AgneiyaIV
第一章 さすらいの皇女 
8.双子(3)


 見知った扉の前に立つと、ルーラは二、三度扉を叩いた。中から誰何の声が上がり、ルーラが答えると、薄く扉が開いて小柄な小間使いが顔を覗かせる。
「妃殿下は? もう、お休みになられたか?」
「いえ、まだです」
 彼女がかぶりを振ると、ルーラは頷き。付き添いの交代を告げた。
「おまえは、休むといい」
 言って、俯いたアグネイヤを部屋の中に押し込む。小間使いは、戸惑いながらも頷き、「おやすみなさいませ」とクラウディアとルーラに礼をしてから退出した。
「貴様は、表に出ていて貰おうか」
 ひとり追い出されそうになったジェリオは、足で扉を押さえて、ちらりと室内に視線を向ける。
「やなこった」
 俺は、皇女の命の恩人だ、と。彼が声高に叫べば。
「そう、おかげで助かったわ」
 ややか細いが。クラウディアの声が聞こえた。アグネイヤは、反射的に顔を上げる。部屋の奥、衝立の向こう。そこに、焦がれて止まぬ片翼がいるのだ。
「クラウディア?」
 おそるおそるその名を呼べば。
「久しぶりね」
 屈託ない返事がかえってきた。
「クラウディア」
 思わず駆け寄るアグネイヤを取り押さえようと、ルーラが手を伸ばしたが。
「再会を邪魔するなよ。野暮な女だな、てめぇも」
 ジェリオの剣に阻まれる。抜き身の剣に表情を険しくするルーラであったが。仕方ない、といった表情でその場に留まった。アグネイヤはその隙に、衝立の裏へと回りこむ。大人数人はゆうに横たわれるであろう豪奢な寝台に、小柄な少女がぽつんと座っていた。いな、正確には布団(クッション)を重ねた上に身体を委ねているのだが――そこにアグネイヤは近づいて。
「クラウ――アグネイヤ」
 片翼の、正式なる名を呼んで。皇帝に対する臣下の礼をとった。それを見下ろしたクラウディアは、
「馬鹿ね」
 くすりと笑い。とん、と布団の端を叩く。そこに座れというのだろう。
「前にも、こんなことあったわよね?」
 十四歳の、クラウディアが刺客に襲われたときのことを言っているのだろう。あのときもアグネイヤは力なく横たわる片翼の側につききりで看病をしていた。枕もとに腰を降ろし、片翼の手を握り締めて。今にも泣きそうな顔で、神の名を片端から唱えていた。そのことを思い出したのだろう。クラウディアは笑みを浮かべたまま、アグネイヤに手を差し伸べる。
「元気だった? ――って、元気そうね。よかった」
 アグネイヤは、こくりと頷く。頷いて、片翼の指示通り彼女の傍らに腰を降ろした。僅かに寝台が軋み、均衡を失ったからだが、クラウディアのほうに倒れこむ。クラウディアは、片手でアグネイヤの身体を受け止めた。
「少し、痩せた?」
「アグネイヤこそ。怪我、大丈夫? 痛い?」
 肩から吊るされた左手に、つい目が行ってしまう。片翼は左利きだった。ジェリオと同じく。利き腕を封じられていては、不自由だろう。アグネイヤは彼女の右腕をしっかりと握り、それから傷に障らぬようそっとその身体を抱きしめる。
 生きているのだ。片翼は。生きて、いま、自分の腕の中にいる。それだけで、満足だった。アグネイヤは片翼の頬に自身のそれを押し付け、彼女の温もりを確かめる。
「クラウディアよ。何度言ったら解かるの? アグネイヤは、あなたでしょう?」
 咎めるような片翼の言葉に、アグネイヤは視線を揺らす。だって、と紡ごうとした言葉は、クラウディアによって塞がれた。傷のせいか熱を帯びた人差し指が、それ以上の発言は許さぬとばかりに唇を押さえている。間近に迫る古代紫の瞳が、神話の妖婦のそれ如く甘く輝いていた。
「馬鹿なことを考えていたでしょう? アグネイヤ。私と入れ替わって、ここで死ぬなんてこと。そんなことをしても、何もならないわよ。それがわからないほど、あなたは子供じゃないと思うけれど?」
 片翼は、やはり解かっていたのだ。アグネイヤの気持ちを。アグネイヤは、優しく諭すような片翼の言葉に、頷くこともかぶりを振ることも出来ず。ただ、じっと彼女を目を見ているだけだった。彼女には、かなわない。昔も、今も。そして、これからも。
「ルーラ、いるのでしょう? 聞こえていて?」
 ふと、自分以外の者の名を呼ばれて、アグネイヤはびくりと身を震わせた。そうだ、この部屋には、クラウディアと自分だけではない。衝立の向こうに、ルーラとジェリオがいるのだ。
「ここに。妃殿下」
 低いルーラの声が聞こえる。彼女の声の中に、男性を感じるのは、気のせいなのだろうか。あの、肌に感じた逞しい腕。あれは、女性のそれではない。厚い胸も、女性らしいふくよかさは欠片もなかった。あの身体は、ジェリオと同じ。獣の性を持つ器だ。そんな人物がクラウディアの側にいる。けれども片翼は、それに気付いていないのか。
 王太子の側室、とされている女性――まさか彼女が、と思ったが。アグネイヤはあえて自身の想像を否定する。
「ディグルには、ここが気に入ったから、もう暫くいると言っておいて頂戴」
「御意」
「それから、私の身の回りの世話は、この子にやってもらうわ。そう、ひとりで起き上がれるようになるまで」
 さらりと危険なことを言うクラウディアに、ルーラは絶句したらしい。
「妃殿下、それは」
 と慌てる彼女をよそに、
「二、三日程度よ。いいでしょう? 我侭ついでよ。それから、ジェリオ」
 刺客の名を、恐れもせずに呼び捨てて。クラウディアは、返事を待たずに言葉を続ける。
「あなたも、少し逗留していて頂戴。私の『命の恩人』なんだから。多少大きな顔していいわよ。この子も、敵地に一人じゃ心細いでしょうし。アルメニア皇女の騎士として、この子の護衛頼むわよ」
 どこまでも大胆な王太子妃の発言に、一同が絶句したのは言うまでもない。


