AgneiyaIV
第五章 暁の覇者 
2.煽動(4)


 びくん、とイリアの身体が大きく震えた。傍らで彼女の眠りを見守っていたアデルが、椅子から腰を浮かせる。
「巫女姫」
 どうなされましたか、の問いに目を開いたイリアは、ゆっくりと半身を起した。
「嫌な夢を見たわ」
 サリカが、グレイシス二世に辱められる夢だった。霊夢、予知夢の類か、いやに鮮明な夢で。イリアは幾度も深呼吸を繰り返す。掌で押さえた心臓は、なかなか鎮まってはくれない。
 嫌悪の表情を隠しながら、国王を誘惑し、自身の虜にしようとしている様に、痛々しささえ感じた。サリカに毒婦娼婦の真似事は、似合わない。
「葡萄酒を、温めてまいりましょう」
 アデルの申し出に、
「お願い」
 イリアは力なく答える。
 程なくして、アデルが人肌に温めた葡萄酒を運んで来た。それを息で冷ましながら飲むイリアの背に、アデルは肩掛(ショール)を掛ける。
 夢の残滓は、まだ、消えない。眠る前に、エリシアやアデルと諍いめいたことを繰り広げたせいだろうか。それとも、自身の占い結果に背いたサリカを、心のどこかで許せないと思っているせいか。
 判らない。
 今の自分は、冷静な判断力を失っている。
「ヒヒジジイに色仕掛けなんて……通用するわけ、ないじゃない」
 唇を尖らせるイリア。アデルは一瞬、きょとんとしたが。
「大丈夫ですよ。妃殿下は、その、人妻ですし」
「清らかな人妻、でしょう? 色気もないし。間違って、本当に襲われたらどうするつもりかしら。短剣もここに置いてっちゃったし」
 枕元に置かれた、サリカの短剣。それを一瞥してイリアは溜息をつく。武器も持たず、たった一人で何が出来るのだ、と思う。根性の悪いマリサであれば、何かとんでもない切り札を持っているようで、案ずる気持はさらさら湧いてこない。が、サリカである。サリカは、何処となく危なっかしいのだ。抜けているというのではない、ただ、漸く歩けるようになった仔鹿とか――殻を割ったばかりのひよことか、そういったものを思い浮かべてしまう。誰かの保護がなければ、否、自分が守ってあげなければ。そういった庇護欲を掻き立てる存在なのだ。
「自分が……確かに、そうですね」
 イリアの言を聞いたアデルが、ぷっと吹き出した。アデルもまた、同様に思っていたのだろう。
 サリカは剣の腕は相応に立つが、精神的には脆い気がする。心根が、優しいせいかもしれないが。
「でしょ、アデルも思うでしょ」
 眇めた目で虚空を睨んだイリアは、
「ああ、もう、私もついていけばよかった」
 言って枕に拳を叩きつける。
「乙女を穢してごらんなさい、ヒヒジジイの横っ面に拳をお見舞いしてくれるわ」
 続けて、どすどすと鈍い音を立てて、枕を甚振り続けるイリア。その様子を見ながら、アデルは困惑の笑みを浮かべていた。
「初めての相手がヒヒジジイなんて、冗談じゃないわよ。ホントもう、腹が立つったら」
 夫にも許していない肌を義父に穢されるなど、耐えがたいことである。自分の身に置き換えれば、発狂してもおかしくない。そうされるくらいなら、舌を噛んで自決する――と、呪詛の如く呟き続けるイリアに、アデルは益々困ったような目を向けた。
「あの、巫女姫」
「なに?」
「妃殿下は、初めてでは、ないのです」
「え?」
「妃殿下は、乙女ではないのです」
 枕に拳を叩きこんだまま、イリアは固まった。アデルの台詞を幾度も頭の中で繰り返す。サリカは、乙女ではない。つまり、異性を知っている。普通に考えれば、人妻なのだからそれは当り前のことだ。しかし、王太子妃ルクレツィアの場合は、周辺の者たちも認める処女妻のはずだった。
「嘘」
「……では、ありません。妃殿下は」
 言いかけて、アデルははっとしたように口元を押さえた。青い瞳が、揺らめく蝋燭の炎を映している。だからだろうか、その視線に迷いのようなものが見受けられた。アデルの言葉は、出まかせではない。それは、今の様子から見て取れる。
 しかし、ディグルは。
