AgneiyaIV
第五章 暁の覇者 
6.群雄(1)


「伯爵夫人、そこにいらしては怪我をなされます。下がってらしてください」
 ゲアハルトは、半ば呆れたように言い放つ。白刃煌くなか無謀にも飛び込んできた婦人に、心底うんざりしている、そんな表情が見て取れた。世のご婦人がたは、刃傷沙汰を酷く嫌う――先程エドアルドを連れて逃げたはずのマイケも然り、守らねばならぬはずの少年がそこに居るというのに、抜き身が恐ろしいか壁に背を押し付けて身を震わせている。あなたもそうしていなさい、と。ゲアハルトは思っているに違いない。
 エルナは、けっ、と喉を鳴らした。その品のない振る舞いに、ゲアハルトの眉が上がる。
「伯爵夫人」
 咎めるような声に、エルナは
「こんなときに仲間割れなんかしてる暇ないでしょうよ。どうすんの、こんなの一匹殺したところで、世の中なんてかわりゃしないよ」
 胸を反らす。
 こんなの、と言われたアロイスは苦笑する気にもなれぬか、ただ口角を上げたのみにとどめた。
「私を庇った処で、得はありませんよ。エルネスタ姫」
 アロイスの呼びかけに、ゲアハルトの眉が更に上がり、引き絞られる。
 エルネスタ――この街と同じ名だ。そう思ったに違いない。
「得もない代わりに、損もないよ」
 言い捨てるエルナ。
「もう一度言う。ここで争う意味はあるのかい」
 エルナの声は、ゲアハルトらに届いている。届いているが、彼らは耳を傾けようとはしない。
 女性に傷を負わせるのは騎士道に反する、と、エルナを避けているだけだ。ゲアハルトが一瞥をくれた騎士、彼らはすっと身を翻し、エルナを引き離そうとその両脇に歩を進める。彼女は気配を察し、僅かに身を引いた。エルナの腕が更に強くアロイスを抱え込み、

「おや?」
「まさか」

 その瞬間、二人は互いの秘密を知った。
「あらまあ、これじゃあ、ソフィア姫もエルメイヤ殿下も、あんたの子じゃあないね」
 エルナの高笑いが裏庭に響く。
 アロイスの苦虫を噛み潰したような顔が、エルナには堪らなく愉快だった。
 理由の判らぬゲアハルト以下は、何としてでもアロイスを討とうと、剣を構えたままじりじりと此方に近寄って来る。
 これはどうやら単なる仲間割れではないらしい、気付いたエルナは傍らでゲアハルトらをねめつけている小さな次期領主を見下ろした。
「ぼうや、悪いね。このおばちゃ……いや、おじちゃんを、向こうに連れてってくれないかい?」
 アロイスを託されたエドアルドは、目を白黒させていた。けれども、自分が誰かを守る、そのことが嬉しかったのだろう。手傷を負ったアロイスを背に庇うと、
「父上に報告する」
 勇ましい声を上げ、睨みを効かせながら後退していった。
 彼の台詞にゲアハルトは苦笑を漏らし、
「悪戯なさると、痛い目を見ることになりますよ」
 手負いと子供の足、すぐに追いつくはず――そう思ったのだろう。軽く言葉を投げた。おそらく、それはエドアルドの耳には届いていない。
 小さな英雄をひととき見逃したゲアハルトは、エルナに丁重に頭を下げる。
「ご婦人が、あまり表に出られることは好ましくないですな。ミアルシァではどのようなものか、判りませぬが」
「あたしは、ミアルシァは長くないからね。そうさね、フィラティノアで暮らした方が長いか。けど、どういうことだい? アロイスを潰して、あんたらに何か得があるのかい?」
 エルナは、去っていくエドアルドとアロイスを横目で見やった。別段、理由があって助けたわけではない。単なる仲間割れが、この戦況にどのような影響を及ぼすか。それを危惧してのことだった。が、ゲアハルトがアロイスを排除しようする理由、それが他にもあるのだとしたら。エルナには止める気持ちは全くない。根底にセグの、カルノリアの、根深い問題が絡んでいるのなら、エルナは完全な部外者である。そもそも、アロイスという存在はエルナの中ではさして大きくはない。『こんなの』と表現した通り、風に舞う枯葉に等しい、軽く儚い存在だった。
「アロイスは、我らを欺いていた。その素性、身分、偽りを述べてセグを翻弄し、無益な戦に駆り立てた。それだけでも、充分な罪と思われます」
「だから、暗殺? 短絡的だね」
「他国のことに口を挟まないで戴きたい、ミアルシァの御婦人。我が国は、我が主君は、この男によって滅ぼされようとしているのです」
 アロイスが、セグにとって獅子身中の虫であること、それさえ主君に理解させればよいのだと。
 そう言われれば、エルナは何も言うことはできない。アロイスによって酷い仕打ちを受けたツィスカ、彼女は今は彼を快く思っていないはずだ。アロイスがいなくなれば、ツィスカは彼の鎖から放たれる。――自由に、生きられる。

