AgneiyaIV
第五章 暁の覇者 
6.群雄(2)


「サディアス」
 鷹の名を呟いたサリカは、「失礼」と夫人の前を辞し、露台へと向かう。窓を開け放ち、柵の傍まで駆けよれば、目の前にサディアスが優雅に舞い降りた。それを目の当たりにした夫人が、「まあ」と驚いた様子を見せる。深窓の令嬢は、猛禽類を間近で見ることはないのだろうか。素朴な疑問を抱きながら、サリカは鷹の足に付けられた手紙を手にした。
 そこには懐かしい字で走り書きがされている。セレスティン――彼からの親書だった。知っていたこととはいえ、こうして改めてディグルが討たれたこと、国王が処刑されたことを知らされると、強い衝撃が込み上げてくる。サリカは無意識のうちに自身の下腹を押さえた。国王が望んだ神聖皇帝の血縁。ここに宿るのは、フィラティノア王室の血を一滴も受け継いでいない。市井の歌姫と海賊の血を引く子供だ。それがある意味、小気味良かった。
 サリカの口元に笑みが浮かぶ。
 事実上、フィラティノアは滅んだ。
 遠い日、片翼と共に語り合った、フィラティノア奪取の夢。マリサの夢が、叶う。


 書簡には他に、白亜宮が混乱にあること、王位宣言をしたウィルフリートの軍に取り囲まれていること。他、我こそはと名乗りを上げた諸侯が城に押し寄せていることも書かれていた。
 セレスティンにとって、セグがすぐにオリアに入らなかったことが誤算だったのだろう。アロイスが何を思ってエルンストに留まったか。彼はもとより、フィラティノアの継承争いには興味がなかったのかもしれない。セレスティンに手を貸すと見せかけて、その実、アロイスは――
(アインザクトの復讐のためだけに動いていた?)
 そうなのだ。アロイスを、あてにするべきではなかった、サリカもセレスティンも。
 アロイスは、初めから裏切るつもりだったのだ。
「筆を、貸していただけませんか?」
 領主夫人を振り返ると、夫人はつき従って来た小間使いに声を掛ける。小柄な少女は、慌てた様子で王太子妃に筆と墨壺を捧げた。サリカは礼を述べ、布の裏側に返事をしたためる。
 ジェリオの子を懐妊したこと。
 その子を次期フィラティノア国王として、奉じること。