「王太子、ではないわね?」
 それは、直感だった。ディグルではない。サリカの相手は、ディグルではない。仲は良いけれども、あの二人の間には、艶めいたものはない。ディグルがサリカに向ける愛情は、子供の母親に対するそれだ。エリシアにもサリカにも、ディグルは母を求めている。母であることを強いている。
「まさか」
 セレスティン、という名が浮かんだ。彼はサリカの初恋の人である。けれども、セレスティン自身は、サリカを子供扱いしていた。到底、恋慕の対象にはなるまい。
 では、誰が――眉を寄せるイリア、彼女を凝視していたアデルは、何かをふっきるように息をつき、それから。
「ジェリオ様です」
 はっきりとサリカの『想い人』の名を告げる。
「妃殿下は、ジェリオ様と心を通わせていらっしゃいます」
 それは、なにかの宣誓のようだった。言い切ってから、再びアデルはイリアを見つめる。まるでイリアの反応を窺うように。
「ジェリオ? 嘘? 嘘でしょう?」
 そんな馬鹿な、とイリアは思う。ジェリオは確かにサリカに興味があった。が、サリカは。サリカは、ジェリオのからかいを鬱陶しく思っていたのではないか。彼の手が触れるたび、身を固くして。逃げるように離れていた。
 あれは、嫌っていたからではなく、寧ろ秘めたる恋情があったからだというのか。
「嘘」
 イリアは繰り返す。
 サリカが、ジェリオと。
 ジェリオと。
「それって……不貞じゃない」
 不潔だわ、そんな言葉が唇から零れた。ディグルという夫がありながら、彼の弟であるジェリオに身を委ねた。純潔を失った。それは、天に背く行為だ。冒涜だ。許される行為ではない。
「サリカ様が、まだアグネイヤ四世陛下を名乗っていらしたときからです。そのときから、お二人は想い合っていらしたのです。だからこそ、妃殿下は、ルクレツィア一世陛下の名をご辞退されていたのです。それなのに」
 酷い、とアデルは言っていた。大きな瞳を更に大きく見開き、今にも涙を溢しそうな表情でイリアを見据える。
「王妃様も……エリシア様も、お二人のことは認めていらっしゃいました。王太子殿下とは、形式だけの夫婦でよいと。殿下との間に御子を望めないのであれば、ジェリオ様と、と。黙認されていらっしゃいました」
 初めて聞く事実、初めて知る話だった。そんなことは、サリカは一言も言っていない。
 イリアは強烈な疎外感を覚えた。疎外感、喪失感、それに、憤り。
「なに? なに、それは? そんな、そんな、不義を認めるようなこと、許されるわけないじゃない」
 いつになく、声が荒立った。隣室に控えていた侍女が何事かと扉越しに声を掛けてくる。そちらに向かい、何でもないと返事をしておいてから、イリアは再びアデルに目を向ける。この娘も、サリカとジェリオを認めていたのだ。
「王室では、よくあることだと聞き及びます。国王陛下にお世継ぎを残す能力がない場合、その弟君か、もしくはお血筋の何方かが、お妃様に……」
「やめて」
 イリアは反射的にアデルの頬を張った。小気味良い音が室内に響き、アデルは驚いたようにイリアを見やる。白い頬が徐々に赤みを増し、それを呆け気味に押さえるアデルの様子に、イリアは我に帰った。
「あ、ごめ……」
 激昂したとはいえ、暴力をふるってしまった。そのことに逆に驚愕を覚える。自分が何に対して怒ったのか、じんと痺れる手を押さえ、イリアは唇を噛んだ。
 アデルは小さくかぶりを振り、寝台から離れる。ご無礼致しました――消え入りそうな声で呟き、部屋を去ろうとした。
 詫びの言葉は、イリアの唇に上る前に霧散する。素直に詫びが言えなかった。
 扉に手を掛けたアデルは、こちらを振り返り、
「ですから、巫女姫。ジェリオ様のことは、諦めてください」
 意を決したかのような、思いつめた表情でそう言い残して出て行った。
「アデル?」
 一瞬、言われた意味が判らなかった。イリアは、いつまでもアデルの消えた扉を見つめていたが、答えは判らず仕舞いである。



