AgneiyaIV
第一章 さすらいの皇女 
10.奔流(4)


 カルノリアが女帝を嫌う理由は、二つある。

 ひとつは、オルテンシア二世――弟である皇帝を殺害し、帝位を簒奪した――彼女を実の息子が嫌ったためで。もうひとつは、いまだ男性上位思想が根強いカルノリア独特の気風である。
 かつて、カルノリアが公国であったときそこを治めるのは次期皇帝であった。大公とは、次期皇帝候補の呼称である。それは、神聖帝国独自の呼称として、他国には伝播されてはいないものであるが。カルノリア最後の大公は、神聖帝国最後の皇帝エルメイヤ三世の甥にして従弟。その妻は、皇帝の実の妹であった。病弱で子の無い皇帝の後継として、大公の名を与えられていた彼は、しかし皇帝暗殺後に帝冠を与えられることは無かった。
 エルメイヤの後を継いだのは、彼の后・クラウディア。歴史は否応無く事実を突きつける。
 カルノリア大公は、彼女を帝位簒奪者と罵倒し、その即位を認めなかった。だからこそ、反乱を扇動し、他国の介入を許し、帝国を崩壊させたのである。
 彼の、クラウディアに対する恨みはかなり強かったのだろう。カルノリアが『帝国』を名乗った後は、他国から嫁いだ后が帝位を奪えぬよう、政治における発言力を剥奪し、その存在自体を後宮に押し込めてしまった。女は政を動かすことは出来ないという下地を築き上げたのである。
 また、オルテンシアの祖母に当たるオルテンシア一世。彼女は外戚に権力を譲り、その横行を招いて国を傾けた悪女として知られている。彼女の時代に、カルノリアはその国土の大半を、アルメニア等に奪われた。後に、オルテンシア二世が中興の祖として国を盛り上げたものの、二人のオルテンシアの成したことはあまりにも大きく国を揺さぶり、後世の人々に危惧を与えたのだ。

