AgneiyaIV
第一章 さすらいの皇女 
8.双子(2)


 地下へと続く階段は、薄暗く。あかりすら灯ってはいなかった。台所の脇、食料庫として使用されているであろう物置を覗けば、その端に酒蔵への通路が眠っていた。つい先ほどまでそこではせわしく使用人たちが働いていたのだろう。人の気配がまだ残っている。彼らはクラウディアが負傷したと聞いて、とりあえず気付けとなる酒を用意したり湯を沸かしたりと働いて。その成果を階上の彼女の部屋へと届けに言ったあとに違いない。
 けれどもそうなると、ここにアグネイヤがとらわれていた場合。誰か使用人がその姿を見ることになる。彼女を捕らえたのがあのルナリアだとしたら。そんな初歩的な失態を犯すだろうか。
(違うな)
 あえて、そういった場所に獲物を隠す――狡猾なるフィラティノア人は、それくらいやりかねない。
 ここで躊躇している暇は無く。ジェリオは意を決して階段を下りた。足音を消すように一歩一歩に神経を配る。と、程なく目の前が開け、闇に慣れた目には眩しいくらいの角灯の光が飛び込んできた。
「……っ」
 思わず一瞬手で顔を覆ってから、ジェリオは息を止めて内部の様子を探る。酒蔵だけあって、目に映るのは全て樽――葡萄酒の樽ばかりであるが。その中にひとつ、果実をいれるための木箱を見つけ、ジェリオはそこに近づいた。
 大きさ的に、ちょうど小柄な少女が一人はいるくらいの箱である。鍵のかわりか、箱の上には酒樽がひとつ、乗せられていた。これならば、中で気付いて暴れたとしても容易に脱出は図れぬだろう。そう考えて。ジェリオは酒樽に手をかけた。力を込めてそれを持ち上げれば、待っていたかのようにカタリと蓋が動いた。
「皇女さん?」
 呼びかけに、しかし答えは無く。蓋の隙間からちらりと顔を覗かせたのは、小さな鼠であった。それは真っ黒い瞳でジェリオを見上げると、ちゅうちゅう鳴きながら彼の脇をすり抜けていく。拍子抜けした彼は乱暴に蓋を蹴り上げた。
「皇女さん」
 箱の中には、果たして少女が一人横たわっていた。部屋着どころか薄物の下着一枚というあられもない姿で、芝居小屋の奇術師の助手宜しく両手を後ろ手に縛られて。ご丁寧に猿轡までかまされている。彼女は身体を窮屈そうに丸めて、押し込められていたようだが。気を失っているのか、ジェリオの声に反応を示さない。
 まったく世話が焼ける、とひとりごちながら。彼はアグネイヤの身体を外に運び出した。無抵抗の身体はジェリオの腕にすっぽりと納まり、無防備にその滑らかな首筋をさらしている。そこに先程彼自身がつけた愛撫の痕を見つけて、ジェリオは苦笑を口元に昇らせた。
 あのとき、彼女を抱いていれば。いま、二人はここにはいなかったのかもしれない。
 愛撫に反応しながらも、アグネイヤが強く心でその名を呼んでいた、片翼の皇女。クラウディアに逢うこともなかった。
「アグネイヤ、か」
 ジェリオの愛撫に身をゆだねながら、彼女は確かにそう言った。アグネイヤ――紛れも無い、それは男子の名である。行為の最中に別の男性の名を呼ばれて嬉しい男は、まずいない。彼女の言う『アグネイヤ』が男性ではなく実は女性であるとわかっていてさえ、やはり、気分のよいものではなかった。
「何回萎えさせてくれるんだよ、おまえさんは」
 猿轡と縛めを解き、そっと彼女の耳元に囁きかける。抱き上げた身体はクラウディアよりも軽く、華奢だった。彼の腕力であれば、このまま彼女を抱えての逃走もそれほど苦ではないのだが。追っ手が迫ったときに両手が塞がっていては分が悪い。
「起きろよ、皇女さん」
 頬を叩くが、まるで反応は無かった。揺すっても声をかけても、硬く閉じられた瞼が開く様子は無い。ジェリオは一度彼女を床に降ろし、手近な酒樽の蓋を開けると、そこに手を入れて酒を汲み出す。熟成した、濃厚な香りが鼻をつくなか、彼は一口それを口に含み、再びアグネイヤを抱えあげる。
