AgneiyaIV
第一章 さすらいの皇女 
9.皇帝(3)


 太陽は、既に中天に達しようとしていた。
 足元に影をまとわりつかせながら、クラウディアは馬車から降りる。本当は自分が支えたいところであったが。
「ありがとう、ルーラ」
 王太子夫妻の信頼厚い側室に、この場は任せることにした。ルーラはクラウディアの手をとり、その身を気遣うようにそっと地面に抱き下ろす。その姿を見て、アグネイヤは微妙な違和感を覚えるのだ。クラウディアは、ルーラが怖くはないのだろうか。ルーラは、彼女は『女性』ではない。彼女の手は、腕は、身体は。女性のものではなかった。ジェリオと同じく、引き締まった体躯は歴戦の剣士のもの。ともすれば、あの腕がクラウディアを抱きしめて、よからぬ行為に及ぶのではないかとアグネイヤは内心ハラハラしていた。
「ほらよ」
 そんなアグネイヤを、ジェリオが抱きかかえた。初夜の床に花嫁を運ぶように。横抱きにして、ぽんと飛び降りる。久しぶりにジェリオの腕に抱えられて、アグネイヤは狼狽した。クラウディアの前で不埒な真似はせぬよう、彼には口を酸っぱくして言い聞かせたのだが。効果はなかったのか。
「羨ましいんだろ、皇女さん」
 間近に迫る褐色の瞳が、悪戯っぽく煌いた。そこに映り込む自身の姿に、アグネイヤは知らず顔を赤らめる。
「言ってくれりゃぁ、慰めてやるのに」
 髪に口付けを落とされた。
 傍から見れば、まるで恋人同士である。アグネイヤはいらぬ想像に激しくかぶりを振って、ジェリオの腕から身をもぎ離した。
「誤解されるから、やめてくれないか」
 厳しく責めても、ジェリオにはどこ吹く風だった。彼はアグネイヤから離れると、こちらを鋭く睨んでいるふたりに手を振って。
「これ以上は手をださねぇから、そんな目で見んなよ。ご婦人方」
 嘲笑混じりに声をかける。クラウディアは当然として、ルーラまでがジェリオの行為を苦々しく思っているのがアグネイヤは不思議だったが。クラウディアと瓜二つの自分を、下賎な男が穢そうとしている――その状況が許せないのだろう。彼女は相変わらずアグネイヤには素っ気無く、寧ろ敵意さえ感じられるようであったが。他者がアグネイヤを蔑ろにするようなことは我慢できないらしい。
「ねえ、もっと湖の近くにいってみましょうよ」
 ジェリオを無視して、クラウディアはアグネイヤの腕に自身のそれを絡めてきた。アグネイヤは、自分のもの――所有権を主張しているのか。片翼はジェリオに向けて舌を出し、つんとそっぽを向いた。
「なつかしいじゃない、アグネイヤ。昔はよく出かけたわよね」
 剣の師のもとに修行に出かけていたときは、よく近くの湖に足を伸ばしたものだった。沐浴ついでに魚を素手で掴んだり、貝を拾ったり。取れた獲物は、その場で料理をして食べたこともある。

