AgneiyaIV
第一章 さすらいの皇女 
10.奔流(3)


「……っ!」
 アグネイヤは思わず身構えた。ジェリオも素早く立ち上がり、アグネイヤに身を寄せるようにして傍らに立つ。まさに、呼吸がぴたりと合った見事な防御――しかし、闖入者は意外といえば意外な人物であった。
「不躾なことを致しまして、申し訳ありません」
 戸口に佇む影は、ほっそりとした女性のものだ。細い洋燈の灯りに照らし出されたのは、見知らぬ顔ではない。
「ミム?」
 猟師の妻である。彼女は剣を逆手に構えるアグネイヤと、剣筋を隠すために背後に得物を隠すジェリオとを見比べるように視線を動かしたのち、そっとその場に膝を付いた。
「まことに、不躾なる問いをお許しくださいませ」
 一度深く頭を垂れてから、彼女はまっすぐにアグネイヤを見上げた。
「恐れ多くも、アルメニアの大公殿下ではいらっしゃいませんか?」
 大公――神聖帝国には、皇太子のことを大公と呼ぶ慣わしがあった。アルメニアにもその呼称は残り、宮廷内では一般的に次期皇帝の候補を『大公』と称している。通常であれば皇太子と呼ばれるのであるが、まさか、ここで。このようなところで。その呼称を問われるとは。予想もしなかっただけにアグネイヤも驚いた。
「大公?」
 案の定、ジェリオは奇妙な顔をする。彼は神聖帝国の宮廷史をよく知らぬのだろう。闇の大陸史を知るものですら、その呼称を奇異なる思いで問い返すのだ。異国の、しかも一地方に住む猟師の女房が、なぜ皇太子をそう呼ぶのか。
 不審に思うアグネイヤの前で、ミムは今一度頭を下げる。
「申し遅れました。わたくしは、アルメニア宮廷にお仕えする密偵の一人でございます。恐れながら、あなたさまはアグネイヤ大公殿下でございますね?」
「密偵?」
 バディールの如く、他国を巡るのではなく。土着の民として異国の情報を得ているのか。ミムの言葉もいきなりは信じがたく、アグネイヤはしばし無言で彼女を見つめていた。
「国より通達がございました。大公殿下がこの地にいらしたら、無事セルニダまでお送りするようにと」
「僕が?」
 アグネイヤがここに来ることは、既に知られていたという。ということは、グランスティアの離宮、もしくはオルネラのどこかにアルメニアの密偵が潜んでいたということか。
「バディール様より、お言葉を戴いております。――アグネイヤ大公殿下、でいらっしゃいますね?」
 ここで違うと答えたとしても、容易に嘘は見抜かれるだろう。アグネイヤの古代紫(むらさき)の瞳、特徴的な帝室の紫は、隠しがたい証である。先程暖炉の側に通されたときに、ミムもウラオもそれを確認していたのだろう。彼女らは彼女がアグネイヤであると確信したゆえに、ここに足を向けたのだ。
「刺客に、追われていらっしゃるのですね?」
 ミムは更に問いかける。アグネイヤは無言で頷いた。と、ミムはそれを彼女がアグネイヤであることを肯定したと見たのか、嬉しそうに笑った。
「では、一刻も早く。アルメニアに向かいましょう」
 先程は、闇の中を動くのは危険だと言っていたのに。この変わりようはどうだろう。彼女は確かにアルメニアの密偵かもしれないが、実際に受けている通達はアグネイヤを無事故国に帰すのではなく
(僕を殺せ、と?)
