AgneiyaIV
第五章 暁の覇者 
5.徒花(2)


「シェラが途中で、刺客たちに行き合ったらしい」
「そう」
「彼らが、ディグルの首級を携えていた。それに気づいて、奪い取ったそうだ」
「そう」

 セレスティンの説明に、エリシアはただ頷くだけだった。
 とりあえず休息を、と、王妃の間に案内され。そこで気付の葡萄酒を呑み、息を整えた。ディグルは――ディグルの一部は、巫女姫が廟に運び、弔いの祈りを捧げている。そこに同席しようとしたが、足に力が入らなかった。歩くことも立つことすらもままならなかったエリシアを、セレスティンが横抱きにしてこの部屋に連れて来てくれたのだ。
 長椅子の背に凭れ、無機質な瞳を虚空に向けていたエリシアは、セレスティンの言葉が耳に届いているのか否か。
「葬儀は、改めて執り行う。サリカが帰還してから」
「サリカ……セグはもう、オリアに迫っているの?」
 漸くエリシアが反応を見せた。セレスティンは安堵し、今日明日中には王都に到着すると告げる。
 だが、サリカが戻ったら戻ったで、また、気が重い。サリカにもディグルの死を伝えねばならない。その役目を追うのは、やはり自分か、と。セレスティンは嘆息する。愛弟子の悲嘆にくれる顔は見たくない。

「ディグルは、納得していたかしら」
「エリシア?」
「結果的に、思いを遂げられたもの。納得して……満足して逝ったと、そう思わなければ、可哀相だわね」

 彼は彼なりに復讐を遂げた。ラウヴィーヌを自らの手で討ち、先に落命してしまったものの憎い仇である父も、すぐに冥府へと足を向けた。結果を見れば、ディグルの勝利である。国王夫妻の死も、フィラティノアの事実上の滅亡も、彼が望んだ通りになった。
 狭い世界しか知らないディグル、彼にとってエリシアが全てだったのだ。エリシアを虐げたグレイシス二世、ラウヴィーヌ、そしてこのフィラティノアという国を呪詛しながらの一生は、他人から見れば愚かな道化に過ぎない。
 それでも。
 同じ女性を愛した者として、彼には敬意を表したい――セレスティンは、心の中で短い祈りを捧げる。それからセレスティンは徐に仮面を外した。晒された、色の異なる瞳。その一つを隠すように、彼は右半分を仮面で覆う。
 深い海色の瞳が、エリシアを見つめた。
「テオ」
「そうだ。今は……」
 テオバルトだと。言って、彼はエリシアの肩に触れる。柔らかな感触に胸が騒いだが、その想いを心の奥深くに押しとどめ。
「胸を、貸してやる」
 思い切り泣け、とまでは言わなかった。言うまでもなく、こちらを見つめるエリシアの双眸に、涙が盛り上がる。朝露に濡れる薔薇、彼の大切な花。野薔薇の何と可憐で美しいことか。無言で縋りつくエリシアを抱きしめ、その銀糸の髪を緩やかに愛撫する。込み上げる愛しさのままに、強く強く彼女を捕らえた。
「エリシア」
 宮廷に上がるのは嫌だと泣いた、十五歳の少女の姿が重なる。
 あのときに時間が戻ったら。戻せたら。今度こそ、自分はこの手を放さないだろうに。



 草原に翻るのは、白旗だった。フィラティノアの旗は降ろされ、かわりに掲げられたのが、敗北を意味する白旗である。それを目にしたとき、傍らでアロイスが笑みを刻んだ。
「テオバルトが、やってくれましたね」
 セレスティンが差し向けたエルディン・ロウの精鋭が、背後からフィラティノア軍を急襲したのだ。既に腰砕けとなっていたフィラティノアは、見る間に総崩れとなり、結果、あっさりと降伏した。簡単に勝利を得られると思ってはいなかったセグ軍は、半ば呆気にとられた様子で、フィラティノア兵士から武器を回収して回っている。セグの司令官たる将校は、馬上で抜き身を携えたままのルクレツィア一世を振り仰ぎ、
「陛下のご活躍に、この命、救われました」
 深く頭を下げた。それを一瞥したルクレツィア――サリカは、頷いた後、小さく息を漏らす。
 この命を救ったことで、別の命を散らせたのだ。どちらかひとつ、選べと言われて。自分はやはりフィラティノアではなく故国を取った。
「援軍を差し向けてくれたってことは、奴は王宮を手に入れたってことか」
 サリカの傍らに馬を寄せたジェリオが呟く。彼の言う通りだ。セレスティンは、白亜宮を手に入れた。師が本気を出せばそれくらい何と言うことはない。エルディン・ロウの幹部にして闇の商人でもあるテオバルトとしての顔を持つ師は、多くの優れた部下を持っている。彼らを有効に活用すれば、守りの崩れた城の一つや二つ、簡単に手に入るに違いない。
 味方としては頼もしいが、敵に回したらこれほど恐ろしい存在はない。

