姫の身体越しに義兄を見上げた。彼は何も言わず、服に手をかけ始めている。さらりと肩から落とされた上着、その下には何も身につけてはいない。彼は洋袴(ズボン)も脱ぎ捨てると、下穿きのみの姿となり、アリチェ同様ソフィアの元にやって来た。だが、彼はソフィアに触れることなく寝台に腰をおろし、
「やれ」
 アリチェに指示を出すとそのまま無造作に寝転んだ。いったいなにを――恐怖に身をすくませるソフィアの部屋着に手をかけたのはアリチェ、素性の知れぬ舞姫である。ダルシアの――シルヴィオ出身といわれるかの妖婦は、黒い瞳に愉悦の色を湛えながら優しくソフィアから衣服を奪っていく。まるで、侍女が着替えを手伝ってくれているような、そんな錯覚にとらわれたソフィアは、ただ彼女のなすがままに身を委ねていた。それほどアリチェは優しく、一種魅惑的であったのだ。
 だが、彼女の白い指先が、赤く彩られた爪の先が空気にさらされた乳房に触れると、ソフィアは我に返った。びくんと身体をはね上げ、その手から逃れるように身を逸らす。
「あら、じらさないでくださいな」
 今度は少女のように微笑み、アリチェは徐に懐から小瓶を取り出した。香油だろうか、蓋を開けたとたん、えもいわれぬ甘い香りが鼻をつく。一瞬媚薬かと身を固くしたが、アリチェはそれをソフィアに飲ませようとはしなかった。それで気を抜いたのがいけなかったのだ。
「あ、……っ」
 己の掌に香油をたらし、
「塗って差し上げますわ」
 アリチェはソフィアの肌に触れた。胸に、脇腹に、背に。愛撫に近い動きで、香油が擦りこまれる。そのたびに、身体が熱く疼いた。ソフィアは喉を仰け反らせ、小さく悲鳴を上げる。
「媚薬は、何も飲ませるだけではございませんわ」
 甘く囁くアリチェ。彼女はソフィアの耳朶を噛み、そのまま濃厚な口唇愛撫を首筋に施す。ソフィアが身を捩っても、彼女は離してはくれない。離すどころか、押し倒すように抱きしめられる。アリチェの豊かな双丘が頬に当たり、ソフィアは顔を赤らめた。
「夜は、長うございましてよ。公妃様」
 たおやかな指が内股を撫で上げる。ソフィアは必死で声を殺し、現実から逃れるように固く眼を閉じた。


 明けぬ夜はない、そう言ったのは、誰なのだろう。
 決して間違いではない。夜が去れば、朝が来る。月が薄明の光に隠れるころ、暁の星が太陽の手を引いて空を駆けあがる――それは、あくまでも自然の現象だ。
 比喩として使われる場合は、
(朝は、……)
 来るはずがない。ソフィアの心には、夜の帳が下りたままだ。
 長時間に及ぶ行為の後、ソフィアは打ち捨てられた。義兄とその愛妾は、ぐったりとした彼女の前で激しく睦み合い、その後もう一度二人でソフィアを辱めると満足したのか出ていった。穢れにまみれた彼女を置いて。
 これは、義兄だけのときもそうだ。
 抜け殻となったソフィアに、義兄は見向きもしない。寧ろ汚らわしいものでも見るかのような一瞥をくれて、さっさと出て行く。そうして、夜が明ける頃。
「――失礼いたします」
 侍女がやってくるのだ。無表情で無感動な、口数の少ない侍女が。陰気なその娘が情交の始末をしてくれる。それまでソフィアは汚れにまみれたまま、微動だにせずに屈辱を噛みしめているのだ。
(朝は……来ない)
 目尻から一粒、涙がこぼれる。これほどの辱めを受けてなお、生きねばならぬのか。生き証人として、罪びとたちを告発しなければならないのか。この、大陸のために。中央諸国の平和のために。
 馬鹿らしい、と。
 虚無感が心を冷やす。こうしてくれと、誰が頼んだのか。誰に頼まれたのか。ここまでやって、誰が自分を褒めてくれるのだ?
 穢れた皇女だと、蔑まれるだけではないのか。

