AgneiyaIV
第一章 さすらいの皇女 
8.双子(4)


 夜は、静かに更けていく。もう、これで三日になるか。グランスティアの離宮で過ごす夜は。アグネイヤから、城の使用人には手を出すなといわれている手前、迂闊に侍女たちに声をかけることもできない。数人の若い小間使いたちは、ジェリオと目が合うと耳まで赤くなってそそくさと逃げていくので、脈がないことはない――それがわかっているだけに、若干の腹立たしさはある。
 一夜の遊び、恋の夢。
 田舎に引っ込んでいるからこそ、そういったものに憧れる娘も多いはずだ。異国の香りを漂わせるジェリオの野性的な魅力に心惹かれぬ娘のほうが、寧ろ少ないだろう。厳格なはずの女中頭でさえ、ジェリオと面と向かって話すことをためらっている。さすがに年配の婦人を相手にする気はなかったが。秋波を送られていると思うと、満更悪い気もしない。
 とはいえ、いつまでも一人寝に耐えられるものではなかった。いわゆる、色情狂ではないのだが、ジェリオとて若い男性である。年頃の娘たちが側にいれば、それなりに悪い虫も疼きだす。
 酔い覚ましにふらりと訪れた裏庭で、小間使いの一人と行き会い。弾みで彼女と共に厩舎にしけこんでしまってから。ふと、まずいことをしたものだとらしくない後悔をした。
「……」
 胸の上でうっとりと眠りにつく少女の髪を片手で梳きながら、ジェリオは細く息をつく。波打つ銀の髪は、丹念な手入れの賜物か、絹糸の如く滑らかで指に絡むことはなかった。その感触が、アグネイヤの黒絹の髪を思い出させ、思わず彼は強く少女を抱き締める。

 アグネイヤとクラウディア。姿かたちは鏡像の如し。ただし、うちに秘められたる魂は、まるで別個。
 クラウディアの、冷ややかとも言える笑みを思い出すと、なぜか背筋がぞくりとした。
(『アグネイヤ』)
 彼女は、双子であるからあの目をまともに見ることが出来るのか。
 それとも。

 クラウディアは、片翼には心を覗かせないようにしているのか。



 アルメニアの首都、セルニダ。その中央に聳える皇宮・紫芳宮の前に、大型の馬車が止められたのはその日の午後のことであった。門番に取次ぎを依頼したのは、すらりと背の高い見目麗しき女性である。彼女は自身を
「アンディルエの巫女の使い」
 と名乗り。皇帝もしくはそれに次ぐ人物への面会を願い出た。

「アンディルエの巫女、とな?」

 それは、とりもなおさず神聖帝国の正妃のこと。既に滅び去った国の亡霊とはいえ、その名は帝国の後継を自称するものにはいまだ効力がある。アルメニアの重臣たちは、しばし会議を催したあと、待たせてあった一行を中へと招き入れた。

