AgneiyaIV
第五章 暁の覇者 
7.払暁(3)


 アシャンティの離宮に馬を乗り入れると、その様子を窓から見ていたのだろう、
「おや、お珍しい――ソフィア姫」
 楽師ユリアが自ら迎えに現れた。居並ぶ侍女を従えるように佇むアンディルエの巫女は、青い瞳を大きく見開き、馬上のソフィアを見上げる。ソフィアは身軽に下馬し、ユリアの前に膝をつく。
「巫女殿には、ご機嫌麗しく」
 口上を述べようとするソフィアを手で制し、
「おやめ下さい、一国の皇女殿下が、楽師ごときに膝を屈してはなりません」
 苦い笑みを浮かべる。ここにある侍女たちは事情を察しているから良いものの、皇宮の使用人がこの光景を目にすれば、如何様に思うだろう。皇帝の許嫁としての待遇を受けている異国の姫君が、皇太后付きの楽師に敬礼するなど。奇異に思われるに決まっている。そんなことでいらぬ詮索を受けたくない、と、ユリアは暗に言うのだ。けれども、長くアインザクトとして育てられたソフィアにとっては、巫女に対する格別な想いがある。そう簡単に態度を改めることなど出来はしない。
「皇太后陛下は、お部屋にいらっしゃいます」
 ユリアは言い、自ら皇女を案内した。
 聞けば、先程リディアは狩りから帰還したのだという。兎と狐を数匹ずつ仕留めたそうだ。今夜は兎の香草焼きになるだろうとユリアは言い、
「召しあがって行かれますか?」
 ソフィアに尋ねる。ソフィアは「畏れ多い」と丁重に断りを入れた。


 ここを訪れるのは、二回目となるか。
 初めてこの離宮に足を踏み入れたのは、アグネイヤと共に城下に降りたとき。あれは、二ヶ月ほど前のことになる。あのころはまだ、秋の残滓が多分にあった。遠き山々も、幾らか色づく程度で、初めて見る南方の『秋』を驚きを以て迎えたものだ。
 その実りの季節の終わりに、馬産地としても名高いアシャンティに同行したソフィアは、まだツィスカの殻を捨て切れていなかったように思う。
 カルノリア皇女ソフィアであると自覚し、宣言したとはいえ、ツィスカであったときの感覚が簡単に消えるわけがない。神聖帝国皇太后、その名を耳にしただけで、身を固くし、畏まる。しかも、皇太后の傍らには、楽師と称した巫女までもいた。
 緊張を強いられたソフィアだったが、

 ――ツィスカ。

 そう、リディアに呼びかけられ、はっとしたのだ。
 名乗りの時は、確かにソフィアの名を告げた。ルフィーナ・イルザ・ソフィア・イリーナ、と。けれども、敢えてリディアは彼女をツィスカと呼んだのだ。その意図を図りかね、咄嗟に返答が出来なかったソフィアに、

 ――(なれ)は、既に『ソフィア』となっているか。

 皇太后は、その荘厳な雰囲気とはまるで異なる、明るい笑みを向けたのだ。

 ――『ツィスカ』は、己が誰であるか、まだ判らぬようだった。

 リディアは、比べたのだ。ソフィアとツィスカを。嘗て別の名で呼ばれていた二人の覚悟を、量ったのだろう。ソフィアであったツィスカは、己が誰であるか判らぬまま、エランヴィアへと向かった。そこで、何かを得たのだろう。傀儡として担ぎ出された『聖女』ではなく、自ら進んでルサを解放に導こうとしている。
 暫く後にエランヴィアからの使いからの報告を聞いて、ソフィアは『真実のツィスカ』を羨ましく思ったものだ。明確な目標に向かって進むことのできる彼女が。

 それに引き換え、自分は。

 現実に戻ったソフィアは、前を歩くユリアの背を見つめながら、小さく自嘲した。
 ここでリディアに会った処で、何を奏上しようというのだろう。魔王・覇王と称される、狂気の皇帝アグネイヤ四世以上に冷徹な支配者。彼女に縋ることは、石を体温で温めるに等しい虚しさがある。
 皇太后私室の次の間に通されたソフィアは、皇宮に戻ると言って離宮に来てしまったことを、心の中で主君に詫びた。

