AgneiyaIV
第一章 さすらいの皇女 
5.寵姫(6)


「いいザマね」
 グランスティアが貴族の保養地であるならば、その隣――スヴェンは庶民の保養地であった。療養目的で訪れるものから、純粋な観光客、彼らを目当てに商品を持ち込む商人たち、様々な人種で賑わう街である。一種独特の静けさを保つグランスティアに比べて、活気があるのは、客層のせいだろうか。
 国自体が保養地となっているセグとは比べるべくもないが。隣国カルノリアやタティアン大公領、もしくは遠くダルシアから訪れるものも意外に多い。街の外れには、ダルシアから入植した海産物問屋の店が立ち並び、その近くにはアルメニア商人の交易館と組合事務所がある。そのためか、フィラティノアにあってこの街は、南方の香りも漂わせていた。ゆえに。ここでは、黒髪は珍しくはない。首都オリアに近づけば近づくほど姿を見かけなくなる黒髪の人々も、スヴェンには数多く見られるのである。

 そこを経由して、彼はやってきたのだ。彼――楽士・バディールは。

「いいザマね」
 彼女は気だるげに黒髪をかきあげながら、今一度同じことを口にする。目の前の寝台に横たわるのは、半裸の男性。剥き出しにされた背には、幾つもの傷跡がある。肉を抉る、痛々しい傷。鞭で打たれた痕だった。そこに彼女が薬を塗布するたび、彼は情けなくも声を上げる。
「もう少し優しく出来ないのか、カイラ」
 カイラと呼ばれた女性は、ふん、と鼻を鳴らす。
「これでも充分優しくしているつもりよ。私に手当をしてもらえるなんて、それだけで光栄なことですからね。ねえ、カイル?」
 カイラは背後を振り返る。
 壁に凭れて、道行く人の流れをぼんやりと見つめていた巨漢は、不意に話題を振られて面食らったのか。動物を思わせる黒目勝ちの目を大きく見開いて、おどおどとカイラを見た。
「お、俺?」
「そう。聞いていなかったの、どんくさいわね、相変わらず」
 カイラは不満げに眉を吊り上げる。
「薬が効いていないときのあなたは、ほんとに木偶の坊。役に立たない屑だわ」
「それは言いすぎだろう、カイラ」
 君は言葉がきつすぎる、と。僅かに顔を起こしたバディールが窘めるように言うが。カイラはあっさりとそれを無視した。
「まったく。男はみんな使いものにならない奴らばかりね」
 吐き捨てるカイラに、それは聞き捨てならぬとバディールが身を起こす。
「何を言っているんだい、カイラ。君を助けたのは、僕だろう? 僕が行かなければ、君はあのまま宿でさらし者だ。いい若い娘が、あんなはしたない恰好で。君だって、殿下の暗殺に失敗したんだろうが」
「思わぬ邪魔が入ったからよ」
「あの、フィラティノアの刺客とやらか?」
「そう」
「君らしくもない。年下の坊やにしてやられるなんて」
「そう思って油断した私が、馬鹿だったわ」
 カイラの脳裏を、褐色の瞳の青年の面影がよぎる。『アグネイヤ』と行動を共にする青年。フィラティノアの放った刺客。どういうわけか、獲物である彼女を殺害する気配はなく、寧ろ、警護をしているといってよい存在である。出身はおそらく、セグかアルメニアか。単一民族の血筋ではない、あれは混血だとカイラは確信している。
「エルディン・ロウ」
 ポツリと呟き。カイラは手にしていた薬壺を、小机に乗せる。
「大陸屈指の、暗殺者集団だな」
 バディールの言葉に曖昧な頷きを返し、カイラは自身の爪を噛んだ。
 彼女の暗示にもかからない、強靭な精神の持ち主。それが、大陸に名を馳せる刺客の所以か。カイラの属するドゥランディア、その秘められた一族も暗示と薬品の使い手として名を轟かせてはいるが。エルディン・ロウはまた異なる。
 件の青年を捉えることが出来れば、闇に閉ざされているエルディン・ロウの暗部を探ることも出来るのだろうが――それを考えると、セグでの一件が無性に腹立たしい。あそこまで追い詰めておきながら、今一歩のところで逃した。しかも、辱めを受けて。