 ――『アグネイヤ』は、身内の裏切りで命を落とす。

 イリアの占いの結果が、ふと脳裏を過ぎる。まさか、という思いがすぐに頭を擡げた。ありえない。セレスティンが自分を、マリサを裏切ることはありえない。

「このまま、勢いに乗って王宮へまいりましょう」

 アロイスの勧めに、サリカは躊躇した。まだ、日は高い。無理なく行軍しても、明日の昼過ぎにはオリアに到着するだろう。途中、市民の抵抗に遭ってしまえば少しは足止めを食わされるが。
「ルクレツィア陛下が同行されていると知れば、膝を屈してお通しすることでしょう」
 アロイスの言うことも尤もである。
「裏切り者、売国奴と罵られなければな」
 サリカは彼を横目で見やる。美貌の元神官は、馬上のサリカを静かに見返した。
「そのようなこと。畏れ多くも思う者は、庶民にはおりません。愚劣なことを考えるのは、そう、貴族の中の一部の者です」
 それは、彼の経験か。
 庶民は、自らの生活に変化も支障もなければ、何も言わない。治める君主が変わった処で、何ら気にはしない。君主の変更、代替わりが強く影響するのは、貴族だ。旧態の主力となっていた貴族たちは、自身の権利が失われることを恐れる。
 セグに現れた闖入者、大公を籠絡した慮外者として、アロイスはセグの重鎮に煙たがられているに違いない。現に、アロイスが何か女帝に進言するたび、セグの司令官の眉が動く。彼もアロイスを快く思っていない人物の一人なのだ。


 結局、アロイスの進言に従い、セグはオリアに進むことを決めた。天幕を畳み、軍を移動させる準備をするために、サリカを始め各々が一度解散した際

「閣下」

 兵士の一人が、司令官に駆け寄っていた。部下が「おそれながら」と耳に何事かを囁いた刹那、司令官の顔色が変わった。なにか、良からぬことが起こったのだろうか。
「どうかなされたか?」
 サリカの問いに、司令官は慌てて表情を取りつくろう。その辺りはさすが武官と言おうか。綺麗に動揺を拭い去り、
「大事ではございません。留守宅の妻よりの連絡なれば」
 私事だと言いきって、彼はその場を後にした。
「気になるか?」
 ジェリオがそっと尋ねる。ここで頷けば、彼は司令官を探るだろう。
「いや。いい」
 答えてサリカは馬首を巡らせる。
 もしもこのとき、ジェリオに調査を依頼していれば――その後の運命は、少し違ったものになっていたかもしれない。



 数刻後、セグ軍は動き始めた。エルディン・ロウはサリカの前に姿を現すこともなく、陰ながら軍を見守っているようだった。
 馬上に揺られるサリカに、
「街に着いたら、車を用意いたしましょう」
 ツィスカが気遣いを見せてくれる。初めは断ろうと思ったサリカだったが、
「手配が可能なら、頼む」
 ツィスカの様子に、そう答えていた。サリカが馬車を使えば、付き添いとしてツィスカも同乗することができる。サリカもかなり疲労しているが、ツィスカのそれは限界に近いだろう。白蝋のような肌には血が通っていないのではないか、と思えてしまう。彼女もセグの中で苦労を強いられているはずだ。その分、心労も重なっている。
 等と、他人を気遣っている余裕も、今のサリカにはなかった。正直、体調は最悪である。白亜宮にて一度、吐血したことも関係しているか。あれ以来、身体が重い。だるい。時折吐き気に襲われる。体温も高く、いまひとつすっきりとしない。
 戦がひと段落ついて、気が抜けたせいもあるだろうが、この状態で宿に泊まったりすれば、寝込んでしまいそうな気もする。
 それから。
 オリアに帰るのが、白亜宮に入るのが、怖い。
 グレイシス二世に会うことも勿論だが、実質的に国を裏切ったことになる自分を、諸侯がどう迎えるか。どれほど罵られるにせよ、白亜宮に神聖帝国の旗を翻させるまでは、引くことはできない。