 女性は、夫や愛人の言に左右される。
 女性は常に、夫や兄弟の地位を狙っている。

 ゆえに、女性に権力を与えてはならない。女性は『魔』。魔は、封じねばならない。

 アルメニアにも、その気風を持つものが存在するのだ。この男、ウラオもそんな頭の固い連中の一人なのだろう。男性の扱いをされても、事実上肉体的には女性であるアグネイヤが皇帝となることを快く思ってはいない。指導者は男性であるべきだと、女性は男性に劣ると。愚にもつかぬ事を考えているのか。
 大切なのは、性別などではない。本人の器量だというのに。
(あいつも、これから色々大変だ)
 アグネイヤの行く末を思い、ジェリオは内心嘆息する。アグネイヤでよかった。忍耐を知る、人の心を知ろうとできる、アグネイヤでよかった。クラウディアはそれが出来ない。彼女は独善的に走るだけだ。双子のどちらが劣っているとか優れているというわけではなく。それぞれの向き不向きがある。アグネイヤは皇帝たるに相応しい度量を備えているし、クラウディアは后として夫を補佐しつつ操作できる力を持っている。天の采配というべきか、双子はそれぞれ己に相応しい位置についたわけだ。
 けれども、それはあくまでも双子の事情である。
 そのほかの面々は、彼女らをどう思っているのか。どう見ているのか。
 アルメニアの中にも、ウラオのごとき考えを持つものが多く存在するのだとしたら。アグネイヤはそれこそ血を吐く思いでこの先歩まねばならぬだろう。片翼から引き離された彼女が、精神を預けることの出来る相手なしにどこまで粘ることが出来るのか。それも見ものではあるけれども。
(俺が殺るまでの、短い間だけどな)
 運命かもしれない。宿命かもしれないけれども。アグネイヤが苦しむとわかって、黙ってはいられなかった。自らを抑え、人のために犠牲になろうと考えてしまうあの小さな少女を、ひとり孤独の闇に放り出す――考えるだけで、心の端がずきずきと痛みだす。
 罪悪感? それも違う。
「大公殿下を、穢したのか?」
 刃とともに言葉が叩きつけられる。ジェリオは凶刃を紙一重で交わし、横へと飛びのきながらウラオに一太刀浴びせた。金属が擦れる耳障りな音が響き、小さな火花が闇に幾つも散る。と、思う間もなくウラオはジェリオの心臓めがけて小刀を投げつけた。それを手で払い、彼は一歩後退する。さすがはアルメニアの密偵、と。ジェリオは心の中で賞賛を送る。アグネイヤもおそらくはこういった人物から剣を習ったのだろう。刺客に対する対抗手段としては、最良の選択である。近衛士官などの習う正式な剣技では、刺客に対抗する術はほぼ皆無だった。
「抱いた、といったら?」
 答えを聞いたらどうするのか。どちらにしろ殺害する気は変わらないだろうに。
「ならば、余計に生かしてはおけぬ」
 やはり、そういうことらしい。ならばわざわざ尋ねることもなかろうに、とジェリオが嘆息してもウラオは気付かない。要はアグネイヤが情を交わした相手がこの世に存在する、ならばその相手を抹殺することがウラオの役目なのだ。下手に情を移されては後々の政務に支障を来たすと。そう思い込んでいるのだろう。彼は、彼の背後にある人物は。
(アグネイヤの、お袋か?)
 ミアルシァ王女であったという、アルメニア皇后・リドルゲーニャ。夫亡きあと、大臣とともに国を支えた烈婦というが。それほどまでに娘が信用できぬのならば、いっそのこと自身が皇帝となればよいのにと思う。そうなれば、神聖帝国最後の女帝となったクラウディアの如く、歴史に名を残せるのに。娘から帝位を奪った母として。
 リドルゲーニャの考えも、今ひとつ解からない。
 娘同士を争わせて、共倒れを狙っているのか。ならば、娘を愛しく思ってはいないのだろうか。彼女にとっては、娘も駒のひとつなのか。
(最低だな)
 だから、貴族のやることは気に入らない。
 全て、自身の思う通りにことが運ぶと信じて止まぬ、その傲慢さが腹立たしい。
 ジェリオは渾身の力を込めてウラオの剣を払った。彼に恨みは無いが、彼の背後に見える、貴族社会への憎悪が、自然ジェリオの行動を煽ったのだ。ジェリオはそのままウラオの懐に飛び込み、彼の急所を抉る。
 が。
「――ぅっ?」
 自身を庇うかのように動いたウラオの手。そこから繰り出された短剣を避け損ねた。手首を傷つけられ、ジェリオは思わず顔を歪める。致命傷ではない、しかし場所が悪かったのか。異常な激痛が全身を走った。
「この」
 力が抜けそうになる利き腕を叱咤して、ジェリオはウラオにとどめを刺した。頚動脈を切り裂き、返り血を全身に浴びて。それでも敵を傷つけることを辞めずウラオの臓腑も抉り取る。手にまとわり付く重い臓器の感触が、彼の刺客本来の血を熱く滾らせた。
 鼻につく、異臭。鉄錆にも似た血の香り。
 ジェリオは頬を濡らすそれを、手の甲で拭った。久方ぶりに味わう、肉を断つ感触。嫌悪は覚えない。歓喜すらも胸を震わせることは無い。
(アグネイヤ)
 彼女の元に、行くと約束した。必ず、彼女の命を奪うと。口付けとともに誓った。暁の瞳を持つ、皇女の、皇帝のもとへ。早く行かなければならない。そんな彼の思いとは裏腹に、なぜか足が重かった。酒を過ごしたときのように、足元がおぼつかない。派手な立ち回りをしたわけでもないのに、身体が動かない。言うことをきかない。
「う……」
 視界が、ぐらりと揺れた。踵を返したせつな、均衡を失った身体が大きく揺れる。地面に膝を付きそうになり、ジェリオは剣を支えにその場に踏みとどまった。おかしい。ひどく、気分が悪い。
(まさか)
 傷つけられた左手を見る。そこは、硬く腫れあがっていた。切っ先で傷つけられただけだというのに、この、骨折したかのごとき腫れはどうしたものか。
(まさか、毒?)
 ドゥランディアのカイラと同じ手段を用いたのか、ウラオは。剣に毒を仕込み、僅かに切りつけるだけでジェリオを殺害しようとしていたのかと。考えたときに更に意識が遠のいた。視界が歪み、立っていることすら困難になってくる。ジェリオは剣に縋りつき、患部に歯を立てた。毒を吸い出さなければ、命が危ない。刃で患部を切り裂き、肉を抉り、毒を血とともに流す。
「くそったれ」
 カイラの毒よりも、それは強力だった。下手をすれば、命に関わるというものではなく、確実に相手の命を奪うための毒である。彼は毒を洗い流すため、湖へと足を運んだ。暗くたゆたう湖面に熱く腫れる腕を差込み、呻き声を殺しながらひたすら肉を掻き出した。痛みなどはどうでもよい。今後、手が使いものにならないかもしれないという不安も、頭の隅に追いやった。
 今はただ、生きることだけ。そのことだけを考えながら、彼は必死に抵抗をする。

