AgneiyaIV
第五章 暁の覇者 
5.徒花(1)


 がたり、と車窓が大きく音を立てた。馬車が揺れたせいではない。不自然な音だった。
「……?」
 エリシアは顔をあげ、固く閉ざされた窓に目を向ける。誰かに声を掛けられた気がしたが、それは気のせいか。
「あ」
 斜向かいに座るイリアが、小さく声をあげる。彼女も異変に気付いたのかもしれない。ならば、先程の事象は『気のせい』ではないのだろうか。イリア、と呼びかけると、巫女姫は暗い眼差しをこちらに向けた。それから徐に立ち上がり、窓を開ける。夜風が乱暴に車内へと侵入し、二人の髪を払いのけた。
「燃えている」
 イリアの呟きに、エリシアも窓に身を寄せる。既に遥か後方に移ろっていたアーディンアーディン、その城壁の向こうから火の手が上がっている。フィラティノアの騎士たちが、離宮に火を放ったのだ。アーディンアーディンに残った者たちは、騎士団の手にかかり葬り去られたに違いない。もしくは、あの炎の中で命を落としたか。
「ディグル」
 愛息の名を呟いたエリシアは、せつな胸に鈍い痛みを覚えた。ディグルもスタシアもアデルも、あの中に居るのではないか、そんな絶望感が押し寄せてくる。彼らは無事、逃げ切れたのか。否、逃げ切れたのだと信じたい。
「エリシア様」
 イリアがそっとエリシアの手を握る。彼女の震えが、指先を通して伝わって来た。イリアが更に何か言いかけようとしたときである。不意に馬車が速度を緩め、停止したのは。がたん、と大きく揺れた車体の中で、二人は互いを支えるように抱きあった。何事があったのか、そっと表を窺えば、
「盗賊?」
「そんな」
 馬車の前に、馬影が見える。闇に溶け込む漆黒の馬だ。その上には、例に漏れず騎乗者がある。馬同様、黒装束に身を包んだ人物だった。月明かりをして漸くそこに存在を認められるほどである、御者たる剣士は、よくぞかのひとに気付いたものだ。思って、ふと視線を下にずらせば。
「う……?」
 そこには、件の御者が倒れていた。首が、信じられぬ角度に曲がっている。既に息がないことは、明らかだった。エリシアは慌ててイリアの目を覆うが、時すでに遅く、彼女も遺体を目撃していた。
「新手、ですか?」
 取り乱すことなくイリアは尋ねる。尋ねつつ、僅かに身体をずらし、衣裳の裾を捲りあげた。華奢な手に握られたのは、短剣。サリカがアーディンアーディンに残していったものである。それを構え、エリシアを庇うように背後に押しやるイリア、彼女の身体越しに騎士がこちらに近づいてくるのが見えた。
 殺害された剣士の他にも、警護の者たちは居た。けれども、彼らの姿は一人として見ることが出来ない。逃げたのか。それとも、葬り去られたか。御者でもある剣士までもが斃された今、エリシアとイリアの盾となる者はいない。

「遅くなりました」

 緊張を孕む二人の耳に届いたのは、聞き覚えのある声だった。
 蒼褪めていたイリアの顔に、見る間に喜色が広がる。
「シェラ!」
 イリアは自ら扉を開け、前に佇む女騎士を見つめる。黒衣を纏った女性――シェラは、ひらりと飛び降り、その場に膝をついた。
「巫女姫、ただいまお迎えにあがりました」




