AgneiyaIV
第五章 暁の覇者 
2.煽動(1)


 王都ルサ、王宮前に広がる広場は、古の聖女の名を冠していた。クレスセンシア――遠き日に、エランヴィアを救った乙女の名である。何から国を救ったのか、また、かの乙女が何をしたのか、詳細は伝えられてはいない。ただ、古の高貴なる人の使いとして、この街にやって来たのだという曖昧な話が伝えられている。かのひとは、夕陽色の髪と黄昏の瞳を持っていた、と言われることから、エランヴィアではなく北方の出身であったことは間違いない。
 ただ。
 北方よりの名を持つはずのその乙女、何故かエランヴィア風の名がつけられていた。クレスセンシア、その名が果たして乙女の本名なのか、それとものちに付けられた名なのか。誰も、知らない。


「皮肉なものだの」
 広場の中央に設けられた、乙女の像。右手に燭台を掲げたクレスセンシアには、何故か左腕がない。元はあったのだろう。が、度重なる戦乱のせいか、左腕は肩からもがれたようになくなっている。失われた手には、何を携えていたのか。答えを知ったとき、ルサの、エランヴィアの人々は、戦慄するかもしれない。
 クレスセンシアの無機質な横顔を見つめた老婆は、歯のない口をもぐもぐと動かした。
 髑髏、と。北方の言葉が洞を渡る風の如く、不気味な言葉を綴る。
「おばあさま」
 鈴を転がす軽やかな声に呼び止められ、老婆は振り返った。そこには、若い花売り娘が佇んでいる。彼女は笑顔で手にした籠を指しながら、
「聖女様へのお花なら、ぜひ。喜ばれますよ」
 片言の公用語で話しかけてくる。言葉の間に息が漏れる細い音が聞こえた。本来は酷い南方訛りであろう彼女の言葉に、
「虚無の聖女に捧げる花は、ない」
 わざと北方訛りの混じった台詞を返す。花売り娘は忙しなく瞬きを繰り返したが、拒絶を認識したのだろう、曖昧な笑顔と共にその場を去って行った。その後ろ姿を見つめながら、老婆は息をついた。あの娘には、見覚えがある。数日前、アヤルカスの兵士に辱めを受けていたはずだ。自害をしなかったのは、誇りを捨てても守りたい何かがあったのか、生きねばならぬ理由があったからか。
 まるで容姿の違う花売り娘に、別の女性の姿を重ねる。
 そんな老婆の傍らで、聖女に花を捧げる者が居た。若い男性である。その近くでもやはり、老夫婦が聖女に花を捧げ、熱心に祈っていた。見回せば、聖女への献花は絶えず、あの娘のような花売りの姿が、そこかしこに見受けられる。花はどれも萎れてみすぼらしいが、それでも異国に制圧された民衆にとっては精一杯の捧げものなのだろう。買い求めた花を大事そうに抱え、聖女の足元に置き、そのまま膝をついて静かに祈る。入れ替わり立ち替わり、人は、絶えない。

「聖女様」
「我らをお許しください」
「見殺しにした」
「我らをお許しください」

 詫びの言葉が、老婆の耳に届く。

「お救いください」
「お救いください」

 後に続くは、都合よき願望。

「再び我らの前に、お出ましください」
「どうぞこの街を、解放してください」

 過日この広場にて火刑に処された娘に、クレスセンシアを重ねているのだ。聖女を魔女として処刑してしまった、その悔恨の情がいつしか聖女信仰へとすり替わっていく。あの日炎に消えた聖女は、自分たちの身代わりとなってくれた。そしていつの日か、この街を解放するべく再び彼らの前に姿を現すのだと。
 勝手なものだ。
 自分らの弱さを棚に上げて、一人の人間を悪にしたり正義にしたりする。理想を押し付けて、全てを背負わせようとする。
「愚かよ、な」
 老婆から漏れるのは、苦笑。
 その脆弱なる感情が格好の標的となることを、哀れな仔羊たちは未だ知らない。隻腕の聖女を文字通り救いの女神とするか、それとも魔女とするか。それは、彼らの心次第であることも、また、知らぬであろう。
 老婆は、樹の洞をすり抜ける風の如き空虚な笑い声を残して、静かにその場を立ち去った。