 まずいことを言ってしまった――廊下に出たアデルは、痛む頬を押さえたまま、ふらふらと使用人用の通路へと足を向けた。主人と同行していないときは、こちらの通路を利用するのが習わしである。だからこのときも、つい、日々の習慣で暗い階段に足を掛けた。
 主人の秘密を勝手に漏らすなど、侍女としてあるまじき行為である。如何に相手が巫女姫とはいえ、ジェリオとのことは決して口にすべきではなかった。
 けれども、最後に駄目押しとばかりに放った言葉、その言葉を以て、すっと胸の辺りの閊えがとれたような気がした。自分はあの一言が言いたかったのだ。ずっとずっと、イリアに啖呵を切りたくてしょうがなかった。
 イリアもジェリオに対して憎からぬ気持ちを抱いているはずだ。それどころか、こっそり部屋に招き入れるほどである。彼女こそ、背徳的な行為をしているに違いない。考えると、「不潔だ」と言っていたイリアの方が何倍にも不潔な生き物に思えた。
(巫女姫の癖に)
 とんだ俗物だ、と思う。『夫』を裏切っているのは、イリアの方だ。
 そんなことを考えていたせいか、すぐ間近に迫っていた人の気配を感じ取ることができなかった。
「あっ?」
 気付いたときには、もう、遅く。
 するりと影の如く迫って来た人物は、アデルの身体を片手で捕らえ、その首筋に抜き身を押し付けていたのだ。

「王太子は、何処にいる?」

 押し殺した声が、耳朶に当たる。
 アデルは、ごくりと唾を呑みこんだ。



 灯りの落とされた部屋に横たわる王太子は、相変わらず目を閉じたままだった。それを寝台に腰かけた生母が見守る。青い瞳に宿るのは、この上なき慈愛の色。エリシアは、くすりと笑い、軽く首を傾げた。
「ずっと、聞いてたのでしょう?」
 息子に声を掛ける。僅かに、ディグルの睫毛が動いた。
「何故、目を開けなかったの? 言葉を交わさなかったの?」
 久しぶりに再会した乳母スタシア、彼女を前にディグルが狸寝入りを決め込んでいたのは、母の目から見れば明白である。おそらくそれを、スタシアも薄々感じていたに違いない。だからこそ、別れ際はあれほど寂しそうな表情をしていたのだ。
「あなたが直々に止めれば、スタシア殿もサリカをつけれていくことはしなかったと思うし、サリカも思い止まったことでしょうね」
 自分が行くことで、グレイシス二世の油断を誘うことが出来る、と。サリカは言っていた。確かにそれはそうだろう。が、危険な賭けには違いない。国王がサリカを殺害することは、万に一つもあり得ない。彼は、神聖帝国の血を欲しているから。だが、その代わりにサリカは貞操の危機に陥る。その身を国王に穢される確率が高くなる。それを覚悟で彼女は出向いた。
「今頃はもう、陛下の寝室に呼ばれているかもしれないわ」
 エリシアの言葉に、ディグルの眉が引き絞られた。白銀の貴公子の、僅かな変化。エリシアは微笑を浮かべる。
「サリカは、一気にカタをつけるつもりよ。あなたのために。あなたを、国王にするために」
 ふ、と。ディグルが目を開けた。冷たい光を放つ二粒の宝石が、虚空を見つめる。
「サリカ」
 妻の名を呼ぶ声に、やはり感情は籠らない。
「あなたは、何をサリカに求めたの? 何を言ったの?」
「母上」
「あなたのため、と。あの子はそんなことを言う子ではないけど。でも、判るわ。判ったわ。あなたの望みを叶えるために、サリカは生贄となることを選んだ。違う?」
 マリサであれば、自身が王となる足掛かりとして、ディグルの即位を強引に進めたろう。けれども、サリカは違う。サリカは、ディグルをフィラティノアの国王にすることを望んでいるのだ。
 今もディグルは仮の王を名乗っている。このままアーディンアーディン、ひいては南フィラティノアを独立させれば、彼は名実ともに一国の王となる。ただ、王という名を得るためならば、それでよいのだ。しかし、サリカが求めているものは。

