AgneiyaIV
第五章 暁の覇者 
2.煽動(2)


「罠だろう。ってか、それしか考えられないだろう? 普通」
 書簡に目を通したセレスティンは、開口一番言い放つ。国王からの使者としてアーディンアーディンを訪れたスタシア夫人、彼女が携えていた親書には、和睦を求める文言が記載されていたのだ。しかも、
「今謝れば、許してやる――って、どんだけ高飛車なんだか」
 内乱を起こした王太子派、そちらの方から膝を屈して許しを乞うて来れば、今までのことは水に流すと言っているのだ、国王は。セレスティンが眉を顰めるのも無理からぬことである。さすがに、サリカも不快に思った。こちらは好きで内乱を勃発させたわけではない。寧ろ、穏便に王位をディグルに譲ってくれればよかったのだ。それを幽閉先から国王が脱出した途端、東の離宮を焼き打ちして。王太子夫妻をアーディンアーディンへと追いやった。
 こちらは自衛をしたに過ぎぬ。尤も、あわよくばフィラティノアを手中に収めようとしたことは、事実であったが。
「こちらが優勢と見て、和議を申し出て来たのかしらね?」
 サリカは師を見上げた。
 アーディンアーディン以南の独立を宣言すれば、必ずや何か国王側に動きがあると考えてはいたが。これは範疇外だった。こちらは総攻撃を予想して、守備を固めている。今更、和睦など――
「断ればいい」
 セレスティンは吐き捨て、書簡を握りつぶした。
「お前が行けば、国王は必ず人質にするだろう。そのうえで、王太子を引きずりだし、アーディンアーディンを潰す。此方に味方した諸侯も同様にな」
「セラ」
「それで、終わりだ」
 師の言葉は正しい。サリカは口を噤んだ。
 国王への宣言とは別に、先にセグのソフィアにも同様の書簡を送っていた。密使が到着した時点で、セグとは同盟が成立する。そうなれば、兵力に於いても国王派よりかなり優位に立つことができる。勝機は見えてきた。そんなところに、水を差されたのだ。



「戦をやめよ、との天の啓示なのかしらね」
 広間を出、イリアの待つ私室へと戻ったサリカは、札を切る妻の前でぽつりと漏らした。
 戦へと向かっていた心が、挫かれた。セレスティンは、罠だという。自分も、そう思う。老獪な国王が、ただの使者として自分を、ルクレツィア一世を、要求する訳がない。必ずその裏には、黒い目的がある。
 それは判っている。
 判っているけれども。
「もしかしたら。って、そう思っているんでしょう?」
 イリアに心の内を見透かされ、サリカは苦笑した。そう、もしかしたら――もしかしたら、自分が膝を屈することで、無用な血を流さずに済むのではないか。そうも思うのだ。グレイシス二世とディグルは、実の親子である。そこに憎しみがあるわけがない。親が子を殺すなど、考えられぬ。グレイシスもみすみす息子を戦で死なせたくない、思うが故にこたびの提案をして来たのではないか、とも考えられるのだ。
 現に、使者としてアーディンアーディンを訪れたのは、宰相ではなく、スタシア夫人である。ディグルの乳母を務めていたというかの婦人を寄こしたということは、敵意がないことの表れではないか。
 セレスティンは、それもグレイシスの姦計のうちだと一笑に伏すであろうが。
「確かに。あなたが行けば、戦は止められるかもしれない」
 床に座り込み、敷物の上に一枚一枚丁寧に札を並べるイリアは、淡々と語る。こうしているときのイリアは、イリアであってイリアではない。巫女姫、という別の存在になる。纏う気配も、年頃の少女のそれではない。歳を経た、老女のような。それこそ魔女を思わせる重い気配を、周囲にまで波及させる。
 サリカは無言で、イリアの斜向かいに腰を下ろした。背後では、アデルが固唾を呑んで事の成り行きを見守っている。
「でも、それは一時的であって……何の抑えにもならない」
 イリアの細い指が、一枚の札を探り当てる。摘み上げたそれを、彼女はサリカの前に置いた。裏返せ、と瑠璃の瞳が告げるままにサリカは札を手に取った。使いこみ、イリアの手に馴染んだ札は、どこか温かい感じがする。裏を返したサリカは、そこに描かれた絵を見て息を止めた。