「今まで、何処に?」
 馬上に揺られながら、エリシアは並走するシェラに尋ねる。シェラはイリアを抱きこむような姿勢で器用に馬を操りつつ、
「白亜宮です。密偵として、内部を探っておりました」
 手短に答える。
 セレスティンの依頼で、アーディンアーディンを出てすぐに、白亜宮へと潜入していたそうだ。そこで様子を探りつつ、セグ側の密偵としてやはり王宮に潜入を果たしていたジェリオとも再会した。
「ジェリオ?」
「ジェリオと?」
 エリシアと同時に声をあげ、イリアは慌てたように口を噤む。シェラはまるで頓着せず、「元気でしたよ、彼は」さらりと流した。ルクレツィア一世(サリカ)が召喚されたのは知っていたが、なかなか思うように彼女に近づくことができず、歯痒い思いをしていたところに、
「妃殿下が、身罷られた、と」
 シェラの元にそんな情報が入って来たという。やはり、という思いでエリシアは唇を噛む。グレイシスに穢されることを拒んだサリカは、彼に殺された――と、思いきや。
「生きておられますよ、妃殿下は。ジェリオが救い出して、今はセグの陣にいらっしゃるそうです」
 意外な事実を告げられ、エリシアは「まあ」と感嘆の声をあげた。イリアも同様に、笑顔を見せる。事の仔細を聞いたエリシアは、ひとまず胸を撫で下ろした。サリカもジェリオも無事なのだ。と、いうことは。
「テオは……テオバルト、いえセレスティンは、王宮に?」
 彼の奇襲も成功したに違いない。
「かつてよしみを通じていた近衛兵らとの接触に成功しました。彼らとともに、王城を制圧しているはずです、今頃は」
 アーディンアーディンと巫女姫に気を取られていた国王は、思わぬ処で足元をすくわれた。
 シェラは、巫女姫召喚の使者として、再度スタシア夫人がアーディンアーディンに向かうことを知り、単騎彼女らを追って来たという。途中、小さな宿場町に潜み、東から訪れる早馬(伝令)を悉く潰していた際、
「どうやら妃殿下がセグの陣頭に立って、フィラティノアを攻撃している模様です」
 そんな情報も得たという。
 更には、その勢いに圧されて、フィラティノアが敗走しつつあること。機会を見計らって、セレスティンらエルディン・ロウが直接王宮中枢部に攻撃を仕掛けること。それらを踏まえて、シェラはここに来たのだ。まさかイリアと共にエリシアまでもが王宮に向かっているとは思わなかった――冷静な少女武官から、苦笑が漏れる。
「お二人をセレスティン殿の元にお連れしたのち、アーディンアーディンに向かう所存です」
 シェラの言葉に、エリシアは表情を曇らせた。
 アーディンアーディンには、それなりの規模の騎士団が侵攻している。それに対し、シェラが一人で大丈夫だろうか。彼女はディグルやアデルの安否も確かめるというが、果たしてそれが可能かどうか。
「使いによれば、エルナ殿がフィラティノアに向かわれたとのこと。あの方がいらっしゃれば、百人力でしょう?」
 またしても、シェラの面に苦笑が広がる。
 ミアルシァの王兄を思い出し、エリシアは「そうね」と頷いた。エルナがいれば、心強い。なよなよとした言葉遣いとは裏腹に、彼女の腕は確かだ。十二分にシェラの援護が出来るはず。

 エリシアはシェラと共に馬を走らせ続けた。
 目指すは、白亜宮。
 かつて自分が追われた、城。



 本当にこれでよかったのだろうか。
 時折、迷うこともある。迷ったときは、素直に迷いに身を任せればよい。要は後悔さえしなければよいのだ。国王グレイシス二世は、広間に飾られた王妃の肖像画を見上げ、ひとり呟く。
「そなたは、最後までずるく生きたな」
 王室の紋章に囲まれたラウヴィーヌは、何も応えない。ただ、口元を綻ばせたまま此方を見つめている。絵の中の王妃は、永遠に若く美しいままだ。二十代、花の盛りを絵にとどめ、無残に朽ち果てていく后を、グレイシスは冷めた目で見つめていた。過去の栄光に縋り、血に縋り、実家に縋り、果てはその全てに見捨てられた哀れな女。彼女も帝国以前の栄光を望まなければ、平凡に、幸せに、生きられたかもしれない。
 ラウヴィーヌは、自分によく似ていた。似ているからこそ愛しく、似ているからこそ、疎ましかった。
 新たに后を迎えるにあたり、ラウヴィーヌは邪魔な存在だった。自ら道化を演じ、失脚の口実を作ってくれたことには感謝している。フィラティノア王妃の座は、今、空いている。そこに就くべきは、神聖皇帝ルクレツィアではなかった。
 自分が娶るべき女性、それは、巫女姫に他ならない。
 初めから、彼女を手元に置けばよかった。彼女が姿を現したとき、すぐにでも手を付けておくのだった。