「そうだね」

 アロイス一人が消えた処で、戦が終わるわけではない。始まるわけでもない。
 ただ、名もなき花が散ったのと同じだ。
 庭園の薔薇を手折るのと、野に数多咲く草花を踏みにじるのと、どちらに人は罪悪感を覚えるだろうか。
 エルナはすっと身を避けた。彼女の意図を察したゲアハルトは、丁重に礼をすると副官に目をやり、共に彼女の脇をすり抜けていく。腕組みをしたまま一行を見送ったエルナは、深く息をついた。抱き締めた腕に覚えた感触、あれは男性ではなかった。そう思うと、奇妙な同志感が湧いてくる。
 性別を偽り、自身を偽り、復讐という杖に縋るだけの生き方。それもまた、一興かもしれない。
 アロイスの末路に自身のそれを重ねて、エルナは目を細めた。アロイスの復讐には大義があるが、エルナのそれには何もない。ただの嫉妬、愛されなかった者の恨みが渦巻いているだけだ。復讐などという高尚なものではない。
 腹いせ、自己満足、何と言われてもいい、自分はいつか――

「貰ってやるよ」

 エルナは組んでいた腕を解いた。その掌を見つめ、微かに嗤う。
 この手に弟の首を抱くまで。母后の前で、彼を血祭りにあげる日まで、自分は暗く穢れた『虚無の聖女』であり続けるのだ。



 何処をどう走ったのか。裏庭から館の更に奥、裏手の森へと足を踏み入れたアロイスは、自身の手を引くエドアルドの小さな背中をひたすら見つめていた。どうして、彼に付いてきてしまったのだろう。既に果てる覚悟はできていたというのに。
 遠からず、こんな日が来ると覚悟はしていた。それが今日、この時間だっただけである。
 志半ばに倒れるのであれば心残りだが、もう、自身のやるべきことはやった。
 セグに混乱をもたらし、カルノリアへの不信を植え付け、争いの種を芽吹かせることに成功した。惜しむらくは、ソフィアの存在まで消すことが出来なかったことか。ゲアハルトらの様子からすれば、ソフィアはアロイスと切り離されて考えられているようだ。
「御曹司……エドアルド様」
 アロイスは、少年に呼びかける。息が上がっているせいで、その声は掠れて聞き取り辛かったろう。が、エドアルドはちらりと此方を振り仰いだ。青い瞳に問いかけの色が浮かんでいる。
「お逃げなさい、あなたは、未来の騎士です。皇帝陛下をお守りしなければなりません」
 説得は却下された。
 エドアルドは子供らしい正義感から、アロイスを守ろうとしているのだ。エドアルドにしてみれば、穏やかで紳士的なアロイスにいきなり剣を向けたゲアハルトこそ、騎士道に反する慮外者なのだろう。そんな理不尽の暴力から、尊敬する人を守る――純粋な心に、アロイスは苦笑した。
 自分は、守られるような立派な人間ではない。
 そう。自分は――
「エドアルド様」
 アロイスは足を止めた。弾みでエドアルドの小さな身体が均衡を失い、倒れそうになるのを、片手で抱きとめる。傷が重く疼いたが、顔を顰めることなくアロイスは素早く身を屈めて。
「ソフィア大公殿下、あの方をご存知ですね」
 エドアルドは、こくりと頷く。
「あの方は実は、殿下ではなく、偽物なのです」
 青い瞳が見開かれた。そんな、と小さな唇が動く。アロイスは嘗て多くの婦人を魅了した笑みを浮かべ、優しくエドアルドの銀の髪を指先で梳いた。
「偽物だとばれるといけないので、ソフィア殿下……いいえ、本当の名は、ツィスカというのです、あの娘がゲアハルト司令官を唆して、私を殺害しようとしているのです」
「それは、まことか?」
 これにも、アロイスは頷く。
 無垢な子供を騙すことに、一縷の罪悪感も後悔もなかった。復讐のため、アインザクトのため、全ての存在は、駒にすぎない。
「戻って伝えてください、ゲアハルト司令官に。ソフィアは偽物で、本当はツィスカという娼婦なのだと」
 私は、あの女に殺されようとしているのです――アロイスの言葉に、エドアルドは震えた。幼子の澄んだ瞳を覗きこみ、小さく笑う。
「ソフィア姫は、あの娘に殺されました。もう、何処にもおりません」
 流し込まれた毒は、無垢な少年をどのような色に染めるのだろう。『恐ろしい事実』を知らされたエドアルド、彼は身を強張らせ、強く唇を噛みしめる。彼は信じている、アロイスを。アロイスの言葉を一片たりとも疑ってはいない。それを確信したアロイスは、「さぁ」と少年を促した。小さな小さな棘に過ぎぬエドアルドだが、彼もまた復讐の駒としての役割を担ってくれるだろう。
「私を、助けてくれますね?」
 それが、少年への呪縛となる。逃げるのではなく、助ける、大切な人を、救う。少年は力強く頷き、
「すぐに――すぐに、司令官に伝える。だから」
 待っていてくれ、そう言いかけた。否、実際、彼は待っているように言ったのかもしれない。
 ただ、アロイスには聞こえなかった。
 彼の声が、聞こえなかった。

