AgneiyaIV
第五章 暁の覇者 
4.魔女(4)


「我に、続け!」

 凛とした声が、戦場に響き渡った。セグもフィラティノアも、ただ一人の騎士を注視する。かのひとが高く掲げた右手、そこに握られた剣を晩秋の透き通る陽光が珠の如く転がる。眩しい――人々の抱いた感想は、やがて奇妙な畏怖へと変貌していく。
 光を反射する剣、それが燭台に見えるのだ。
 闇を払い、淡く周囲を照らす燭台の灯り。それが導く場所は、いずこなのか。

 訪れそうになる静寂、けれどもそれを払ったのは、黒髪の騎士だった。
 かのひとは、馬の腹を擦りあげ、自ら先頭に立ってフィラティノアへと攻め込んでくる。我に返ったセグ軍が、鬨の声をあげながらそこに続いた。
 迎え撃つフィラティノアは、幾許かの動揺を抱えながら敵軍を見据える。

 ――そんな、馬鹿な。

 フィラティノア将校らは、我が目を疑ったことだろう。
 敵を率いる黒髪の騎士、眩いばかりの暁の瞳をこちらに向けているのは。

 ――王太子妃殿下。

 フィラティノア王太子妃ルクレツィアだったのだから。



 グレイシス二世の使いとして、再びスタシア夫人がアーディンアーディンを訪れたのは、日も傾き始めた頃であった。以前とは異なり、衛兵も彼女の容姿を知っている。そのため、先触れは訪れず、直接スタシアがやって来たのだ。
「如何いたしましょう」
 既に、セレスティンら主力となる者たちは白亜宮奪取のために出向いた後だった。残っている者は、エルディン・ロウ精鋭といえど数は少ない。女性や子供の多い、アーシェルの民もいる。門を開き、スタシア夫人を招き入れても大丈夫であろうか。
 王太子の部屋を訪ねた近侍は、応対に出たエリシアに指示を仰いだ。
「失礼ではあるけれども、お言葉だけ承りましょう。なにか、伝言は聞いているかしら?」
 中へは入れない。エリシアの答えに、近侍は安堵の表情を見せる。
「国王陛下が、巫女姫を召喚されたそうです」
「イリアを? どうして?」
 『ルクレツィア』を和睦の使者として連れ去ったではないか。それだけでは飽き足らず、巫女姫まで手元に呼び寄せようというのか、国王は。エリシアの表情が険しくなる。
 よもや、とは思うが。サリカの身に何かあったのではないか。身を穢されそうになったサリカが、自害を図ったことも考えられる。サリカは無事なのか――無事であるなら、巫女姫は必要ないだろう。エリシアの口元に嘲笑が浮かぶ。国王は、女帝か巫女姫の腹が欲しいのだ。
(助平爺が)
 内心悪態をつき、
「お断りします。その旨、スタシア殿に伝えてちょうだい」
 きっぱりと言い放った。




 エリシアの回答を聞いたスタシア夫人は、
「そうですか」
 と項垂れた。だがすぐに思いなおしたかのように、再度、巫女姫を要求する。
 それはできぬ、と一点張りの使者の言葉に、
「どうか、お考えを改めてくださいますよう、お伝えください。でなければ、女帝陛下のお命にかかわります」
 脅しともとれる言葉を掛けて来た。エリシアの危惧する処が当たった、と使者は苦い思いを噛みしめる。
「恐れながら」
 使者は問いかける。
「女帝陛下は、本当にご無事なのでしょうか」
 スタシアの瞳が揺れた。それは勿論、言いかけた唇が、途中で引き結ばれる。暫しの間、迷っている風だったが、やがて彼女は使者に対して礼を取った。女官長にして大貴族の夫人であるスタシアが、一介の近侍に対して礼をしているわけではない。彼を通してエリシアに語りかけているのだ。使者はそれと判るが、スタシアの供として控えている者たちの目には、奇異な光景に映っただろう。ざわり、とスタシアの背後の空気が動いた。護衛の騎士たちは、あかさらまな不信の目を使者に向ける。
「巫女姫が此方にいらっしゃれば、今度こそ戦を止めさせるとのお言葉を国王陛下より賜っております」
 スタシアは、そう言ったきり押し黙ってしまった。巫女姫が姿を現すまで、彼女はそこを動かぬつもりだ。太陽が緩やかに西の果てに去っていき、望月を幾らか過ぎた月が藍の空に輝き始めても、彼女は微動だにしない。
 使者は困り果て、再び主人の元へと足を運んだ。