 オリアに最も近い街、エルンストに到着したサリカらは、領主の出迎えを受けた。略奪行為はしないことを条件に、街への逗留を認めて貰ったはよいが、
「おもてなしをさせていただきます」
 と、高級娼婦を送り込まれてサリカは戸惑った。派遣された娼婦の方も、主賓は若い男性と聞いていたそうだ。男装を解かぬまま入城したサリカにも、非があると言えば非があるが。
「ご婦人、でしたか」
「大変失礼いたしました」
 『彼』と思った人物が実際は少女だったことに、大いに驚いていた。結局、サリカにあてがわれた娼婦たちは、当たり障りのない歓談をしただけにとどまり、誰に触れられることもなく引き取っていった。

「ちょっと勿体なかったな」

 廊下で娼婦たちの帰還を見送ったジェリオが、扉越しにサリカに語りかける。
「相変わらずだな」
 彼の好色ぶりに、サリカも顔を顰めた。美人の娼婦を狙っていたのかと思うと、心が乱れる。
「入っていいか?」
 の問いに、サリカは逡巡した。一人きりの部屋に、夜分異性を招き入れることは、宜しくない。まだ、表向きはディグルの妻である。不義をしていることがセグの幹部に発覚したら――サリカの心は揺れた。
 そうこうしているうちに、扉が勝手に開かれる。するりと音もなく中へと滑りこんだジェリオは、後ろ手に扉を閉め、鍵を掛けた。慌てて身を翻したサリカを、彼は背後から抱きしめる。そうして、耳元に唇を寄せ
「約束、守ったぜ」
 熱く囁いた。
「帰って来ただろ、ちゃんと」
 ああ、そのことか、と。サリカは胸が熱くなった。セグに旅立つジェリオを送り出した際、彼に絶対に帰って来るように迫ったのだ。下世話な言い方をすれば、身体で彼を縛ろうとしたのかもしれない。あの夜の熱い抱擁を思い出し、サリカは顔を赤らめた。何処まで自分は大胆なのだろう。恥知らずなのだろう、と。
「ありがとう」
 礼を述べる声が、かすれる。
「ちゃんと、イルザとは切れた」
 思わぬ言葉に、振り返ろうとするが、ジェリオはそれを許さない。
「もとから、俺の勝手な妄想だったみたいだな。てか、だから、あんたに乗り換えたってことじゃなく」
 判っている。あの夜の情熱が本物であると、サリカも判っている。だからこそ、彼の口から真実を聴きたい。
「あんたとちゃんと向き合うために。けじめを付けたかった」
 そこで初めて、サリカは振り返ることができた。こちらを見つめるのは、真摯な褐色の瞳。ゆるぎない強い眼差しが、真直ぐにサリカに注がれている。正直、眩しかった。目を合わせているのが怖かった。けれども、ここで逃げることは許されない。誰が許しても、自分が許さない。
「ジェリオ」
「あんたが誰を想っていても、俺は」
 切なげな告白に、サリカの心は騒いだ。このまま全てを捨てて彼の胸に飛び込みたい衝動に駆られる。けれども、それは出来ない。適わない。サリカはサリカであってサリカではない。ディグルの妃ルクレツィアでもあるのだ。幼子のように一途に自分を慕ってくれるディグルに対して、愛情もある。それはいわゆる男女間の恋情とは異なるけれども。公然の秘密として、彼もまた義母であるエリシアも、ジェリオとの交わりを認めているけれども。
 せめて。せめて、ディグルを看取るまで。それまでは。
(勝手なものだな)
 自身の思考に、サリカは苦笑する。ジェリオがソフィアをふっきれた、それが判った時点でこうも優位に立った気になってしまうとは。今までびくびくと怯えていたのはなんだったのだ、と自身を嘲りたくなる。
「サリカ」
 彼の声が、自分の名を呼ぶ。「皇女さん」ではなく、「サリカ」と。彼が求めているのが紛れもない自分だと確信して、心が震える。
「駄目」
 近づく彼の気配を察し、サリカはその胸を押しのけようとした。伸ばした手はやんわりと抑え込まれ、一つに纏められる。抵抗する術を失ったサリカの目を覗きこみ、
「言い訳を、作ってやる」
 ジェリオはサリカの身体を壁に縫い付け、身動きが取れないようにしてから、
「あんたは、俺を拒んだ。でも、俺が力ずくで……」
 唇を重ねてくる。
「だめ……駄目、病が、病がお前に」
 移ってしまう、という言い訳に、彼は耳を傾けなかった。逃げようとする唇を追い、捕らえる。じんわりと甘い痺れが触れた部分から広がった。貪られる心地よさに、サリカの身体から力が抜ける。ずる、とくずおれそうになる身体を彼が抱きとめた。感覚の全てが彼に集中し、もうどうなってもいいと、そう思い始めたとき。
(う……)
 身体の奥底から、何かが溢れ出てきた。込み上げる吐き気に、反射的に彼を突き飛ばす。さすがにサリカの異変に気付いたジェリオが
「サリカ?」
 驚いた様子で腕の中の彼女を見下ろす。ほぼ同時に、サリカの喉が鳴り、
「すまない」
 ジェリオから顔を背け、両手で口元を覆った。溢れ出るのは、濁った血。鉄錆に似た匂いが、鼻をつく。このところ、無理をしたせいだ。だから、病が進んだに違いない。ジェリオは何も言わず、背をさすってくれた。吐き気がおさまるまで、ずっと。やがて血が沁み込んでしまった両手や服、それに床を見て、サリカは力なく笑った。
「領主に、迷惑を掛けたな」
 喋ると血の香りが辺りに撒き散らされる。それが酷く不快だった。ジェリオはサリカを椅子に座らせ、表に人を呼びに行った。行き合った使用人に、水と着替えを持ってくるよう頼んでいる声が聞こえる。
「それから、医者を」
 医師――彼の声をぼんやりと聞き流しながら、そう言えばアーディンアーディンに入ってからは一度も医師に診てもらっていなかったことに気づく。養生をしろと言われていたが、あの状況で養生も何もあったものではない。