「許さない。あの男」
 パキリ、と。爪が音を立てる。ひびが入ったのだ。
 つと手を伸ばしたバディールが、その手を包み込み、傷のついた爪を癒すように口に含む。
「機嫌をとっても無駄よ」
 身を翻そうとするカイラ。しかしバディールは強く捉えて離さない。唇を離し、あまやかなる視線を彼女に向けて、彼は、やわらかな微笑を浮かべた。
「君の美しい爪が傷つくのを見るのは、耐えられないからね」
「陳腐な台詞だわ。そんな芝居じみた言葉に落ちる女がいると思うの?」
 馬鹿ね、と言葉を付け加えて、カイラは目を細める。
「美しいものを美しいと言ったとしても、それは単なる批評であって。誉め言葉ではなくてよ。それにね。『美しい女性』は、そんな言葉は何万回と耳にしているわ。時候の挨拶以上に聞き流すはずよ」
「これはまた、手厳しい」
 バディールの笑みが、苦笑にかわるのに時間はかからなかった。
 彼は自身の手で包帯を巻き終えると、そそくさと身繕いを始める。これ以上、ここにいても仕方がない――そんな雰囲気を漂わせていると思われるのは、気のせいか。
「もう、ご出立? せっかちなことだわ」
「僕は、暇人じゃないのでね」
 君らと違って、という嫌味を言葉の後に隠して彼は寝台を降りた。窓からもれる月明かりに照らされるその姿は、一見女性のように華奢でしなやかであった。アルメニアの近衛騎士の衣装を纏っているときであればともかく、今は旅の楽士――袖も裾もたっぷりとした、女装と言っても過言ではない装束を身につけているのだ。細面の顔と、険しさのない表情を見れば、彼が凛々しき青年だとは誰も思うまい。
「男娼と間違われなければいいけどね」
 カイラは腕を組み、壁に背を預けた。窓から吹き込む夜風が、ふわりと黒髪を払い除ける。その髪を指先で丁寧に撫で付けて、彼女は肩越しにカイルを見やった。
「カイル。騎士様を送って差し上げて。歓楽街を抜けるくらいでいいわ」
 カイルは叱られた子供のように、首をすくめる。これが彼の頷きなのだと、理解するまでにバディールはかなりの時間を要したものだ。
「結構。これでも、腕には多少自信があるのでね」
 ついて来ようとするカイルを手で制し、バディールはかぶりを振った。彼はみつあみにした髪を背に押し戻し、肩に楽器を背負いなおしてから、静かに扉に手をかける。
「君たちには、引き続き殿下の方を頼むよ。僕は、暫く別の方面で動くことにする」
「別の方面? ああ、フィラティノア王太子妃殿下、の方で?」
 王太子妃、の部分を強調した言い方に、バディールは口元を歪めたが。「ああ」と一言だけ答えると、それ以上は何も言わず部屋を後にした。
 残されたカイルは、探るようにカイラを見下ろす。カイラはことん、と後頭部を壁に押し付けた。
「人妻に恋慕する、騎士ね。馬鹿みたい。くだらない芝居の主人公だわ」
「バディール、姫様にほれている?」
「どっちかっていうと、崇拝ね。理想の女性像、主君像を押し付けているだけよ。実際押し倒してどうこうとか。考えているわけじゃないから」
「カイラの言うこと、よくわからない」
「でしょうね。兄さんは」
「?」
 兄さん――そう呼ばれたのはいつ以来か。カイルは目を丸くして、妹を見つめる。無論彼は、カイラが皮肉を込めてそう呼んでいることなど考えてもいなかった。それがまた、愚かしくも情けなく思えて。カイラは大仰に肩を落とす。
「何でよりによって、カイルと組ませたのかしらね。カイの考えることは、ほんと、わからないわ」
 ぼやきは髪と共に夜風に吹き散らされる。彼女は視線をめぐらせて、表の通りを見下ろした。下手な楽器の音を響かせながら、偽の楽士が流していく。並より優れた容姿と、巧みな話術で女性を手玉にとっているつもりだろうが、実際手玉に取られているのはお前のほうだと、カイラは心の中で舌を出す。
「女はね。あんたみたいな男には、惹かれないものよ」
 惹かれるとしたら、そう。