 ――白亜宮を捨てて、エルンストに入って欲しい。

 最後に、ここにエルナとアデル、ツィスカも揃っていることを付け加え、サリカは布を再びサディアスの足に括りつけた。宜しく、と優しく彼の腹を撫でる。鷹は「使いが荒い」とばかりに軽くサリカの頬をつつき、空へと舞い上がった。
 はらはらと宙を舞う和毛を目で追いつつ、
「夫人、城壁の外の様子はどうなっている?」
 サリカは尋ねた。エルンストにルクレツィア王太子妃が滞在していることは、既に周知の事実だろう。玉座を望むものであれば、各々の思惑を以てエルンストに足を向けるはず。殊に、自身が王となろうとしている者にとっては、ルクレツィアは邪魔な存在である。早期に抹殺したいと考えるに違いない。
 案の定、夫人は渋い顔をした。
 領主の元には、ルクレツィア引き渡しを要請する書簡が何通も届いているという。
 また、実際に兵を動かしている者もあるが、駐留するセグ軍を警戒してか、表立って攻めてくるようなことはないようだ。
「小競り合いは、それなりにございます」
 エルンストの市兵、傭兵と、諸侯の軍が小規模な戦闘に及ぶこともあるらしい。
「夫君は……カミル卿は、私の懐妊を諸侯に宣言されているのか?」
 これには夫人はかぶりを振った。
 まだか。サリカは唇を噛む。ならば。
「宣言を頼む、と」
 夫君に伝えてほしい。サリカの言葉に、夫人は深く首を垂れた。
「以後、騒がしくなると思うが、宜しく頼む」
 夫人の手を取り、甲に口付ける。夫人は頬を染め、
「御意」
 更に深く礼を取る。
 サリカは小間使いに預けていた、ディグルの剣を手に取った。その重みを確かめながら、小間使いにエルナ――ヴァディーン伯爵夫人を呼ぶよう命ずる。小間使いは先程同様恐縮して、すぐさまエルナを呼びに行った。その間にサリカは夫人に対し、一刻も早く宣言をさせるよう領主の元へ行くように告げる。
 夫人も小間使いの後を追うように退室していった。
 ほっと息をつく間もなく、彼女と入れ替わるようにしてエルナが訪れる。茶会を中座した彼女は、何処へ行っていたのだろう。気にはなったが、サリカは敢えて言及せず、
「何の用だい、王太子妃殿下」
 横柄に腕を組みながら尋ねる従兄に向かい、
「この剣を、セルニダに届けてほしい」
 ディグルの遺品を差し出す。
「おや? 旦那のなのに、いらないのかい?」
「ルーラに渡してくれ。勿論、貴方が直々に出向く必要はない。誰か信用のおける者に頼んでくれれば、それでいい」
 はーん、とエルナは気がなさそうに頷く。彼女のことだ、おそらくこの街にもそれなりの伝手があるのだろう。もしくは、アインザクトの誰かに託してくれれば。
「セラとエリシア妃、イリアも此方へ呼び寄せた。当分、この街に居ることになると思う」
「それは、今度はここを戦場にするってことかい?」
「そう思ってくれて、構わない」
 即答するサリカに、エルナが不信の目を向ける。従兄はサリカに近づき、その額に己の掌を当てながら、訝しげに首を傾げた。
「熱はないようだね」
「エルナ?」
「変なもんでも食べちゃった、とか?」
 いったいどうしたのだ、と、エルナが眉を寄せる。
「子供が出来たからかね、なんか、テキパキしているよね、今のあんた」
 そうなのだろうか。今度はサリカが怪訝に思う番だった。自分は何一つ変わっていない。変わろうともしていないのに。
「領主夫妻は、僕がここに入った時点で、覚悟を決めていたのだろう。ならば、何も言うことはない。ここを拠点に、フィラティノアを手中に収める」
 自身の計画を述べるサリカを、益々もって奇異の目で見つめるエルナ。その様子の方がおかしくて、サリカは思わず吹き出しそうになったが。そんなことをしたら、このへそまがりな従兄は何を言ってくるかわからない。笑いを堪え、
「あとでツィスカとも相談したい。夕餉の前にまたここに来てくれ」
 簡単に告げた。
 ツィスカを呼ぶということは、アロイスにも声を掛けねばならないか。あの男は、今一つ信用が置けず、気が進まないが。彼を除いて謀をすれば、あの男のことである、またツィスカに辛く当たるだろう。サリカは仕方なく、アロイスにも声を掛けるようエルナに依頼した。
 が。
「アロイス、ね」
 エルナは意味深長に口角を上げる。
「あれは、始末されたよ。今頃、何処かに捨てられてるんじゃないのかい?」
 エルナが簡単に語った顛末に、サリカは言葉を失った。セグにおけるアロイスの協力者、ダルシアのアリチェが彼を裏切ったのだ。アロイスは、同胞に捨てられたことになる。まさか、とは思うが――アロイスでさえ、旧友を裏切るような真似をしたのだ。彼自身が裏切りの対象となってもおかしくはない。
「まあ、あれには相応しい末路だと思うよ。これ以上生きていても、きっといいこと一個もないだろうしね。本人も周りも」
 伏せられたエルナの睫毛が、微妙に揺れている。
 周りも、の部分で、ピンと来た。エルナが事実上アロイスを『見殺しにした』のは、ツィスカのためではなかろうか。反りが合わずとも、ツィスカをそれなりに大切に思っていた、だから、ツィスカとアロイスを天秤にかけたとき、ツィスカを取ったのだ。
 人を裏切り続けたアロイスは、最後の最後で自身も裏切られ、見捨てられた。
 それでも、彼を哀れだと思わないのは何故だろう。
 彼が討たれたことを聞いても、遠い世界の出来ごとのように思えてしまう。あるいは、吟遊詩人の語る騎士の末路のほうが、身近で涙できるものなのかもしれない。
「ツィスカも、これで自由になれるのなら」
 アロイスから解放されたのなら――サリカは思う。
 ソフィアではなく、ツィスカとして。生きていくことも出来るのではないか。そのほうが、いいのではないか。
「エルナ」
「はいよ」
 やはり、エルナも同じことを考えていたらしい。軽く手を上げ、了解とばかりに片目を閉じる。
 アロイスを葬った刃が、ツィスカに及ばぬとも限らない。アロイスのことだ、最後の最後で恐らくなにか、災いの種を撒いていっただろう。
「そう来ると思ってね、手は、打っといた」
 さすが。
 サリカは従兄の手際の良さに、会心の笑みを浮かべた。