「そう」
 エリシアは腕を組み、息を吐いた。
「彼女は、元から頑固なところがあるからね」
 柔和な容姿とは裏腹に、スタシアは昔堅気の頭の固い婦人である。頼みごとも笑顔一つで引き受けてくれそうなものだが、規則に合わぬものは即座に却下する。スタシアは、そういうひとだ。
 このままでは、夜が明けるまで門の前に立ち続けるであろう。アーディンアーディンもオリア同様、夜は冷え込む時期である。実りを促した風は、今では雪を運ぶそれに代わりつつあった。
 これは戦だ。情けを出した方が負ける。スタシアの捨て身の陳情にも、ほだされてはいけない。こちらに巫女姫がある限り、国王側は下手な手出しはできぬ。最悪、巫女姫を盾に戦うことも覚悟しなければならない。

 セグが動き、テオバルト――セレスティンも動いた。
 その二つが動いたところで、フィラティノアの牙城は揺るがないのだろうか。

「もう少し、時間を稼ぎましょう」
 エリシアの言葉に、近侍は首を垂れる。
「スタシア殿には、温かい飲み物を差し入れてちょうだい。今夜も、冷えるだろうから」
「御意にございます」
 アーシェルに与するかの近侍は、王太子生母の言葉を慎んで受け入れた。




 使者に立つ近侍を見送ったエリシアは、その足で巫女姫を訪ねた。エルディン・ロウの一員である侍女たちが、エリシアの来訪に合わせて扉を開け、その場に膝をつく。彼女らの間を抜けて次の間へと入ったエリシアは、
「イリア? 入っていいかしら?」
 奥へと声を掛けた。
「エリシア様、どうして?」
 侍女も連れず一人で現れた前妃を、イリアは驚きをもって迎えた。エリシアは唇の前に指を立て、そっと扉を閉ざす。イリアの私室には、彼女ら以外誰もいないのを確かめると、エリシアは
「グレイシス二世が、あなたの身柄を要求してきました」
 前置きなく切り出す。イリアも相応の覚悟をしていたのか、「そうですか」と小さく頷いた。
「ルクレツィア一世だけではなく、巫女姫も手に入れるべきだと思ったのか、それとも」
 そこで言葉を区切り、エリシアはイリアの様子を窺う。彼女の言わんとしていることを察したイリアは、軽く目を見開いた。白い喉から、低い呻き声が絞り出される。まさか――そう、朱唇が動いた。エリシアは否定も肯定もせず、先を続けた。
「ルクレツィア一世の身に、何かがあったのか。それは判らない。けれども、今、使者としてこちらを訪れているスタシア夫人は、ルクレツィア一世の命を盾にして、あなたを王宮に連れ去ろうとしている」
「サリカを、盾に?」
「あなたが行かなければ、サリカの命は保障しない。だ、そうよ」
 イリアは沈黙した。
 神聖帝国における皇帝の役割は、政の統制。そして、巫女姫の守護。皇帝は何者に変えても、巫女姫の安全を第一とする。巫女姫の逝去に伴い、ときの皇帝も殉死したという古事もあるのだ。皇帝の命は、巫女姫に対する切り札にも何もならない。だが、それはあくまでも役職上のこと。サリカとイリアの間にある絆を慮れば、イリアの心が揺れ動くのは当然か。
「あたしが行った処で、何にもならないでしょう」
 イリアの答えは、正論だった。エリシアは苦笑を浮かべる。もっと取り乱すかと思っていたが、存外この娘は肝が据わっているようだ。イリアが出向いたところで、戦況が好転するわけはない。寧ろ、巫女姫を失った王太子派の惨敗で幕を閉じる。そうなった場合、ディグルはもとより、アーディンアーディンに立て籠もった者たちは皆、殺害されるだろう。反逆者として。
「負けが見えているのだとしたら、話に乗ったふりをしてあなたを逃がすことも考えたのだけれども」
「エリシア様」
「この状況では、解らないわね。どちらに転ぶのか。テオが首尾よく王宮に辿り着けていたら。王宮を制圧できていたら。粘った方がいいわ、絶対に」
「根競べですか?」
「そうなるわね」
 セレスティンからの使いが来るまで、こちらはスタシアの要求をのらりくらりとかわさなければならない。
「――サリカは、サリカは、どうなったのでしょう?」
 何かを恐れるように、イリアの声が震えた。エリシアは「さあ」と首を傾げる。正直、サリカの生死ははかれない。
 覚悟はしていたものの、いざ身を穢されるとなったときに嫌悪を覚えて抵抗して――自害したか、グレイシス二世に殺害されたか。もしくは。
「病が進行していたのかしら」
 サリカの病に気付いたグレイシスが、彼女を諦め、健康な巫女姫に乗り換えようとしたか。
 どちらにせよ、サリカの身が完全な無事でないことは確かだ。生きてはいたとしても、床についているか、幽閉されているかだろう。
「ああ、こういうときにジェリオがいてくれたら」
 エリシアの呟きに、イリアが弾かれたように顔をあげる。
「イリア?」
「エリシア様、サリカは……サリカとジェリオは、その……」
 アデルに言われたのだろう。あの二人は、既に他人ではないと。イリアはそれを不潔だと大層嫌悪したそうだ。夫がありながら別の男に身を委ねるなど、はしたない、と。
「ええ。あの二人は、恋人同士だったわね。少なくとも、私がサリカに初めて会ったとき、彼女はジェリオの恋人だったわ」
 冬薔薇での邂逅を思い出す。発作に襲われ、倒れたジェリオを案じるサリカ。あれは、ただの友人に見せる顔ではない。夫婦よりもさらにもっと心の通った、深い絆を持った相手に対する顔だ。だが、サリカの態度はその直後に変わる。