「失礼ですが」
 サリカの診察に当たったのは、領主の侍医だという老女だった。彼女はサリカの容体を丹念に調べていたが、
「月のものは、遅れておりませんか?」
 至極真面目な顔で尋ねて来た。
「ここ数ヶ月は、遅れ気味です。というか」
「来ていない、でしょう?」
 正直に頷いた。内乱の中で体調を崩していた。そのせいもあるだろう。まさかあの血は、月のものが上がって来たのだと、この医師は言うつもりなのか。サリカは不信の目を彼女に向ける。と、老医師は気難しげに眉を寄せ、
「この状態で、喜ばしいとは全く言えないのですが」
 妙な前置きを述べつつサリカの腹に触れた。

「御子が、宿っていらっしゃいます」



「ご懐妊、でしたか」
 それは喜ばしい、アロイスは顔を綻ばせる。果たしてそれが心からの笑みなのか、他者には測りかねるが。ツィスカも手放しで喜んだ。フィラティノアの世継ぎが誕生する、と。エルンストの領主も件の少年騎士が実は王太子ルクレツィアであることを知ると、同じように祝福の言葉を口にした。
「王太子殿下は御病気だと伺っていたのですが……いや、やはり、大切なことでしょう」
 病をおして妻を愛した貴公子として、領主の心に響いたのかもしれない。
 領主の館の広間に集まった者たちは、
「では、ここで祝杯を」
 ささやかながら、御子宿りを祝って杯を傾ける。王太子妃の懐妊が判明した街、ということで、エルンストの名も国内に響き渡るだろう。いずれ生まれる王子か王女、そのひとの名で神殿が建立されるかもしれない。そこまで話を広げて、エルンスト領主はアロイスやツィスカ、セグの司令官と穏やかに歓談していた。