 天空を滑るように舞っていた鷹は、老婆が聖女の像から離れたのを見届けると、やはりこちらもそこを離れる。
 後に残るは、虐げられし人々の虚しき願いのみ。



 オルトルートを取り逃がした。
 その報を受けて、変わるかと思われたジェルファ一世の表情は、しかし周囲の予想に反して欠片の変化も見せはしなかった。
「そうか」
 興味がなさそうに呟いた彼は、傍らに座す少女の肩を抱き寄せる。小柄なその娘は、手が触れた刹那こそびくりと身を固くしたが、逆らわずジェルファに肩を預けた。先のエランヴィア国王の遺児リリアナ王女は、伏し目がちのままジェルファの次の行動を待っている。その小動物の如き怯えに満足したか、ジェルファは小さく笑い、衆目の前だというのに、遠慮なく王女の胸元に手を差し込み、指先でその尖端を弄り始めたのだ。
「お許しください」
 逃れようとする華奢な身体を更に抱き寄せ、ジェルファはリリアナの首筋に軽く舌を這わせる。びくん、と大きく震えたのは、羞恥のためだけではない。そのことを肌で感じたせいか、ジェルファの笑みが濃くなった。
「感じているのか、リリアナ」
 人目があるというのに? ――耳朶への囁きに、リリアナの顔が赤く染まる。
 アヤルカスの重鎮は苦笑を浮かべ、もとよりエランヴィアに仕えていた使用人らは、いたたまれず目を逸らした。亡き主君の娘が人前で辱められている、そのことに耐えられぬのだろう。そうと知りつつ、ジェルファは殊更にリリアナをエランヴィア人の前で嬲り、淫靡な表情を晒させては悦に入っていた。
 リリアナは既にジェルファの手で純潔を奪われてはいたが、周囲の予想に反して、毎晩ジェルファに抱かれていたわけではない。女となったリリアナに、ジェルファが強要するのは快楽の下僕たること。ドゥランディアより手に入れた媚薬を使用し、彼は夜ごとリリアナを弄ぶ。交わることなく、その身体の感度を上げていく。若い身体は、一度覚えた快楽を忘れられずに貪欲に同等以上の歓びを求めるようになる。
 少女が堕ちていく様を、ジェルファは楽しんでいたのだ。
 本当は、同じことをサリカに施したかった。あの聖女然とした清らかな異母妹を、自分の手で娼婦に落としたかった。それが、ジェルファの歪んだ欲望だった。
 唇を強く噛みしめ、声を堪えるリリアナは、否応なく異性の劣情を煽る。潤みを帯びていく彼女の瞳に誘われぬ男性は、いないだろう。アヤルカス人は当然として、目を逸らしているエランヴィア人、彼らとて頭の中では王女を犯しているに違いない。王女の伸びやかな肢体を、張りつめた瑞々しい肌を想像して、自己を慰めているかもしれない。
 リリアナは最早、一国の姫君でも仮初の女王でもない。男たちの欲望の対象でしかなかった。ジェルファ一世の周囲に侍るものたちは、いつ、この気まぐれな王がリリアナに飽きて彼女を臣下に下げ渡すと言いださぬか、そのときを舌舐めずりせんばかりに待っている。一人に下されれば、それは即ち皆の共用物となるのだ。
 姫君の誇りを奪われた少女は、一個の雌として雄たちの視線を集めていることに気付かぬほど、愚かではなかった。



 自室に戻されたリリアナは、寝室へと駆け込み、声を殺して泣いた。
 ほんの少し前は、幸せだったのに。両親と兄と、姉と。優しい人々に囲まれて、幸せだったのに。何が間違ったのだろう。何が狂ったのだろう。全てのはじまりは、あのツィスカとかいう魔女が現れてからだ。あの魔女が、リリアナとエランヴィアに不幸をもたらした。
 王女は心の中で呪詛を繰り返す。既にこの世にはない、魔女に対して。

「まあ、まだいますわ」
「ほんとう。気味が悪い」

 次の間より、侍女らの声が聞こえる。元からリリアナに仕えていたエランヴィア人の侍女たちは、とうの昔に暇を出された。いま、彼女の周囲にあるものは、皆、アヤルカス人である。ジェルファの遠征に従ってやって来た、彼の腹心たち。そうであるがゆえに、ジェルファがリリアナを弄ぶことに、進んで協力する。やわらかな微笑を浮かべながらリリアナの衣裳を剥ぎ取り、露わになった肌に如何わしい薬を塗布する。そうして、あのジェルファの前で。

