AgneiyaIV
第五章 暁の覇者 
3.聖女(5)


 皇帝エルメイヤ三世と、彼を囲んで微笑む女性たち。これがクラウディア一世の思い描いた『楽園』だとしたら、これほど虚しいものはない。画面の左と右の端を占めるのは、それぞれ、アインザクトとカルノリアの血縁である。エーディト及びリーゼロッテ姉妹と、シェルダ・リ=アーサ。対極にあるはずの三人は皆、神聖帝国に永遠の忠誠を誓った同志なのだ。

「もしも、生まれ変わりというものがあるとするならば」

 リディアの声がアグネイヤの耳朶を討つ。まるで、詩の一節を諳んじているような言葉だ。
「わたしは、再び皆に会いたい。皆と共に、今度こそは平和な生涯を送りたい」
「――それは、クラウディア一世の言葉ですか?」
 問いかけに、リディアは頷いた。
 ここに在る人々が全て同じ時代に生まれ変わり、何の因縁もなく穏やかに暮らすことが出来たら。詮無いことを考え、アグネイヤは目を伏せる。
 リディアの手元が動き、彼女は反対側の壁を照らした。そこには、各々の肖像画がある。エルメイヤ三世と愛妾・シェルダ・ルダ。巫女姫フィオレーンと少女騎士シェルダ・リ=アーサ。宰相の娘であるエーディト・リーゼロッテ姉妹。そして、ひとり離れて、クラウディア一世。心なしか、クラウディア一世の肖像画だけが他のものよりも色褪せて見える。それよりも何故、彼女だけが一人なのだろう。本来であれば、皇帝エルメイヤと寄り添うのは、皇后たる彼女ではないか。神聖帝国が第二妃第三妃の存在を認めていたとはいえ、うつし世の正妃を蔑ろにするなど有り得ない。
 そう思ってはみるものの、これらを描かせたのがクラウディア帝その人であることを考えれば、なんとなく意味が判るような気がした。
 おそらく、最初はこの一幅だけだったはずだ。アグネイヤは、クラウディア一世の肖像画に歩み寄る。この絵だけが描かれている布が違う。他のものよりも幾分、質が劣っていた。それだけではない、絵のところどころに修復した痕がはっきりと残っている。
「このクラウディア一世の絵は、生前のエルメイヤ三世が描かせたものだ」
 リディアの説明にアグネイヤは納得した。
 だから、他の絵と筆致も異なるのだ。壁画と集合の肖像画、及びクラウディア帝以外の肖像は皆同じ絵師の手によるものだ。クラウディア帝の肖像画は、明らかに癖が違う。表情の描き方も、色の使い方も。
 リディアはルーラに件の肖像画を下ろすよう命じた。ルーラは驚きながらも皇太后の言葉に従う。言われるがまま額縁も外し、肖像を描いた布を取りだすと
「裏を、見てみよ」
 リディアはアグネイヤに言う。
「裏?」
 不審に思った。しかし、アグネイヤは母后に逆らうことなく肖像画を裏返す。
 そこには、繊細な文字で綴られた文章が、長く書き連ねてあった。
「これは」
 手紙だった。古代神聖文字似て綴られた、書簡。誰に宛てたものなのか、冒頭に目を通したアグネイヤは、答えを求めるように母后を振り返る。
「読めばわかる」
 言われて、アグネイヤは再度書簡に目を戻した。

 ――親愛なるクレア。君がこの書簡に目を通すころには、私はもう、この世にはいないだろう。

 そんな書き出しで始まった手紙。
 初めの方は、自分の命がもう長くないこと、生まれてくるであろう我が子の顔を見ることはないだろうとのこと、また、その子の母となる姫君の存在は公にはしておらず、日蔭のままにしてあること。側室にすらすることができなかった寵姫への謝罪と自身に対する不甲斐なさが縷々綴られている。

 何だこの女々しい手紙は。それがアグネイヤの第一の印象だった。

 手紙の主は男、そして宛てた相手は――彼の妻だった。
 自身の妻に対して、愛妾とその女性が産むであろう子供のことを託す男というのも珍しい。下手をすれば夫もろとも愛妾もその腹の子も八つ裂きにされるであろうに。アグネイヤは溜息をついた。
 手紙の中で何度もクレアと呼びかけられている人物が、実はクラウディア一世であることはすぐに判った。ルクレツィアに対するルキアのように一般的な愛称である。けれども、クラウディア一世の夫たるエルメイヤ三世が、彼女を愛称で呼ぶほど親しみを持っていたとは。正直、驚いた。この分では、常日頃から彼は后を愛称で呼んでいたのだろう。手紙にはぎこちなさが少しもない。