「ひとりか、珍しいな」

 扉が開かれ、中へと案内されたソフィアは、そこに佇むリディアの姿に思わず声を失った。南方のゆったりした一枚布の衣裳を纏い、それを幅広の帯で止めている姿は相変わらずだが、長い黒髪は一つに纏めて頭の高い位置で結いあげられている。まるで、カルノリア第一将軍息女のような姿に、
「陛下」
 としか、言うことが出来なかった。
 こうして見ると、リディアは若い。もう、四十に手が届こうとするはずなのに、どう見ても三十そこそこ、どころか自分と幾つも変わらぬように思えてしまう。リディアは永遠の若さを約束されているのか、そんな子供じみたことを考えてしまう自身が間抜けに思え、ソフィアはゆるゆるとかぶりを振った。
「皇帝と、諍いでもしたか」
「いいえ、決してそのような」
 否定をしたソフィアに、リディアは席を勧める。リディア自身、どかりと男性のように自身の席に腰を下ろし、傍らに佇む侍女に杯を取るよう命を下す。また、酒か――そんな気持ちは表に出さず、
「凍結させた葡萄酒だ。かなり甘くて子供向きではあるが……」
 勧められるままに杯を受け取り、侍女の注ぐ酒を口にした。確かに、甘い。ふと、サリカが好みそうだと思った。
「妃となることが、怖くなったのか?」
 徐に切り出され、ソフィアは危うく吹き出すところであった。おやおや、とユリアが子を見るような目つきでこちらを見ている。
「旧神聖帝国では、アインザクトからもカルノリアからも、無論、セグからも皇后が立ったものだ」
 ソフィアは首を垂れる。
「正妃でなければ、それほど苦労を覚えることはない。のちのち、カルノリアを支配するつもりで精進すればよい」
「陛下――やはり、皇帝陛下も皇太后陛下も、旧神聖帝国の体制を復活させるおつもりですか?」
 制圧した国の王女公女を妻に娶り、その彼女たちを祖国の領主・代官として派遣する。そんな時代錯誤な方法を、この時代に行おうというのか。先に縁談を持ち込んだアダルバード、かの国に対してアグネイヤは古のしきたりを持ちだした。それを言えば、ソフィアを娶ることでアグネイヤはカルノリアを所領として得たことになる。が、実際はそんなことは不可能である。カルノリアにはアレクシアという皇帝が君臨している。また、ソフィアはセグにて没したことになっているのだ。亡き大公に殉じた、そのような発表がされている。それなのにアグネイヤは強引に、敢えてソフィアを表舞台に出そうというのだ。
「旧き習わしのことか。皇帝は、言っているだけだ。実行する気はない」
 リディアはあっさりと否定する。
「あの現実主義者が、そのようなことをすると思うか」
 言われると、納得した。
「サリカは理想主義に走り過ぎる。あの姫ならば、やるかもしれぬが。マリサはやらぬ。あれは、そういう姫だ」
 さすがは母后。双子の性格は、見抜いているようだった。
 それならば、なぜ――湧きでた疑問は、口にすることはできなかった。リディアの古代紫の双眸が、じっとこちらを見つめている。
「汝も、過日の発表を耳にしたであろう」

 アグネイヤ四世が公表した、クラウディア一世の肖像画、その裏に書かれたエルメイヤ三世の手紙。
 アレクシア一世が公にした、エルメイヤ三世暗殺犯。

 カルノリアは、正式にアグネイヤ四世を神聖帝国皇帝、その後継と認めたのだ。それに反対する諸侯たちを煽って、第一将軍らが反乱軍を動かしている。皇子エルメイヤの影に隠れて。
 アグネイヤ四世は、友好の証としてカルノリアにではなくアレクシア個人に宛てて、物資を送っている。即ち、他大陸の香辛料だ。ユリシエルに向かう交易商たちの商隊は、神聖帝国の騎士団に守られている。
 アレクシアの元にはアインザクト女大公を名乗るヴィーカがいるためか、アグネイヤのカルノリア援助を快く思わぬアインザクトはいないようだった。ヴィーカと接触するため、または、ユリシエルの情勢を探るため、進んで騎士団の中に入るアインザクトの末裔もいるくらいである。
「カルノリアとアインザクト、双方の側と縁を結ばねばならない。アインザクトのツィスカも、名目上は皇帝の妃となる。よいではないか、皇帝は戸籍と心の中はどうであれ、肉体的には女性だ。無理な営みを強要されることもない」
「陛下、そんな」
 思わぬことを言われ、ソフィアは赤面した。確かに、真の意味で花嫁がアグネイヤ四世と結ばれることはない。
「カルノリアからは、姫を二人娶ることになる。アインザクトに対しては、領地を与えることで納得させる心積もりらしい」
 双方と均等なる友好を結ぶ、それが一番の手立てだとアグネイヤは考えているらしい。
 その、アインザクトの領土とは。
「決まっておるではないか」
 リディアは、嗤った。
 アグネイヤによく似た、無機質な笑顔だった。