 領主への報告を終えたゲアハルトは、ゲオルクと二クラス、副官両名に対してツィスカの『始末』を命じた。セグを愚弄した、カルノリア娘。その首を皇帝に送りつければさぞや胸がすくことだろう。が、事は慎重に運ばねばならない。ダルシアとの正式な同盟が結ばれぬ限り、カルノリアとの関係は、良好に保っておきたい。

「宰相閣下よりの使者がみえました」

 下士官からの報告に、ゲアハルトは副官らと視線を交わした。先日の報告以来、二回目である。今度はいったい何が、と危惧しながら使者を迎えれば、

「書簡を持参いたしました」

 彼は下士官を通して、セグ宰相の親書をゲアハルトに差し出す。
 そこに書かれていた内容を一読したゲアハルトは、低く唸って紙を強く握りしめる。「どのようなことが」と尋ねるゲオルクに応えて、
「カルノリアの第一将軍、かのご夫妻とタティアン大公殿下よりの使いがセグに見えたそうだ。先代のルドルフ大公殿下が密かに結んでいた、かの御仁らとの『同盟』を、引き続き存続させたい、と」
 手短に内容を語る。
 つまり。カルノリアとセグの間には不可侵条約を結ぶというのだ。それはあくまでも、ソフィア皇女あってのものだと思っていたが、そういうわけでもないらしい。現皇帝シェルキスを退位させるにあたり、ソフィアは存在してもしなくてもよいものであると、また、皇女ソフィア、その父であるシェルキスは、前カルノリア皇帝シェルキス一世の血を一滴たりとも引いてはいないことが、そこにしたためられていた。
「現皇帝は、寵姫スヴェローニャ夫人の不義の子であり、もともと皇帝たる資格はない、とのこと。アレクシア皇女は実はタティアン大公とその妃ナディアの姫であって、彼女こそ次期皇帝として相応しい存在だそうだ」
 よもや、あの大国にそのようなからくりがあったとは。ゲアハルトを始め、一同は絶句する。榛の瞳を細め、ゲアハルトは再び書簡に目を落とした。
 セグに嫁いだソフィア、彼女は真実『偽物』だったのだ。ツィスカにとってかわられるまでもない。偽りの皇帝の血を引く娘。シェルキス二世が退位させられたのちは、羽一枚の価値もない存在である。ならば、
「いかようにしてもよい、そう、宰相閣下よりのお言葉がある」
 ゲアハルトの呟きが、重い沈黙を誘った。
 どちらにせよ、厄介者でしかない『皇女』である。シェルキス二世失脚ののちは、捕らえられ、生涯セグの辺境に幽閉されるか、もしくはカルノリアに送り返されるかのどちらかだ。
 今ここで彼女を抹殺しても、セグとカルノリアの間に問題が起こるわけではない。

「アロイス殿のことで騒ぎにならぬうちに」
「早めに、ことを進めましょう」

 副官二人が、ゲアハルトを促す。
 ゲアハルトは先程出した指令を、改めて両名に下した。即ち、ソフィア皇女を名乗る娘の暗殺である。副官二人を従えて、ゲアハルトは静かに部屋を出た。ソフィアの部屋は、離れではなく母屋にある。王太子妃たるルクレツィアには、こたびのことは知られてはならない。なるべく、穏便に、そして、速やかに。害虫を取り除かねばならない。
 三人は密やかに廊下を進んだ。人気はない、領主があらかじめ手配をしてくれている。彼らはソフィアにあてがわれた客室の前に佇み、そっと扉を叩いた。
 返事はない。
 彼らは目配せをし合い、音を消して扉を開けた。奥に踏み込めば、次の間の向こうにソフィアがいるはず。そう信じて剣に手を掛けたゲアハルト以下がそこで見たものは。