「どうした?」

 ひとり、輪を離れ露台へと出たジェリオを目ざとく見つけたのはツィスカだ。彼女は二人きりのときは常にそうであるように、砕けた口調で語りかける。欠けた月明かりのなか、妖しの瞳が疑問の光を宿す。
「なんでもない」
 とは答えたものの、その表情が「なんでもない」から程遠いものだと告げている。自分がこれほど表情を隠すのが不得手とは、今まで露ほども思わなかった。ジェリオは掌で顔を覆う。
「陛下の、御病気のことか? 殿下の病と同じ病、だったな」
 病の身でありながら、子を孕んでしまう――その危険性を恐れているのだとツィスカは思ったらしい。都合のよい誤解である。
「大丈夫、もう、戦も終わる。白亜宮で、いや、アーディンアーディンやグランスティアで静かに過ごせば、病も回復するだろう」
 諭すような言葉に、頷くことしかできない。
 いつになく、心が乱れている。この動揺を、アロイスならば見破ってしまうだろう。ジェリオはちらりと中の様子を窺う。アロイスは領主と政治的な話に花を咲かせているようだったが、会話の切れ目に時折こちらに目を向けていた。その視線が痛い。
「明日は、オリアに入る。貴殿もゆるりと休んだ方がいい」
「ああ」
 そうだ。明日はオリアに、白亜宮に入る。近いうちに、嫌でも母や兄と顔を合わせることになるだろう。そのとき、何と言えばいいか。言われるか。二人とも事情を察してはいるが、いざ、報告をするとなるとどんな顔をして良いのか判らない。
(でも)
 実父が誰であれ、生まれた子供はディグルの子として育てられる。自分が父だと名乗り出ることは生涯ない。それは、墓場まで抱えていく秘密だ。
「顔色が悪い。大丈夫か、ジェリオ?」
 ツィスカが不安げに彼を見上げる。大丈夫だ、と答える彼に、それでもツィスカは。
「部屋まで、送ろう」
 普通は男女逆の台詞であろうことを口にした。
 ツィスカは酔った振りをして皆に退室を告げる。ジェリオがそれを守る形で付き添った。笑顔で見送るエルンスト領主、相変わらず強張ったままの司令官の顔、そしてアロイスは

「娼婦の真似事ですか」

 そんな風に唇を動かした。途端、ツィスカの顔色が変わり、ジェリオは怒りを覚えた。アロイスは何処までツィスカを貶めれば気が済むのだろう。ともすれば彼に殴りかかりそうになる衝動を抑え、ジェリオは廊下へと出た。
「あんた、なんであいつにあんなこと言わせているんだ? 言い返せばいいだろうが」
 押し殺した声でツィスカに抗議する。だが、彼女は。
「仕方がない。わたしは、鴉の娘だから」
 悲しげに眼を伏せるばかりだった。
「だからって……今までは、叔父と姪と思っていたんだろうが。それを急に、掌返したように……」
「いいの」
 女性らしい言葉で、彼女は肯定する。
「そうやって、わたしも今まで、多くの鴉を蔑んで来たのだから」
 僅かに緩ませた口元に、彼女は笑みを浮かべたつもりだろう。それはまるで笑みとは異なっていた。ただ、顔がひきつったようにしか見えない。その痛々しさに、ジェリオは胸を突かれた。ツィスカがヴィーカの異母妹だと聞かされたときは、あまりの似つかなさに驚いたものだが、今の表情はヴィーカに重なって見えた。
 時々、ヴィーカは彼女らしくない表情を見せることがあったのだ。何かに耐えるような、また、何かを悔むような。そのときの顔に、とてもよく似ている。
「ときどき、思うの。わたしは何のために生きて来たんだろう、って。何のために生きているんだろうって」
 力なくジェリオの袖を掴むツィスカ。日頃の凛々しさは、すっかり消えうせていた。以前のジェリオであれば、ここで彼女を部屋に招き、夜を共にしたことだろう。
「意味なく生まれてくる奴はいない」
「ジェリオ」
「こんな俺にも、生まれて来た意味はあったみたいだからな」
 ぽん、と軽くツィスカの頭を叩き、ジェリオはその手を振りながら、彼女の傍を離れた。背にいつまでもツィスカの視線が絡みついている――そこに秘められた思いに気付かぬふりをして、彼は自身の部屋に向かった。が、ふと思いなおしてサリカの部屋へと足を向ける。既に医師も女中も下がったあとらしく、部屋は静まり返り、衝立の奥の寝台にサリカが横たわっているだけだった。
「サリカ」
 声を掛けたが、返事はない。眠ってしまったのか。掲げていた燭台を脇机に置き、そっと手近な椅子を引き寄せそこに腰を下ろす。長い睫毛が影を落とす顔を覗きこみ、それから視線を首から胸、腹へと移した。ここに子が宿っている。誰に認められなくても、これは、自分の子供だ。自分と、サリカの。
 込み上げる愛しさに任せて、ジェリオはサリカの髪に口付けた。
 絶対に守る。このひとを。心の中で、強く誓う。

「あんたを殺すのは、俺だからな」

 余人には、決して触れさせない。


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