 現在の実質上の権力者である、先帝の后リディア――リドルゲーニャのもとへ。



 北国の朝は遅い。南方ではとっくに日が上がっている時刻であるはずなのに、まだ、街は薄闇に包まれている。窓を細く開ければ濃紺の空には、夜に忘れられた星がいくつか。静かに瞬いているのが見えた。
「……」
 吐く息が白く凍り、星の輝きを阻む。あと、どれくらい待てば明の星が太陽を促すのか。アグネイヤは僅かに身を乗り出して、東の空に目をやった。
「ほんと、早起きね」
 寝台の中から、クラウディアの声が聞こえる。
「ごめん。寒い?」
 慌てて窓を閉めようとするのを、クラウディアはかぶりを振って制した。
 片翼は、朝が弱い。その分、夜更かしはいくらでも出来る。アグネイヤは別段朝型ではないが、片翼に比べると寝起きはよいほうであった。
 水差しから酒を注いで一気に飲み干すクラウディアの姿を見て、アグネイヤは窓を閉め、寝台の側へと歩み寄る。消えかけていた燭台の焔に油を差し、それを寝台脇の卓子にそっと乗せた。淡い灯りに照らし出されたクラウディアの表情は、感情に乏しいものの、さほど疲れた印象はない。若さゆえの回復力か、傷も大分癒えて痛みも取れたようである。その証拠に、酒を飲んだと思いきや、さっと身を起こして、傍らの衝立にかけてあった衣装に手を伸ばした。
 もう、起床するつもりだ。
 片翼の復活は嬉しいが。少し無茶なのではないかと、アグネイヤは嘆息する。それを感じ取ったクラウディアは、苦笑を浮かべてこちらを見た。だってしょうがないじゃない、とその視線が告げている。
「よくなったのに、いつまでもごろごろしていられないでしょう」
 相変わらずだ。
 十四歳のときも。クラウディアは同じことを言っていた。瀕死の重傷を負ったにも拘らず、十日と経たぬうちに常人と変わらぬ生活に戻った。乗馬をし、剣技に勤しみ、アグネイヤを誘って――唆して、街にまで出かけた。
「どう? 久しぶりに、一本?」
 クラウディアは稽古用の剣を持ち上げて、アグネイヤを促す。予想していた台詞だが、これには彼女はかぶりを振った。
「やだ」
「けち」
 断りと、それに対する反発が、同時に発せられる。
「やだよ。怪我人相手に。これ以上、怪我を増やしたくないだろ?」
 これが、アグネイヤの本音である。稽古とはいえ、夢中になってしまえばそれぞれに熱が篭るのは目に見えている。普段のクラウディアであれば、多少の攻撃は防ぐことが出来るだろうが。いかんせん、今は負傷の身である。剣筋も鈍っているだろうし、なにより手加減もしてくれそうにない。本気でぶつかり合ったが最後、どちらかが傷を負うことは目に見えている。
 それは、クラウディアも知っているはずなのに。あえて口にするのは、懐かしさゆえか。
 アグネイヤは目を細めた。つと、片翼のもとに近づき、寝台に腰を降ろす。不貞腐れたクラウディアの頬を指先で突付き、彼女は快活に笑った。
「大丈夫。機会は幾らでもあるよ」
「アグネイヤ?」
「なければ、作ればいいんだし」
「あなた、それって」
「僕なりに、少し考えてみたんだけど」
 しばし、双子は目で会話をする。
「――決めたんだ?」
「うん。決めた」
 こくりとアグネイヤは頷いた。クラウディアも、その結論は予想していたのだろう。さほど驚かず。寧ろ、ムッとした表情を片翼に向けてくる。
「先になんでそれを考えなかったのかな、『姉上』は。あのことへの負い目なんて、気にしなければよかったのに」
 あのこと、とは。クラウディアが刺客の刃をうけたこと。アグネイヤが側にいれば、片翼の傍らに寄り添っていれば。ことは未然に防げたのかもしれない――それを、二年近く経った今でも、気に病んでいる。だからこそ、自身が身代わりにと。今度こそ、片翼の代わりに刃を受けようと。下らぬ覚悟をするに到ったのだ。
「でも、なんで? どうして、吹っ切れたの? なにか、あったの?」
 この五日間の間に?
 クラウディアは首を傾げる。自分の知らないうちに、片翼の心に変化が起きていた――そのことに対する、寂しさと焦燥と。嫉妬のようなものが、古代紫の瞳の奥に揺らめいている。アグネイヤは、「うん」と小さく頷いてから。
「あのね」
 口を開きかけた。
 と、そこに。彼女の言葉を遮るように、扉を叩く音が響いた。
「妃殿下、お目覚めですか?」
 遠慮がちな声が遅れて聞こえる。小間使いがやってきたのだ。クラウディアの代わりにアグネイヤが答え、その間にクラウディアは手早く衣装を纏う。すると絶妙の呼吸でアグネイヤは衝立の陰に滑り込み、クラウディアは扉の前に立って、小間使いを迎え入れた。
「朝食の準備、お願いね」
 かしこまりました、と彼女は礼をし、寝台を整えるべく衝立へと歩み寄る。その間にクラウディアはするりと扉の隙間から抜け出し、アグネイヤは音もなくクラウディアのいた位置へと足を運んだ。
「果物は、いかが致しましょう?」
 果汁にするか、それとも火を通したものにするか。双子の入れ替わりに気付かぬ小間使いはアグネイヤに尋ねてくる。アグネイヤは「そうね」と小首をかしげ、
「任せるわ。おなかが減ったの。なんでもいいから、いつもの倍、用意してくれるかしら?」
 さらりと言い放つ。小間使いは何の違和感も覚えずに、再び丁寧に一礼すると部屋を出て行った。
 途中、先に廊下に出た本物の王太子妃殿下と鉢合わせしなければよいのだが、と考えて。アグネイヤは少しおかしくなった。

