AgneiyaIV
第一章 さすらいの皇女 
6.姉妹(3)


 使用人たちが積荷を小船に船に運びこんでいる間が、アグネイヤたちの休憩時間でもあった。火を焚き暖を取りながら彼女はぼんやりと、働き続ける若者たちを見つめる。
 こうして、野に出なければ、彼らにも出逢うことがなかった。
 よき皇帝になりたくて――いな、いずれは離れねばならない故郷を少しでも知っておきたくて、セルニダの下町には足しげく通ってはいたが。やはり、それは安全なる冒険であって、実際のところどれほど基層の文化を知ることができたのか。今となっては、それで満足していた自分を愚かしく思う。
「なにぼんやりしてるんだ。皇女さん」
 傍らに腰を降ろしていたジェリオが、ちらりとこちらを見やる。手に握られた碗から、酒の甘い香りが仄かに漂う。昼間から飲んでいるのかとアグネイヤが眉をひそめても、ジェリオはお構いなしである。碗に半分ほど残っていたそれを一気に喉に流し込み、ふっと小さく息をついた。
「冷えるからな」
 ひとことだけ呟くように告げた彼は、ゆっくりと立ち上がり、開いた碗を近くの食器置き場に戻していた。川を下る商人たちを相手に商売をしている軽食業の亭主は、愛想笑いもせずにそれを受け取り、やはり愛想のない声で食べ物はいらないのかと勧めていた。
「なんか食うか?」
 ジェリオがアグネイヤを振り返る。アグネイヤはかぶりを振った。特に空腹を覚えてはいない。
 ここ数日、殆ど座ったきりの移動である。歩いたのは、馬車が溝に嵌ったのを引き出すときと、この川原に下りたときだけである。いい加減、身体も鈍ってきたようにおもえるが、それは気のせいではないだろう。更に言えば、食欲も落ちてきている。肉体的疲労だけではなく精神的なものも含まれているのは、自分自身でも承知している。
 重いのは、身体ではない。心だ。
 やがて、荷物の移動が終了すると、一行は乗船を開始した。壮年の商人が使用人に手を取られて桟橋から船に飛び乗るのを確認してから、アグネイヤも立ち上がる。この川をさかのぼれば、スヴェインを経て首都オリアへと辿り着くことが出来る。
(クラウディア)
 胸のうちにかの人の名が重く沈み込む。
 一刻も早く、彼女に会わなければ。気持ちだけが、急いている。
 アグネイヤはジェリオたちに続いて船に乗り込んだ。川を渡る船だけあって、小振りで。しかもよく揺れる。乗り込んだ際にぐらりとかしいだ身体を背後からジェリオに支えられて、アグネイヤは僅かに赤面した。
「食ってないから、力はいんないんじゃないのか?」
 皮肉交じりのささやきが耳元で聞こえ。手に何かを握らされた。荷物の脇に設けられた席に着いてから掌を見てみれば、小さな革袋が乗っている。
「なに?」
 紐を解き、中を覗く。袋の中で密かな輝きを放っているのは、欠片に砕かれた蜜菓子であった。
「それなら、食えるだろ」
 素っ気無く言い放ち、ジェリオは彼女の隣に腰を降ろす。
 気を使ってくれているのかと思うと、少しだけ胸が痛んだ。
「ジェリオ。僕……」
 言いかけて、アグネイヤは口を噤む。何を言おうとしたのだろう。自分は。彼に告げたとて、この心に絡みつく鎖のような苦しみからは逃れられないというのに。
 オリアが近づくにつれ、思いは大きくなる。焦りは強くなる。
 再会した瞬間に、クラウディアはアグネイヤの心など、簡単に見透かしてしまうだろう。いや、もう既に、アグネイヤの行動など彼女にとってお見通しなのかもしれない。アグネイヤが、クラウディアの気持ちを全て読み取れるように。
 片翼は、果たして認めてくれるだろうか。アグネイヤの決断を。笑って、とは言わぬが。許してくれるだろうか。それとも、弱い彼女をなじるだろうか。
 おそらく、そのどちらでもないだろう。

 ――自分が決めたことでしょ。どうして、意志を貫けないの?