「……!」

 どす、という重い音。
 肉を穿ち、断つ衝撃。
 患部より広がる、熱――激痛。

「――ぐ……」

 背後から放たれた矢は、確実にアロイスの背を貫いていた。目の前の少年の姿がぶれ、アロイスはその場にゆっくりと倒れ込む。視界に幕が降り、周囲が暗く、音を失っていった。
(ああ)
 解放だ。
 アロイスは微笑む。きっと最期は楽ではないだろう、そう思っていたが、案外天は自分を好いていてくれたのかもしれない。想像以上に、その瞬間は呆気なく――突然訪れた。




「アロイス殿、アロイス殿」
 不浄の神官の傍らで、少年が必死に彼に呼び掛けている。己の鮮血に沈むアロイスは、答えず、動くこともしない。それでも近づいてきた二クラスは、念のためとばかりにアロイスに剣を振りおろした。幾度止めを刺しても、この男は復活してしまう。そんな恐怖が二クラスを支配していたのだ。正直、二クラスはこの男が薄気味悪かった。人としての赤い血が流れているのか否か、剣や矢で殺害することが出来るのか、それすらも疑わしかった。
「仕留めたようだな」
 弓を携えた騎士を従え、ゲオルクが駆け寄って来る。遅れて、ゲアハルトの姿も見えた。
 セグの士官はアロイスの脈を確かめ互いに頷き合うと、その躯を荷物の如く運びあげる。何事かを叫ぶエドアルドを軽くあしらい、
「奸賊が」
 そのような言葉をセグディア訛りで呟き、森の奥に広がる池にアロイスを放り投げようとしたのだが。
 そのとき、アロイスの目がかっと見開かれた。これにはさすがの士官も悲鳴を殺すのがやっとであり、彼らを追ったエドアルドは、「ひぃ」と細く声を上げてその場に座り込んでしまう。

「セグは滅ぶ。セグは滅びる。白鳥の縁者が頂に立つとき、セグは……」

 ゲアハルトは徐に短剣を抜き、それをアロイスめがけて振り下ろした。凶刃が、アロイスの右目を貫く。それでもなお、アロイスは呪詛を吐き続ける。滅びの言葉を。
「捨てろ」
 司令官の命令で、副官らはアロイスを荷物の如く大きく振り上げ、池に投げ込んだ。派手に上がる水しぶきが、十二分に距離を取ったはずのゲアハルトらにかかる。凍てつくほどではない、けれども、身を切る冷たさを持つその飛沫を、彼らはおぞましいものでも受けたかのように手で払った。
 それから、ゆっくりと背後を振り返る。蒼褪めてこちらを見上げる少年、領主の息子エドアルドに
「ここでご覧になられたことは、他言無用。よいですね、御曹司」
 静かに、けれども威圧的に釘をさしてその場を去ろうとした。が、「待て」と思いの他鋭い声に呼び止められ、ゲアハルトは少年に目を向ける。師と仰いだ人物を失い、混乱しているのかと思いきや、そこは次期領主、芯は強く出来ているらしい。
「これは、大公殿下の御下命か?」
 エドアルドの問いかけを、ゲアハルトは無視した。答える必要はない。彼は部外者だ。
「大公殿下ならば、……何故、貴殿らは偽の殿下の命に従っているのだ」
 少年の、精一杯の叫びだった。偽の殿下、という部分に引っ掛かりを覚えたが、ゲアハルトは重ねて少年を無視し、裏庭を離れる。