 ――エルマ、いったい何を言っているの? 君はそう言うだろうね。

 との記述から、后も皇帝をエルマと呼んでいたことが判る。生涯処女帝として過ごしたクラウディア、実は皇帝とは相思相愛ではなかったのか、とそう思ったのだが。
 読み進めるにつれ、それは誤りだったことに気づく。これは異性に対する手紙ではない。同性の、それも気心の知れた親友に送る手紙だ。

 ――もう、誰も信じることはできない。近侍のヘルゲも近衛のフォルカーも、暗殺者の一味だった。
 ――私を狙っているのは、カルノリア大公だ。わが義弟だ。
 ――彼は狡猾だ。決して証拠を残さぬよう、決して仕留め損なうことのないよう、確実に罠を張り巡らせている。
 ――私はもう、自分の身を守りきる自信がない。人を信じられず、徐々に心を歪ませていくくらいならば、いっそ……。

 偽らざる本音が続いたのちに、皇帝は最後の望みとして、后にあることを託した。

 ――私が斃れたら、君に帝位を引き継いで欲しい。
 ――そのための手続きを進めているところだ。

 女性でも、皇帝として立つことができるように。せめてその案件が通るまで、自分は生きていなければならないと皇帝は書簡の中で悲痛な叫びをあげていた。
 だが、間に合わなかった。
 この手紙を書き終えてから間もなく、皇帝は崩御した。手紙の末尾に記された『エルマ』の署名と日付を見れば、否応なしにそれがはっきりする。

 やるせない気持ちになり、アグネイヤはクラウディア一世の肖像画を握りしめた。心なしか、視界が歪んで見える。

「マリサ?」

 しかし、母の声に顔をあげたアグネイヤ四世は、不敵に微笑んでいた。彼女は書簡の一文を指し示し、
「皇帝エルメイヤ三世陛下は、正式にクラウディア妃を次期皇帝として指名していましたね」
 もうこれで、クラウディア一世を簒奪者とは言わせない、と宣言したのだ。
 確かに、この書簡の通りだとすれば、皇帝直々に皇后を次期皇帝として推していることになる。たとえ私信に過ぎなくとも、充分過ぎる証拠だ。
「読み終えた感想が、それか」
 汝らしい、と母は笑う。
「カルノリアこそ暗殺者にして反逆者。アインザクト大公は、皇帝を守ろうとした忠義の臣。この肖像画の所在を、公表しましょう。公表するべきは、今です」
 アグネイヤ四世が戴冠したこの時代。巫女姫も現れたこの時代。今こそ、クラウディア帝とアインザクトの汚名を雪ぎ、カルノリアを糾弾するときだ。カルノリアが否定しようと、世間が認めなかろうと、構うことはない。ただ、納得すればよいのだ。アインザクトが。




 夜風が木の葉を震わせる。月明かりのもと、色づいた葉がはらはらと落ちていく様が、寂寥感を煽る。酔い覚ましにちょうど良いと庭に出たのはよいが、やはり、寒かった。朝晩はかなり冷え込む季節となったのだ。アグネイヤは自身の肩を抱くようにして、身を震わせる。
「風邪を召されます」
 その手の上から、ぱさりと何かが掛けられた。肩掛けではない。人の温もりが宿ったそれは、ルーラの上着だった。
「あなたが寒いでしょう」
 返そうとすると、
「わたしは、フィラティノアの生まれです」
 だから寒さには強いのだと暗に示して、そっとかぶりを振った。