 ――あなたが欲しいのは、神聖皇帝の座ですか。

 ルクレツィアの言葉が蘇る。今ならば、そうだと即答できたかもしれない。

 陛下、と近侍が声を掛ける。見れば宰相が扉の前に控えていた。
「巫女姫を無事、確保できたとのことです」
 報せにグレイシスは頷く。当然の結果だ。
「して、王太子は?」
 生死を問わず、捕らえよ。そう、司令官には命じたはずだった。病で余命いくばくもない身、いっそのこと、殺害した方が彼のためかもしれぬと思っていたが。
「首級を、頂戴したと」
 巫女姫確保の報より遅れること暫し、早馬が白亜宮に到着したという。スタシア夫人とともに脱出を図った王太子ディグルを捕らえ、その首を落とした――改めて耳にすると、身体が震えた。ディグルが、逝った。妻に唆され、父に刃を向けた愚かな息子が。南フィラティノア独立の画策と、エルシェレオス一世を一時たりとも名乗ったことを認め、悔い改めれば許さぬこともなかった。継承権を剥奪し、地方の城に生涯幽閉して。静かに暮らすことを認めても良かった。
「陛下、今更」
 気弱になるなと宰相が諌める。
 奪ってしまった命は、もう戻らない。あとはもう、進むしかないのだ。

「女官長は?」
「殿下の亡骸を弔う、と。その場から離れなかったそうです」
「そうか」

 沈黙が舞い降りる。苦い思いが、込み上げた。
 望むものを手に入れるためには、どれだけのものを失えばよいのだろう。グレイシスは再びラウヴィーヌの肖像を見上げる。汝は、満足であったか――言葉ぬならぬ問いを、妻に投げかけた。

「セグの方はどうなのだ? その後、何か報告は?」
「それが」

 宰相は、こちらに関しては歯切れが悪い。何か不都合な点があったのかと問いただせば、非常に渋い顔をして
「――恐れながら、東よりの伝令は、一人もやっては来ないのです」
 信じられぬことを言う。
 戦の最中にあって、主君に随時戦況を報告せぬ将軍が何処に居ようか。恐るべき怠慢だ。
 それとも、小国の軍勢ごときに圧されているというのか。このフィラティノアが。中央に覇を唱えんとする、大国が。
「もしや、裏でカルノリアが動いているわけではあるまいな」
 セグの新大公は、カルノリア皇女である。その可能性は高い。
「まさかそのような」
 とは言いつつも、宰相もそれを疑っているのだろう。酷く歯切れが悪かった。
 このようなことになるのであれば、ソフィアの前夫が亡くなったとき、ラウヴィーヌの反対を押し切ってウィルフリートと縁づけてしまえばよかった。後で悔やんでも仕方がない。
 タティアンとは不可侵の密約を交わしてある。けれども、あの狸がそれを守り通すかどうか。早急に、他国とも同盟を結ばねばならない。けれども、何処の国と?
 ヒルデブラントは、マリエフレド公女の件で、既に縁を失った。残るは、アマリアかアダルバードである。レンティルグとの絆も、不本意ではあるが再び強めなければならない。
「早速、重臣を集めて会議を開くことに致しましょう」
 宰相は、近侍に重鎮の招集を命ずる。それを受けた近侍が表に出ようとしたとき、扉の向こうで激しい物音がした。
「何事か」
 宰相が眉を吊り上げる。グレイシスも訝しげにそちらを見やった。
 現れたのは、近衛の師団長である。彼と数人の士官が、戸惑う近侍を押しのけて入室してきた。無礼な、と叱責する宰相の声、それを聞くグレイシス二世は、既視感を覚えた。いつであったか、同じ光景を見たような気がする。
(そうだ)
 ルクレツィアを捕らえ、また、逆に自身が幽閉されたときだ。あのときもこのようにして、近衛が押し入って来た。粛清はすべて終えたはず、この期に及んで王太子派に寝返る者など居るはずがない。グレイシスは不審に思いながら、師団長を見つめた。
「近衛の本分は、なにか? お忘れではあるまい」
 宰相の皮肉にも、師団長の表情は変わらない。彼は国王に対する最敬礼をし、それからゆっくりと窓を示した。窓の外を。
「ご覧下さい、陛下」
 怪訝に思いつつも、グレイシスは窓辺に赴く。近侍が慌てて窓を開け放つと、冷ややかな夜気が瞬時に身を包んだ。欠けゆく月に照らされた、王宮庭園。そこには多くの兵士の姿があった。セグへの援軍を用意したのか、一瞬そう思ったが。すぐに間違いであったことに気づく。
「これは」
 言ったきり、二の句が継げない。
 数多の兵士が掲げた松明、その明かりに映し出された旗は、フィラティノア王家のものではなかった。双頭の龍を守るように、蔦の縁取りのある紋章。あるいは、中央に描かれた狼を縁取る蔦。過去、一度たりとも目にしたことのない紋章である。だが、耳にしたことはあった。縁取りに在るのは、蔦ではない、蔓薔薇でもない。
 葡萄だ。
 赤い、葡萄。
「アインザクト」
 呻きと共に、亡き大公家の名を呟く。ツィスカが語った、アインザクト大公の紋章。それが双頭の龍を守る赤い葡萄、もしくは狼と葡萄を図案化したものだと思い出す。それらが今、王宮を取り囲むように翻っている。
 かの大公家の残党が、フィラティノアに与した――等と幸せな思考が出来るほど、グレイシスは愚かではなかった。アインザクトは、巫女姫もしくは神聖皇帝の命令以外、決して受け入れることはないのだから。

