AgneiyaIV
第一章 さすらいの皇女 
6.姉妹(4)


「あんた、何言っているかわかってんのか?」
 信じられないものを見た、と言った表情でジェリオが問いかける。呟きに似たそれは、平素の彼からは想像もつかぬ、まだ異性との交渉を知らないいたいけな少年の言葉のようであった。ジェリオは掌の中で震えるアグネイヤの乳房を、壊れ物の如く包みながら。
「抱かせてくれる、ってことか? 皇女さん」
 アグネイヤの言葉を辿る。
 彼女は頷いた。そのかわり、と言葉を続けて。
「仕事を頼みたい。報酬が、この身体だ。――不服か?」
「仕事?」
 ジェリオの眉が動く。彼に仕事の依頼といえば、それはとりもなおさず何者かの暗殺を意味している。アグネイヤの暗殺を依頼されているジェリオが、逆に彼女の依頼を受けるというのも奇異なる話だが。
「エルディン・ロウへの依頼か?」
「どちらでもいい。個人的な依頼のほうが、報酬も多く手に入るだろう?」
「あんたの身体のほかに何かあるのか?」
「なにがいい?」
 逆に、アグネイヤが問いかける。今現在、彼女が持ち合わせているのは、旅費として持ち出した金子と装飾品だけである。それだけでもかなりの価値はあるのだが。悲しいかなアグネイヤには暗殺依頼の相場がわからない。大陸の狼といわれる暗殺者集団に、個人的とは言えどれほどの報酬を支払えばよいのか。
 アンディルエの巫女への報酬が、オルトルートの指輪ひとつで足りたのか、それも今となっては確かめる術もない。
「爵位と領土くらいなら、用意することも出来るが?」
 そんなものだろうか、と首を傾げるアグネイヤを、ジェリオは笑った。乳房を掴む手に力が入り、彼女は顔をしかめる。
「そんなものは、いらない」
「ならば、なにを?」
 応えはなかった。
 胸から離れた手が、ゆっくりと顎を持ち上げる。身を硬くした刹那、唇を奪われた。やわらかくやさしく、啄ばむように吸われたあと。深く唇を重ねられ、舌を差し込まれた。
「……っ」
 本能的に彼を押しのけようとした手を握りこまれ、逆に強く抱き寄せられる。腰に回された手が、器用に帯を解く気配を感じて、アグネイヤは更に身じろぎした。
「いや」
 かろうじて声を上げるが、それも一瞬で奪われる。徐々に激しさを増す口付けが、脳を痺れさせ――かくりと膝を折ってしまう。それを狙っていたのか。ジェリオはアグネイヤの身体を抱き上げ、寝台の上に横たえた。解かれた帯が宙を舞い、押さえを失った上衣が肌蹴る。薄暗い部屋のなか、陶磁器を思わせる滑らかな首筋がジェリオを誘うようにほの白く光っていた。
 胸に巻かれた布を外そうと、ジェリオの手が伸びる。それを押し留めて、アグネイヤはかぶりを振った。
「待って。まだ、まだ――駄目」
 少女らしい懇願は、逆効果だった。一度火のついた欲望は、簡単に納まるものではない。しかも、今回はアグネイヤのほうから誘ったのだ――誘ったことになる。
 夕暮れ時、部屋には若い男女二人きり。この状態で、「抱いてもいい」と口にすれば。どんなことが起こるか。
「怖いのか?」
 彼女の上に覆いかぶさる形で、ジェリオが問いかける。
「優しくしてやるよ。乱暴なことはしない」
 首筋に、彼の口付けが落とされる。言葉を偽らぬ、もぎたての果実を味わうに等しい、繊細な愛撫。時折強く吸っては、自身の存在を強調するかのように肌に刻印を残す。
「まだ、まだだ、ジェリオ」
 彼の腕から逃れんと、アグネイヤは身じろぎする。それを恥じらいととったのか、それとも恐怖と思ったか。愛撫が更に濃厚になる。外気にさらされた肌を守るかの如くぴったりと掌を押し付け、指先と掌でアグネイヤの弱い部分を探っていくジェリオは、彼女の真意に気付かない。いな、気付いていたとしてもこの好機を逃す気はないだろう。徐々に色づく肌を味わいながら、彼はアグネイヤの意識も飛ばそうと考えたのか。再び唇を重ねようとしてくる。
「まだ、交渉中だ。誰を狙うかも、僕は言っていない」
 近づいた褐色の瞳に、必死に訴えてはみるものの。
「寝物語で聞いてやる」
 話は後だ、と。唇を塞がれる。間をおかずに差し込まれた舌がアグネイヤのそれを絡めとり、表面を撫でる滑らかな動きで抵抗を封じてしまう。
「……っ」
 隙を突いて舌を噛み切ろうとしていたアグネイヤの目論みは見事に崩れ、逆に彼の術中に嵌ってしまった。じんわりと細波の如く広がる痺れに、アグネイヤは知らずジェリオの首に腕を回した。甘い快楽――理性が唇から溶けていく感覚に、身を委ねそうになる。なにか、薬でも飲まされたのだろうか。そう思いたくなる様な、不可解な熱が、体の奥から生まれてくる。
 このまま。彼に与えられる快楽に身を任せれば。
 ひとときでも、忘れることが出来るだろうか。
(クラウディア)
 片翼の、傷ついた瞳を見ても、心が揺らぐことがないだろうか。
