AgneiyaIV
第三章 深淵の鴉 
2.探索(1)


 まさか、ここで彼に会おうとは。ルーラは暫し、己が幸運を噛み締めていた。
 単に同名の人物なのかもしれぬ、そんな疑いが頭をもたげたが。それは一瞬にして霧散した。彼の持つただならぬ雰囲気――決して平凡な一市民ではないだろう雰囲気が、想像を確信に変える。彼こそが、仲介者・テオバルト。エリシアを賊に売り渡した張本人。ルーラはさりげなく、質問を重ねた。
「テオバルト殿、以前どちらかでお会いしたことはなかったか?」
 人に言わせれば、ルーラはディグルに顔立ちが似ているという。ディグルに似ている、ということは、当然であるがエリシアにも似ているはずだった。で、あれば。テオバルトがルーラの面影の中に、エリシアを見る可能性も高い。もしや、テオバルトもルーラの素性を確かめたくて、彼女の差し向かいに席を取ったのではないか。そんな彼女の勘は、半ば当たっていた。
「いや、気のせいだろう」
 素っ気なく言い放ったものの、テオバルトは青い瞳を僅かに細め、
「貴殿、歳は幾つになる?」
 逆に尋ねてきた。ルーラは元の席に戻り、椅子に浅く腰かけてから
「二十二になるが」
 それが? と、問いの理由を視線で探る。
「御両親は健在か」
 二十二……そう、口の中で繰り返した彼の、次の問いかけがこれであった。ルーラはしてやったり、と心の中で手を打った。やはり、彼こそ求めていた人物。ここで逃しては、今までの苦労も水泡に帰す。御両親、というものの。彼が尋ねたいのは、母ではないか。ルーラによく似た面差を持つ女性。その所在を確かめたいのではないか。
 ルーラは頷いた。
「二人とも健在だ」
 彼女の両親は、既にこの世にいない。けれども、テオバルトがルーラをエリシアの縁者だと思っているのであれば。ルーラの応えに、どのような反応を見せるのか。それが知りたかった。
 なれど。
 ここで彼女に、エリシアの存命を確認するようなことを尋ねてくるとは。もしや、テオバルト自身、エリシアの消息を知らないのではないか。それとも、彼もまた、エリシアの行方を追っているのではないか。何者かの命を受けて。
(ラウヴィーヌ)
 何者か――ルーラの脳裏に、王妃の艶やかな笑みが蘇る。扇の下で僅かに歪められた朱唇、それがテオバルトに命ずるのだ。

 ――エリシアを始末なさい。

 自身の想像に、視界が揺れる。脳裏に描かれたラウヴィーヌと、目の前に座るテオバルトの姿が重なった。
「母君の名は?」
 テオバルトの声にラウヴィーヌの声が重なる。幻聴か。ルーラは軽い眩暈を覚えながら、
「エリ……いや、エルナ」
 わざと名を言い間違った風を装った。同輩には悪いが『エルナ』は北方には多い名前、エリシアに似た名をこれしか思いつかなかっただけである。ルーラの予想通り、テオバルトの視線が動いた。彼は先程よりもじっくりと、彼女の顔を見つめている。その面影の中から、エリシアに繋がるものを探しているのか。それとも。
「母を知っているのか?」
 鎌をかけてみたが、テオバルトは答えなかった。ルーラの瞳の向こうに、何を見るのか――深い青の瞳に幾許かの憂いをたたえ、彼は小さく笑う。
「母君に、『御健勝で何より。そして、御身更に大切に』と。伝えてくれ」
 何よりも、優しい笑顔だった。冬の星座を思わせる、美しくも冷ややかな容貌とはまるで違う。穏やかな春の日だまりを思わせる笑み。ルーラは、息を止めた。彼は徐に手を伸ばし、そんな彼女の頭を大きな手で撫でる。
「……?」
 動けなかった。温かい、大きな手。怜悧な美貌からは想像もつかぬ、節ばった剣士の手。父の温もりとは、このようなものなのか。瞠目するルーラに、テオバルトは笑顔のまま声をかける。
「達者で暮らせよ。母御は、良い倅を持って幸せだな」
 呆気にとられたルーラを残し、テオバルトは立ち上がった。毒気を抜かれた――否、
「私は」
 男子ではない、そう言おうとしたルーラは。彼を呼びとめることも、後を追うこともできなかった。目の前には、彼の残した大陸公用通貨と。いつの間にか添えられたものか、指輪が一つ転がっている。惹かれるように彼女はそれを手に取った。銀の台に沿って青石(サファイア)を散りばめた逸品である。オルトルートの手であろうか、地の細工も見事であった。値段など、想像もできない。
(いったい)
 どういうことなのだ。ルーラは唇を噛みしめた。このようなものを忘れていくはずがない、故意に置いていったのだ。テオバルトから、ルーラへの伝言(メッセージ)。含まれる意味は、当然。