「理不尽な方法で、神聖皇帝と巫女姫を手にせんとした慮外者。そう、わが主君は判断しております」

 また、別の声が広間に響く。振り返ればそこには、鎧を纏った長髪の青年が佇んでいた。一瞬、ディグルが現れたのかと目を疑ったが、王太子とは髪の色も瞳の色も異なる、全くの別人である。波打つ黄金の髪を背に流した隻眼の男は、灰の瞳でグレイシスを見つめていた。
「残念ながら、貴殿が得ようとした神聖皇帝も、巫女姫も、偽りの存在。真実の皇帝は、アグネイヤ四世。真実の巫女姫は、リルカイン。共に、セルニダに在りますゆえ」
 あの二人を得た処で神聖帝国を掌握することなど、適わぬ。そう件の青年は断言する。
「じき、こちらに我が主君の命を受けたセグの軍勢が参りましょう。辱めを受けて処刑されるか、それともその前にご自害召されるか。――主君の最後の慈悲です。好きにお選びください」
 グレイシスの目の前で、宰相は近衛に捕らわれていた。逃げようとした近侍も、同じく捕縛されている。扉の前を固めているのは、アインザクトと通じた近衛兵士たち。広間に、グレイシスの味方は、一人としていない。
「ルクレツィアも巫女姫も、神聖帝国にとっては価値がなかったということか」
 呟きに似たグレイシスの言葉に、青年は頷く。
「偽りの器に、穢れた血を流しこむだけです。それに、神聖帝国皇帝は、男子。子を為すことはございません」
 人妻を女性として皇帝に立てたときから、グレイシスの敗北は決まっていたのだ。
 二百年前の『落日』とは事情が異なる。クラウディア一世は、次世代への繋ぎとして、仮に帝冠を戴いた。本気で彼女が帝位を継承するつもりであれば、男性としてその地位に就いたはず。クラウディア一世はあくまでもエルメイヤ三世の后であることに拘っていたのだ。

 白々と明けつつある空が、その裾を室内に広げて来た。
 古代紫の光が、辺りを満たしていく。

「少し、遅かったな」
 グレイシスは嗤った。あと一日。あと、一日、アインザクトがことを起こすのが早ければ。
「あれも、無駄に命を落とすことはなかったかもしれない」
 負け惜しみに近い言葉だった。グレイシス二世は、遥か遠く、アーディンアーディンの地に思いを馳せる。