「何故、クラウディアをアグネイヤの対の名前としたのか。わかった気がするわ」

 ルーラを見ず、月を見上げる形でアグネイヤは言う。
「本当は、ルクレツィアが対の名だった。けれども、それは初代皇帝の后の名。后を他所に嫁がせることはできない。だから、花嫁の名として、クラウディア、と」
 政略の婚姻だったとしても、かつてのエルメイヤとクラウディアのように――エルマとクレアのように、心を通わせることが出来れば。そうして今度こそ、クラウディアが幸せになれるように、そう願っての命名であったのだろう。
 クラウディア一世が理想とした、あの肖像画、あれと同じ光景を、『家族』をこの時代で叶えさせたかったのかもしれない。母后も、宰相も。
「わたしは、一度もディグルに愛称で呼ばれたことはないわ」
 ルーラの眉が僅かに動く。
「それは……」
「愛称どころか、『あれ』だったのでしょう? わたしを示す言葉は。失礼よね。サリカのことは、ちゃんとサリカと呼んでいるのに」
「陛下、それは」
 慌てるルーラに笑顔を向けて
「それまでの絆だったのでしょうね。そもそも、わたしはクラウディアではなかったし」
 自分はアグネイヤなのだ、と彼女に告げた。
 如何にどどちらがどちらとなってもよいと言われはしたが、途中から歩むべき道はほぼ決まっていた。マリサの方が皇帝として相応しい。それは自他ともに認めていたのだ。情にほだされたサリカが、あのような愚かな発言をしなければ。
 サリカは優しい。それは判る。けれども、それはあくまでも人として優れた点であって、為政者としては相応しくない。少なくともあの発言で、サリカは君主としての器がないことを露呈した。
 自身の立場を忘れ、恋に目がくらみ政略よりも恋を取り、不幸な人々をつくりだしたソフィアも同じだ。
 あの二人は、上に立つべきではない。
 セグもソフィアを大公に戴かなくて良かったと思う。ソフィアこそ亡国の君主だ。彼女自身が、国を傾けるきっかけとなる。
 サリカも、ディグル亡きあとは女王としてフィラティノアを統べるだろう。王の器にあらざる王。アグネイヤは目を伏せた。片翼が即位したならば、間髪を入れずにフィラティノアを攻略し、支配下に置かねばならない。サリカに、政治は任せられない。
 サリカが立つべき位置、在るべき場所、それは――

「陛下」

 アグネイヤの思考は、ルーラの呼びかけに中断される。我にかえり、彼女の白皙の面を見上げれば、ルーラは幾分困惑の表情を見せた。続きの言葉を言おうか言うまいか。迷っている節がある。アグネイヤが「なぁに?」とそれとなく促して漸く
「殿下のお気持ちは、エルメイヤ三世陛下と同様だと思われます」
 思う処を口にした。
 エルメイヤ三世と同様? と、アグネイヤは首を傾げる。ディグルとの会話は、専ら手紙だった。顔を合わせることも、二年の歳月の中で思い出せるほどしかない。夫と同じ顔をしたルーラが傍にいるせいで、常に対面していたような気はするが、実際は疎遠だったと言える。夫婦らしい会話も互いへの労わりも、皆無だった。が。
「ああ、そうね」
 アグネイヤもディグルも、互いを嫌っていたわけでも蔑ろにしていたわけでもない。男女間の恋慕がないだけで、それなりに相手に向き合っていたと思う。
「クラウディア一世とシェルダ・ルダも、わたしとあなたみたいな関係だったのかもしれないわね」
 自分がそうだから、容易に想像が出来る。エルメイヤ三世とクラウディア妃、そしてシェルダ・ルダ。三人の間に、愛憎はなかった。エルメイヤは――否、エルマは、親友クレアに最愛の人を託したのだ。
 穏やかで、理想的な関係。もしも自分たちがクラウディア一世らの生まれ変わりだとしたら、オリアで過ごした二年間は、まさにクラウディアの理想通りだろう。けれども、その理想を崩したのはアグネイヤだ。覇王としての血に従った、アグネイヤが『幸福な時間』に終止符を打った。
(でも)
 今では、サリカが理想を引き継いでいるのではないか。今度は、サリカがエルメイヤ三世の役割を果たして。夫と義弟たるジェリオとの間で、微妙な均衡を保っているのだ。片翼の周りにいるのは、アインザクトの縁者たるセレスティン。そして程なく、ミアルシァの血を引くエルナがフィラティノアへと向かう。
 更には。
 セグが動いた、との報せも密かに届けられた。カルノリア大公の末裔であるツィスカ、真実のソフィア皇女がサリカと対面するのも、遠くない未来だろう。
 人々の織りなす文様、それが積み重なって歴史が作られる。全ての符号が一致したとき、それが変革の時なのだ。変革は決して穏やかなものではなく、大きなうねりである。逆らうことは、なんびとたりとも許されない。
「そうね」
 アグネイヤはルーラに向き直る。
「わたしも、理想を描いてもらうことにしようかしら」
 くすりと笑い、彼女はルーラに依頼する。当代随一の肖像画家を呼ぶように。
 このときにアグネイヤ四世が依頼した絵が、後に『帝国十三聖』と称される歴史的名画になることをアグネイヤもルーラも、これから筆を取ることになる画家も、このときは全く予想だにしていなかった。なかでも『沈黙の覇王』『虚無の聖女』は、かの画家の代表作として、世に名を轟かせることになる。