「黒衣の剣士――『騎士』、が出たでしょう?」

 札を見ずにイリアが言う。サリカは頷いた。その通りである。この札にどのような意味があるのかは判らない。ただ、近衛を見た刹那、脳裏をある人物の面影が過ぎったのだ。ティル、と彼の名を口にすれば、アデルが不思議そうに首を傾げた。
「黒衣の騎士の鎧の下には、何もないの。胸にぽっかりと穴があいている。裏切られたから。人に裏切られて、心を失ってしまったから」
 この札は、裏切りの象徴なのだとイリアが説明した。
「裏切り」
 その言葉に、慄然とする。身内の裏切りで殺される、その占いを思い出したのだ。
 サリカは己の肩を抱きしめる。このようなことで、揺らいではいけない。決まりかけた物事を、変えてはならない。
「サリカ」
 顔を上げたイリア、彼女の黄昏の視線がこちらに向けられる。彼女は湖面の如く静かに凪いだ瞳で、サリカの心を鎮めるべく語りかけて来た。
「巫女姫の占いを、信じなさい。信じて、サリカ」
「イリア」
 彼女の占いを否定しているわけではない。信じているのだ。信じているからこそ、頷けない。そうあって欲しくないから、『是』と唱えることが出来ないのだ。
「わたしは……」
 揺れる心を抱え、サリカは喘ぐような呼吸を繰り返す。



「まあ、よく眠っておられますこと」
 部屋に入り、かの人の姿を見たスタシアは、ほっとしたように呟いた。
 灯りの落とされた寝室、横たわる青年は白蝋の顔に欠片の表情も浮かべず、ただ静かに眠っていた。長い睫毛が時折揺れるのは、夢を見ているからであろうか。掛布の端から零れていた手を
「しょうがない子ね」
 苦笑しながらエリシアが戻す仕草を見つめていたスタシアは、
「……」
 寂しげに唇を引き結ぶ。
「最近は、一人で起き上がることもできるようになりましたのよ」
 エリシアはスタシアに椅子を勧め、自身は寝台に腰を下ろした。そのまま斜めに息子を見下ろし、指先で彼の乱れた前髪を優しく整える。席に着いたスタシアは、親子の様子を黙って見つめるだけだった。青い瞳には、何処かしら羨望の色が揺らめいている。