 フィラティノア。

 そう、皇太后の唇が動く様をアグネイヤ四世に重ねて、ソフィアは知らず息を呑んだ。


「どう、なされましたか」
 お元気がないようで――皇太后の私室を辞したソフィア、彼女に向けて、ユリアが声を掛けてきた。ソフィアは「いいえ」と無理に笑顔をつくるが、その冴えない表情が更にユリアに何かを思わせたようだ。
「――陛下の、お言葉でしょう?」
 問われ、観念したとばかりにソフィアは頷く。
 神聖帝国統治者の闇に触れた気がして、肌寒くなったのだ。
「蜜ばかりでは人は生きることが出来ないのですよ。塩がなければ」
 ユリアが耳元で囁く。それは判っている。判り切っている。ソフィアとて、世の中全て綺麗事で渡れると思うほど、子供ではない。裏の世の、汚い部分も数知れず見てきた。自身も、その汚泥の中を這いずりながら生き抜いた。今更、政略の妙に何を言う気にもなれない。
「陛下にご自身の理想を押し付けられても、陛下がお困りになられるだけです」
「ユリア様」
「清廉潔白な主君の元に仕えたいと思われるのでしたら、どうぞ、何処へなりといらしてください。ソフィア殿下には、アグネイヤ四世陛下よりも、ルクレツィア妃殿下の方が相応しき主かもしれませんね」
「ユリア様」
 彼女にも、気付かれていたか。
 サリカの人柄に触れ、心開いたソフィアである。けれども、サリカがいるのはフィラティノアだ。ソフィアは自身の身の安全を考慮すれば、二度とかの地へと足を踏み入れることは適わない。それを承知で、フィラティノアを出た。サリカも、ソフィアを救おうとして、神聖帝国に赴くよう手配してくれたのだ。
「命を粗末にすることは、天に背くことですよ。ソフィア殿下」
 噛んで含めるように言われ、ソフィアは頷くしかなかった。
 自分は、もうツィスカではない。ソフィアなのだ。そのことを肝に銘じなくてはならない。


 ソフィアは、離宮を辞した。
 皇宮に帰り着いたのは、日が暮れた後だった。先に帰ったはずのソフィアがいない、ルーラがソフィアの身を案じて、人の手配をしていたのだ。彼女の無事な姿を確認したルーラは、
「ソフィア殿下。少し行動を慎んでいただきたい」
 ふぅ、と彼女らしくない溜息をつき、僅かに蒼褪めた顔に怒りをにじませた。
「申し訳ございません」
 素直に詫びの言葉を述べたソフィアは、ふと、昔のことを思い出す。
 グランスティアにて、ルーラに暇を告げたときのことだ。あのときは、二度とフィラティノアに戻るつもりはなかった。エランヴィアにおいて、華々しく散るつもりだった。それが、どうしたことだ。おめおめと生きながらえて戻ってくるとは――ルーラもさぞやあきれ果てたことだろう、と思ったのだが。