 ――お酒飲めば、消毒されるわよ。

 クラウディアが、持参した果実酒を一気飲みして。人事不省になったのはいつのことか。
 そのことを話すと、彼女は唇を尖らせた。
「昔のことじゃない」
 拗ねて頬を膨らませる仕草が可愛らしい。アグネイヤは――サリカは。『妹』のこういうところが好きだった。
「やっぱり、空気が違うわね」
 クラウディアは下生えの上に腰を降ろすより早く、寝転がった。両手を広げて、気持ちよさそうに伸びをする。アグネイヤも隣に寝そべった。白い太陽が目を射るが、それでも北国特有の涼しい風が頬を撫でるせいか気持ちが良い。
「ここで昼寝したら」
「ぐっすり寝られそう」
 ふたりはそろって欠伸をする。
「泳ぐには」
「まだ早いよね」
「水」
「冷たいかな」
 ぴょん、と双子は同時に飛び起きて。先を争うように湖に向けて走り出す。
 きゃあきゃあと騒ぎながら駆けるその姿は、町娘となんら変わることはない――ジェリオとルーラは、彼女らの姿を苦笑を以て見つめていた。
「絵に描いたようなお転婆だな」
「――ああ。時々、手を焼くことがある」
 軽く言葉を交わしてから、ふたりははっと互いの顔を見やった。
「刺客風情が。知った風な口を」
「てめぇこそ。側室ったって、妾じゃねぇか。偉そうに」
 褐色の視線と青い視線が、宙でぶつかり合う。ルーラはしばしジェリオの顔を睨みつけていたが。ふと、目を細めた。何かを思い出すように眉を寄せ、しきりと首を捻る。
「なんだよ」
 ジェリオは値踏みするようなその仕草が癇に障ったのか。眼を吊り上げた。彼はルーラの不気味なまでに整った顔を一瞥すると、ぷっと地面に唾を吐き出す。
「下賎な男の顔に、何か付いているのか? 王太子の側室さんよ?」
 しかしルーラは挑発には乗らなかった。彼女は
「貴様」
 ――どこの生まれだ、と。極小さな、聞き取りにくい声で尋ねてきた。
「あぁ? 聞いて、どうする気だ?」
「質問に、答えろ。なぜ貴様、カルノリア訛りがある?」
「……」
 カルノリア訛、という部分に反応したか。ジェリオが不機嫌そうに顔を歪めた。
「貴様の容姿。ダルシアか、ミアルシァか。その辺りの出身だろう?」
「親父がな。俺は生まれはセグだが、育ったのはカルノリアだ」
「カルノリアか」
 ルーラの視線が揺れる。彼女はさらに何か言いたげに彼を見たが。

「――きゃー、冷たいっ」

 少女の黄色い声に現実に戻されたようだった。側室と刺客が湖に目をやると。双子は裳を太腿まで捲り上げて、湖に足を浸している。彼女たちは幼子のようにはしゃぎながら、互いのあとを追い掛け回し――
「やだー」
 転びそうになっては、歓声を上げている。
 陽光を弾き返す水面と、眩いばかりの白さを持つ双子の太腿と双方に目を奪われたジェリオは、ごくりと音を立てて唾を飲み込んでいた。その様子を苦々しく思ったのか。ルーラは双子に向けて警告を発する。
「妃殿下! 皇女殿下! はしたないことはおやめなさい」
 言葉に驚いたのか、皇女の一人がつるりと足を滑らせた。そのまま、もうひとりが手を伸ばす暇もなく。派手に水しぶきを上げてその場に尻餅をついてしまったのである。