 ――なにか、あったの?

 不思議そうに尋ねる、片翼の言葉が耳に蘇る。
 決断を迫ったのは、片翼自身であるのに。彼女は理由を問うのだろうか。
(あなたが、いるからだよ)
 マリサ、アグネイヤ、クラウディア――呼ぶ名は変われど、そこに存在する魂は同じもの。彼女を失うことは出来ない。と同時に。自分を失うことも出来ない。双子は、決して二人で一人ではないのだ。ただ、時を同じく生まれてきただけである。けれども、その備える魂は普通の兄弟よりも近しく。片方を失っては生きてはいけない。
 アグネイヤがそうであるならば、クラウディアもそれは当然同じこと。
 アグネイヤを失ったクラウディアは、どうなるのだろう。強い魂の持ち主だから、一人で生きて行けると。一人でも大丈夫だとそう信じていたのに。

 ――馬鹿なことを考えていたでしょう? アグネイヤ。私と入れ替わって、ここで死ぬなんてこと。そんなことをしても、何もならないわよ。それがわからないほど、あなたは子供じゃないと思うけれど?

 あの言葉。諭すように言った、あの言葉。他者なれば、その真意はわからぬだろう。

 ――いい加減覚悟を決めなさいアグネイヤ。いいこと、わたしはもう、フィラティノアの王太子妃なのよ? もう一生、アルメニアには戻らないのよ?

 それらの言葉の裏に、寂しさを告げる絶叫が潜んでいたのに気付かぬわけがなかった。どうしてそう、あなたは素直ではないのだと、横っ面を張り倒したくなるほど。クラウディアは人に心を見せることを嫌う。素直に甘えることを厭う。思い切り泣き叫んでくれれば、いっそ小気味よかったのに。
 片翼である自分にすら、仮面を付けようとする彼女を憎いと思うと同時に、愛おしく思う。
 繋がった心であるからこそ、隠したいのだ。それを、知られたくないのだ。
 今でも、自分は皇帝には相応しくないと思っている。素直に心を吐露しすぎる自分は、魑魅魍魎の跋扈する宮廷の政治劇には向かない。

 ――サリカは学者、マリサは武芸者にでもなればいいのだ。お前たちに、政治は向いていない。

 嫌味でも罵声でもなく。そのようなことを言ったのは、剣の師であった。彼は、その頃から見抜いていたのかもしれない。双子が共に、生まれるべき場所を間違ったことを。
 それでも、クラウディアは――あのころは、マリサであり、アグネイヤであったが――まだ、権謀術数に長けているほうだった。ゆえに、母后や重臣たちからの期待も寄せられていた。
 自分が、クラウディアとして死ねば。少しは周囲の人々も自分を見直してくれるのではないか。要らぬ皇女、生贄の姫としてだけ存在していた自分を、哀れんでくれるのではないか。あれは、思えばあてつけだったのかもしれない。
 クラウディアの傍らで、彼女を見ながら色々と考えた結果。不完全ではあるが、結論は出た。本当は、もっと早く出ていたのかもしれない。ただ、自分はクラウディアに逢いたかっただけなのではないか。彼女の顔を見て、彼女の口から、聞きたいことがあっただけなのではないか。

 そう。――片翼が、皇帝の地位を欲しているかどうか。


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