 重臣らは全て、処刑した。そうしなければ、また以前の二の舞になる、とセレスティンは粛清を断行したのだ。援軍と称して送り出したアインザクトの息のかかった師団は、背後からフィラティノア正規軍を襲い、壊滅させるだろう。セグは、ルクレツィア一世の活躍で確実にフィラティノアを圧している。
 そんなことをアインザクトの手の者から聞かされ、エリシアは相槌を打ちながら幾つか質問を重ねていた。
「国王は? グレイシス二世は、処刑されたのですか?」
 まだです、との返答に、エリシアは困惑する。彼こそ真っ先に処刑すべき存在であるのに、テオバルトは――セレスティンは何をしているのだろう。回廊を進む彼女の前に現れたセレスティンは、
「無事だったか」
 エリシアを見ると相好を崩した。
「イリアも。怪我はないか?」
 我が子を見るように膝を屈め、セレスティンはイリアの顔を覗きこむ。子供扱いされたことに怒りを覚えたか、
「あ、り、ま、せ、ん」
 イリアは一言一言叩きつけるような言葉を返す。それに苦笑で応えたセレスティンは、ちらりとエリシアを見やった。
「元の亭主に会うか?」
 訊かれると思った。国王を生かしていたのは、エリシアに断罪させるためだったのか、と。彼女は今更ながらセレスティンの根性の悪さに嘆息する。
「会って、どうするの? 恨みごとでも言え、と?」
「最期を看取ってやってもいいんじゃないのか」
 いつになく真摯な響きを持つ声に、エリシアの心は揺れた。理不尽な方法で自分を奪い、無理矢理妻とした男。挙句、政治的な価値を持たぬと、濡れ衣をかぶせて国を追放した男。彼の気まぐれがエリシアを翻弄した。王侯貴族にとって、一庶民など取るに足らぬ存在だろう。気に入ったから傍に置く、飽きたら捨てる。そこに罪悪感はない。

「――会うわ。彼は、何処?」

 エリシアの答えを予想していたのだろう。セレスティンは頷き、自ら彼女を宮殿内の一室に案内した。謁見の間である。そこに国王グレイシス二世は捕らわれていた。入口を固めるのは、エルディン・ロウ、そしてアインザクトである。中で国王を監視しているのも、アインザクトの一人であった。
 国王は隻眼の騎士に導かれて現れた貴婦人が、誰であるのかすぐに判ったようだった。
「久しいな」
「ええ、ご無沙汰しております、陛下」
 エリシアは王妃の国王に対する礼を取る。もはや自分は庶民に戻った。アデルや他の者たちには王妃と呼ばれるが、それを自負したことはない。けれどもここでかつての夫と相対するには、やはりこの態度が相応しかろう。
「そなたが看取るのか」
 国王の最期を――結果的に、そうなるのか。エリシアとセレスティン、それに監視を務めるアインザクトの青年が、立会人となる。国王の前に用意された杯は、自害のための毒杯だ。これを呷れば、フィラティノアは終わる。滅びる。そして、新たな歴史が生まれる。
「恨んでいるだろうな、私を」
「それは、勿論」
 間髪いれず応じたエリシアに、国王は苦笑した。
「すまない」
 詫びの言葉は、意外にもすんなりと国王の口から洩れる。が。
 ここで謝られても、何の意味もない。失われた年月を埋められるはずもない。エリシアは、ただ冷めた目で国王を見つめていた。
「それでも、私は……そなたを愛しいと思っていた」
 国王の青い瞳に穏やかな光が宿る。
 エリシアは、口の端から「ふ」と息を吐いた。そんな陳腐な言葉でことを収めるつもりか。愛している、その言葉を掲げれば、何でも許されると思っているのか。ひとは、許すと思っているのか。
「そなたのことも、ディグルのことも」
 続く言葉に、思わず「ああ、そうですか」と答えそうになる。『愛』の一言に踊らされるのは、本気で愛されたことも愛したこともない、ひとを想ったことのない寂しい輩だ。グレイシス二世がエリシアに向けたのは、愛という言葉に包まれた独占欲にしか過ぎない。
 エリシアは、セレスティンを一瞥する。
 本当の愛を知る者は、軽々しくこのような言葉を口にしない――等と、国王に言った処で何になろう。
「言い残すことはそれだけでしょうか。冥府で王后陛下がお待ちですわ」
 これ以上、話すことはない。エリシアは、事実上の執行宣言ともとれる言葉を国王に向ける。国王は一瞬驚いたように前妃を見たが、やがて全てを諦めたように杯を手にする。まるで祝杯をあげるようにそれを掲げた彼は、皮肉げな笑みをエリシアに向けた。
「愚息も、待っていることだしな」
 言い終わらぬうちに、彼は毒杯を煽る。
 不可解な台詞、それに
「どういうことでしょう?」
 エリシアが問いかける間もなく、国王は苦しみだした。喉を押さえ、掻き毟り、椅子から転げ落ち、のたうち回る。これが一国の王の最期か。そうは思えぬほどの見苦しいまでの悶絶だった。毒の量が足りなかったか、それとも多かったのか。わざとそう為したのかもしれない。楽に冥府に下れぬように。
 血を吐き、胃の内容物を撒き散らし、グレイシス二世は床の上を転がった。
 醜い。この上なく醜く無様だ。決して美しい死ではない。
 救いを求めるように伸ばされた手を、エリシアは反射的に振り払う。救えない。救いたくもない。彼はこうして苦悶のうちに冥府に赴き、堕ちた後も苦しめばいい。