「……」
 静かに唇を重ね、喉の奥に酒を流し込んだ。ごくり、と柔らかな喉が音を立て、アグネイヤは酒を飲み下す。と、夢から覚めた子供のように、ゆっくりと瞼が開き。古代紫の瞳が、ジェリオを捉える。
「僕、は……」
 自分の状況がまだ飲み込めていないのか。朝靄に煙る大気のように、紫の視線が揺れる。
「さっさと起きろよ、皇女さん。こんなとこで悠長におねんねしている時間はねぇんだ」
 軽く耳朶に歯を立てると、アグネイヤはびくりと身を震わせた。それから漸くはっきりと意識を取り戻したのか。眉を寄せながら、かぶりを振ってジェリオの身体を押しのける。
「離せ」
「って、随分な言い草だな。またまた危機を救ってやったのによ」
 苦笑と共に立ち上がり、彼女を床に降ろす。と、意識を回復したばかりの皇女は頼りなくよろめいた。その身体を支えようと手を伸ばしたが。
「触るな」
 ぴしりと手を叩かれる。
「ご挨拶だね。感謝の気持ちに、口付けくらい寄越してもいいんじゃねぇのか?」
 嫌味を言えば、アグネイヤは露骨に顔をしかめた。先程は、ジェリオに身体を許すとまで言っていたのに。少し離れていただけでこれだ。だから、貴族は嫌いだった。自分勝手な気まぐれで、簡単に人を弄ぶ。この娘も、所詮王族の出。鼻持ちならぬ貴族の娘なのだ。野性的な愛撫を欲しているくせに、一方で彼らを軽蔑している。
「歩けるんなら、さっさとずらかるぞ。ぐずぐずしていると、ルナリアに気付かれる」
「ルナリア」
 その名にアグネイヤは反応した。彼女は何かに怯えるように自身の身体を抱きしめ、目を見開く。
「彼女は、どこに?」
「もう一人の皇女さんとこだ。今のうちなら、逃げられる」
「逃げる?」
 逃げる、と。アグネイヤは口の中で繰り返した。彼女はふと顔を上げ、何かを追うように虚空に視線を馳せた。古代紫の瞳が、神がかったように冷ややかで無機質な光を放つ。しばしの間そうしていたのだが、彼女は何に気付いたのか。悔しげに口元を歪め、再びジェリオに視線を戻す。
「クラウディアは? クラウディアは、無事なのか?」
 傷を負っているはずだと呟く彼女に、ジェリオは思わず奇異の目を向けた。つい先刻まで失神していたアグネイヤが、なぜそのことを知っているのだろう。クラウディアが帰還したことも、負傷していることも。知らないはずであるが。
「さあな。口だけは達者だったぜ? あんたと違って」
 ニヤリと口元を歪めると、アグネイヤは凄まじい形相で彼を睨みつけた。まさか、とその唇が僅かに震えて。
「まさか、クラウディアを?」
 殺したのか――そう、問いかけているようであった。
「だったら? だったら、どうする?」
「ジェリオ」
「依頼通り、任務は遂行した。フィラティノア王太子妃は死んで、アルメニア次期皇帝が生き残った。その場合、どうするんだっけか。え? 皇女さん」
「ジェリオ、貴様」
 アグネイヤの拳が震える。ジェリオに平手を食らわせようと振り上げた右手。その手首を、掴むものがあった。
「……っ?」
「おまえは」
 ジェリオとアグネイヤは、同時に声を上げる。
 この部屋には、別の入り口もあったのか。いつの間かに現れた細身の影がアグネイヤの背後に回り。その細首を締め上げつつ――右手を捕らえていたのである。
「下らぬ茶番を」
 いつまで続けるつもりだと、ルナリア――ルーラは吐き捨てる。彼女の腕の中で、アグネイヤは毒気を抜かれたように大きく目を見開き、小刻みに震えていた。
「アルメニア皇女、アグネイヤ殿下。わが王太子妃殿下がお呼びだ。同行願おうか」
 低い声が、何かの宣告のように響き渡る。その不吉なる誘いに怯えているのか。それとも、別の何かを感じているのだろうか。アグネイヤは、ルーラの言葉を否定も肯定もしなかった。