 ――皇女さん。

 ジェリオの繰り返す囈、それが指し示すのが自分ではない、別の女性だと気付いた瞬間に。
「でも、サリカはディグルの奥方でしょう? あんなに仲睦まじいのに、何故ディグルを裏切って……」
「違うの。ディグルと出会う前に、サリカとジェリオは恋に落ちていた、いえ、違うわね。恋とは少し違うのかしら?」
 なんと呼べばよいのだろう、彼女らの間に在る絆を。
 愛でもない。恋でもない。だが、ひとは解らぬものに無理やり名を付け、解った風を装う。それだけはしたくなかった。サリカとジェリオ、アグネイヤ四世とルーラ、双子が傍に置く人物の、それぞれの絆はうまく言い表すことが出来ない。無理に表す必要はないのだが、どうやってイリアに説明したものか。
 もう少し歳を重ねればイリアにもその感覚は判るだろう。けれども、人間の心の機微にまだ疎い、若い娘には『恋』と言った方が伝わるかもしれない。
「あの二人は、幾つもの死線を潜り抜けて来たの。共にね。そこで絆が生まれて、それを恋と思って互いを求めあったということかしら? でも、ジェリオに初恋の相手がいて、今もその人のことを忘れられないと知ったサリカが、ディグルへと心を傾けてしまった」
「当てつけ? ジェリオへの?」
「それもあるかもしれないし、ないかもしれない。純粋に、ディグルを守らなければいけないと思ったのだと考えたいわ、わたしは。自分と同じく刺客に追われるディグルに、同情したかもしれない。同情を愛だと勘違いするひとも多いことだし。サリカはディグルに救いを求め、彼に逃げていた――そんな風に見えたのは、気のせいかしらね。でも、これ幸いとわたしは彼女に酷いことを頼んでしまったわ」
 失踪したルクレツィア一世の代わりになれ、と。そう言ったとき、サリカは初めは断ったものの、最終的には承諾したのだ。それは、ディグルの存在も大きかったのだろう。母性に飢えたディグルを守りたい、支えたい、その気持ちが強かったはずだ。
 しかし、サリカの身は先にジェリオに穢されてしまっている。そのことが彼女の負い目となっていた。
 ジェリオは相変わらずサリカを求め、彼の強引さに負けてしまうこともあったろう。それを咎めることはできない。
「何故?」
「おんな、だからよ。憎からず思う相手が自分を求めてくれる。想う相手がいても、そのひとが自分だけを見てくれていないのなら、自分を大切にしてくれる人の処に行きたい。そんな風に思うのも、『おんな』の一面」
 サリカはある意味、恋を捨てた。ディグルの妻となることで、恋よりも他者の平安を取ったのだ。自己犠牲――サリカは生贄となることを厭わない。それでも、ディグルに対する愛情があるのであれば、仮初の夫婦であっても幸せだろう。名目上の夫婦としてディグルに寄り添い、彼を支えて。
 それだけであればよかった。
 それだけであれば、サリカも傷つかずに済んだ。
 ディグルに子を為す力がない、それがわかったとき、時の宰相ティルはジェリオを利用し、結果的にエリシアもそれに目をつぶることになったのだ。
「子供……世継ぎですか」
 イリアが溜息をついた。ディグルの余命は幾許もない。サリカのフィラティノアでの地位を盤石たるものにするためには、世継ぎを懐妊する必要があった。少なくとも子がいれば、その子に継承権が与えられる。ディグルが没しても、遺児を王太子とし彼が即位すればサリカは王太后の地位を得ることができるのだ。
 だが、子がない場合。
 ディグルが没したのち、サリカは別の男性に嫁ぐことになるだろう。ディグルのいとこたるウィルフリートか、それとも最悪の場合国王か。
「そうなるくらいなら、ジェリオとの子を産んだ方がどれだけ幸せか」
 罪の子には違いない。けれども、王族にはそうやって生まれた子供も多くいる。現にグレイシス二世その人の出自さえ、あやしいものだ。
「でも、だからと言って」
 イリアはエリシアを見上げる。エリシアは小さく笑った。
「そう、人として許されることではないわね」
 しかし、すぐに厳しい顔に戻り
「だけど、世の中は正論だけでは立ち行かないものよ。あなたにはまだ解らないでしょうけどね。解らないから、許せないのでしょうけどね」
 呟いた。
 自身やサリカ、ティルの行いを正統化するつもりはない。ただ、解って欲しかった。イリアにだけは。このままでは、イリアの中でサリカはただの淫婦にされてしまう。せめて友人にだけは、真実のサリカを理解して欲しい。認めることはなくとも。
「許せないのは、あなたもジェリオを想ってくれているから、かしら?」
 エリシアの問いに、イリアが大きく目を見開いた。一瞬、きょとんとしていた様子だったが、見る見るうちに頬が、首筋が、耳が、赤く染まっていく。違います、と強く否定するが、声が上ずっている。おそらく、本人は自覚していなかったのだろう。他人に言われて初めて意識するなど、まだまだ小娘と言ったところか。
「別に、あたしは」
「近くにいる異性に興味を持つことは、珍しくないと思うわ。特にあなたは、女性ばかりの集団で育ったでしょう? 若い男性の免疫がないのよね」
 くす、とエリシアが笑えば、イリアは不貞腐れたように唇を尖らせた。
「嫌いです。あんないやらしい男」
 言い切ってから、はっと口を押さえる。エリシアがそのジェリオの母だと、忘れていたらしい。
「ごめんなさい、その、いやらしいは撤回しますけど。好きではないです。なんか、色々ムカつく処があって」
「若いわね」
 エリシアは笑いを止めない。そういうところは、イリアもやはり普通の娘だ。
「だけど、あなたは巫女姫。神聖帝国の柱であることには変わりはない」
「ええ、エリシア様」
「きついかもしれないけど、もう少し、頑張ってちょうだい。今はあなたが、このアーディンアーディンを統率しなければならないのだから」
 イリアは頷いた。頬に散った朱は、綺麗に消えている。
 この娘は、気持ちの切り替えが意外に早い――エリシアは、内心それを喜んでいた。イリアのこの性格からすれば、当然アグネイヤ四世とはあわないだろう。自我が強すぎて、お互いいつか衝突することになる。だから天は、アグネイヤ四世のもとにリルカインを遣わしたのかもしれない。