 やがて、激しい痙攣ののちに国王が絶命した頃合いを見計らい、アインザクトの青年が、その心臓に剣を突き立てた。決して息を吹き返さぬよう、止めを刺す風習がフィラティノアにもある。
 血と汚物に塗れた国王の遺体は、運び出されたのちにその首級を晒されることになるだろう。
「奴は、本物だったな」
 セレスティンが呟く。
「首実験に使ったの?」
 身代わりではなく本物の国王かどうか、エリシアに確かめさせたのだ、この強かな闇商人は。
 国王は崩御し、白亜宮は制圧した。あとは、王太子夫妻の入城を待つだけだが。
(ディグル)
 彼は、無事なのか。城門で別れたシェラは、必ず彼を連れて帰ると言っていた。今はシェラを信じるしかない。
 そのシェラが帰還した、とエルディン・ロウに与する女性が告げて来たのは、暫く時を経てからである。彼女が待つという広間に向かったエリシアは、ふと胸騒ぎを覚えた。シェラが帰還した、と件の女性は告げた。ディグルが、とは言っていない。
 まさか――と冷え上がる胃を押さえながら広間に入ったエリシアを待っていたのは、

「王后陛下」
「エリシア様」

 シェラと、それから先に来ていたのであろう、イリアだった。シェラは、エリシアの姿を見ると同時にその場に膝をつく。彼女の脇に佇むイリアは、唇を震わせていた。彼女の目の周囲が赤い。泣いたのだ、イリアは。
「ディグル、は?」
 エリシアの問いに、シェラは大切そうに抱えていた包みを掲げる。両腕にすっぽりと収まってしまうほどの、小さな塊。包みの端はよく見れば黒ずんでいた。泥ではない。煤でもない。これは。
「申し訳、ありませんでした」
 遅かった、シェラの声が掠れている。
 それだけで、エリシアは全てを察した。理解はしたくない、感情は認めていない。しかし、冷静な部分では、現状を認識していた。
 強張る指先で、シェラが差し出す包みを受け取る。見た目よりも重量のあるそれは、ゆっくりとエリシアの胸へと帰って来た。

「お……」

 声が、出ない。
 夫の最後のときはあれほど冷静であったのに。何故、我が子のときはこうも取り乱してしまうのだろう。歯止めが利かなくなるのだろう。見開かれた目からは、涙がとめどなく零れ落ちる。歪んだ視界の中で、腕の中のものだけが鮮やかに景色から浮き上がって見えた。
 心の中で、幾度も我が子の名を呼んだ。幾度も幾度も。氷の歌姫と呼ばれた女性は、その名に反した熱い涙を、雨の如く溢し続ける。


 エリシアの姿を痛ましそうに見つめるシェラとイリア、二人もまた、無言のうちに悲しみに沈んでいた。


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