AgneiyaIV | ||||
第五章 暁の覇者 | ||||
1.均衡(5) |
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「だ、か、ら。知らなかったんですってば」 アシャンティ地下の一室。その工房に主が戻ってから、久しい。相変わらず気が向いたときに気が向いた作品を作成する稀代の細工師の横で、その弟子は叫んでいた。弟子はどういうわけか、天井より吊り下げられている。鞭打たれるわけでもなく、他の拷問を加えられるわけでもない。ただ、床に足のつかぬぎりぎりの位置に吊られているだけであったが、頭の上に持ち上げられた手は限界に達している。血の気が失せ、感覚もない。重たい痺れが、肩に溜まっている頃合いであろう。 しかし、師であるオルトルート――細工師ティルデは、弟子の悲痛な声に耳を傾けることはない。 「師匠、だから下ろしてくださいってば。ね、師匠ったら」 甘えた声を上げるエーディトは、つい先頃、セグとの国境沿いでリディアの配下に捕らえられたのだった。拘束理由は『重要人物の捕獲失敗』。何が何やら、と呆然としていたエーディトは、数日前まで同行していた女性こそが、真実のソフィア皇女だと知らされるや否や、 ――な、ん、ですってぇ? ぽかんとした表情が一転、巨大な叫びを上げるにいたったのだ。けれども、知らぬで罪を逃れられるほど、甘くはない。せめてもの情け、ということで、エーディトは牢に入れられることなくこの師の工房へと連れて来られたのだ。もうかれこれ半日以上、彼は吊られた状態で喚いていることになる。 「よくもまあ、それだけ喋れるねえ。逆に感心するよ、あたしゃ」 弟子を見ようともせず、せっせと彫金に励むティルデは、心底呆れたように呟いた。 「胡散臭い仕事に片足突っ込んでるから、そんなことになるのさ。片手間に細工をやろうってんなら、破門だよ」 「あぁんっ。師匠! それ一番痛い。一番痛いお仕置きですってば」 「嘘泣き得意だねえ。確か、初めて会ったときも、そうだったねえ。嘘泣きしてまでも細工師になりたいのかと思ったけど、やっぱり、全部嘘なんだねえ」 「違います、違いますってば、師匠っ」 延々繰り返される不毛な師弟の会話を、何処から聞いていたか。そうして、何処で止めるべきか。地下工房に降りてきたアグネイヤは、ふぅっと溜息をついた。軽く腕を組み、一度工房を見回してから、再び師弟に視線を戻す。 全く、これほど早く、離宮を再訪することになるとは思わなかった。 ソフィアを伴って離宮を訪れたのが、十日前。その後すぐに、エーディトを捕らえた旨の連絡が入った。しかも、拘束先はアシャンティだという。早速、馬を駆ってここまで来たアグネイヤだったが。 「緊張感、皆無ね」 エーディトの様子に半眼を閉じる。彼とて愚かではない。逃したのが真実の皇女ソフィアであると気付いたからには、それなりの衝撃を受けていると思っていたのだが、どうやらそうでもないらしい。 偶然の積み重なりとはいえ、ツィスカはソフィアとして冠を戴くことになった。エーディトが彼女の存在を、もっと早く知らせていれば。エランヴィアの魔女と共に在ることを、伝えてくれれば。ツィスカは。 「あっ。あああっ。マリサ姫っ。いえ、神聖皇帝陛下、助けて下さいよぉ。師匠が苛めるんです。嗜虐趣味の師匠が、いたいけな乙女を理不尽な理由で罰するんですよぉ」 目ざとくアグネイヤを見つけたエーディトが、必死で解放を訴える。 「残念ね。わたしも嗜虐趣味があるの」 くすりと笑えば、エーディトは「やっぱりね」とわざとらしく項垂れた。 「そうでしょうとも。茜姫の血筋ですものね。ああ、いたいけな仔羊は、こうして屠られてしまうのですね」 「ええ、ひと思いに断頭台に送ってあげたいのは山々だけど、それでは面白くないでしょう? 少しばかり拷問も加えてあげないと、誇り高きアインザクトの末裔に対して失礼ではなくて?」 「それ、本気で言っています?」 「冗談だとでも?」 暁の瞳と黄昏の瞳が、薄暗い部屋の中で交わされる。暫しの沈黙、それを破ったのは、ティルデだった。