(クラウディア)
 ジェリオに縋りつきながら、脳裏をよぎるのは姉の姿。姉、となった片翼の姿。この世で誰よりも大切な、誰よりも失いたくない唯一無二の存在。
「あ……」
 彼女は、心の中で片翼の名を幾度も呼んだ。
(アグネイヤ)
 と。
「――誰のことを考えている?」
 いつのまにか、愛撫の手は止められていた。ほぼ一糸纏わぬ姿となったジェリオが、同じ姿のアグネイヤを見下ろしている。彼は不機嫌に歪んだ顔をアグネイヤに向けて、もう一度同じ質問を繰り返す。
「誰のことを考えている?」
「なにも」
 心を読まれたのか。それとも、あの呟きを聞かれたのか。アグネイヤは小さくかぶりを振った。なんでもない、と。
「嘘つくんじゃねぇよ」
 ジェリオは即座に彼女の言葉を否定する。
「あんたの心は空っぽだ。身体は反応してもな」
 興が冷めた、そういってジェリオは身を起こす。アグネイヤは無言で彼の動きを眼で追った。彼は脱ぎ捨てた服を拾い上げ、さっさと身繕いを始める。アグネイヤにも彼女の服を投げてよこし、早く着ろと顎をしゃくる。彼女はそれを抱きしめたまま、強く唇を噛んだ。
「先に、話だけ聞いてやる。誰を殺るんだって?」
 身なりを整えたジェリオは、足で椅子を引き寄せその上に馬乗りになる。椅子の背にだらしなく顎を乗せ、挑むように褐色の瞳をこちらに向けた。アグネイヤはひとつ息をついてから。
「フィラティノア王太子妃」
 細い声で答えた。ジェリオは予想をしていたのか。驚きもせず、フンと鼻を鳴らす。
「その報酬が、あんたの体か。俺は、アルメニア皇帝の男妾ってわけか」
 下世話な言葉に、アグネイヤは眉をひそめる。違う、と否定しても。ジェリオは口を噤まなかった。
「皇帝陛下も人間だ。発情もするだろう。こっそり誰かを呼び込んで、快楽に浸りたいのも解からない話じゃないと思うぜ」
「違う!」
 そういう意味で取引を申し出たわけではない。確かに彼の愛撫に反応はしたが。それがなければいられないほど、渇望しているわけではない。
「確かにな。皇帝陛下のご寵愛を受けていれば、なんでもし放題だ。俺は別に領地も爵位も必要ない。もともと表に出られるような素性でもない。日陰の身ってことで、喜んであんたの愛人になってもやるさ」
「ジェリオ」
「そのかわり、あんたの身体。俺好みに開発させてもらうけどな」
 びくり、と肩が震えた。アグネイヤは自身の身体を抱きしめる。暗殺の報酬に、自らの身体を提供することにした――その意味の恐ろしさを、今改めて彼女は実感したのだ。
「一度だけ、とは言わなかったよな? 皇女さん。こっちも依頼主を裏切るようなことをするんだ。相応の報いを貰わないと、割に合わない」
 つまり。生涯アグネイヤはジェリオの快楽の道具となるわけだ。
「前にあんたとした約束。当分殺さない、皇帝として即位したら殺す。覚えているか?」
「……」
「そいつは、破棄だ。俺は、あんたを殺さない。かわりに、フィラティノア王太子妃を殺す。そのあと、あんたを俺のものにする。一生、飽きるまでな」
「そんな」
 アグネイヤは青ざめた。それはできない、と激しくかぶりを振る。アルメニア皇帝を、彼の玩具にすることは出来ない。それだけは、許されない。
「今更、いやだはなしだぜ? 皇女さん。契約はここで成立だ」
「ジェリオ」
「それとも、なにか? アルメニア皇帝を抱くことに、不都合があるのか?」
 冷ややかなる問いかけ。
 ジェリオは、気付いているのだろうか。気付いていて、アグネイヤを苦しめようとするのか。彼女は強く握った拳を、寝台に叩きつけた。その様子を見ていたジェリオは、また鼻を鳴らす。自分には知ったことではないと、あからさまに馬鹿にした態度が腹立たしい。
「ってことで、ちょっと出かけてくるわ。帰りは朝になると思うけどな」
 逃げるなよ、と言い置いて。ジェリオは部屋を出て行った。彼のことである。言葉通り朝まで帰ることはないだろう。この街に娼館はない、ということは先程告げた。それは彼もわかっているはずだ。おそらく何処かの酒場で酌婦を口説いて。その肌を楽しむつもりだろう。
「……」
 アグネイヤは両手で顔を覆った。とんでもないことになった――自身の弱さから生まれたこの事態を、どれほど後悔してももう時間は元には戻らない。ジェリオは、間違いなくフィラティノア王太子妃を殺害する。そうして、アルメニア皇帝を快楽の道具にする。彼が生きている限り。アルメニア皇帝が生きている限り。
 自分がジェリオに抱かれるのは構わない。所詮は、生贄として生まれた身だ。どこで朽ち果てようとも悔いはない。けれども。

 片翼をジェリオに汚されるのは。それだけはどうしても許せなかった。


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