 二十余年の時を経て再会した二人は、しかし多くを語らなかった。
 スタシアも、何故エリシアがここにいるのか、尋ねなかった。エリシアもまた、何も話さず。また、悪びれた様子もなく、平素同様に振舞っている。二人の間に、空白はなかった――そんな錯覚を起させるのは、この部屋の静けさのせいか。それとも、蝋燭の作りだす、あやしげな陰翳に捕らわれ始めているからか。
「サリカの、いえ、ルクレツィアの看護のお陰かしらね」
 エリシアの言葉に、スタシアの目が見開かれる。
「夫婦仲は、好いですわよ? ほっとしたでしょう?」
 続く台詞に、スタシアは顔を赤らめる。
 我が子のようにディグルを愛でていたスタシア、姑根性が多少なりとも備わっていることは否めない。妻は夫に尽くすが当然、ルクレツィアのように好き勝手な行動をするのは問題外だと常に渋い顔をしていた彼女は、エリシアに心の中を見透かされたと思ったか。そればかりか、乳を与えただけの乳母など生みの母にはかなわぬ、と。密かに抱いていた劣等感を刺激したかもしれない。
 我が子を愛おしげに見下ろすエリシアを見つめ、スタシアは重い口を開いた。
「陛下」
 呼びかけに、エリシアは睫毛を揺らす。
「わたくしは、もう、国王の后ではありません」
 硬い返答に「いいえ」とかぶりを振ってから、スタシアは言葉を続ける。
「陛下――王后陛下。この戦を、やめては戴けませんか」
 エリシアは答えない。スタシアから視線を外し、再びディグルへと目を向ける。その端麗な横顔には、表情がない。眠るディグルと見下ろすエリシア、二人は精巧な彫像のようだ。
「戦の中にあっては、殿下の治療も充分に行えません。また、この状態は殿下のご負担にもなっているはずでございます。陛下もお判りでしょう、このままでは、殿下は」
 言いかけたスタシアの前に、エリシアの掌が翳される。白い、たおやかな掌。その一部に引き攣れた火傷の痕があるのに気付いたスタシアは、「ひっ」と喉を鳴らした。が、すぐに無礼を詫び、首を竦めるようにして項垂れる。
「判っています。あなたに言われるまでもなく、判っています」
 エリシアの声は、低く、重い。
「王太子の命は、そう長くはない。あと何年も生きることはできないでしょう」
「――陛下」
「わたくしとて、王太子には心穏やかに余生を送らせたい。今の事態を心から望んでいるわけではありません」
「でしたら……」
「それでも。ここで膝を屈してしまえば、どのみち王太子は殺される」
 そんなことはない、スタシアは即座に答えた。国王は許すと言っている。いま、この時を逃してしまっては、親子の和解のときはない。それに、ラウヴィーヌが没した今、王妃の座は空いているのだ。エリシアが帰還し、正式にその地位を継げば、万事丸く収まるではないか。
「国王陛下と王太子殿下の不和の原因は、王后陛下でしたから」
 当事者であるエリシアが戻って来た。これで、今までのことを洗いざらい水に流してしまえば、全てが終わる。
「スタシア夫人」
 く、とエリシアが嗤う。
「ひとの心は、それほど単純なものではないでしょう?」
 結わずに垂らしていた髪が、エリシアの肩から滑り落ち、その横顔を隠した。ゆえに、スタシアからエリシアの表情は見えない。けれども、声色から心情を察することはできる。スタシアの手が震えた。彼女は強く唇を噛みしめる。
 そこへ。
「妃殿下のおなりです」
 先触れの侍女が声をかけて来た。同時に扉が開けられ、ルクレツィアとその侍女が姿を見せる。ルクレツィアはそこにいたのが義母だけではないと知った瞬間、
「失礼致しました」
 下がろうとしたのだが。
「いいわ。サリカ、いらっしゃい」
 エリシアに呼ばれ、遠慮がちに入室してくる。その様子に、スタシアは違和感を覚えた。王太子妃ルクレツィア、彼女の印象が以前とはだいぶ異なっている。彼女は、こうも咄嗟に人を気遣うことが出来る人ではなかったような気がする。
「義母上、お疲れでしょう。あとは、わたくしにお任せください」
 エリシアを労う様も、妙に板についている。
「妃殿下……?」
 きょとんと自分を見つめるスタシアに、不審を覚えたのか。ルクレツィアは
「どうされましたか?」
 小首を傾げて尋ねてくる。
「旅のお疲れが出たのでしょうか、スタシア夫人も少し休まれては如何でしょう」
 陽だまりを思わせる笑顔に、スタシアは顔を赤らめた。よもや、ルクレツィアから労いの言葉を聞く日が来るとは。唖然とする彼女をよそに
「では、少し休ませて戴くわ。スタシア夫人、あなたも今宵はこちらに泊られてはいかが? 部屋を用意させますわ」
 エリシアは軽く額を押さえ、寝台を降りて退室しようとする。オリアとアーディンアーディンの往復は、馬車で一日を要する距離である。無理に帰ろうと思えば不可能ではないが、敢えて断る理由は見つからない。この様子では、スタシアに危害を加えることはないであろう、と
「お言葉に、甘えさせていただきます」
 スタシアは立ち上がり、深々と礼をした。
「夕餉の用意もさせますので、侍女や護衛の方々にも声をかけておきましょう」
 言いおいてエリシアは扉の外に滑り出る。その残り香がふうわり漂う室内で、スタシアは目の前に佇む王太子妃ルクレツィアを気まずい思いで見つめていた。
「妃殿下、どうぞこちらにおかけくださいませ」
 そそくさと場所を移動すれば、ルクレツィアはにこりと笑ってスタシアの肩に手を置いた。
「いいえ。お疲れでしょう、どうぞそのまま、おかけになって下さいな」
 やわらかいが有無を言わせぬ口調で、スタシアを椅子に縫い付ける。
 それから王太子妃は、付き添う侍女に薬を持たせた。その薬を寝台脇の棚に置き、ディグルの顔を覗きこむ。
「ディグル。お薬の時間よ」
 優しげに声をかける様は、まるで母か姉のようだった。年齢的には、ディグルの方が十歳は年長である。それが、どうだ。ルクレツィアの前では、彼が幼い子供に見える。
「寝たふり、ではなさそうね」
 苦笑を浮かべるルクレツィア、侍女もまた、同様に苦い笑みを浮かべている。ディグルはそうやって妻をからかうことがあるのだろうか。
「ディグルと、お話はされましたか?」
 不意の問いに、スタシアは「うう」と奇妙な声を上げた。それから、首を振る。
 ディグルは先程から目を覚まさない。幼子の如く安らかな顔で、眠っている。それは、傍に母がいるから、だけではない。
「スタシア夫人がいらしたと知ったら、喜ぶでしょうに……」
 夫に慈愛の目を向ける、この妃があるからだろう。
 スタシアはルクレツィアとディグル、二人を交互に見比べた。自分が理想としていた、王太子夫妻の姿が此処にある。それは喜ばしいはずなのに、何処か寂しい気もしてならない。
「妃殿下」
 わたしが使わされた意味はお分かりですね、と。静かに問いかければ、ルクレツィアの表情が強張った。既に、彼女は国王の書簡に目を通しているだろう。それは、ルクレツィアとその侍女の反応で判った。スタシアは息を整え、そっと背後を確認する。この部屋には、王太子夫妻と侍女、そして自分の他には誰もいない。エリシアは先程退室した。今が好機とばかりに、スタシアは訴える。
「国王の意に従え、と。そう仰るのでしょう?」
 古代紫の瞳に、濃い影が走った。ルクレツィアは、迷っている。スタシアは直感した。
「わたくしとともに、いらしてくださいませ。そうすれば、国王陛下は全てを水に流して下さると、そう仰っているのです」
「罠ではない、という証拠はありますか?」
「罠?」
 スタシアは瞠目する。
「罠など……そのようなもの、必要でしょうか? もとより、陛下と殿下は血を分けた親子であらせられます。此度のことも行き違いから起こった諍いでしょう。妃殿下が間に入ってとりなしてくだされば、それでことがおさまるのです。陛下も和解を望んでいらっしゃいます。何故、それなのに罠など」
 断じてない、とスタシアは語った。罠などあるはずがない。だからこそ、国王グレイシス二世は自分を遣わしたのだ。罠を仕掛けるのであれば、宰相を寄こしたはず。宰相と共に精鋭を忍ばせ、王太子妃を人質として奪取すれば良いことである。もしくは、王太子夫妻を人質として、武装を解かせればよいのだ。このように回りくどいことをして、我が子を罠にかけようなど誰が思うものか。
 俯くルクレツィアに、スタシアはなおも言い募る。
「それに、エリシア陛下。ことによればあの方も、王妃の地位に返り咲くことが出来るのではないでしょうか」
「それは」
 ルクレツィアの肩が揺れた。
「ラウヴィーヌ陛下が亡き今、何の障害もありません。国王陛下とて、エリシア陛下を憎んで追放したわけではありませぬ。今が好機です。今が、エリシア陛下の身の潔白を証明する好機ではありますまいか? レンティルグ家の勢力は、オリアからも離れました。妃殿下、お考えください。両陛下と、王太子殿下のお幸せを」
 いつしか、スタシアはルクレツィアの両手を強く握りしめていた。ルクレツィアはそれを振り払うこともせず、無言で彼女の話に耳を傾けている。その視線の中に、迷いの色がある――心が揺れ動いている証であった。
「妃殿下、どうぞご決断を」
 スタシアは、ルクレツィアの手を自らの額に押し当てた。聖職者への祈りにも似たその仕草に、ルクレツィアはただ目を伏せるばかりであったが。スタシアは、強く手ごたえを感じていた。