 ――ソフィア。

 支えとなるのは、亡き夫の笑顔。彼の温かな声。

 ――僕は、僕には、何ができるのかな。ぼく一人の力で、流れを止められるのかな。

 思えば彼は、すべてを知っていた。知っていたからこそ、殺された。彼が語った最後の言葉は、信じがたいものだったが。それもあながち嘘ではないのだろう。シェリルに託した書簡に、その旨も書き添えてはいたが。果たして、間に合うだろうか。
「……」
 声を立てずに泣き続けるソフィアを、奇異に思ったのか。侍女は一向に近づく気配がなかった。平素であれば彼女の感情を無視して、まるで野菜でも洗うかのように彼女の身体を濡れた布で拭いて行くのだが。
「――誰?」
 様子が違う。あの侍女ではない。ソフィアは緊張に身を固くした。窓から洩れる薄明かりに煌めくのは、金髪――否、金褐色の髪。セグの褐色の髪とは違う。逆光になっているので、侍女の顔は見えないが。あれは、もしかして。
「シェリル?」
 彼女が戻って来たのだろうか。ソフィアは期待を込めてその名を呼んだ。
「シェリル、なのですか?」
「いいえ」
 しかし、侍女は頭を振った。応えは、シェリルの声とは似ても似つかぬ低い声。けれども、ソフィアはその声に聴き覚えがあった。それこそ、シェリル以上にここにいるはずがない、いてはいけない存在。
「まさか」
 掛布で身体を隠しつつ、ソフィアは身を起こした。
「まさか、あなたは……」
「お久しぶりです。ソフィア……ねえさま」
 大股にこちらに歩み寄って来たのは、忘れもしない。従妹だった。祖国で女性騎士隊の一員を務める、文武に秀でた従妹。第一将軍息女・シェルマリヤ。
「シェラ」
 呼びかけに、従妹は膝を折り騎士の礼をとる。顔を上げたシェラは、痛ましそうに従姉を見つめた。
 なぜ、ここに――その問いに、シェラは小さく微笑んだ。困ったような、はにかんだような。そして、どこかしら憂いを含んだ笑みだった。エルシュアード、という女性騎士団に属していた彼女は、今は神聖帝国皇帝の側室となっていると聞いた。神聖皇帝は女性ではあるが、男性として即位したが故に、妃を娶るのだと。二百年前に滅びた帝国同様のしきたりを守るかの国を、義兄は