「あなたは?」

 後ろ手に縛り上げられ、猿轡をかまされた、小柄な少女だったのだ。ソフィアとは似ても似つかない、銀髪の娘である。が、ゲアハルトらには彼女に見覚えがあった。彼女は、ヴァディーン伯爵夫人の侍女・アデルではないか。
「どうなさいました」
 二クラスが慌てて床に転がされているアデルに駆け寄り、その縛めを解く。アデルは余程怖い思いをしたのか、わっと泣き出すと彼に縋りついた。可憐な少女の大胆な行動に、二クラスが困惑していると
「アデル嬢」
 ゲアハルトがゆっくりと近づき、視線を合わせるように屈みこんだ。
「あなたが、何故、この部屋にいらっしゃるのでしょう?」
 伯爵夫人の侍女であるはずのアデル、それがソフィア大公の部屋にいる、しかも、縛められて。いったい何が起こったのか。幾分強い口調で説明を求めるゲアハルトに対し、
「実は」
 アデルは切れ切れに語り始めた。
 曰く、茶会を中座した伯爵夫人が非礼を詫びたいので先に大公の元に伺うようにと言われ、この部屋にやって来たのだが。部屋に入って二言三言会話をするなり、いきなり大公の態度が豹変したという。
「急に短剣を突き付けられて、衣裳を剥ぎ取られました」
 見れば、アデルは下着姿であった。その横に、先程までソフィア大公が纏っていた衣裳が乱雑に脱ぎ棄てられている。つまり、ソフィアはアデルの衣服を奪い、それを身に付けて――
「逃走、か?」
 ゲアハルトの呻きに、ゲオルクも「しまった」と口元を歪める。
 ソフィアは尋常ならざる気配を察したのだ。察して、自らに危機が迫る前に、逃亡した。
 はっと顔を上げたゲアハルトが、窓辺に走り、僅かに開かれていた部分を大きく圧し開ける。と、遥か眼下に煌く金髪が見えた。夕映えに溶け込みそうなその金糸は、紛れもないソフィア大公だ。先方も視線に気づいたのか、ちらりと此方を振り仰ぐ。仮面で覆われた顔がゲアハルトに向けられると、彼女は慌てたように駆けだし、隠しておいたのか木に繋がれていた馬を駆り、逃走を図ったのだ。

「追うぞ」

 司令官の命に、ゲオルクが反応する。二クラスは、しがみ付くアデルをどうしたものかと迷っていたようだったが、
「申し訳ございません、これも役目なれば」
 すまなそうに詫びを入れ、親指でアデルの涙をぬぐう。アデルは若干震えていたが、それでも無理に笑顔をつくる処がいじらしい。助けてもらった礼を述べ、それから恥ずかしげに下着姿の胸元を隠すと、
「どうぞ、わたくしのことは構わずに」
 うっすらと染めた頬を俯けるようにして、彼を促した。二クラスは騎士の礼を取り、上着を彼女の肩にかけてから、部屋を飛び出し二人の後を追った。


 乗馬に長けていたとしても、所詮は女性。それほど遠くまで逃げ切れるわけがない。ゲアハルトもゲオルクも、楽観視していた。だが、目の前を行く金髪の女性は、巧みに馬を操り、森の中を縦横無尽に逃げ回る。やがて、館の裏手、崖の辺りに追い詰めたと思ったとき、
「あれは」
 何処からともなく飛んできた矢が、ソフィアを貫いた――ように見えた。弾みでソフィアの身体が大きくもんどり打ち、地面に叩きつけられる。と思う間もなく、消えた。崖下に、転落したのだろう。領主の館は、切り立った崖の上に築かれることが多いが、ここも例にもれず同様の作りであった。ゲアハルトらが一斉に馬を駆り、ソフィアの馬が嘶き暴れている地点に辿り着くと

「おお、これは」
「これでは……」

 はるか崖の下、うっそうと茂る木々に覆われた大地が広がっている。商都としてのエルンスト、その裏側を垣間見た気がして、主従はぞっと身を震わせた。ここから転落したのでは、発見されるまい。そんなことを思いながら二人が視線を交わしているとき、足音が近づいてきた。遅れてやって来た二クラスかと思いきや、それは領主の嫡男、エドアルドだった。狩猟用の弓を手にしている処を見ると、あの射手は彼だったのか。
「仇を、討った」
 誇らしげに胸を張る少年を、ゲアハルトは痛ましいものでも見るような目で見下ろす。
 エドアルドは、それほどまでにアロイスを慕っていたのか。あの奸賊を。
「貴殿らも、あのような毒婦に良いように操られていたとは。セグの重臣が聞いて呆れる」
 ふ、と年齢に似合わぬ大人びた笑みを残し、エドアルドは彼らに背を向けた。アロイスは、エドアルドに何を吹きこんだのだろうか。今後のセグとエルンスト領主との間に溝をつくるようなことを、残して行ったのか――考えると、苦いものが込み上げてくる。
 エドアルドは、純粋だ。
 純粋ゆえに、恐ろしい。
「御曹司には、しかるべき教育係を付けるよう、カミル卿に進言しておかねばな」
 ゲアハルトの言葉に、ゲオルクが頷いた。
 彼らは今一度崖下を覗きこむと、踵を返す。薄暮の中、彼らの姿が森影に消えていくのを見守る別の視線があることに、ゲアハルトらは全く気付いていなかった。