 スタシアたちに温かい煮込み料理と葡萄酒が供されたのは、陽が落ちて暫く経ってのことだった。馬車の中とはいえ、そこもかなり冷え込んでいる。高齢の部類に入るスタシアには、堪えるのではなかろうか。
「ありがとう」
 侍女を通して葡萄酒を受け取るスタシアの姿に、使者は絆されてしまった。
 スタシアと侍女だけでも、屋内に入れてはどうか。そんな風に感じた使者は、スタシアに声を掛ける。
「まあ」
 一晩表で過ごすことも厭わない、と言っていたスタシアだったが、温かい飲み物を得たことで、その気持ちが揺らいだのか。その申し出を有り難く受けると笑顔を見せた。
 つき従う騎士団を残して、スタシアの馬車のみ、城門をくぐる。淡い月明かりに照らされた道を、馬車はゆっくりと離宮に向かっていた。先導する使者は、時折振り返って様子を窺う。二頭立ての馬を操る御者は、すっぽりと被り物に顔を覆っており、その表情は見えない。
「もうすぐ、離宮です」
 着いたら温かい部屋でお休みください、そう告げる使者の笑顔が凍りつくのは、これから暫くのちのことだった。


NEXT ● BACK ● TOP ● INDEX
恋愛ファンタジー小説サーチ
Copyright(C)Lua Cheia


inserted by FC2 system