 これを、エリシアに渡してほしい。

 そういうことなのだろう。しかし、ラウヴィーヌと結託してエリシアを陥れたはずの彼が、なぜ。何故、このような態度に出るのか。更に彼はエリシアの健康を願い、幸福を願った。果ては、ルーラを男性と見破っている。ルーラは無言のまま、指輪を見つめていた。

 糸がぷつりと切れた今、どこに向かって歩き出せばよい?



 ハリトーン――カルノリア西部に於いて、最も栄えている商業都市である。西方諸国よりカルノリアを訪れた者たちは、必ずこの街を経由して、首都・ユリシエルへと入るのだ。古来より中継貿易地として名高いハリトーン、当然雑多な人種が多く、どれほど珍しい容姿でも周囲より浮くことはない。
 けれども。

「その、お帽子。お顔を隠すことには最適でしょうけれども。少し目立ちすぎはしませんこと?」

 つばの広い南方風の帽子を見つめ、オルウィス男爵夫人は鼻白んだ。
 繁華街の外れ、高級で知られる宿の地下に設けられた食事処。その片隅にある個室に席を取った夫人は、目的の人物が登場した早々嘆息する。変った男だとは聞いていたが、よもや、ここまでとは。夫人は件の男――テオバルトなる人物を、頭から足先まで詳らかに眺めた。不躾な行為だとは思う。思うのだが、好奇心と嫌悪には勝てぬ。
 仔細の程は不明だが、彼は常に帽子で顔を隠している、と夫人の主君である王妃は言っていた。その言にたがわず、今もテオバルトは派手な飾りのついた帽子を目深にかぶり、室内だというのに上着を脱ごうともしない。どうぞ、と席を勧める前にちゃっかりと椅子に座り込み、目の前に置かれた葡萄酒を旨そうに嗜んでいる。帽子についた鈴が彼が動くたびに軽い音を立て、それが更に夫人の癇に障った。

 ――テオバルトは、タティアンの闇商人の中でも別格。丁重に扱うように。

 主人・ラウヴィーヌの言葉を思い出す。思い出して、気を静める。
 一見、無頼者のようなこの男。実は、タティアン大公を含むかの国の上層部とも繋がりがあるという。粗相があってはならない、そう王妃からも言い含められての今回の対面であるが。
(このような男に)
 大事を任せようとする王妃の気がしれない。
 ラウヴィーヌが夫人に下した命令は、テオバルトと接触し、彼から前妃エリシアの行方を聞き出すこと。以前、王妃は直々にテオバルトにエリシアの探索を依頼したのだが、その後まるで彼からの音沙汰がなかった。痺れを切らしたラウヴィーヌが、ついに腹心であるオルウィス男爵夫人を使者として立てたわけだが。
(なぜ、わたくしが、このような男のもとに)
 夫人は大いに不満であった。使い走りのようなことを押しつけられただけではない。相手は貴族でもない、闇の商人。いくら貴族に重用されているとはいえ、一介の庶民である。下級貴族の出ではあるが、今回の任務は夫人の誇りをいたく傷つけるものであった。そして、対面した相手のこの態度。
 夫人の堪忍袋の緒が切れるのは、時間の問題である。
「テオバルト殿」
 呼びかけを、闇商人はあからさまに無視した。この、下賤の民め――夫人は扇で隠した口元に嘲りの苦笑を浮かべつつ、
「室内では、帽子をとるものですわ。婦人の前での礼儀くらい、ご存じでしょう?」
 言葉を継ぐ。だが、テオバルトは一向に気にせぬ様子で、
「王妃はなんと言っている?」
 挨拶もなく話を切り出したのだ。
「あなた」
 夫人は呆れて声も出なかった。これが、貴族の夫人に対する態度なのだろうか。ギリ、と、奥歯を噛みしめ、一喝しようとした彼女の言葉を遮るように
「俺は忙しい。エリシアの件ならば、わかり次第報告すると伝えておけ」
 乱暴に言い放つと、さっさと席を立つ。