「大胆なのか、馬鹿なのか。いまいちよくわからない皇女さんだよ」
 それが、ジェリオのクラウディアに対する評価であった。けれども、本気でそう思っているのではないことは、容易に想像がつく。ジェリオは、怯えている。クラウディアの存在に。彼は、恐れているのだ。あの幼い王太子妃を。
 それを感じ取れるだけに、アグネイヤの心境は複雑であった。
 恐れているもの、畏怖の対象となるものに、ジェリオは決して情欲を抱くことはない。それははっきりしている。だからこそ、その面に対する懸念は不必要であった。あった、のだが。
 アグネイヤに対しては、相変わらずちょっかいを出してくる。それが、ルーラの前であろうと、クラウディアが側にいようと。よろけた彼女を支えるふりをして胸に触れたり、尻を撫でたり。あからさまに行なうのだ。それが、アグネイヤに対する所有権を主張していることにも繋がるのか。

 ――クラウディア暗殺の報酬として、身体を与える。

 その盟約は、今は反故になったに等しい。けれども、ジェリオの中には、盟約の後半、報酬の部分だけが生きているのではないか。隙あらば、機会あらば、遠慮なくアグネイヤを自由にする、と。
「よく、あんなことさせておくわね」
 あんなこと、とは嫌がらせじみたいかがわしい行為のことだろう。
 溜息混じりに呟く片翼に、アグネイヤは顔を赤らめるだけで答えることは出来なかった。無論、拒絶しようと思えば幾らでも出来る。ジェリオは客分として扱われてはいるが、それは彼が紳士的に振舞っている間だけであって。もしも、侍女や小間使いの娘によからぬことをしようとするのであれば、即刻追い出すことになっている。――なっているのだ。アグネイヤの中では。
「好きなの?」
 不意打ちをくらって、アグネイヤは思わず目を見開いた。クラウディアはアグネイヤの反応を楽しむように、顔を覗き込み、小悪魔的な笑みを浮かべる。アグネイヤと瓜二つの顔に。
 早朝、まだ彼女たち以外は目覚めていないであろう時刻、同じ寝台で床を共にしていた双子は、鏡の向こうとこちら側の如く、全く同じ姿勢で互いを見つめていた。ただひとつ異なるのは、その顔に浮かぶ表情のみ。困惑気味のアグネイヤと、余裕を秘めたクラウディア。姉妹は互いの心を探るように、視線を交わしている。
「好意を持っているの? あの殺し屋に?」
 殺し屋、という言葉に胸が震えた。
 ――殺し屋。暗殺者なのだ、ジェリオは。一度ならず二度までも、アグネイヤの命を狙って近づいた。そして、その男に、自分は……。
「好きじゃない、と思う」
 寧ろ、怖い。あの若い身体に秘められた、獣の(さが)が、恐ろしい。いつ牙を剥かれるか、考えるだけで身が竦んでしまう。情けないことに。それは、初めての口付けを奪われたからなのか。それとも、肌の許しがたい部分まで触れられたからなのか。わからないけれども。
「じゃあ、なんで? なんで黙っているの? 一緒にいるの?」
「なんで、って」
 言葉に詰まるアグネイヤ。その額を、クラウディアは指先で突付いて素早く身を起こした。もう、そこまで回復したのか――不安げに視線を揺らすアグネイヤの顔を覗き込むようにして
「つまらない約束をしたなら、破棄しなさい」
 巫女の告げる託宣の如く。厳かな声で彼女は言う。
 途端、心臓を鷲掴みにされたような衝撃が走った。気付かれている。クラウディアには、全て気付かれている。ジェリオとどのような約束を交わしたのか。
「アグネイヤ」
 真の名で、片翼を呼ぶ。と、常の如く唇を押さえられた。違う、とばかりに緩やかにかぶりを振る片翼は、態度とは異なる厳しい目で彼女を睨みつける。