「妃殿下」
 スタシアが退室したのち、ルクレツィア――サリカは、呆然とその場に立ち尽くしていた。アデルの声に漸く我に返って、
「大丈夫」
 小さく頷き、ディグルの寝台に腰を下ろす。それから、深い溜息をついた。
「妃殿下、いけません」
 アデルが強くかぶりを振る。彼女の言わんとしていることは、判っていた。スタシア夫人は、主君を欠片も疑ってはいない。あのひとは、善意の塊のような女性だ。自身がしようとしていることに裏があるなど、夢にも思わぬだろう。だからこそ、この役に選ばれたのだ。そう思うと、国王の老獪さに悪寒を覚えた。
「随分、見くびられたものね」
 自嘲が漏れる。
 情に訴えれば、動くと思ったのか。片翼なら、決して流されることはないだろう。けれども、自分は危険だ。先程のスタシア夫人の熱意に、つい動かされそうになった。なにより、自分が行けば戦局が変わる、そう思っている部分が確かにある。そこを、夫人に押された形になったのだ。
「罠だからこそ、スタシア夫人を使者に選んだのでしょう」
 サリカの呟きに、アデルはほっとしたようだった。柔らかく微笑み、主人の前に膝をつく。
「行ってはなりません、妃殿下。わたしが、意地でもお止めします」
「アデル」
「でも。もしも、いらっしゃるのでしたら。わたしもお供させて戴きます」
 真直ぐに此方を見る視線が、心に痛い。サリカは再び自嘲した。
「そこまで、わたしは信用ないかしら?」
「そんな、そんなことは」
 慌てるアデルの様子が面白い。自嘲は普通の笑いに変わる。サリカは眠るディグルを見、それからアデルに視線を戻した。小柄な侍女は、両手の指を絡めるようにしてサリカを見上げている。祈りを捧げるようなその仕草が、先程のスタシアの行為に重なった。
「アデル」
 ちくり、と胸が痛む。侍女は再び、小首を傾げた。
「わたしはやはり、愚かな皇女である方が合っているみたいよ」