 ――はじめまして、ソフィア殿下。

 ルーラは、ソフィアをツィスカではなく、カルノリア皇女として迎えたのだ。
 それぞれに、フィラティノア国王と王太子の愛妾であったふたり。共通する想いは多くある。ソフィアが思うと同じく、ルーラもソフィアのことを他人とは思えぬのだろう。だからこそ、敢えてソフィアをツィスカと呼ばなかった。アグネイヤがからかうのも気に止めぬようにして。
 あのとき以来か、ルーラとこうして二人きりで会話をするのは。
「ルナリア様」
 呼びかけると、ルーラの眉が微かに寄った。
「ルーラ、とお呼びください。ソフィア殿下」
 ルーラは何故かルナリアと呼ばれることを嫌う。それが彼女の本名だろうが、ルーラは殊の外、愛称で呼ばれることを好むのだ。何かこだわりがあるのだろうか。思ったが、尋ねたことはない。ルーラ様、そう呼びかけると今度は「様」は必要ない、という。ソフィアは「では」と
「ルーラ殿」
 最大限の譲歩を以て呼びかける。ルーラは仕方がないというふうに、眉を下げた。
「陛下は、アグネイヤ四世陛下は、フィラティノアを併合なさるおつもりなのですか?」
 先程のリディアとの会話の真偽を確かめる。寵臣であるルーラならば、アグネイヤの真意を知っているだろう。が、ルーラは
「どうでしょう」
 見事にはぐらかしてくれた。
「ルーラ殿」
「知りたければ、ご自身でお尋ねになられるといい」
 にべもなく断られる。そのままルーラはソフィアを侍女に任せ、彼女の前を辞した。去りゆく長身の後ろ姿にディグルを重ね、ソフィアは胸の前でそっと両手の指を絡める。ルーラは本当に王太子によく似ていた。顔だけではない、喋り方も、纏う雰囲気も。アグネイヤはルーラとは打ち解けるのに、何故、ディグルとは心を通わせられなかったのだろう――場違いなことを考えて、ソフィアは息をついた。
 アグネイヤとルクレツィア、二人が入れ替わることがなければ、乱世は訪れなかったかもしれない。アグネイヤがディグルと睦まじく過ごし、ルクレツィアが神聖帝国を無難に治めていれば――
(治めていれば)
 アインザクトの再興は、適わなかった。
 軋み始めた歯車が、新たな歪みを生みだす。その歪みによって幸福を得る者もあれば、理不尽な想いを強いられる者もある。現在のフィラティノアの一部及びアダルバード、ヒルデブラントの国土の殆どは、アインザクト大公の領地だった。しかし、アインザクトがその土地を再び支配しようと思えば、ヒルデブラントとアダルバードを滅ぼし、フィラティノアより領土を割譲させねばならない。今現在、そこで暮らしている者たちは、どうなるのだ。新たな領主を迎えるのか、それとも土地を追われて流浪の民となるのか。

 ――ならばいっそ、奪い取ればよいでしょう。

 幻聴か。アグネイヤ四世の声が聞こえる。
 穏便に行かぬことであれば、武力を以てもぎ取るほかはない。それで恨まれたとしても、仕方のないことだ、と。彼女なら言うだろう。
(負の、連鎖)
 アインザクトの恨みが、新たなる恨みを生みだす。
 負の連鎖は、歯止めが利かぬほど拡大していく。
(こんなことを)
 望んだはずではないのに。
 廊下の中央で立ち止まり、両手で顔を覆ったソフィアを、侍女が慌てたように支えにやってくる。気分が悪くなったのだと、そう思ったに違いない。大丈夫、そう繰り返して、ソフィアは顔を上げようとした。だが、上げることが出来なかった。
 だからといって、泣き寝入りなど出来なかった。二百年前のあの屈辱、あの恨み、全て返さねば気が済まなかった。それが、脈々とアインザクトの血に受け継がれた思いなのだ。利用されたと思っても、自身がアインザクトの末裔ではないと思っても、それでも、決して否定することのできぬ『想い』。
 大声で叫びだしたい衝動に駆られ、ソフィアはその場にへたり込んだ。侍女は益々動転し、近くの衛兵に声をかける。衛兵は、更に別の者を呼びに走った模様だった。

「ね、えさま……」

 嗚咽と共に、ソフィアの口から姉の名が零れる。
「ヴィーカ、姉様」
 姉は、姉と呼んだ人は、全てを赦せたのだろうか。赦せたから、アレクシア皇女の傍に在るのか。名ばかりの女大公として、アレクシアの傍に侍って、それで、満足なのだろうか。家名だけを再興し、それで由としているのか――現アインザクト当主は。
「わたしは……」
 逃れられない。違うと判っていても、血の呪縛から逃れられない。矛盾した思いの中で、苦悶にのたうつことしか出来ない。
 フィラティノアの民を案じながらも、かの国の滅亡を、アインザクトの復興を、願う自分がいる。
 俯いた顔から、ぽたり、と液体が零れた。涙か、と。思ったが。血だった。強く噛みしめた唇が切れ、そこから鮮血が溢れている。侍女は、はしたなくも悲鳴を上げ、ソフィアを抱き起こすと手巾でその口元を押さえた。