 件の書簡を読み終えたヴィーカは、常のごとくそれを燭台の炎に翳した。やや厚手の布は独特の異臭を放ちながら瞬く間に黒ずみ、灰へとその姿を変えていく。
 薄暗い室内に佇むのは、彼女ひとり。針の落ちる音すら聞こえぬ、静まり返った空間である。ヴィーカは作業を終えると同時に、窓辺へと歩み寄り窓を開けた。向かいの商家の洗濯物が夜風に揺れている。眼下に広がるのは、細く曲がりくねった裏路地。街娼とその客が、嬌声をあげながら戯れている横を、干し肉を加えた犬とそれを追う肉屋の亭主が駆け抜けていく。この寒いのに、よくもまあ、と。先程から降り始めたのであろう、天からの便りがひらひらと落ちてくるのを手で受け止めて、ヴィーカは呆れ顔をした。
「ヴィーカ殿」
 背後からの声に、彼女は緩慢な動作で振り返る。彼女だけと思われたその空間、娼婦館『琥珀楼』の屋根裏部屋には、今一人の姿があった。蝋燭越しに見てとれるのは、小柄な人影。長い髪を結うことなく垂らし、簡素な衣裳に身を包んだ――若い娘である。彼女は寝台の上からじっとヴィーカを見つめていた。動きが少ないのは、その両手足が鎖で繋がれているせいだろう。
「くどいようですが、お願いします。どうか、アロイス殿に真実を話して戴けませんか」
 掠れていながらも、凛とした声。そこにいたのは、カルノリア第四皇女アレクシアだった。
 先程ヴィーカが読み聞かせた書簡、そこにあった内容に、酷く動揺している。カルノリア副宰相と偽り、セグへと乗り込んだ神官アロイス。彼は当時のセグ大公ルドルフを殺害し、傀儡の大公を立てた。それが、ソフィア。真実、カルノリア皇帝シェルキス二世の血を引く娘だと教えられ、アレクシアは更に取り乱した。無論、一国の皇女である。庶民のような乱れ方はしない。けれども、常の彼女にはありえないほど、声が震えていた。
 ヴィーカは窓辺に背を凭れかけさせ、アレクシアを見る。
「シェルキスは、鴉の血を引いていない。だからソフィアもまた、鴉の血脈ではない。そう、彼に伝えろと?」
 こくりとアレクシアは頷いた。
「それどころか、父はカルノリアを仇と恨むスヴェローニャの血筋。カルノリア憎しの思いは、アインザクトと同様だと思われます」
「確かにね」
 ヴィーカは胸高に腕を組む。アロイスは、知らずしてスヴェローニャの末裔と手を組んでいるわけだ。本人の思惑はどうあれ、結果としては正しい道を進んでいる。ならば、このままで良いではないか。ヴィーカは笑った。
 下手に事実を暴露して、混乱を招くことは避けたい。
「アロイスは、あれで一途だからね。思い込みでソフィアに酷いことをしてしまったと気付いたら、それこそ動揺するでしょうよ」
「それが望ましくないから、隠し続けているのですか? ずっと」
「それもあるね」
 アロイスが望むのは、鴉同士の血で血を洗う戦。カルノリアとセグを交戦させ、実の娘と戦う苦悩をシェルキスに味わわせたいのだ。シェルキスでなければ、エルメイヤでもよい。父娘なり姉弟なり血のつながりのある者同士が、不本意ながら互いに刃を向けあう。
 結果、潰れるのはセグだ。二百年前、アインザクトからの援軍の要請を無視した、南の大公家である。
 ソフィアは見せしめのため処刑、悲嘆にくれる皇帝を帝位から退け、アレクシアを立てる。彼女が皇帝となることに反対する貴族らを集め、内乱を起こす――それがアロイスの描いた筋書きだった。
 混乱の中でアレクシアを殺害、エルメイヤを即位させて、彼には実姉暗殺の嫌疑も掛ける。
 最後の仕上げに関しては、ヴィーカはアレクシアに伝えることはなかった。アレクシアがヴィーカより聞かされたのは、アレクシア自身が内乱の布石となることだけである。
 アロイスに、スヴェローニャ夫人のいまわの際の言葉を伝える気は、毛頭ない。アロイスは死のその瞬間まで、シェルキスを正統なる鴉の後継と信じて疑わないだろう。彼の中では、ソフィアもアレクシアも、鴉の末裔なのだ。踊らされているとも知らず、彼は己の書いた筋書き通りに動いている。途中から、それが書き換えられていることにも気付かぬまま。