 甘さを指摘される。
 それが解かっているからこそ。余計に気が重くなる。自分を案じてくれる片翼の気持ちが強ければ強いほど。心を縛る鎖も太くなっていくのだ。
「途中、オルネラで一泊してからスヴェインに入るか」
 相談している商人たちの言葉を聞き流しつつ。アグネイヤは抱えた膝の上に顎を乗せた。
「たまには、宿に泊まりたい」
 商人の一声で、それは決定したらしい。オルネラに寄航し、休憩を取ってからスヴェインに向かうと、正式に告げられた。
 それを聞いたジェリオは、
「オルネラかよ」
 渋い顔をする。と、近くにいた使用人の一人が、やはり同じように表情を曇らせた。彼はジェリオに同意するかのように深く頷き、
「俺も、ちょっと」
 苦いものでも含んだかのように、歯切れの悪い言葉を中途半端に吐いて。仲間の顰蹙を買っていた。
「話の種だぞ。神殿の、巫女さんにお相手して戴けるなんてそうあることじゃない」
「勿体ない。一度、試してみるべきだって」
 後に続くのは、下卑た笑い。今度はアグネイヤが顔をしかめる番だった。
「ケダモノが、って顔してるな」
 ジェリオがニヤリと笑う。アグネイヤはそっぽを向いた。男は、皆これだ。立ち寄った街での興味の対象は、酒と娼婦だけである。あの街の娼婦は情が濃いとか。淡白だとか。床上手であるとか。そういった話題を平気でする。無論、同行しているアグネイヤを少年だと思っているので、遠慮も何もあったものではない。なかにはアグネイヤを歓楽街に連れて行こうとする輩もいて。断るのが大変だったこともある。
「そっちの坊やも、どうだ? 女が駄目なら、巫女さんってのは」
 最も遊び好きそうな青年が、アグネイヤに話を振って来た。アグネイヤはちらりと彼を見て、かぶりを振る。オルネラの巫女の話は以前から聞いて知っていはいたが。実際会う気はしない。繋がれた籠の鳥という存在も哀れに思うし、何よりも彼女らは。
「いきなり裏巫女相手ってのも、きついだろうが」
 ジェリオがさりげなく助け舟を出してきた。
「このガキは、知り合いのとっつぁんから預かった大事な御曹司だ。そこらのあやしげな商売女と、下手に絡ませらんねぇな」
 なあ、とジェリオが頭を叩くと。使用人たちの間にどっと笑い声が上がった。坊ちゃんは上品過ぎて困る、と。彼らは口々にからかいの言葉を投げかけてくる。それに耐えられなくなったような振りをして。アグネイヤは膝の間に顔を埋めた。


 オルネラの街は、神殿を中心として栄えている都市である。
 高い城壁に囲まれた街は、神殿を囲むようにして同心円状に広がっていた。神殿の周囲には、裏巫女たちを擁する館があり、その周りには小間物屋、仕立て屋、お針子たちの館が。更にそれを囲うようにして飲食店街が軒を連ねている。円周の最も外れにあるのが宿場で、そのひとつに逗留することになった商人の一行は
「明日、神殿に参拝してから出発する」
 そういわれただけで一時解散となった。
 使用人たちはその言葉を待っていたかのように、あっという間にいなくなり。商人と側近も所用で外出して、残されたのはアグネイヤとジェリオだけであった。当然と言っては当然であるが、アグネイヤはジェリオと同室である。しかも、春が近いこの時期、宿はどこも満室で、使用人に値する彼女たち用心棒の部屋も手狭な一人部屋しかなかった。
「どっちか床で寝る羽目になるな」
 粗末な小ぢんまりした寝台を見下ろし、ジェリオは呟いた。
「抱き合って寝れば、それなりに納まっちまうもんだが」
 どうよ? と視線で問いかけるジェリオを鋭く睨みつけたアグネイヤは、椅子を引き寄せ、そこに座る。
「僕はここで寝るから。ジェリオが寝台を使えばいい」
「また。冷たいことを言う」
 薄く笑ったジェリオは、財布と剣だけを手に、部屋を出て行こうとする。どこへ行くのだと尋ねるアグネイヤに
「裏巫女以外にも、まっとうな娼婦がいるかもしれないだろ」
 その寝台で寝ることにする、と彼は悪びれもせずに言ってのけた。要は、娼館に行くから遠慮なく寝台を使え、と言うことなのだろうが。彼の言葉はいちいち癇に障る。わざとアグネイヤを不愉快にさせて楽しんでいるのではないか。
「オルネラには、娼婦はいないよ」
 かつて得た知識でアグネイヤも応戦する。と、ジェリオは半ばがっかりしたような、拍子抜けしたような。微妙な表情を見せた。
「もともと、神殿中心の街だから。歓楽街もない。裏巫女がいやなら、我慢するだけだな」
 そう、習った。各国の歴史と情勢を知るための講義で。
 無論、裏巫女の仕組みについては、詳細を教えてはくれなかったが、好奇心旺盛なクラウディアは、あらゆる手を使って探りを入れたに違いなく。