「どなたか、どなたか、早く。ソフィア姫が……」




「舌、噛もうとしたのか、と思っちゃったじゃないのさ」
 たまたま通りがかった――と本人は言っているが――神聖騎士団長ティルが、呆れ顔でソフィアの顔を覗きこんでいる。彼は蒼白になった侍女にパタパタと手を振り、
「大丈夫だから、下がってていいよ」
 その場を辞することを命ずる。侍女は躊躇いながらも、ティルの言葉に従った。去り際に、不安げな一瞥をソフィアに残して。
「なに、色々思い出しちゃったの? 辛いこととか」
 くるくるとよく動く古代紫の瞳。同じ色なのに、双子とは印象がまるで違う。ソフィアは呆然と彼を見つめた。そして、彼もまた、ソフィアの過去を知っている者の一人だということに気付き、
「いいえ」
 小声で否定した。今更、汚れた身を嘆くことなどしない。
「そ?」
 ティルは首を傾げ、侍女の手巾でソフィアの口元を拭う。
「あーあ、珊瑚色の唇が、余計赤くなっちゃったね。桃色から、真っ赤だよ。それもまた、色っぽいけどね」
「閣下」
 この状態で何を言っているのだ、と、ソフィアは呆れた。
 ティルは常に軽口を叩いている。初めは頭が少しおかしいのかと思っていたが、そうではないらしい。彼の軽口はその余裕からくるものであり、また、他人の目をくらませる意味もあるようだと気付いたのは、つい最近のことだった。
「閣下、お召しものが」
 神聖騎士団の純白の衣装に、鮮やかな紅が散る。ティルはそれをちらりと見て、「気にしない気にしない」先程同様、手を振った。
 と、そこへ。