 クラウディアに変われずおめおめ生き延びてきた自分を、ここで抹殺して。クラウディアを呼び戻す算段なのか。一度芽生えた疑惑は消えず、アグネイヤは素直に踏み出せないでいた。ミムの言葉を信ずるのは容易いが、あまりにも危険が多すぎる。偶然にしても、不確定要素がありすぎるのだ。
「にわかには、信じられませんか」
 ミムは溜息をついた。彼女は左手の袖を捲り上げ、そこに巻かれた包帯を引きちぎった。灯りに浮かぶのは、奇妙な紋様。片翼だけの、蝶である。
「これは」
 宮廷の密使の印であった。彼らは割符として、蝶の紋章を半分だけ体のどこかに刻まれる。その半分は、彼らの身元を示した証書に焼き付けられているのだ。無論、密偵として生きるバディールの身体にもこの紋章は刻まれているはずであった。
「猶予はなりません。さあ、早く」
 アグネイヤはちらりとジェリオを見上げた。場慣れした彼ならば、この状況をどう見るか。その表情の動き、視線の動きを判断材料にしようと考えたのだが、ジェリオは仮面をつけたかのごとく無表情にして無感動であった。彼もまた、判断しかねているのではなかろうか――アグネイヤは踏み出すべきか、それとも申し出を断るべきか。一瞬迷った。密偵であることは間違いない。けれども、彼女の真意がわからない。奇妙な焦りが、心を捉える。
「行けよ」
 ふいに。ジェリオがアグネイヤの背を押した。アグネイヤは驚いて彼を見上げる。けれども彼は相変わらずの無表情だった。
「そいつからは、同業の匂いは感じられない」
 アグネイヤにしか聞き取れぬような、囁きにも似た言葉を、ジェリオが投げかける。アグネイヤはこくりと息を呑み、彼に対して小さく頷いた。何かがあっても、ジェリオが側にいる。彼は、即位をするまでアグネイヤを害することはないと約束をした。それが、どれほどはかないものだと解かっていても、ミムやその夫であるウラオよりは信ずるに足るものであった。
「わかった」
 アグネイヤは短剣を降ろし、ミムの前に踏み出す。ミムは安堵の息をつき、柔らかな表情をアグネイヤに向けた。
「馬を用意しております」
 アグネイヤの素性に気付いてからすぐ、ウラオが近隣に馬を調達に出かけたという。宮廷で使用するような名馬ではないが、それなりに丈夫な馬を購入できたと、ミムは上機嫌であった。彼女は夜陰に飲み込まれそうな青鹿毛の馬を引いたウラオを指し、
「あのものが、殿下をセルニダまでお連れ致します」
 深く礼をする。ウラオは馬丁の如く手綱を引いたまま、その場に膝を付いた。アグネイヤはそちらに目を向けてから。
「馬は? 一頭だけなのか?」
 尋ねれば、ミムは当然とばかりに頷いた。
「ジェリオは」
 言いかけたアグネイヤの肩を、ジェリオが掴む。
「俺は、用無しらしい」
 皮肉めいた笑みが、彼の口元に刻まれる。
 ミムはそれこそ不審者を見るような鋭い視線をジェリオに投げかけていた。
「でも」
「あのものでは、供として不服でしょうか?」
 そういうわけではない、と言いたかったが、うまく言葉が出てこなかった。ミムにとっては、守るべきものはアグネイヤ一人であり、ジェリオは物の数には入っていないのだ。
「では、わたくしが。ともに参りましょう」
 ミムが、アグネイヤを促すように先に馬に近づいた。彼女はウラオに向かって何か一言二言告げていたが、ウラオはジェリオを一瞥し
「承知した」
 短く答えてから、ミムと入れ替わりにこちらにやってくる。
「殿下には、ミムが同行します。私は、このものと後から参ります」
「ジェリオと?」
 確かに、人数が多ければ多いほど人目にはつきやすい。けれども、この期に及んでジェリオと引き離されることに関しては、不安のほうが先に立った。彼が側にいたほうが、危険であるかもしれないのに。なぜか今は、故国の密偵よりもジェリオのほうが身近に感じられるのだ。
「男二人の道行きです。すぐに追いつきます」
 ウラオが強く言い切れば、アグネイヤには返す言葉は無い。ジェリオは、と思って彼を見ると、彼は軽く肩をすくめただけだった。
「俺は別に。どっちでもいいさ」
 セルニダにも特に行く気はないと、彼は嘯く。それが彼の本心なのかとアグネイヤは僅かに胸が痛んだが。
「少し、二人だけにしてくれないか?」
 ジェリオがウラオに言い、彼の答えを聞かぬままアグネイヤをつれて納屋へと戻る。ジェリオは部屋の奥――二人の視線が届かないところにアグネイヤを連れ込むと、そこで彼女を抱きしめた。
「俺が行くまで、誰にも殺られるなよ?」