「御曹司が、妙なことを仰っていましたね」

 ゲオルクが、ちら、と池のほとりを振り返る。そこにはまだエドアルドが無言で佇み、こちらを睨みつけていた。
 ソフィア大公が偽物。
 あの少年は、確かにそう言っていた。アロイスから何かを吹きこまれたのか。だとしたら、それは良くも悪くも真実であろう。以前ソフィア大公妃に仕えていた者は、侍女から護衛から小間使いに至るまで、全て解雇された。新たにソフィアの周囲に侍ったのは、セグディアから遠く離れた地域の子女で。それまで両親も本人も、公宮には縁のない者たちばかりであった。彼らはこの『大抜擢』を喜んでいたようだが、その裏に隠されていたのは、公妃のすり替えという事実。
 ゲアハルト自身も、大公就任前のソフィアとは面識がない。ソフィアは嫁いでからは第二公子の館に、寡婦となったのちは公宮の外れの離宮に隔離されていた。金髪に緑の目の大変美しい婦人だという情報しか得ていなかった彼らが、目の前にソフィアとして現れた婦人をそうだと信じたとしても誰も咎めることは出来ない。
 そのソフィアに、終始アロイスが傍に付き従っていた。
「大公殿下は、アロイスに唆されていたのではなく……」
 ゲオルクの発言に、ゲアハルトの眉が動く。
 あり得ぬことではない。

 ――セグは、カルノリアとの関係を、断つべきかもしれない。

 ゲアハルト以下の胸にその思いが去来するのは、ある意味当然のことだった。




「万事、終了した」
 その旨をエルンスト領主に告げると、彼は硬い面持ちのまま頷いた。やはり、暗殺などという手を好まぬ古風な人物なのかと、ゲアハルトは領主の人となりを想像する。年齢にしては落ち着いた、古き良き時代の騎士を彷彿とさせる好人物だけに、できればこのような陰謀に加担させたくはなかったのだが。
 これも、成り行きか。それとも、天のさだめた道筋か。
 とはいえ、エルンスト領主も、この国の玉座に対しては並々ならぬ色気を持っていることは確かだった。だからこそ、ゲアハルトに対して、協力する代わりにと思わぬ申し入れをして来たのだ。
「御曹司は、幼いながらに随分としっかりとした方ですな」
 将来が楽しみであるというと、領主は表情を和らげた。彼にとってもエドアルドは自慢の嫡子なのだろう。その彼の将来の花嫁に、と。セグ大公家の血縁の姫を領主が望むのは、当然かもしれない。
 ルクレツィア妃と王太子の遺児たる腹の子を奉じたエルンスト領主は、将来、悪くともフィラティノアの宰相くらいには上り詰めるだろう。歴史はあれど、小国たるセグの宰相とは異なり、大国フィラティノアの宰相である。大公家縁者の嫁ぎ先としては、決して悪くはない。
「ダニエラ姫は、今年、十三となったばかりです」
 前大公の従妹に当たる姫君には、いまだ婚約者が定まってはいなかった。領主の嫡男エドアルドは、九歳。冬が来れば十歳になるという。年齢的には、釣り合いが取れている。祖国には既にその打診をしており、宰相以下重鎮が認めれば、早々に話もまとまるはずだった。
 また、セグの重鎮たるブロンザルト伯、彼の嫡男にエドアルドの妹・アルマを嫁がせようという話も、領主とゲアハルトの間で交わされていた。人質交換、同盟にも当たるこの婚姻を、諸侯はどう見るか。
「オリアに向かう前に、ここに貴方がたが駐留されたこと。それが、全ての発端となりますか」
 エルンスト領主カミルは、穏やかに言う。もしかしたら、彼は初めからそれを狙っていたのではないか――領主の柔らかな物腰のなかに、一片の野心を垣間見た気がしたゲアハルトは、その可能性を疑ったが。確かめる術もなく、また、その気もない。
 セグの安泰、独立維持のためには、セグに最も近いエルンストの領主の力は不可欠である。
 ダルシアの縁と共に、失ってはいけない絆だ。
「カルノリアも、皇后陛下の失脚以後、その勢いを失っていると聞き及びます」
 領主の言葉に、ゲアハルトは頷く。
 ハルゲイザが皇女アレクシアの暗殺未遂の首謀者として捕縛、実家預けとなってから、皇帝シェルキス二世も塞ぎがちだと言われている。それは、傷を負ったアレクシア、彼女の不在によるものかもしれない。病弱な皇太子よりも、遥かに期待を掛けていたというアレクシア。彼女のためにシェルキスは議会を動かし、女帝を認めさせた。病弱なエルメイヤの治世は短いだろう。彼の後を継いでアレクシアがあの大国に君臨することは間違いない。
 聡明と名高いアレクシアならば、セグを蹂躙しようなどという愚は犯さぬはず。
 カルノリアとは付かず離れずの関係を保ちながら、ダルシアの庇護を受ければよい。
 そこまで進んでいた話だったが、先程、エドアルドから聞いた話で方向性が若干変わった。
「カミル卿」
 ゲアハルトは、意を決してその言葉を領主に伝える。領主は「なんと」と驚いたきり、押し黙ってしまった。よもや、セグの大公が偽物であったとは――彼も思いもよらなかったろう。
「ここは、我らの将来のため……全ての害を排除せねばならぬかもしれませぬ」
 偽の皇女を奉じさせるなど、セグを愚弄するにもほどがある。小国と侮るなかれ、と、ゲアハルトは怒りに震えていた。アロイス亡き今、ソフィアなど恐るるに足りぬ。