「アグネイヤは、あなた。これから先も、その名を背負っていくのよ。ずっとずっと。死ぬまで」
「でも」
「それはあなたが決めたことなんだから。今更、逃げるのは無しだと思うけど? そこまであなたは、お馬鹿さんだったの? それとも何の覚悟もなしにいい加減なことを口走って、周りが右往左往するところを見たいだけなの?」
「違う」
「でしょ? だったら、いい加減覚悟を決めなさいアグネイヤ。いいこと、わたしはもう、フィラティノアの王太子妃なのよ? もう一生、アルメニアには戻らないのよ?」
 それは、解かっている。
 先日の、屋敷の人々の対応で嫌というほど思い知らされた。『クラウディア』は、フィラティノアのひとなのだ。もう、アルメニア皇女ではない。あの気難しいルーラですら、クラウディアのことを認めている。王太子の側室、片腕と称されるあの女性がクラウディアを正妃と認めたのだ。アグネイヤが嫁いでいたとしても、ルーラも、周辺の人々も、ここまで彼女を慕うことはないだろう。その人々から、『クラウディア』を取り上げるのか。
 この期に及んで、敵国に情を移したのかと母后であれば叱咤するに違いない。片翼を置いて遠乗りに出かけたあの日。クラウディアが刺客の刃を受けたあの日のように。烈火のごとく怒るだろう。
 なぜ、斬られたのがおまえではないのだ?
 あの目は、あの茜の瞳はそう言っている。母后も叔父も叔母も、重臣たちも。皆、片翼こそ皇帝に相応しき器と考えていたのだ。その大切な皇太子を、生命の危機にさらした――それだけで、アグネイヤは許しがたい罪を犯しているのである。
「どうするか、ゆっくり考えなさい。ここにいる間に」
 片翼の言葉に、頷くしかなかった。
 逃げることも進むことも、どちらに踏み出すことも出来ずにいる自分。そんな自分を、片翼は軽蔑しているのだろうか。
 俯いたまま身を起こし、傍らの台にかけてあった衣装を手にすると。その手をやんわりと片翼が包んできた。
「どれだけ辛くても、悩んでも。想いは一人のものじゃないのよ? わかっていて?」
 アグネイヤは頷いた。こくりと、小さく。
 クラウディアはそんな彼女の頬に優しく口付けをする。
「殻に篭るのは、逃げでしかないのよ。――ひとの犠牲の上に成り立つ幸せは、幸せじゃないわ」
「アグネイヤ――」
「でしょ? 『サリカ』?」
 サリカ、その名を呼ばれてアグネイヤは思わず姿勢を正した。今はもう、呼ばれることのなくなった名前。幼き頃、ふたりがアグネイヤでもクラウディアでもなかったころ、彼女に与えられた通称だった。あの日を境に、不要のものとして捨てられてしまった名ではあったが。いま、ここでこうして。片翼の唇から紡がれるとその名がとても愛おしかった。
「どちらの名も嫌なら、サリカ。私のことも、マリサ、と。呼んでもいいのよ?」
 サリカとマリサ。ともに、ミアルシァの名である。サリカは星の精霊で、宵の明星を指すのだと母后が教えてくれた。対して、マリサは。月のことだと言われている。
 皮肉なことに、宵の明星の通り名を与えられた娘のほうが、アグネイヤ――明けの明星となってしまった。
「マリサ」
 呼びかけに、クラウディアは頷いた。
「今だけでも、戻りましょうよ。サリカと、マリサに。そして、ゆっくり考えましょう。今後のことを」


NEXT ● BACK ● TOP ● INDEX
Copyright(C)Lua Cheia
●投票● お気に召しましたら、ぽちっとお願いいたします
ネット小説ランキング>【登録した部門】>アグネイヤIV
ほんなびさん投票


inserted by FC2 system