 アグネイヤはジェリオの腕の中でこくりと頷く。ジェリオが来るまで、殺されない。誰にも――ミムにも。バディールにも。
「それから。これを渡すのを忘れていた」
 ジェリオはアグネイヤの髪をかきあげる。無骨な指先が耳朶に触れ、アグネイヤは身を硬くした。彼は指先で彼女の耳を丹念に探る。愛撫をしているわけではない、いかがわしい目的ではないというのに。アグネイヤは体の芯から生まれてくる熱にしらず熱い息を吐いた。
「こういうときに感じるなよ」
 ジェリオの苦笑が耳元で聞こえ、アグネイヤは赤面する。いつのまにか、彼に従うように、身体が作り変えられてしまったのか――そのようなことは勿論ないと思うが。けれども、彼の指が揺れるたび、息が首筋にかかるたび、心がざわめいてしまう。嫌ではない。彼に触れられるのは、嫌ではない。そう思う自分が、ここにいた。
「これは、もうひとりの皇女さんのものだけどな」
 アグネイヤの左耳から、飾りを外して。ジェリオは別の飾りをそこにつけた。オルネラで、クラウディアが飲み物の代価として店においていったものだという。返しそびれたので、アグネイヤに、と。ジェリオは言った。
 白金の台に、紫水晶が乗せられた耳飾。この片割れは、いま、クラウディアの耳元で揺れているのだ。
 アグネイヤは、そっと耳元の飾りをつまむ。冷やりとした金属と石の感触。しばし目を閉じて片翼の気配を探っていた彼女は、ゆっくりと目を開き、右の耳にかけられていた飾りを自ら外した。こちらは、茜石と呼ばれる、赤味の強い紫の石である。宝石ではあるが、色の濃淡その価値が変わってくる。アグネイヤの持つものは、それこそ百にひとつの高価なものであったが、彼女はそれを惜しげもなくジェリオの手に握らせた。彼の掌で鈍く輝く茜石、アグネイヤはそれを見つめて
「色が薄い貴石程度の価値しかないが。これは、それなりに高価なものだと思う」
 今までの報酬の意味もあるのだと彼に告げた。ジェリオは苦笑を浮かべ、自身の耳を探る。
「女みたいにちゃらちゃらこれをつけろ、ってか?」
「ジェリオの髪には、似合う色だと思うけど」
 褐色の髪と、赤味の強い石は綺麗に溶け合うだろう。
「とりあえず、もらっとくわ」
 ジェリオはそれを懐に収めると、再びアグネイヤを抱く手に力を込める。アグネイヤも彼の背に手を回した。見た目は細く見えるのに、彼の胸がこれほど広く厚いことを、初めて知った。その温もりが、嫌悪ではなく安堵を与えてくれることも。
「ジェリオ」
 アグネイヤは顔を上げた。彼の褐色の視線が、こちらに向けられる。暗がりゆえ、彼の瞳に浮かぶ色を判断することは出来ない。しかし、そこに宿るのが決して邪なものではないと確信できるから。
 彼女はそっと目を閉じた。そのまま彼に顔を近づける。一瞬だけ触れ合った唇は、それでも互いの温もりを感じるのに充分な熱を持っていた。


「もう、よいのですか?」
 外に出ると、待ちかねたようにウラオが声をかける。アグネイヤは頷き、ミムのほうへと足を運んだ。ジェリオはその後姿を無言で見詰める。
「セルニダで」
 騎乗したアグネイヤはジェリオを振り返り、一度だけ声を上げた。ジェリオはそれに手を挙げて答える。やがて、アグネイヤとミム、馬の姿が闇にすっかり飲まれ、その気配すら消え去ったころ。ウラオがジェリオに向き直った。
「我らも、行くとするか?」
「そうだな」
 視界の隅で、銀光がちらりと蠢いた。ジェリオは何気ない仕草でそれを交わし、音も無く剣を抜き放つ。ウラオは咄嗟に後方に飛びのき、彼もまた、懐から短刀を取り出した。
「やっぱり。俺は始末するつもりか」
 冷笑を浴びせると、ウラオは「無論だ」と即答する。
「皇帝陛下のお側に、貴様のような下衆がまとわりついていては陛下の名に瑕がつく」
 そういうことだと思った。ジェリオは冷笑を自嘲に変える。刺客ごときが、皇帝たる人物の側に侍って良いはずが無い。しかも、アグネイヤはジェリオに心を開きつつある。これでは、帝国はジェリオの意のままに動かされてしまうかもしれない、そう、彼らは判断したのだろう。
「陛下の胎内(はら)に、貴様の種を残されても処分に困る」
 既に、アグネイヤは彼に身体を許したのだと思われているのだろうか。あれだけ身持ちの固い娘であるのに、もしも彼女本人がこの言葉を聞いたらどう思うだろう。
「ともかく。貴様には消えてもらう。この場で、その首貰い受ける」
 ウラオは静かに宣告した。


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