 褐色の、二つの月。
 人のこころを凍らせる、底冷えのする暗殺者の瞳。

 あの瞳を持つ青年か。
 どこかあやうげで、どこか儚げで。――危険な香りを漂わせる、研ぎ澄まされた刃物のような精神の持ち主。
「ばかね」
 エルディン・ロウを名乗ったあの青年の面影を心から払い、カイラは小さく自嘲した。



 スヴェンの歓楽街は、規模は小さいが質は高い、と。旅人の間でも評判であった。快楽の都、と称される歓楽街は、各国にひとつは存在するが、それは大体において首都にあるものだ。が、フィラティノアは違う。質実剛健、と古来より言われるとおりその国柄のせいか。首都オリアには歓楽街と呼ばれるようなものはなかった。娼館、花街の類はあるが、それらは裏通りに隠され、ひっそりと営業をしていることが多い。
「だから、この街がフィラティノアの快楽の都、か」
 ひとりごち、バディールは楽器を傍らにおいた。
 雰囲気のよさそうな居酒屋を見つけ、曲を奏でることを条件に彼は一杯の蒸留酒を手に入れた。硝子の器に注がれたそれを、手の中で転がしつつ楽しみながら、彼は近くを通る酌婦を呼び止めては、国内の情勢を少量ずつ引き出していった。
「へえ。妃殿下のお側にいるのは、王太子殿下の側室なんだ」
「そうなの。殿下がね、お目付け役に側室さまをつけているんだって。なんだかひどい話よねえ」
 お喋り好きな酌婦は、バディールに問われるまま、知っている事象を口にする。
(ルナリア。ルーラ、か)
 湯殿で、確かにクラウディアはあの女性のことをルーラと呼んでいた。
 しかし、あの雰囲気では、どう見ても目付けとは思えない。寧ろ、側室が進んでクラウディアを警護しているように思えるのだが。
「ルナリア様は、殿下とはその、――長いの?」
 二人の関係については、大分前からアルメニアでも知られるようになっていた。クラウディアが嫁ぐ前に既に、ディグルには愛妾がいると皇后や皇女たちを含め知らされていたのである。
「そうねえ。アルメニアから妃殿下がいらっしゃる前からだから。三年――ううん、もっと前。五年くらいになるかしら」
「五年、ねえ」
 彼の知りえた情報でも、ルナリアがフィラティノアの王宮に登場したのはその時期くらいからである。生粋のフィラティノア人で、貴族の出ではなく、民間出身としか聞いていない。ディグルが狩猟に出た際にみそめた村娘と言われていたので、それほど気に留めてもいなかったが。
(あの女性)
 ただものではない。どこが村娘だ。あれは、立派な剣士だ。身のこなしに一分の隙もない。おそらく剣の腕も、クラウディアに匹敵する――もしくは、それを上回るかもしれないのだ。
「王太子殿下が、ルナリア様と出会った場所。わかるかな?」
 極上、と自身で思われる笑みを酌婦に向けてみる。彼女はぽっと顔を赤らめて、こくりと小さく頷いた。
「オルネラ。タティアン大公領の近くの狩場、だって。そう聞いたわ」
「オルネラ、ね」
 調べてみる価値はある、と。バディールは目を細めた。
 王太子の愛妾・ルナリア。彼女の存在は、彼らにとって害はあれども益はない。ことと次第によっては、偽りの皇帝もろとも殺害する必要がある。
 彼は心の内に決意を秘めて。ゆっくりと立ち上がった。


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