 なんと、無礼な。

 夫人の眉が吊り上った。王妃が彼を丁重に扱えと言った意味がわからない。このような礼儀知らずの違法商人、彼に頼るまでもない。自分が、自分がこの手で探し出してみせる――前妃エリシアを。夫人は怒りに燃える目で、テオバルトの背を睨み付ける。
「そんなことで、わざわざカルノリアくんだりまでご登場とは。余程フィラティノアの男爵夫人というのは、暇と見える」
 くっ、と、テオバルトの喉が鳴る。それが、夫人の怒りの炎に油を注いだ。彼女は手元の(グラス)を引き寄せ、
「無礼者」
 罵声とともに中身をテオバルトに浴びせた。紅い、鮮血を思わせる液体が、テオバルトの衣装に無残なシミを作る、と思えたが。紙一重で彼はそれを避けた。代わりに、彼がいましがたまで居た場所に葡萄酒が広がった。床と壁に散る赤は芳醇な香りを辺りに立ちのぼらせ、夫人の感情をいやが上にも煽り立てる。彼女は肩で息をつきながら、憎悪に染まった眼差しを彼に向けた。貴婦人らしからぬ醜態に彼は呆れたのか、軽く肩をすくめる。
 夫人は強く唇を噛みしめ、彼に掴みかかった。怒りで我を忘れる――婦人としてあるまじき行為に自身でも嫌悪を覚えたが。テオバルトに対する憤怒が彼女の理性をすべて奪っていた。
 彼女は細い指を伸ばし、乱暴に彼の帽子を叩き落とす。
 と、鈴の儚げな音とともに、それは床に落ちた。
「あっ」
 ぱさり、と、広い肩に落ちるのは金髪。陽光をそのまま写し取ったかのような、豪奢な色合いを持つ黄金の糸。こちらを振り返る顔は、その髪に引けを取らぬ――髪に相応しい、美貌。
 ただし、右半分を除いては。
「無礼な」
 低く唸ったのは、テオバルトだった。
 奇妙な紋章が刻まれた仮面、それが彼の右顔面を覆っている。彼が見せたくなかったのは、この仮面なのか。それとも、さらされた左顔面の素顔なのか。そういえば、王妃もオルウィス男爵も、彼の顔を見たことがないと言っていた。
「あ……あ……」
 夫人は、口元を押さえる。見てはならぬものを見た、禁忌に触れた。畏怖に近い衝撃が、彼女を襲った。
 ずる、と、後退した彼女の首筋に、いつ抜刀したものか鋭い刃が押し付けられている。悲鳴すら上げることができず、ただ震えるだけの夫人をどう思っているのか――テオバルトは深く青い瞳に底知れぬ闇を宿し、間近から彼女の顔を覗きこんでいた。
(殺される)
 本能的に夫人は思った。
「おまえは、見てはならぬものを見た」
 生かしてはおけない。そう、彼の整った唇が動く。
「わ、わたくしを殺すのですか。わたくしは、貴族……」
 言いかけた言葉は最後まで紡がれることはなかった。気づいたのだ、夫人は。遅まきながら。
 この男は、闇商人テオバルト。大陸暗部の支配者。一国の王妃でさえ、闇に葬った人物なのだ。一介の男爵夫人である自分をどうしようと、彼に捕縛の手が伸びることはない。
 否、エリシアのときは、レンティルグ及びタティアンが後ろ盾となっていた。ゆえに、彼の罪は不問に付されたのだ。今は違う。今は、単なる私怨から彼は夫人を葬ろうとしている。これは、立派な罪だ。
 そこに考えが至った刹那、夫人は哄笑を上げた。勝った――だが、そう思ったのは、一瞬だった。
「俺が何故、この店を指定したか。わかっているだろう」
 彼の声は、真冬のオリアの風よりも冷たかった。
 ああ、そうだ。この店を指定したのは、テオバルト。そこに、数人の供しか連れずに現れたのは、自分。この店は、テオバルトの息がかかっているのだ。
 夫人は再び、絶望の淵に落とされた。そして、今度こそ。逃げられぬと痛感する。
「俺を辱めた罪。どうやって償ってもらうか」
 感情宿らぬ声が耳朶を打つ。もはや彼を睨むことすらできないでいる夫人の前に、この店の店主と思しき人物の姿が映った。静かに扉を開閉し、優雅な仕草で入室してきた彼は、
「旦那さま。あとの始末は、私どもに」
 お任せください、と言わんばかりに丁重な礼をする。テオバルトは剣をおさめ、夫人から手を放した。くたりと床に座り込みそうになる彼女の体を支えたのは、店主である。彼は柔和な面差に似合う優しい笑みを浮かべ
「ああ、大切な商品に傷が付いてしまいます。もう少し、丁寧に」
 表情からは予想もできぬ、非情な台詞を口にした。