 そんな彼を、運命の女神は嘲笑うのか。

 ジェリオは闇に意識を掴み取られたかのように音を立てて、湖面に身を投げ出した。



「無様なことね」
 かつて、同じ言葉を別の男に投げたことがある。それこそ、ありったけの侮蔑の意味を込めて。しかし、此度は違う。今は、侮蔑などではなく、歓喜が声の中に混じっていた。
 カイラは小船を操る兄を振り仰ぎ、
「回収して」
 湖面に漂う男を指差した。
 一見、水死体とも思えるその人物は他でもない、ジェリオだった。カイラは思わぬ拾い物に目を輝かせ、棹で引き寄せられた彼の身体に指先で触れる。温かい。まだ、息がある。
「毒、ね」
 薬物により、その命が削られつつあるのを見て取ると、彼女は更に笑みを強くした。カイルが引き上げた彼の身体を抱き寄せ、肉の弾けた患部に唇を寄せると、舌で毒物の種類を探り当てようとする。毒術師ともなれば、いい加減、多少の毒には耐性を持ってしまう。その自信はあるのだが。
「あら」
 彼女は顔をしかめた。
 ジェリオに投与された毒物は、かなり質が悪い。一刻も早く中和させねば、それこそ使いものにならなくなってしまう。
 彼女は懐から取り出した中和剤を口に含み、口移しで彼の喉に流し込んだ。ジェリオの喉が上下するのを見て取り、カイラは安堵の息をつく。まだ、見込みはあるかもしれない。
「さすがは、大陸の狼ね」
 簡単には、命を手放さないということか。
 中央諸国はおろか、大陸中にその名を轟かせる暗殺者集団。これほどまでにしぶといとは思わなかった。思わなかっただけに、そのうちの一人を返り討ちにしたというアグネイヤの――アルメニア大公の腕に恐怖を覚える。実際相対したときには、それほど強いとも思えなかった。刺客のほうが小娘と侮って失敗したのか、それともアグネイヤの色仕掛けにあっさり陥落してしまったのかと。疑ったものだ。
「面白い子ね、大公もこのぼうやも」
 くすりと笑う。
 どちらも興味深く、手放しがたい。
「カイル。急いで。岸に、戻るわよ」
 妹の呼びかけに、巨漢は小さく頷いた。



 ウラオの言った通り、山道は暗く険しかった。時折、狼の遠吠えが聞こえる。それが幾重にもこだまして、まるですぐ近くに彼らが存在しているような、そんな感覚を覚えさせる。夜の山に潜むものは、なにも狼だけではない。そのほかの凶獣も数多く存在し、常に獲物の訪れを待っているのだ。
「殿下、大丈夫ですか?」
 猿の如く素早い動きで先を行くミムが、時折アグネイヤを気遣ってこちらを振り返る。速足の馬よりも早く走れる娘など、この世に存在したのだろうか――しかも、ミムはまるで息を切らしていない。寧ろ、馬を操るアグネイヤのほうが、呼吸を弾ませているくらいであった。
「僕のことは、気にしなくていい」
 問いかけられるたび、アグネイヤはそう応えていた。大丈夫、とは決して言わない。大丈夫といったところで、ミムがそれを信用するとは思えない。彼女らは、アグネイヤをどれほどか弱い存在だと思っているのだろう。皇女、王女、と名のつくものは、究極の深窓の令嬢だと勝手に思い込んでいるに違いない。
 これが、クラウディアであれば。

 ――見くびらないで頂戴。

 ミムを一喝しそうなものであるが。アグネイヤには、それが出来なかった。自身を気遣ってくれるものに対して、突き放した尊大な態度を取る――それ自体、申し訳なくて。
「ミムは、大丈夫か? 僕の手綱でよければ、一緒に」
 どうかと言いかけると、ミムは
「滅相もない」
 夜目にも顔を青くし、目を白黒させた。
「恐れ多いことです、殿下。わたくしごときに、そんな、気を使われますな」
 恐縮しきった態度で断りを入れ、彼女は更に速度を上げてアグネイヤを先導した。彼女は暗がりでも視界が利くように訓練されているのか。倒木や飛び出した木の根があっても、苦もなくそれを越えていく。どころか、馬の通りやすい道を選んで示してくれるのだ。
「アルメニアに着きましたら、シャン=ティィーのご領主様のところに参ります」
 風に乗って、ミムの声が流れてくる。
 シャン=ティィーといえば、皇帝の直轄地。代官として、叔母のひとりが派遣されている土地である。幼い頃、双子が剣の師とともに滞在していた土地でもあり。そこが近いのだと思うと、自然心が温かくなった。師は、双子の守役を解任された後も、暫くはかの土地に留まっているようなことを言っていたが、さすがにもう、あれから一年以上の月日が流れている。彼は既に別の土地へと旅立ってしまったのではないか。それとも、母后に呼ばれてセルニダに身を寄せているのか。
「ご領主様には、先に使いのものを手配しております」
 ミムの言葉に我に返ったアグネイヤは、「ありがとう」と礼を述べる。
 彼女らは、あの短い時間の中でそこまで動いていたのだろうか――そう考えると、少しだが背筋が寒くなった。自身の知らぬところで事態が動く恐怖、重ねて、いずれはその密偵たちを束ねなければならぬ恐怖。いくつかの、別の趣を持った恐怖が、静かに頭をもたげる。
 自分には、それが出来るのだろうか。
 彼女らを自在に操り、叛意なきようその心を掌握することができるだろうか。
(けど)
 アグネイヤは唇を噛み締める。
(やらなければいけないんだ)
 それが、皇帝たるものの務めであるから。