 アデルを王太子の寝室に残し、サリカは一人、師の部屋を訪問する。会議の終了から、夕餉までの僅かな間も、彼は彼是と策を巡らせていたのだろう。卓上には空になった葡萄酒の瓶が、幾つか転がっている。
「婦人が一人きりで異性の部屋を訪ねるのは、感心しないな」
 書き物をしながら、師セレスティンは苦言を述べた。目はこちらには向いていない。けれども、声と気配でサリカだと判って言っているのだ。
「まだ、夕刻です。夜ではありません」
 サリカは扉を閉める。ぱたり、という音にセレスティンが顔を上げた。
「それでも、だ」
 どのような噂が流れるか判らない。王太子が病床に伏し、寂しさを抑えきれなくなった妃が、親しい異性を訪ねる――そんなことを言われてしまえば、士気に関わる。一度、臣下に芽生えた不信感は、簡単には拭えない。
「ジェリオとの間に子を為せ、と。そう仰っていたのは、あなたですよ。セラ」
「それとこれとは、別の話だ」
 セレスティンは漸く筆を置いた。彼は暫くサリカを見つめ、呆れたように肩を竦める。
「情にほだされたか、サリカ」
 一瞬の沈黙ののち。サリカは「ええ」と答えた。
「どうやら、そのようです」
 答えと裏腹の無邪気な笑みに、セレスティンの眉が上がる。彼は探るように愛弟子を見つめた。灰の隻眼が、そっと細められる。サリカはそんな師に近づくと、彼の前で膝を屈めた。一度、貴婦人の礼を取り、それから真直ぐに師を見つめる。
「セラ。ひとつ、お願いがあるのです」
 先程とは異なる思いつめた声に、セレスティンの跳ねあがった眉が、今度は強く引き絞られた。



 翌朝。スタシア夫人の出立に、見送りに出たのはエリシアだった。結局、ディグルは眼を覚まさぬまま、スタシアは彼と話をすることは叶わなかったのだ。それを寂しく思ったのだろう、スタシアは静かに階上に目を向け、
「お邪魔いたしました」
 最上級の礼を取る。エリシアも、貴婦人の礼でスタシアを見送った。
 別れの挨拶は済んだ。それでも、スタシアはそこを動かない。エリシアもまた、何かを待っているようだった。
「遅い、ですわね」
「支度に手間取っているのでしょう」
 二人の貴婦人は、世間話のように軽く言葉を交わす。やがて、待ち人がやって来た。
「お待たせいたしました」
 礼装に身を包んだ、サリカ――ルクレツィア一世である。彼女はスタシアに、次にエリシアに向けて挨拶をすると、
「さあ」
 スタシアに促されるまま、従者に手を取られ馬車へと歩き出した。
 そこに。
「止めて! 誰か、サリカを止めて」
 切迫した少女の声が響き渡る。何事かと人々が注視するなか、奥から飛び出して来たのは、黒髪の少女だった。ゆったりとした南方風の衣装を纏った彼女は、裸足で地面に飛び降りる。サリカを捕らえようとしたその白い腕は、横合いから伸びた別の手に抑えられた。
「セレスティン」
 少女イリアは、そちらを睨みつける。けれども、セレスティンは怯まない。なおも暴れる巫女姫を押さえつけると、サリカに「行け」と顎をしゃくった。サリカは憂いを湛えた瞳で妻を見つめ
「ごめんね」
 昔と同じ、砕けた言葉で詫びを述べる。イリアは激しくかぶりを振った。「いや」と幾度も叫び声が聞こえる。そのイリアの傍らで、アデルが必死に彼女を宥めていた。
「大丈夫です。妃殿下は、大丈夫です」
 呪文のように繰り返す言葉は、しかしイリアの耳には入ってはいないだろう。
「戻って。サリカ、戻って」
 巫女姫の悲痛な声を断ち切るように、サリカは足早に馬車へと向かう。
(ごめん。ごめんね、イリア)
 イリアの叫びの数だけ、詫びの言葉を述べながら。


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