「閣下より、お使いの方が見えております」
 アレクシアを部屋に残し、階下に降りたヴィーカを待っていたのは、小間使いの娘だった。彼女はヴィーカを客間に案内する。そこにいたのは、
「まあ……カルテュエラ様」
 あろうことか、第一将軍夫人そのひとだった。彼女は優雅に礼をし、ヴィーカにも椅子を勧める。運ばれて来た林檎酒の甘い香りを楽しみながら、彼女は花が綻ぶような笑みを見せた。
「夫人御自らいらっしゃるとは。御用がおありでしたら、わたくしのほうから参りましたのに」
 貴族の夫人が娼館へと入る処を見られるのはまずい。そう率直に言いたいのを堪えて、ヴィーカは苦笑する。カルテュエラの方もそこは心得ているらしく、身につけているものは街の商家の婦人のような、仕立てはよいが地味な作りの衣裳だった。装飾品の類も、殆どない。冬薔薇の如き一流の高級娼婦館なれば、貴婦人同士の密談の場所として利用されることもあろう。しかし、ここは庶民向けの二流・三流に位置する店である。女性客は、限りなく目立つ。

「娼婦館に入り浸る夫を、叱りつけに来ましたの」

 少女のように笑う先代皇帝の庶子を、ヴィーカは更なる苦笑を以て見返した。微妙な演出だ、と。所詮、深窓の姫君の考えることはこの程度だろう。如何に聡くても、それまでだ。書物から得る知識と、人生経験から得たものを生かしきる知恵は異なる。市井に在ると、それは常に痛感させられる。
 教養の程度は同等だろうが、目の前の貴婦人と冬薔薇の女主人、二人を比べれば差は歴然だった。

 ――セシリア(エリシア)が身内であればよかったのに。

 とは、幾度も思った本音である。
 ヴィーカの思惑をよそに、カルテュエラは用件を切り出した。まずは、アレクシアの様子の確認と、市井に潜んでいるアインザクトの残党の状況、その情報を尋ねてくる。ほぼ形式的なものだが、ヴィーカは的確に、最低限の言葉で応じた。その後は、宮廷内における水面下の工作の程度と、初動の頃合いについての調整。
「わたくしたちの代で全てにカタを付けよう、とは思ってはおりません」
 二百年、徐々に外堀を埋めて来たのだ。ここで一気に動く必要はない。
 カルテュエラは、第一将軍と同じことを言う。
「承知しております」
 このひともまた、知らない。シェルキスの出自を。ヴィーカは心の中で嘲笑う。自身だけが真実を握っている快感。それは最高の美酒にも勝る。
「どうやら、セグは軍を動かすらしいですわ。理由は不明ですが、フィラティノアの内乱に干渉するようですけど」
 そんなことは、筋書きにはなかった――カルテュエラの顔に困惑の色がありありと浮かんでいる。
 セグといえば、中立を謳う国家である。だからこそ、二百年前もアインザクトに手を貸すことなく、傍観者の立場を貫いた。この期に及んで、過去の信条を曲げるなど。とは、アインザクトの末裔であれば誰もが憤りを覚えるだろう。
「セグの国力を、弱めるためではないですか?」
 戦には金がかかる。重税を課し、青少年に徴兵をかければ、国内に不満が溢れる。アロイスのやりそうなことだ。その不満をソフィア女大公に向けさせ、後のカルノリア戦役の下地とするべく彼女への憎悪を煽る。
「彼は、先にソフィア皇女をセグの臣下に殺害させる方向に変えたのではありますまいか」
 皇女を殺された、それをカルノリアがセグに侵攻する口実にするのだろう。
「まあ」
 ヴィーカの見解に、カルテュエラは眉を顰める。これは彼女も彼女の夫君も、予想はしていなかったに違いない。案の定、あなたは知っていたのか、とカルテュエラはヴィーカを詰った。
「もしかしたら、『外』のアインザクトとも接触したのかもしれません。今まで此方は、あちらとは極力接触を避けて来ましたけれども」
 大方、テオバルト辺りと組んだのだろう、とヴィーカは予想している。大陸の狼を取りこんでしまえば、ことは楽に進む。それは、かねてよりアロイスも主張していた。ヴィーカはアロイスが姪である自分を通じてエルディン・ロウとよしみを通じたいと望んでいたが、ヴィーカは敢えてそれを無視していたのだ。理由は一つ。

「アロイス殿も、あまりに目に余る行動をなさると、心証が悪くなりますのに」

 夫人の呟きに、
「ええ、ほんとうに」
 頷きながら、ヴィーカの口角が上がる。
 それこそが狙い、とは、何があっても漏らさぬつもりだ。ヴィーカは夫人に同調するように、ゆっくりと頷き続けた。


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