 ――時代錯誤だ。

 と、嘲笑い

 ――神聖皇帝は、同性と睦み合うのがお好みか。

 それがまるでアグネイヤ四世の性癖であるかのように、かの皇帝を侮辱していた。
 側室とはいえ、一国の君主の妃となったシェラが、そうそう国を離れることは出来ぬだろう。まさか、夫君に愛想を尽かして出奔したのではあるまいか。ソフィアは他人事ながら不安に思った。
「アグネイヤ四世陛下には、お許しを頂いております。ご心配なく」
 ソフィアの心を読んだかのような答えに、捕らわれの皇女は軽く頷いた。
「と、言うよりも寧ろ。これは皇帝陛下の御下命と申した方がよいかもしれません」
「御下命?」
 どういうことです、と、重ねて尋ねる前に。シェラは首にかけていた鎖を外した。細い金鎖の先に揺れるのは、同じく金の指輪。差し出されたそれを掌に乗せたソフィアは、その時点でことのあらましに気づいた。書簡を携えて国を出たシェリル、彼女の命が既に失われていることにも。
「ああ、シェリル」
 彼女は、討たれたのだ。おそらく、場所は神聖帝国領内のどこか。この指輪が皇帝の手を経てシェラに渡った、ということは。シェリルは皇帝の側近もしくは侍女と関わりを持ったのではないか。
 シェラは懐から小さな袋を取り出すと、それもソフィアに差し出した。中を開けてみれば、そこには金褐色の髪が一房、納められている。シェリルの遺髪だ。ソフィアはそれを胸に抱き、低く呻いた。
「……」
 自身が無理な願いをしたばかりに、一人の少女が落命した。直接手を下したのは、義兄の配下であろうが、実質彼女を殺したのは自分なのだ。強い罪悪感がソフィアの胸を締め付ける。
 夫ばかりか妹のように思っていたシェリルも失って。なぜ、自分だけがのうのうと生き延びているのだろう。義兄とその愛妾に弄ばれながら、浅ましく命永らえているのだろう。
「――ねえさま」
 自分を責めるな、と。シェラの目が強く彼女を射抜いた。
「責めるだけなら、悔いるだけなら誰にでもできます。ねえさまには、ねえさまにしか出来ぬことがあるでしょう? 違いますか?」
「シェラ」
 従妹の言葉に、ソフィアは唇を噛んだ。自分にできること、自分がすべきこと。それは、セグの第一公子とダルシアのルカンド伯、大公ティシアノ・フェレオの陰謀を明るみにすることである。そのためには、生き証人としてセグを出なければならない。シェリルを失った今、手段はひとつ。ソフィアがこの塔から、公宮から、脱出することだ。
 だが、それは単なる『逃げ』にしか過ぎないのではないか。自身の身可愛さに、尤もらしい理由をつけて、罪から逃れているだけではないのか。
 苦渋に歪むソフィアの横顔を見つめ、シェラが細く息をついた。
「――あなたに、似ていたのですね」
 何を思い出したのか。くすりと笑う従妹に不審の目を向ければ。シェラはそっとかぶりを振って
「ええ、似ているのですよ。誰に似ているのか、ずっと考えていましたが。ねえさまだったとは」
 一瞬、遠い目をする。
「シェラ?」
「我が夫です。あまり会うこともありませんでしたが。男装の皇帝、アグネイヤ四世陛下」
「アグネイヤ……陛下? その方に、わたくしが?」
 ソフィアは目を見開いた。男装の皇帝、などと物々しい肩書がつく人物に似ているなど、思いもしなかった。第一、女性で男性のように振舞う人物といえば、シェラやエルシュアードの面子のように身体が大きく威風堂々として、男に媚びず頼らず毅然と生きている者たちしか思い浮かばない。はたして、自分のごとく流れに任せて生きているだけの娘と、かの皇帝のどこに共通点があるのか。ソフィアにはまるで解らなかった。
「声も、どことなく似ていますし、ああ、喋り方もです。ちょっと遠慮がちというか……変に他人に気を使うところとか。何かあると、全部自分で背負いこんでしまうところとか」
「まあ?」
「頼りないように見えて、芯はしっかりしているところとか」
 くくく、と、シェラの喉が鳴る。
「だから、きっと。シェリルの魂も、神聖皇帝を呼んだのでしょう。あのひとに、全てを託そうとして」
 シェラは手短に語った。出奔したシェリルが、旅程で神聖皇帝に遭遇したこと。皇帝の保護を彼女が断り、結果、命を奪われたこと。皇帝の命を受けて、シェリルの足取りを追った家臣が、彼女の遺体を発見したこと――そして。陰謀の一端を知った皇帝が、シェラに全権を委任したこと。
「わたしはいまだ、神聖皇帝の妃ではありますが。自身の判断で動いて良い、と。夫君よりお言葉を賜りました」
 ソフィアはただ頷いていた。頷くしかなかった。
 セグの陰謀は、神聖帝国皇帝の知るところとなった。中央諸国の勢力図を塗り替えんとする野望を阻めるのは、大国の君主のみ。即ち、カルノリア皇帝である父か。ミアルシァ国王か。もしくは、神聖帝国皇帝か。うち、カルノリア皇帝シェルキス二世は、ルカンド伯同様命を狙われている。義兄は皇帝暗殺も視野に入れて動いているのだ。彼らの狙いは、カルノリアの利権。そのために、皇帝の姪であるシェルニアータをルカンド伯の嫡男に嫁がせ、義兄は皇女であるソフィアを花嫁として迎えようとした。
 裏で糸を引いている人物は、誰か。
 考えたくはなかったが、否応なしにかの人の名が脳裏に浮かんでくる。
(叔母上……)
 先帝の唯一の嫡出子であり、タティアン大公妃でもあるナディア。第四皇女アレクシアを皇帝に、との声が高まるたびに、ナディアの名も浮上する。聡明にして気高きナディア、正当なるエレヴィアの血を引く彼女が、なぜ皇帝として立たないのだ、と。
 叔母には野望はないかもしれぬ。だが、彼女を取り巻く面々は? 叔父は? タティアンの重臣たちは? カルノリアの帝冠を狙っているのかもしれない。そのときに必要なのは、他国の縁――ならば。野心家ではあるが策士というにはほど遠い義兄を操って、ことをなさんとする可能性は無きにしも非ずである。
 本来ならば、一刻も早く故郷に帰りたい。故郷に帰り、父に祖国の危機を告げたい。だが、ここにいてはそれもかなわぬ。手をこまねいているうちに、最悪の事態が訪れてしまうかもしれない。
 シェルキス二世の暗殺。病弱な皇太子・エルメイヤの病没。
 それが重なれば、カルノリアは混乱に陥るだろう。その混乱に乗じて、闇が動き出す。
「ああ……」
 ソフィアは、自身の身体を抱きしめた。恐ろしい。なにか、恐ろしいことが起こりそうな気がする。
「大丈夫です、ねえさま」
 その手に、シェラの手が重ねられる。剣を扱う者特有の、無骨な手。女性のものとは思えぬ逞しいそれが、ソフィアを安心させるように、強く彼女の手を握りしめる。
「シェルマリヤが傍におります。折を見て、ここを出ましょう。ここを出て、ユリシエルに帰りましょう、ねえさま」
 耳元に囁かれる声に、ソフィアは息を呑む。セグを出る――婚家を捨てる。その二つが等号で結ばれることに気づいたとき、緑の瞳に濃い影が走った。
「シェラ」
 自分は、誰のために何がしたいのだろう。
 何をするつもりだったのだろう。
 拠り所となっていたのは、夫の笑顔。彼を無残に殺した者たちに対する恨み。それが、夫を死に追いやった原因となる陰謀を暴くことへとすり変わり、最終的には――。
 カルノリアのために動く。

「……」

 それが、自身の定めというのであれば。従わねばならぬのだろうか。ソフィアは乾いた唇に愛しい夫の名を上らせ、虚空に視線を彷徨わせた。


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