「わたしのため、かしら?」

 エリシアは息子の顔を覗きこむ。強引に合わせた眼は、しかし何の反応も示さなかった。
 現国王グレイシス二世を廃し、ディグルがエルシェレオス一世として立つ。そののちに、エリシアの裁判をやり直し、彼女の名誉を復活させるつもりだったのだろう、ディグルは。グレイシスが君臨している限り、エリシアは罪人のままだ。それが冤罪だと主だった臣下が知っているにもかかわらず、結果は覆らない。
 ラウヴィーヌが没し、レンティルグの勢力も一掃された今こそ、フィラティノアを得る絶好の機会なのだ。
 だからこそ、サリカは行った。
 ディグルと、エリシアのために、己の身を危険にさらして。
「ばかね」
 エリシアは苦笑する。
「わたしは、復権は出来ないというのに」
 この台詞には、ディグルが反応した。「何故」と責めるような声が聞こえる。
「わたしが王太子妃となるとき、仮親とされた侯爵夫妻、彼らはわたしの代わりに処刑されたわ。家は潰され、御子息たちは貴族の称号を剥奪され、辺境に追いやられたそうよ。わたしだけが復権してどうするの。彼らに合わせる顔がないでしょう。彼らは、――侯爵夫妻は、この世にはいない。御子息たちも、おそらく流刑された先で殺害されていることでしょうね」
 サリカにも、それは言った。幾度も、噛んで含めるように、説明した。

 ――ならば、探しましょう。早く戦を終わらせて、他にいらっしゃるかもしれない、侯爵家の縁者の方を探しましょう。

 それがサリカの答えだった。
 どこまでも甘い。どこまでも、優しい。双子であるのに、マリサとは大違いだ。
 その優しさが、諸刃の剣となる。そのことを、本人が気づいていないのは、幸いか否か。
 彼女の優しさに甘えているのは、自分たちだ。
 エリシアの笑みに、更なる苦みが加わる。

「殿下」

 扉の向こうから、細い声が聞こえた。部屋付き侍女のそれではない。
「アデル?」
 サリカの侍女の声だった。問いかけに肯定の返事が返され、
「火急の用件が、ございます」
 更に細い声が訴える。どこか、いつものアデルと様子が違う。エリシアは衣裳の下にある短剣を確認した。寝台に横たわっていたはずのディグルも、半身を起している。彼もまた、傍らの剣を手にした。そんな様子などおくびにも出さず、エリシアは
「入りなさい、アデル」
 ゆっくりと短剣を鞘走らせながら、入室の許可を出す。僅かに遅れて扉が開かれ、アデルの姿が見えた――と同時に、
「殿下、お逃げください」
 悲鳴に似たアデルの声が響き渡る。が、全て叫ぶ前に銀の光が舞い。背を刺されたアデルが、その場にくず折れた。
「アデル」
 声を上げたエリシアに、侵入者が目を向ける。アデルの血に濡れた剣が、間髪を入れずに振りあげられた。


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