「……!」

 リリアナの拳が震えた。彼女にとっては、侍女たちこそ生ける魔女だ。間近に潜む、魔女なのだ。
 その魔女らの言葉に耳を傾ければ、彼女たちはどうやら、広場を見ているらしい。リリアナは寝台を離れ、そっと靴音を立てずに窓辺へと向かう。あの日、両親の処刑を無理矢理見せられて以来、ここから表を望むことはなかった。見れば、悪夢が襲ってくるから。何度でも、両親に斧が振り下ろされるから。リリアナは軽くかぶりを振り、帳をずらした。隙間から見えるのは、聖女の名を冠した広場。主な催し物は、全てここにて執り行われる。中央に佇む聖女像は、今日も右手に掲げた燭台でエランヴィアを照らしていた。
「あれは」
 その聖女の周りに、人だかりができている。
 多くの人が、入れ替わり立ち替わり、聖女像に祈りを捧げている。
 嘗ても幾度か目にした光景ではあるが、これほどまでの参拝客は見たことがなかった。皆、何を祈っているのだろう、聖女の前に首を垂れ、熱心に何事かを呟いていた。その祈りの声が幾重にも集まったものが、風向きによっては此方にも聞こえてくるような気がした。蟲の羽音にも似た、不快なる音。リリアナは思わず耳を塞いだ。



 ふ、と息をついた婦人は、
「先に休ませていただきますわ」
 そう言い置いて、国王の次の間を後にした。従うのは、ひとりの侍女、そして従者。内乱がおこる前は、これほどの少人数で動くことはなかった。少なくとも、侍女は五人、従者も五人、更には護衛の者も二人いて――この宮廷で、侍女一人もしくは侍女のように王太子の寵姫を引き連れて歩いていたのは、異国よりやって来た王太子妃くらいなものだ。
 供の少なさに遠き日を思い出し、女官長スタシアは苦笑を漏らした。思い出すのは、手塩にかけた王太子ではなく、その妃となった姫君とは。自分が可笑しかった。あの姫君のせいで、王太子は変わったというのに。あの南方の魔女に唆されて、父に剣を向けたというのに。
「殿下」
 我が子の如く思っていた王太子に、心の中で呼びかける。
 彼の体調は如何なものか。慣れぬ暮らしに、悪化させてはいないだろうか。まだ、彼の訃報は届かない。ならば、細き命を永らえているのか。
 南ではまだ夏の残滓が残るこの時期も、北方に属するフィラティノアでは既に秋の気配が濃厚である。色づき始めた木々の葉が、鮮やかに王都やアーディンアーディンを彩るのもそう遠い未来のことではない。病躯に寒さは禁物。ディグルはこの冬を乗り越えることができるのか――スタシアは、ふと目を閉じた。
「女官長殿」
 失礼致します、と後を追って来たのであろう衛兵の一人が、彼女に声をかける。国王が、彼女を召還しているという。何事かと訝しく思いながらも、スタシアは玉命に従った。取って返した国王の間には、国王と宰相の姿しか見えなかった。他の女官や側近は、帰してしまったのか。侍女の姿も見受けられぬ。
「陛下、どうかなされましたか?」
 王太子の後見人、という立場の気安さで、つい主君に声をかけてしまう。が、すぐに無礼に気付き顔を赤らめて礼をした。国王グレイシス二世は、笑いながらそれを許し、ちらりと傍らの宰相に視線を走らせる。宰相は、女官長の前に進み出て、国王の言葉を伝えた。
「神聖皇帝ルクレツィア一世より、書簡が届きました。フィラティノア第一王子ディグル・エルシェレオス殿下を国王とし、アーディンアーディン以南をフィラティノアより独立させるとのことです」
「なん、と」
 言ったきり、次の言葉がつなげない。スタシアは大きく眼を見開き、国王と宰相を交互に見た。それがいかにはしたない行動か、判ってはいる。判ってはいるのだが、そうせざるを得なかった。
「フィラティノアを、分離……するということですか? そう仰っているのですか、王太子殿下は」
 漸く声を絞り出したスタシアが必死の形相で尋ねると、国王は小さく頷いた。
「ルクレツィアに唆されたのだろう、あの世間知らずの愚息は。いや、もう既に愚息は亡くなっていて、ルクレツィアが独り芝居をしているのかもしれぬ」
「そんな」
「そこで、頼みがあるのだ」
 国王は命ずる。スタシアに、アーディンアーディンに出向くように、と。
「わたくしが、でしょうか?」
「そうだ。使者がスタシアとなれば、ディグルは下手に手を出せまい。ルクレツィアにしても同様だ。かの地にて、ディグルの存命を確認してきて欲しい。もしも、愚息が生きていれば」
 此度のことを思いとどまるように説得しろ、とグレイシスは言う。今ならばまだ、親子の縁を切ることはない。父に剣を向けた非も許す、と。
「おお」
 スタシアは思わず口元を押さえる。彼女にしてみれば、願ってもない話である。
 但し、とその後にグレイシスは付け加えた。
 但し、その場合には和睦の使者としてルクレツィア一世を白亜宮に差し向けること。これが唯一の条件であった。その裏に含まれる意図に、スタシアは気づかない。彼女は親子の和解の可能性に、素直に喜びを見せた。
「御意にございます、必ずやわたくしが、陛下と王太子殿下との仲を取り持ちましょう。取り持たせて戴きましょう」