 ――せいぜい立派な皇帝になって、あの片割れを喜ばせてやりな。
 ――俺が行くまで、絶対誰にも殺られるなよ。

 ジェリオの言葉を胸の中で反芻して、アグネイヤはひとつ、息をついた。神聖帝国四百年の重みと、アルメニア王国百年の、そしてアルメニア帝国二百年の重みを背負って。彼女は帝国の冠をこの頭上に受ける。父亡き後、十六年も続いた異例の空位時代、それを背負ってきた母からすべての重責を受け取るのだ。
 幼いとか、未熟だからとか、言ってはいられない。
 扱いは男性だけれども、実は女性なのだと逃げてはならない。
 アグネイヤがなるものは、『皇帝』なのだから。他の誰にもなることのできない、アルメニアの元首にして、

 ――先触れの光。

 皇帝アグネイヤをそう呼んだのは、アルメニア初代皇后ルクレツィアであった。自身が太陽として光り輝くのではなく、次代のために、輝ける未来のために、礎を築く存在だと。彼女はそう言った。今も紫芳宮の奥深く、『帝王の間』と称される場所に肖像画を残す女性――帝冠を戴いたものとその后しか対面を許されぬという歴代皇帝夫妻の肖像画と彫像の前に、アグネイヤはやはり先触れの光たることを誓わねばならないのだ。
「僕は、彼女に認めてもらえるだろうか」
 わが夫に相応しい、と。差し伸べた手を取ってくれるだろうか。初代皇后は。
「なにか、仰いましたか?」
 ミムが足を止めずに振り返る。アグネイヤはかぶりを振った。
「なんでもない」
 この心の内を明かせるものは、誰もいない。歴代の皇帝がそうしてきたように、胸のうちを語るのは、『帝王の間』に存在する、物言わぬ祖先たちの前だけである。せめて、神聖皇帝の如く、巫女姫が側にあれば。彼女にあらゆることを尋ねることが出来たであろう。孤高にして孤独な存在、ゆえに神聖皇帝は傍らに巫女を、助言者を求めたのかもしれない。
(アンディルエの、巫女か)

 ――この娘を、后とされよ。皇帝陛下。

 イリアといったか、あの風の民の少女。ルカンド伯の魔手から無事に脱出することが出来たようだが。彼女は、今どこにいるのだろう。彼女が占ったアグネイヤの未来は、どのようなものだったのか。双子誕生の折に告げられた、不吉なる予言、

 ――この姫は、永く歴史に名を残すでしょう。
 ――混沌を呼ぶものとして。

 あの言葉に繋がるようなものなのか。
 彼女が本当に、巫女姫であるならば。神聖皇帝の再来を待ち望んでいた人であれば。彼女に『皇帝』と認められた自分は――

「大公殿下」

 明かりが見えます、とミムの声が聞こえた。
 アグネイヤは顔を上げる。彼女の言葉通り、遠く見下ろす平野に、幾つかの灯りが揺らめいていた。あれは、まだ、フィラティノア。国境の街・アーディンアーディンの灯りである。冬が終わりを告げ、春となったいま、あの街は旅人を受け入れるために常夜灯を点したのだろう。
「あの街で、一度休憩を取られますか?」
 ミムの気遣いに、しかしアグネイヤはかぶりを振った。
 動き出した自分には、止まることは許されない。
「先を急ごう」
 ミムに呼びかけて、アグネイヤは一度だけ後ろを振り返る。そこにまだ、刺客の姿はなかった。彼が来るまで、彼が命を奪いに来る日まで。アグネイヤは皇帝として君臨しなければならない。
 けれども。
(ジェリオ)
 なぜか、ふと。彼がアグネイヤを暗殺するために追い縋ってくることは、ないような気がした。


NEXT ● BACK ● TOP ● INDEX
Copyright(C)Lua Cheia


inserted by FC2 system