「刺客が来るかもしれないのに」
「緊張感なかったね」

 転んだのは、クラウディアのほうであった。彼女は胸まで水に浸かってしまったせいか、くしゃみを連発して、馬車からとってきた毛布にくるまれてもまだ震えが止まらないようである。
「風邪を召されては一大事です」
 帰宅を促すルーラに、クラウディアは
「もうちょっと。カイラが来るかもしれないでしょう?」
 我侭を口にする。それにしても、着替えを持ってこなかったのは迂闊であったと。臍をかむ様子のルーラをよそに、アグネイヤは服を脱ぎ始めた。
「いいって。アグネイヤが風邪引いちゃう」
「いいから。僕は動き回れば平気だし」
 内輪もめしつつ、それでも結論は出たらしい。双子は馬車へと移動をすると、その中で手早く着替えを済ませ、戻ってきた。アグネイヤは毛布をしっかりと身体に巻きつけ、その上から外套を被っていた。クラウディアはアグネイヤの衣装を纏い、動きにくそうな片翼をかばうように傍らに付き添いつつ、ルーラが起こした火の側にやってきた。
「その下は、生まれたまんまか?」
 ジェリオの視姦に、双子は表情を険しくする。
「いやらしいわね」
 クラウディアはぴしりとジェリオの言葉を跳ね除けた。
 アグネイヤも片翼が側にいるからか。常では見せぬような厳しい表情をジェリオに向ける。左右から同じ顔に睨まれて、ジェリオも辟易したらしい。
「参った参った、降参」
 両手を挙げて、かぶりを振る。
「ほんとに、二人そろうとろくなもんじゃねぇな。どっちがどっちか、わかりゃしねぇ」
 ぼやくジェリオに、双子とルーラが言葉を失う。ルーラは、はっと気付いたように、双子を見比べた。侍女の姿をしているのが、クラウディア。毛布と外套を纏っているのがアグネイヤ。頭では認識しているはずなのに、なぜか今ひとつ自信がない。ふたりは、様子を変えたと言って実は変えていないのではないか。ふたり別々でいるときは、それぞれ見分けが付くのに。二人並んでしまうと、騙し絵をつかまされたかのように、解からなくなってしまう。
「妃殿下」
 不安げなルーラの呟きに、
「なぁに」
 笑顔で応えたのは、毛布に包まった皇女だったのだから。ルーラの混乱はますます大きくなった。
「だめよ、アグネイヤ。ルーラをからかったら」
「何言ってるの、入れ替わってみようって言ったのは、どっち?」
 双子はクスクスと笑い出す。同じ顔、同じ声。ルーラは頭痛を覚えた。ジェリオはそれよりも激しく困惑しているのだろう。二人を見比べ、口元を歪めている。が、不意に何を思ったのか。立ち上がると毛布に包まっている少女の元に近づいて。
「なに?」
 驚く彼女をたやすく抑えて、破廉恥にも彼女の身体からそれを剥ぎ取ったのである。いな。正確には剥ぎ取るまでは到らなかった。少女が気付いて飛びのいたのと。いまひとりが邪魔に入ったことで、彼の計画は失敗に終わった。だが、それでも彼は満足であったらしい。にんまりと笑うと、
「どっちがどっちか。わかったぜ。皇女さん」
 勝ち誇ったように宣言する。それを聞いて、毛布に包まった皇女が顔をしかめた。侍女の服装をした皇女――クラウディアと思われるほうが、きょとんと目を見開くのに対して。
「あんたらの身体は、よく知っているからな」
 下卑た言葉を投げかけると、『侍女』の方がぽかりと彼の頭を殴った。
「変態」
 今一人が、俗な言葉で彼をなじる。
「片割れと一緒だと威勢がいいな。皇女さん」
 『侍女』のなりをしたクラウディアに向けて、ジェリオは片目を閉じる。
「変態は、少ーし散歩でもしてくるから。お嬢さんたちはゆっくりままごとでもしてな」
 言って立ち上がると彼は一同から離れて森へと分け入っていった。
 その後姿を眺めつつ。
「軽いんだか鋭いんだか。解からない男よね」
 毛布に包まれた膝の上に顎を乗せて。皇女が呟いた。――皇女、いな。王太子妃であるクラウディアが。
「その台詞、そっくりジェリオに返されてたよ。馬鹿なんだか大胆なのか、解からないって」
 アグネイヤの苦笑交じりの言葉に、クラウディアは「ひどい」と声を上げる。同時に、ルーラも
「無礼な」
 不機嫌極まりない顔で、ジェリオが消えた方を睨みつけた。
「でも、あれで結構いいところもあるんだ。口は悪いしいやらしいし、何考えているんだかわからないけど」
 アグネイヤは遠い目をする。
 惹かれることはない。けれども、何処か気にかかる。彼の中には、自分とよく似た孤独な部分がある。時折暗い目をするのは、その孤独なる魂が表に出てくるからではないか。
「エルディン・ロウ」
 クラウディアが呟く。アグネイヤとルーラは、彼女に視線を向けた。
「どんなに恐ろしいヤツらかと思ったけど。あんな軽い若造もいるのね」
「妃殿下」
「クラウディア」
 ルーラとアグネイヤの言は、それぞれ別の思いからであったが。珍しく言葉を重ねた二人は、互いに目を見交わし。気まずい思いで目を逸らした。
「ルーラも、アグネイヤを舐めていたでしょ? この子、強いのよ? わたし、あまり彼女に勝ったことないんだから」
 ことん、とクラウディアがアグネイヤの肩に頭を乗せる。アグネイヤは
「そんなことない」
 片翼の言葉を否定した。
 双子の勝敗は、大抵が引き分けに終わる。アグネイヤの勝つときは、賭けが絡んだ場合が多い。負けたほうが一日講義に出るとか。剣の師の部屋の掃除をするとか。講義を抜けた罰として、母后からの小言を受けるとか。いとこの誕生日に贈る刺繍を仕上げるとか。
 くだらないことだといわれればそれまでだが。
「あなたには、賭博師の才能があるのかもね」
 負け惜しみか皮肉か。クラウディアはよくそう言って悔しがったものだ。
「優しそうな顔してね。人が油断するのを待っているのよ。策士だわ。あー、やだやだっ」
 クラウディアがアグネイヤの頭を抱きしめる。
「クラウディア、傷に障る」
 もがくアグネイヤをよそに、クラウディアは彼女を放さなかった。
 ルーラはそんな双子を無言で見詰める。青い瞳の奥に嫉妬と寂しさの入り混じった光が宿ったことに、双子は気付いたか。ルーラはふっと彼女らから視線を逸らすと、陽光に煌く水面に顔を向けた。