 裏口から連れ出されたアグネイヤは、ルーラの指示するままに近くの小屋へと足を踏み入れた。そこに置かれているのは、侍女専用のお仕着せである。これを着ろというのか、とルーラを振り仰げば、彼女はそうだとばかりに頷く。
「そのナリでは、妃殿下の前にお連れすることは出来ない」
 下着姿のことを言っているのだろう。衣裳を剥ぎ取ったのは誰だと言いたかったが、アグネイヤはあえて口をつぐんだ。不承不承、彼女は衣服に袖を通し始める。それを入り口から見つめるルーラの視線が、何処か薄ら寒く思えた。
「扉を」
 閉めてほしいという前に、ルーラが背を向ける。その向こうにちらりとジェリオの姿が見えたが。彼は特にアグネイヤの着替えに興味を示した様子はなく。憮然とした表情でルーラを見つめている。彼らは知り合いのようであったが、ルーラはジェリオに関してはまるで無関心を装っていた。
 アグネイヤは手早く侍女の服を身につけると、髪を整え、ルーラに声をかけた。ルーラはどこから持ち出したのか、侍女の被る帽子を差し出し、アグネイヤに被れという。
「その顔をさらされては、都合が悪い」
 それはそうだろう。王太子妃と瓜二つの少女が離宮内に存在すると知れたら、混乱が起きる。
 アグネイヤは言われるまま帽子を深く被った。ルーラはそれでよい、とばかりに頷くと。ジェリオに視線を向ける。
「暫く、任務は忘れてもらおうか」
 威圧的な声に、ジェリオは眉を動かす。不機嫌さを微塵も隠そうともしない彼の態度は、このときばかりは好感が持てた。アグネイヤが外に踏み出すと、ルーラは顎をしゃくった。ついて来い、というのだろう。アグネイヤはなるべく顔を伏せるようにして、ルーラの後に従った。ジェリオはその脇を、腕を組んだまま歩いている。彼はルーラの後姿を見つめて
「相変わらずだな。高飛車で、鼻持ちならねえクソアマだ」
 小声ではあるが、罵声を浴びせる。ルーラはそれに対して何の感情も抱かぬのか。振り返ることも足を止めることもなく。屋敷内を進んだ。途中、数人の侍女や小間使い、使用人とすれ違ったが、誰もアグネイヤを気に留めるものはなかった。負傷した王太子妃を連れ帰った『英雄』が傍らにいるせいか。皆、口々にジェリオに礼を述べ、頭を下げている。まるで、自身の身内を救った恩人であるかのように。
「皇女さんは、気に入られてるんだな」
 ぼそりとジェリオが呟く。アグネイヤは思わず瞠目した。

 ――認めぬ。お前など。おまえは、わが主人の后には、相応しくない。

 ルーラの台詞が、脳内に木魂する。あれは、ルーラだけの思いではない。クラウディアに関わる全ての人々の、総意なのだ。クラウディアは、愛されている。必要とされている。アルメニアにも、フィラティノアにも。
(あ……)
 それを思うと、口元が震えた。視界が、滲んだ。
 明るく聡明なクラウディア――否、アグネイヤ。アルメニアの太陽。彼女を憎むことが出来たなら、どれほど楽だったか。彼女がいる限り、自分は皇帝にも王太子妃にもなれない。彼女がいなければ、自分は――なれるのだろうか。彼女の代わりに。
 アグネイヤは、かぶりを振った。なれない。自分では、彼女の代わりにはなれない。
 初めから、自分がこの国にやってきて。それから自害して果てればよかったのだ。それが怖かったから。皇帝になるなど。アグネイヤになる、など。言ってしまったのではないか。
(弱虫)
 今更ながら、自身を呪いたくなる。これから、どんな顔をして片翼に逢えばよいのだ。
 片翼としてではなく、一国の皇女としてではなく。使用人の姿で、片翼の前に立つ自分は、どこまでも惨めな存在なのだと。押しつぶされそうになる心を必死に守るように、彼女は自身の身体を抱きしめた。


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