彼女は完成した耳飾を蝋燭の炎に翳しながら、 「ま、自業自得だね。ってことで、処刑か破門かどちらか好きな方を選ばせてやってよ、皇帝陛下」 淡々と語る。 選ぶ権利くらい与えてやろうというティルデに、今度こそエーディトは悲鳴を上げた。 「もー、だから、すみませんでしたっ」 ◆ 謝って済むのなら、役人も冥府の番人も必要ない。 言い捨てたアグネイヤは、工房を離れた。エーディトも抜け目がないようでいて、肝心なところで間が抜けている。彼が遭遇した時点でツィスカを保護していれば――詮無いことを考えて、アグネイヤは息を吐く。眉間を人差し指で押さえ、壁に凭れれば、 「少し、休まれては如何でしょうか」 ちょうど階段を降りてきたルーラが、不安げに声をかけた。それに「大丈夫」とかぶりを振り、アグネイヤは上階へと視線を向ける。二階の、かつて宰相が幽閉されていた部屋、そこに『ソフィア皇女』がいるはずだ。セルニダより呼び寄せた医師の手当てによって、徐々に健康を取り戻してはいるらしいが、相変わらず不貞腐れた様子に変わりはないらしい。 「リナレス以外には、口を利かないそうね」 誰が、と言わずともルーラは察したらしい。困ったように眉を寄せ、 「ユリアーナ殿が時折様子窺いにいらっしゃるようですが、目も合わせないそうです」 答える。ルーラによれば、ユリアはあれから毎日、ソフィアのもとで古の曲を奏でているという。『落日』から『黄昏の戦乙女』、『狼の誓い』『葡萄の残滓』まで、アインザクトを歌った曲に詩をつけながら繰り返しているそうだ。初めはバディールが「わたくしが」と名乗りを上げたが、即、リディアに却下されたと聞いてアグネイヤは吹き出した。バディールの下手な詩を聴いたら、動く心も動かなくなってしまう。アグネイヤ自身、数えるほどしか耳にはしていないが、ユリアの歌は素晴らしかった。密偵として楽師を装うのであれば、それくらいの技量がなくてはならない。良い見本であるのに、バディールはユリアから学ぶものはなかったのか。 ――かの姫君を、どうなさるおつもりですか? 「こちらのソフィア姫を、如何なさるおつもりですか?」 ルーラも、ユリアと同じ質問をしてきた。アグネイヤは小さく笑い、腕を組む。はぐらかすつもりはない。先般、ユリアに答えたものと同じ答えをルーラに与える。 「エランヴィアの魔女の復権をしてもらうの」 思わぬ言葉に、ルーラの視線が揺れた。ほんの僅かの揺らめきだが、彼女にとっては大いなる動揺である。 「ツィスカに着せられた汚名は、『ツィスカ』が晴らすしかないでしょう」 「陛下、それは」 ルーラが息を呑む。 「そう。エランヴィアを、手に入れるわ」 皇帝の口元に刻まれる不敵な笑みに、ルーラは戸惑いを隠せない。 ここ暫く、中央諸国が均衡を保っていたお陰で、神聖帝国の内政も大方整ってきた。無論、万全とは言い難い。だが、動くには充分な頃合いである。それでも、とルーラは不信を隠さない。 「いまだミアルシァの息のかかった者が、紫芳宮内を跋扈しているとエルナが申しておりました」 「知っているわ。それを少しずつ粛清しているところ。あとは、そうね」 アグネイヤは上に向けていた目を地下に――半地下の工房に戻す。 「責任を、取ってもらうしかないようね」 天井から吊るされた女装の少年、彼の姿を脳裏に思い描き、アグネイヤは静かに半眼を閉じる。 この役目は、アインザクトの縁者でもある彼に相応しい。エランヴィアに在るジェルファ一世とアヤルカス軍を叩き、かの国を解放する。覇王アグネイヤ四世の初めの一歩は、他国でも救国の英雄となること。ソフィアには、そのための駒になってもらう。ツィスカが為し得なかった代わりに。 そして。 エランヴィアを得た後は、当初の予定通りフィラティノアに矛先を向ける。 「戦を始めるのは、アグネイヤ四世」 過日のリィンの言葉が蘇る。それは、このことだったのかもしれない。ならば、受け止めよう。受け入れよう。巫女姫の予言を。予言を成就すべく、双頭の龍旗を掲げよう。 どれほどの血を流しても、この危うい均衡を崩し、混沌を招き、新たな秩序を作り上げる。 