 森は思ったよりも深く。木漏れ日が唯一足元を照らし出す手がかりであった。常緑樹に覆われた天は、いくら見上げても空を臨むことは出来ない。ジェリオはふと足を止め、
「――いるんだろ? 出てこいよ」
 どちらへともなく声をかけた。
 先程から感じていた、『視線』。なにものかの、殺意のこもった冷ややかなそれを、ここでも感じる。これは、刺客独特の気配。ジェリオもおそらくは同じものを持っているのだろう。そのことに自嘲を上らせながら、彼は剣に手をかけた。
「こんなところで、剣を振り回せると思っているの?」
 浅はかね、と。
 低くはあるが魅惑的な女性の声が響いた。脳に直接刺激を与えるような、あまやかな声。ジェリオは不快感を隠そうともせず、眉を寄せる。ふわりと、精霊が舞い降りるかのように、どこからともなくカイラが姿を現した。おそらくは木陰に潜んでいたのだろうが。軽やかなる身のこなしが、彼女の動きを掴みにくくさせているのか。
「なにも、剣を使うばかりが脳じゃねえよ。――だろ?」
「あら」
 カイラは軽く目を見開く。
「さすがは、エルディン・ロウ。色々と技能をお持ちなのね」
 皮肉でも賞賛でもなく。ただ、思ったことを述べただけらしい。カイラはゆるゆるとジェリオに近づいてきた。彼の間合いに入ったとしても、剣は使えぬ――それを知っているからだろう。やけに堂々と、ジェリオの正面に佇んで。
「獲物を仕留められずにいる狩人――愚かね。情を移したのかしら」
 以前と同じ言葉で彼を愚弄する。
「手をこまねいているのなら、わたしと組まない? そのほうが、効率がいいわ」
 白い指がジェリオの腕に触れる。二の腕から肩、肩からまた腕へ、手首へと。愛撫のようにそれは動く。
「あの子をあなたのものにしたいのなら、してもいいのよ? わたしの薬で、生き人形にしてあげる。快楽の虜にしてあげる。あなたの身体がなければ生きられないように。最高の娼婦にしてあげるわ」
「へえ?」
「悪い話じゃないでしょ? あなたも、あの子の心まで欲しいわけじゃないでしょう?」
「それで? あんたらは、アグネイヤを殺すのが目的じゃないのか? 生かしておいたら意味はないだろう?」
 依頼者が刺客に求めるものは、標的の抹殺なのだから。
「構わないわ。要は、あの子が廃人になればいいのよ。生きている意味がなくなればいいの。汚辱にまみれて自分で命を絶つもよし。わが身を恥じて何処かに消えてくれてもよかったのよ。でも、ねえ? 殺してあげたほうがいいでしょう? 若い子だもの。可愛い子だもの。綺麗なうちに、魂を奪い取ってあげたかったのよ」
 半ばうっとりとした表情で、カイラは語る。その間にも彼女は近づき、ジェリオの間近でその瞳を見上げていた。ともすれば、もうあと僅かで唇が触れそうになる――それ位の位置で、互いの息遣いを感じられる距離で。ふたりの刺客は視線を交わしていた。


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