 ――聞くんじゃなかった。でも、聞いて。あなたも聞いて。裏巫女ってね。

 仕入れた情報を丁寧にアグネイヤにまで教えてくれた。そのせいで、アグネイヤもオルネラの有りようをうっすらとではあるが理解している。
「裏巫女は、嫌いか?」
 尋ねると、ジェリオは露骨に嫌な顔をした。
「嫌いとかそういう問題じゃねぇだろ? 俺にはそういう趣味はないね。フツーの女のほうがいいに決まっている。こんなガキでもな」
 ふっとジェリオの気配が近づいた。アグネイヤは反射的に立ち上がり、身を交わす。が。巧みに部屋の隅に追い詰められた。背に当たる壁の硬さを意識して、アグネイヤは息を呑む。見開かれた古代紫の瞳の反応を楽しむかのように。乱暴に頭の脇に手が置かれた。
「少しくらい、楽しませてくれたっていいだろ? 皇女さん」
「断る」
 顔を背けると、無防備にさらされた首筋に、ジェリオは顔を近づけてきた。熱い息が肌にかかり、アグネイヤはびくりと肩を震わせる。
「滅茶苦茶にしてもらいたいのは、そっちのほうだろう? 嫌なことを忘れさせてほしい、ってな。顔に書いてある」
「嘘だ」
「嘘なもんか。ずっと、何を考えていた? 何をしようとしていた?」
「ジェリオ?」
「本当は、死にたいんじゃないのか? 皇女さんよ」
 アグネイヤは思わずジェリオを見上げた。間近で見る褐色の瞳は鋭く。心の底まで覗かれているようで、怖かった。彼は、気づいていたのか、アグネイヤの心の内に。自暴自棄に陥りそうな、彼女の精神に。気付いていたからこそ、その隙を突こうとして。彼女に対して欲望を持っていたのではないか。
「野兎とか、野鳥とか。見たことないだろうけどな」
 ジェリオはアグネイヤを手の檻に捕らえたまま、言葉を続ける。
「猟師に見つかると、子供を守るために、自分が傷ついたフリをして巣穴から奴らを遠ざける」
「……」
「あんたは、それだ。大事なものを守るために、自分が犠牲になろうとしているヤツの目だ。違うか?」
 アグネイヤは答えない。答えずに、強く唇を噛み締めた。
 ジェリオにまで、気付かれている。それほど、自分は心を人にさらけ出しているのか。優しさと甘さは違う、とクラウディアにかつて指摘されたことはあったが。他人にまで心を読まれるとは思わなかった。
 アグネイヤは溜息をついた。細い息が、ジェリオの顔にかかる。彼が頤に向けた伸ばした手を両手で押し留めるようにして。アグネイヤは改めてそれを、自身の胸に導いた。
「皇女さん?」
 意表を突かれ、ジェリオは不審そうに彼女を見つめる。アグネイヤはまっすぐにその目を見詰め返し、はっきりと言葉を紡いだ。
「僕を、好きにしていい」


NEXT ● BACK ● TOP ● INDEX
Copyright(C)Lua Cheia
●投票● お気に召しましたら、ぽちっとお願いいたします
ネット小説ランキング>【登録した部門】>アグネイヤIV
ほんなびさん投票


inserted by FC2 system