 別室へと移ったテオバルトは、旅装を解き、鏡の前に佇んだ。常に帽子の下に隠していた目立ちすぎる金髪。いい加減、切ってしまおうかと何度思ったことか。だが、

 ――切るの? 勿体ない。
 ――とても綺麗なのに。

 屈託なく褒めてくれた少女の声が蘇り、なぜか手が止まってしまうのだ。
(……)
 長く、あの少女にも会っていない。元気に過ごしているだろうか。
 ふと、彼女の面影を思い出し、彼は口元を緩めた。優し過ぎるほど優しい、否、脆い心を持つ少女。今頃彼女はどうしているのだろう。
「旦那さま」
 そんな彼の思考は、部下の声に遮られた。振り返れば、先程と同じく静かかつ優雅な仕草で、この店の店主たる男性が背後に立っている。彼は一礼すると
「先程の商品。如何いたしましょうや?」
 オルウィス男爵夫人、彼女のことを尋ねてきた。
「好きにしろ」
 テオバルトは一度命じてから、
「いや、ゲルダ街の娼婦館にでも売り払え。喉を潰し、顔を焼いてからな」
 言葉を加える。店主は「承知」とだけ答えると、入室時同様、音もなく部屋を出ていった。
(これでひとり)
 レンティルグの毒蜘蛛、その手先を潰した。あと、どれだけあるのだろう、蜘蛛の脚は。すべての脚を潰しても、残る頭が毒を蓄えていたのでは、厄介だ。
 早々に頭を潰しておくか。
 彼は、小さく息をつく。
 それよりも。
(あの赤子が、立派になって)
 道中立ち寄った居酒屋で遭遇した、銀髪の青年。女性を装ってはいたが、あれは立派に男子であった。余人の目はごまかせても、彼の眼を欺くことはできぬ。銀髪、碧眼はティノア人の特徴だが、年齢も二十二だと言っていた。あれは、あの顔立ちは、
「エリシア」
 悲運の王妃、そのものだった。
 偶然街で見かけたとき、時間(とき)が遡ったのかと思った。けれども、記憶の中のエリシアは、あのルーラと名乗った青年よりももっと幼く、まだ少女と言っていいほどの年齢だった。確か、十九になるかならないか、そんな年齢だったと思う。美しさのなかにもどこかあどけなさが残り、それがより一層彼女の魅力を引き立てたのだろう。だからこそ、狙われた。多くの男に。歌姫、という卑しい出自から、好奇の視線にさらされていたのだ。
(エリシア)
 今度こそ、幸せに。
 彼は、心の中で祈る。彼女とその夫に、天の祝福があることを。
 そして。彼の手で取り上げたエリシアの愛息が、復讐という名の闇に心を蝕まれぬことを。
 ――密かに、願った。


NEXT ● BACK ● TOP ● INDEX
Copyright(C)Lua Cheia
●投票● お気に召しましたら、ぽちっとお願いいたします
ネット小説ランキング>【登録した部門】>アグネイヤIV
  オンライン小説/ネット小説検索・ランキング-HONなび


inserted by FC2 system