 やがて。
 崖の縁に、何者かの手がかかった。一本、二本。武骨なそれが、気合とともに己の身体を引き上げる。現れたのは、長身の青年だった。
「くっちゃべってねぇで、さっさと行けっての」
 ジェリオである。
 彼は腕を軽く回しながら、ゲアハルトらの去った方向を睨みつけた。ついでに、手にしていた金髪の鬘を、忌々しげに崖下に投げ捨てる。それから、ここまで彼を運んでくれた馬の首を叩き、「ありがとな」と礼を述べると、この場を離れるよう促した。馬は高く嘶き、気合い充分に駆けだしていく。

 何のことはない。
 ツィスカを装い、ここまでゲアハルトらを引きつけたのは、ジェリオだったのだ。

 侍女の衣裳に見えるよう、薄布を幾重にも身体に纏い、薄暮の光の弱さを巧みに利用して、この崖までやって来た。本来は自ら落馬するつもりだったが、
「あの坊ちゃんが、ねえ」
 思わぬ邪魔が入った。エドアルドがまさか矢を射るとは思わなかったのだ。けれども、それが逆に功を奏した。不自然に見えぬよう、崖下へと消えたジェリオは、途中の木の根を掴み、一同が立ち去るまでじっと耐えていたのだ。お陰で、腕はかなり痺れている。それを愛おしげにさすりながら、ジェリオは館を見上げた。
「あんたもなかなか、いいとこあるんだな」
 口の悪いミアルシァの王兄を、少しだけ見直した瞬間である。