それが、混沌の姫君にして覇王たるアグネイヤ四世の宿命なのだから。 「わたしは、神聖帝国にとっては賢帝となるでしょうけど。他国から見れば、覇者ね。血も涙もない、冷徹皇帝」 「陛下」 「ラトウィスは、わたしのことを魔王と呼んでいたそうね」 色惚けした廃人の憑かれたような言葉を思い出し、アグネイヤは笑った。愚者も時折は優れたことを言う。 「紫芳宮内の粛清と、ソフィアの教育、あと二月以内に完了させるわ。冬が来る前に、エランヴィアを――エランヴィアのアヤルカス軍を駆逐するわよ」 アグネイヤ四世の宣言に、ルーラはその場に膝をつきこうべを垂れた。 ◆ 紫芳宮の奥深く、かのひとは幽閉されていた。部屋の前には衛兵たちが四人、交替で立ち、室内にも常に皇帝の息のかかった侍女や小間使い、近侍が侍っている。接触は容易ではない。ここに入ることのできる部外者は、姉妹を繋ぐ唯一の人物・楽師ユリアのみだった。 「ユリア様のお使いで参りました」 深々と頭を下げるのは、ひとりの女性だった。黒髪に青い瞳、ミアルシァの容姿を持つ娘である。部屋を守る兵士は、不信の色を隠さない。が、女性は悠然とした態度で己の指に輝く指輪を示した。そこには、神聖帝国を象徴する双頭の龍を図案化したものが刻まれている。皇帝の意を受けた者の証だった。 「宰相閣下の許可も戴いております」 続く言葉に、否とは言えぬ。衛兵は、入室を許可せざるを得なかった。 「よう、ここに来られましたね、フィオレラ」 女性の顔を見、人払いをしたジェルファ一世が生母・アイリアナは、喜色を帯びた声を上げる。フィオレラは静かに頭を下げ、 「長居はできませぬゆえ、手短に致します」 持参したエランヴィアよりの書簡をアイリアナに渡し、 「御方様より、ご伝言がございますれば承ります」 返事を督促した。 アイリアナは「そうね」と考え込むが、なかなか言葉が浮かばぬらしい。書簡に目を通していても、落ち着かずに周囲を気にしてばかりいる。実の妹であるリディアとは、容姿も性格もまるで似てはいない。出来ることならば、二人の立場が反対であったなら。生まれた皇帝も愚者で、御しやすかったであろうに。フィオレラは軽い失望を以てアイリアナを見つめる。 アイリアナは、侍女のそのような心の裡など知る由もなく。漸く考え付いた返答を書簡に書き込み、フィオレラに託した。 「ジェルファは、いつ、迎えに来てくれるのかしら? ミアルシァのレオカディオは?」 小鳥のように落ち着きなく視線を彷徨わせて、アイリアナは情けない声をあげる。フィオレラは 「じきです。じきに、いらっしゃるでしょう」 気休めに似た回答を残し、部屋を出た。 衛兵らにもにこやかに挨拶を済ませ、使用人用の廊下に出た彼女は、そこから小走りとなり上階へと向かう。全ての階段を上り切り、屋上の扉を開けてそこに誰もいないことを確認した彼女は、懐から一羽の鳩を取りだした。大人しくまるまっていたそれは、風の匂いを感じたか、フィオレラの腕にちょこんと止まる。その足に付けた筒に先程の書簡を細かくたたんで収めた彼女は、 「お願いね」 乾いた声で鳩に語りかける。鳩は小首を傾げ、一度主人を見上げ手から勢い良く羽ばたいた。そのまま幾枚かの和毛を残して、高く舞い上がる。鳩が向かう先は、南。ミアルシァの首都ロカヴェナーゼ。フィオレラはふっと目を細めて鳩の行方を追っていたが。 「え?」 急降下してきた鷹に、件の鳩は捕らえられたのだ。呆然とするフィオレラの前で、鷹は鳩を捕らえたまま飛び去ってしまう。まずい、と踵を返した彼女の前には、 「フィオレラ嬢、ですね」 数人の兵士が佇んでいた。彼らの間から現れたのは、白地に赤と金の縁取りをした軍衣を纏った青年――神聖騎士団の士官である。彼が現れた時点で、フィオレラは悟った。自分の動きは全て読まれていたのだと。 「鳩は、少なくとも十数羽は用意しておくべきでしたね」 士官は厭味なまでに爽やかに笑う。 フィオレラは彼の前で、がくりと膝をついた。 |
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