「大公殿下は、遠征中に病に倒れられた。もしくは、乱心したアロイスが殿下を弑し、アロイスは謀反人として処刑……でも、宜しいでしょう」

 ゲアハルトの呟き。それは、室内に静かに響き渡る。
 エルンスト領主は否定も肯定もせず、ただじっと、長きにわたり『戦友』となる男を見つめていた。



 池の畔に佇むエドアルド、彼の元にマイケが訪れたのは、どれほどの時間がたってからのことだろう。
「ぼっちゃま、ご無事で」
 守役の本分を果たさず、壁に縋って震えていただけの侍女を、エドアルドは睨んだ。それに射すくめられたマイケは、一瞬その場に立ち止まったが、やがておずおずと主人に近づいてくる。
「あの、アロイス様は」
 その名が禁忌であるかのように、そっとマイケは尋ねる。エドアルドは無言で池を指した。マイケは小さく悲鳴を上げる。池はそれなりに深く、遠く投げ込まれたアロイスの遺体を確認することは出来ない。彼の流した血も、水面を染めるほどではない。そこにアロイスがいる、その事実は実際に全てを見ていたエドアルドしか証言が出来ないのだ。
「なぜ、アロイス様が……」
 マイケは今にも泣きだしそうだった。
 優美なだけではない、洗練され、知識も豊富なアロイスに、マイケも心奪われ始めていたのだ。次期領主の守役、という地位にあって外界とは隔離されていた少女の、それは淡い初恋だったのかもしれない。いや、まだ恋と呼ぶほどには育ってはいなかったか。成熟した男性への憧憬、そこから一歩踏み出す手前での悲劇である。
「アロイスは大公に殺されたのだ」
 強く握った拳を震わせながら、エドアルドは声を絞り出す。
 偽の大公であるソフィア、アロイスがツィスカと呼んでいた女性、彼女が己の素性を隠すためにアロイスを殺害するように命じたのだ、と。告げればマイケは大きく目を見開いた。青い瞳の中に数多の感情が揺れ動く。まさか、と小さな唇が動いたが、それをエドアルドは即座に否定した。
「あの女狐が、アロイスを殺したのだ。虫も殺さぬ顔をして、ルクレツィア妃すら唆して」
 エドアルドの脳裏に、暁の瞳を持つ美しい少女の面影がはっきりと浮かび上がる。フィラティノアの希望、フィラティノアの光、未来の王妃、ルクレツィア。彼女を唆し売国奴にしたのも、おそらくはあのツィスカなる女狐なのだ。ルクレツィア妃が堂々とオリアに――白亜宮に帰還することが出来ぬのも、ツィスカが妙な画策をしたせいだ。
 そうだ。
 そうに違いない。
 少年の心にアロイスが落とした一滴の毒は、漣の如く静かに、確実に広がっていく。
「マイケ」
 エドアルドに呼ばれ、
「はっ、はいっ」
 マイケは慌てて返事をする。
「マイケ、アロイスの仇を討ちたくはないか」
 侍女に近づき、その耳元で囁く少年。マイケは先程よりも更に大きく目を見開いた。そんな、だいそれたこと――マイケはかぶりを振って否定するが、
「おまえは、悔しくないのか。無残に殺害されたアロイスが、哀れではないのか?」
 強い光を宿す青い瞳に押し切られ、幾度も激しく頷いていた。