「長」

 声を上げて、駆け寄ってくる者があった。ティルの身体越しに見えた人物、その容貌に、ソフィアは一瞬、アロイスを思い出す。自分を道連れにしようとした叔父――と呼んでいた人物。思わず身を固くするソフィアを、
「こちらは?」
 件の人物は不審そうに見下ろした。
 近くで見れば何のことはない、叔父とは似ても似つかぬ青年である。鮮やかな金髪に若草を思わせる翠の瞳は、兄と同じ。兄・クラウスと同じ、アインザクトの末裔だった。
「ああ、カルノリアのお姫様」
 ティルは呆気ないほど簡単にソフィアを紹介する。カルノリア? と青年が怪訝そうに顔を顰めた。
「こっちは、アウリール。オレのお目付け役というか、なに? 副官というか秘書というか」
 そんな存在であれば、今までに目にしたであろうに。全く面識がないことに、ソフィアの方も胡乱な眼をアウリールに向けた。
「暫く、エランヴィアに偵察に行ってたわけだ。ちょうどお姫さんがこっちに来るころに出かけた、のかな?」
 じゃあ、初めましてか、とティルは双方に人懐こい笑顔を向けた。
「カルノリアの……ソフィア姫、ですか?」
 そのことに思い至ったらしいアウリールの警戒が、やや薄れる。ソフィアがツィスカとして育てられたことを、彼もまた知っているのだろう。いったいどれだけの人物に、自身の素性が知られているのか――考えると、うすら寒くなってくるソフィアだった。
「長、このような処で何を?」
「ん? 密会」
 言って、ティルは舌を出す。冗談、とすぐに笑って流し、
「なに? 急いでいるんでしょ? オレに用事?」
 逆にアウリールに尋ねる。アウリールは、それが……と言いかけて、その場に部外者がいることを思い出したのか、口を噤んだ。去れ、とその目がソフィアに告げている。
「おや、姫君の前では言えないような、血生臭い話? やだなあ、オレ、これからメシなんだけどー」
 食べてからじゃ駄目? そう、言いながらティルは上目遣いでアウリールに媚びる。アウリールは憮然としたが、上げていた肩を落とし、
「仕方ないですね」
 折れた。
「詳細は、後ほど」
 ちらりと鋭い視線をソフィアに投げる。
「よかったぁ、じゃあ、ゆっくりメシが食える。って、お姫様も一緒に食べない? オレんとこのメシは、いや?」
「い、いえ……」
「ほんじゃ、決まりね。あ、お嬢さんとこには、アウリール、連絡しておいてあげて。心配するといけないからね」
 ティルは片目を閉じ、アウリールに口付けを投げつけた。アウリールは、「やれやれ」といった様子で、肩を竦める。そんな彼を尻目に、二人はティルの執務室へと足を向けた。ティルはどうやら、そこで食事を取るらしい。部屋付きの侍女に言い付けると、侍女はすぐに二人分の食事を運んできた。
「お姫様の口に合うかは判らないけどね」
 彼の言うように、それは到底貴族の食事とは思えなかった。麺麭は焼き立てで湯気が立ってはいるが、主菜は簡単に焼いた野鳥の肉が僅かと、汁物も野菜を細かく刻んで投げ込み、適度に味を調えただけに過ぎない。添えられた酒も、然程高級とは言えぬ葡萄酒であった。
「オレ、ガキの頃から貧乏生活だったから。豪華な食事は性に合わないんだよね」
 言いながら、彼は片手で肉を摘む。促され、ソフィアも肉を口に放り込んだが、見た目に反してなかなか美味であった。若干塩気がきついような気がしたが、
「あ、さっきの侍女は、オレの故郷からついて来た娘なの。これが故郷の味、ってやつ?」
 ティルの暮らしたアーシェル、地方独特の味付けだという。肉を保存するために塩漬けにしているそうだ。そのせいか、肉に塩気が強く含まれる。だから、軽く焼くだけで特に調味料はつけないらしい。肉が塩からいから、汁物も味を付けない。葡萄酒は若干酸っぱく思えたが、飲めないわけでもない。
「アーシェル、知ってるよね?」
「存じております」
 旧神聖帝国最後の巫女姫・フィオレーンの妹、アーシェルと共に北へと落ち伸びた人々がいることは、前から知っていた。さすがにカルノリア大公もミアルシァも、遥か北、血も凍りつくような凍土にまでは追手を差し向けなかったのだ。アーシェルと彼女に付き従った者たちは、地の果てにへばり付くようにして暮らし始めたという。
「とにかく、寒くてね」
 ティルは笑う。
 逃亡の途中にも脱落者が出たが、あの土地についてからも、悲惨だった。五年で数は半分になり、十年で更に半分になった。それでも、生きていかねばならぬから、彼らは土着の民と交わり、血を繋いでいった。
「いつか、帰ろうと思っていらしたのですね」
 アンディルエ、光の都へ。帰る日を夢見て、アーシェルの民は生き抜いてきたのだと。思うとソフィアは目頭が熱くなった。しかし。
「なんで? そんなこと、全然思いもしなかったけど?」
 ティルはきょとんとして答える。ソフィアは思わず瞬きを繰り返した。
「オレたちは、進んで逃げたの。だから、逃げた先で生きていくの。だって、自分から帝都を捨てて逃げたんだよ? いまさら、どんな顔して帰っていくの。国が再興できて、ああよかった――って。何にもしないオレらに、帰る権利なんてないでしょうよ」
 頭悪いね、と、彼は最後に付け加えた。
「ま、今は確かにこっちに居るけどね。ぬくぬく暮らしちゃっているけど」
 若干、ばつが悪そうに頬を掻くティル。ソフィアは穴があくほど彼の顔を見つめた。
「なに? 見とれてんの? いや、美人に見つめられるのは悪い気はしないけど……でも、オレ、歳下よ?」
 六歳ほど年少者だ、とティルが言っているのが聞こえた。
 だが、そんな情報は、ソフィアにとっては何の価値もない。

 ――何もしないオレらに、帰る権利なんてないでしょうよ。

 その言葉が、強く胸に焼き付いた。

 ――アインザクトに領地を与える。
 ――決まっているではないか、フィラティノアに。

 リディアの声が、そこに重なる。
「いけません」
 ソフィアは大きくかぶりを振った。なに? と首を傾けるティル。彼を無視して、ソフィアは幾度となく脳裏に響く皇太后の言葉を、皇帝の思惑を否定し続ける。

「いけません!」


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