 言葉通り、彼女は日をおかずにアーディンアーディンへと出立した。四頭立ての馬車に乗り込んだのは、スタシアとその侍女二人、更に護衛が一人。従う騎士は十人と、それなりの人数となった一行は、夜明け前にオリアを出、昼を過ぎた頃にはアーディンアーディンへと辿り着いていた。先に使者を立てていたせいか、堅固な城門は固く閉ざされてはいたが、物見の兵士より矢を射かけられることも、誰何の声を上げられることもない。
 スタシアに先立って馬車を降りた侍女が城門の前に立つと、衛兵は軽く頭を下げ、開門を促す。やや遅れて重たい橋が下がり、アーディンアーディンへの道が現れた。
「懐かしい、街ですね」
 馬車の揺れに身を任せ、スタシアが呟く。侍女は軽く首を傾けた。
「ああ、遠い昔のことですわ。王太子殿下がお生まれになられたとき、エリシア陛下と暫くこちらで過ごされたのです」
 もう、二十五年、いや、六年になるのか。目を細めるスタシアも、当時の若さはない。あのとき二十歳を過ぎたばかりであった彼女も、今では五十の声を聞こうかという歳である。時の流れは思うよりも早いものだと、スタシアは嘆いた。
 王太子誕生の折、あのときは、このような未来など想像はしていなかった。
 フィラティノア待望の世継ぎの御子は、両親に囲まれ健やかに育つと思っていた。それなのに。
 エリシア妃は不義と国王暗殺の嫌疑によって失脚、国を追われた。王太子は継母との折り合いも悪く、また、病弱であったせいか極端な人嫌いに育ってしまう。異国から迎えた妃と漸く心が通じたかと思えば、このたびの内乱である。
「殿下」
 ディグルの心情を思うと、胸が痛んだ。彼は今、何を考え、この地に籠っているのだろう。それとも国王の言う通り、彼は既にこの世にはいないのではないか。不吉な想像を打ち消したスタシアは、導かれるまま街なかを進んだ。
 城壁の中は、想像以上に広かった。オリアの十分の一ほどしかない小さな街だとばかり思っていたのに、高い城壁に囲まれているといった、閉塞感をまるで感じない。規模自体は、当然オリアとは比べるべくもないが、今現在、この街は首都であるオリアよりも活気があるのではないか。
「まるで、一つの国のようですわね」
 車窓から表を窺った侍女の一人が、ぽつりと漏らす。それはスタシアの心情と重なってもいた。
 整然と軒を連ねる商業地域、路地の向こうに見え隠れする共同住宅、その向こうにあるであろう職人街、屋根の向こうには馬場があるのだろうか、馬の駆ける姿も見えた。
 ただ、行き交う人の群れはどこかしら殺気だっていて、それが今が乱世であることを否応なく感じさせる。
 やがて領主の館へと到着した一行を待ち受けていたのは、ルクレツィア一世より差し向けられた使者であった。
「遠い道のりを、ようこそいらっしゃいました。さぞやお疲れでしたでしょう」
 数人の供を従えた女性は、そう言って優雅に一礼した。何処ぞの諸侯の細君か、と、スタシアもまた笑みを湛えて礼を返す。そうして、二人がほぼ同時に顔を上げたとき、双方の青い瞳が交錯した。

「――あなた、は」

 スタシアは声を失う。
 目の前に佇む貴婦人、彼女に見覚えがあった。否、見覚えがあるどころではない。そこにいたのは、紛れもなくエリシアだった。遠き日に国を追われた妃。そのひとが、そこにいる。二十余年の月日を感じさせぬ娘然とした若々しい姿のままのエリシア妃は、にこやかに手を差し伸べた。


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