 一方で。二クラスも退室し、しんと静まり返った部屋のなか。アデルはそっと扉の隙間から外の様子を窺い、そこに誰もいないことを確認すると、
「ツィスカ様、もう大丈夫です」
 寝台の下に声をかける。ややあって、ごそりとそこから人影が這いだした。見事な金髪、には変わりないが、それは男子のように短く切りそろえられていた。それだけではない、かのひとは、騎士の略装を身に纏っていたのである。男装したツィスカは、何処か線が細かったが、地位あるものの近侍、小姓に見えなくもない。屈強な士官に混じれば、一目で女性と判ってしまうかもしれないが――それでも、これだけ髪型を変え、衣装を変えれば、すぐにはこれがあのソフィア大公であるとは判別しがたいだろう。
「今すぐにここを出てしまえば、国外に逃れることは可能でしょう」
 アデルの言葉にツィスカは頷く。
「ありがとう。エルナ殿にも、礼を述べなければ」
 口の悪い女装の王兄を思い浮かべ、アデルは苦笑した。あれだけツィスカを弄っていたのは、愛情の裏返しだったのかもしれない。エルナも、ツィスカだけは助けたかったのだろう。だから、アロイスを見殺しにした。彼さえいなければ、ツィスカは自由になれる。ソフィアではなく、ツィスカに戻れる。
 だからといって、ツィスカはもう、アインザクトにも居場所はなかった。ツィスカを葬ろうとしたのは、アロイスだけの考えではないだろう。ツィスカ自身も判っているとは思うが、おそらく、彼女の姉も、姉を取り巻く人々も、カルノリア皇女たるソフィアの破滅を望んでいるはずだった。
 そのような人の元に、彼女を返すことは出来ない。
「とりあえず、離れへまいりましょう。妃殿下とエリィ様のところへ」
 ここを出て、ひとまず身を隠さねば。
 それにはこの、薄暮が味方をしてくれる。アデルはツィスカを促し、足早に廊下に出た。ツィスカの身代わりを務めたジェリオが、出来るだけ遠くにゲアハルトらを引き離してくれているはずだ。その間に、母屋を後にする。
 アデルの判断は、正しかった。
 ツィスカの――ソフィア大公の暗殺を、エルンスト領主も黙認していたのか。廊下にも、使用人通路にも人気はない。二人は難なく離れへと辿り着き、ひっそりとエルナの滞在する部屋へと向かった。
「おや、悪運強いね、さすが鴉の姫君」
 使用人を下がらせ、部屋で一人寛いでいたエルナは、ツィスカを見るなりくすくすと笑いだす。それでも、ツィスカの表情が歪まない処を見ると、エルナとツィスカは心を通わせ始めたらしい。
「お陰さまで、難を逃れることが出来ました」
 貴婦人の礼ではなく、身なりに相応しい騎士の礼を取ったツィスカに、エルナは
「なんにも」
 謙遜か、それとも本当に彼女にとっては何でもないことなのか、適当と思われる仕草で、ぱたぱたと手を振っていた。
「拾った命だ、粗末にするんじゃないよ、ツィスカ――ソフィア」
 ツィスカは頷いていた。
 アデルは瞠目する。今までのツィスカには考えられぬことだ。かつての彼女ならば、ここでエルナの言葉を否定するはず。ツィスカもまた、変わって来たのだ。アデルは微笑んだ。
「で、そんなあんたにちょっとしたお使いをお願いしたいんだけどね」
 言ってエルナは手にしていた剣を鞘ごとツィスカに渡した。これは、と首を傾げた彼女だったが、やがてその意味を理解すると、膝をついた。
「かしこまりました。これを、セルニダにお届けすればよろしいのですね」
「呑みこみ早くて助かるよ。妃殿下は、これをルナリアに渡してほしいって言ってたけどね」
「ルナリア……ルーラ様、ですか?」
 元妃であったアグネイヤ四世ではなく? これにはツィスカも、そしてアデルも怪訝な表情をする。エルナは、
「ルナリアに、だってさ」
 繰り返した。
 確かに、ディグルとの絆はルーラの方が強いだろう。けれども、ルーラは愛妾に過ぎない。正妃を押しのけて愛妾に渡すなど、サリカは何を考えているのだとアデルも思ったのだが。エルナの静かな視線に、何らかの意味が含まれていることを察し、静かに頭を下げた。
「なんだか、カルノリアの方も騒がしくなってきたみたいだし。神聖帝国もそれなりに対応しなければならなくなったからね。うちらも、フィラティノアに構っている場合じゃなくなって来た、ってとこか」
 エルナの言葉に、ツィスカの表情が曇る。
 カルノリアのアインザクトが動き出したというのか。ついにシェラの両親とタティアン大公が、かの国を更なる動乱の中に落そうと行動に出たに違いない。傷を負って療養中と言われているアレクシア、いまや帝位を継承するに必要な条件を全て満たした彼女を担ぎあげ、エルメイヤを廃嫡し、宮廷を二分する争いを起こすつもりだ。
「このエルンスト領主も、セグと結んだみたいだしね。嫡男とセグ前大公の従妹姫、婚約だってさ」
「エドアルド殿とダニエラ姫が、ですか」
 これにはツィスカも驚いたようだ。
「そうして、セグに別の大公を立てて、セグはセグでダルシアとも組むらしい。いや、エルンストを含めると、三者同盟かね。エルンストもなかなか勢力ある領主だし。この勢いで、フィラティノアを制圧されるかもしれない」
「まさか」
「エルンスト領主は、王太子妃と次期王位継承者を握っているんだよ? こんなに有利なことはないだろう?」
 ルクレツィア妃と王太子ディグルの遺児を旗印として、王宮へと乗り込む。その野心が、エルンスト領主にないとは言えない。それをサリカも利用しようとしているだろう。サリカもまた、強かな女性へと変貌を遂げている。何が彼女を変えたのか、否、あのアグネイヤ四世の双子の姉妹である。元からその素質はあったに違いない。
「でも、……残念だね」
 長椅子の背に肘をつき、にんまりと笑うエルナ。
「ルクレツィア妃とその子供は、渡さない。フィラティノアには、渡さないよ」
「エリィ様?」
「エルナ殿?」
 不思議そうに首を傾げるアデルとツィスカ。
 ふたりがエルナの、そしてその背後にあるアグネイヤ四世の思惑に気付くのは、まだ暫く先のことであった。


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