 茶会での話題は、ごくありふれた、当たり障りのないものであった。
 軍議に明け暮れていたサリカにとっては、それは良い息抜きになったかもしれない。楽しく弾んだ会話のまま、
「では、また、晩餐の折に」
 一時解散となり、ルクレツィアとツィスカはそれぞれ用意された部屋へと案内される。サリカは、
「こちらのほうが、景色も宜しいし、落ち着かれるでしょう」
 領主夫人自らが離れの一室へと導いた。そこは確かに、日当たりも風通しも良い部屋で、遠くオリアを望むことのできる場所だった。眼下に広がる森は、目を、心を、癒してくれる。露台からそちらを見下ろしたサリカは、思わず感嘆の息を漏らした。
「お気に召したようで、ようございましたわ」
 領主夫人の微笑みに、サリカも笑顔を返すが。
「宜しければ、ここで……この土地で、ご出産まで養生されては如何でしょうか」
 その申し出には、戸惑った。できれば一刻でも早く、オリアに、白亜宮に入りたい。そうして、混乱した国内を平定したい。そう思うサリカには、夫人の心遣いは有り難かったが、少しばかり重くもあった。夫人もその辺りを察してか、
「無理に、とは申しませんわ。ただ、オリアの状況を考えれば、こちらのほうがより安全かと思われますので」
 穏やかに述べる。
 伝聞でしかないが、現在のオリアは白亜宮、市中共に混沌としているそうだ。
 王太子派により国王は処刑され、重鎮らも次々と粛清されている。が、一方で王太子ディグルも国王派によって討たれた。現在、フィラティノアに君主はいない。二派に別れて争っていた国内だが、両派ともその旗印を失った。
 もともと独立機運の高かった諸侯は、これを好機と為し、王都を奪取せんと続々挙兵しているという。
 王位継承第二位であったウィルフリートも、己の領地にて王位宣言をしたそうだ。
 主を失った白亜宮、いま、そこに居るのは。

(エリシア妃、イリア、セラ)

 彼女らは、果たして無事だろうか。
 反旗を翻し始めた諸侯を相手に、城を守りきることが出来るのだろうか。
 世話になっている身とはいえ、このような処でのんびりと茶を楽しんでいた自分が恨めしい。だが、自分一人の力では何もできないのは事実である。サリカには何の力もない。セグやこのエルンストの力を借りなければ、諸侯に対抗する術もない。
 偽りの皇帝――かつて耳にした言葉が、鮮やかに蘇る。
「妃殿下」
 エルンスト領主夫人は、周囲を憚るように声を潜め、サリカの耳元に囁いた。
「われらは、妃殿下のお味方です。妃殿下を必ず、白亜宮の玉座にお付けいたします。ですので、どうぞご安心くださいませ」
 それは、エルンスト領主夫妻の偽らざる本音であろう。腹に世継ぎを宿した王太子妃を奉じている、この時点で、エルンストは他の貴族たちより一歩先んじているのだ。領主は、決してサリカを離さないだろう。サリカも己と己の子を守るためには、エルンストと手を組むことが最良の策である。
 ここは夫人の言葉に従い、ときを見た方がよいのか。
「宜しく頼む」
 頷いたサリカの視界の隅を、窓の外を流れるように舞う鷹の姿が掠めたのは、そのときであった。


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