AgneiyaIV
第一章 さすらいの皇女 
5.寵姫(3)


 馬車を用意する、と言う申し出を、クラウディアは断った。
「お嬢さんの旅行じゃないんだから。鬱陶しい」
 彼女は騎士の装束を纏い、簡単にまとめた荷物を背に負って颯爽と愛馬に跨ったのである。ルーラも彼女に倣い、アグネシアをディグルより借り受けてそれに騎乗したのだが。
 見送りと称して、物好きにも北の離宮まで足を運んだ女官長スタシアは、二人の姿に零れんばかりに目を見開いて危うく卒倒するところであった。
「女官長」
 慌てて支える侍女の手をとり、彼女は震える声で。
「妃殿下。妃殿下、そのお姿は」
 問いかけとも嗜めともつかぬ言葉を発したのである。
「ルーラに頼んで、仕立ててもらったの。ちゃんとした仕立て屋を呼んだから、ピッタリでしょ?」
 似合う? と小悪魔的な笑みを浮かべるクラウディア。女官長は目を吊り上げてルーラを見上げる。
「ルナリア殿。あなたは、あなたがついていながら、妃殿下に」
 もう、何を言っているのか解からない。
 クラウディアは肩をすくめ、踝に力を入れた。動け、の合図に馬はゆっくりと歩みだす。
「ルーラ」
 軽く声をかければ。
「失礼」
 ルーラもまた。女官長に形ばかりの礼をして、馬を進めた。
「妃殿下! ルナリア殿!」
 背後から聞こえるのは、悲鳴に近い女官長の声。二人はそれを無視して、
「走るわよ」
「御意」
 速度を上げた。


 北の離宮から、目的地であるグランスティアは、馬で半日以上はかかる遠隔地である。街道に沿っていけば、うまくいけば半日。途中で休むようであればめぼしい宿を知っていると、ルーラは告げたが。
「そこまでやわじゃないわよ」
 クラウディアは一笑に付した。しかし、すぐに思い直したように。
「ああ、でも一度くらいは休憩を入れた方がいいかもしれないわね」
 ちらりと視線を落とし。
「この子達、辛いかもしれないから」
 そっと馬の首筋を叩く。
 乗馬をしている人間のほうも疲労は蓄積するが、実際疾駆している馬の疲労度はその数倍、へたをすると数十倍である。自身のわがままで、馬に負担をかけることはできない。暗にそう言うクラウディアを、ルーラは眩しげに見つめた。
「妃殿下は、お優しいですね」
 思わず漏れた言葉に、ルーラ自身も驚いているらしい。
「失礼致しました」
 彼女は恥じるように顔を背ける。うっすらと朱に染まる首筋が、ルーラの感情を伝えているような気がして、クラウディアはくすりと笑った。
「ルーラほどじゃないわよ」
 言った言葉に、またルーラは驚いたようである。今度は軽く目を見開いて、まっすぐにクラウディアを見つめた。
「妃殿下?」
「妃殿下は、やめてよ。街中(まちなか)で身元がばれるのはイヤでしょう?」
 クラウディアは街の少女のように悪戯っぽい仕草で、舌を出す。
「クラウディア、でいいわよ。呼びにくかったら、なんでも適当な名前で呼んで。フィラティノア風の名前でもいいわよ?」
「そんな」
 そんなことはできない、と。ルーラは言いたかったのだろう。いくら寵愛を受けているとはいえ、ルーラは側室。正室であるクラウディアを呼び捨てにすることなど無理な話である。それに、剣を通じて親交を深めているとはいえ、それほど親しいわけでもない。
「アガーテでもリーゼロッテでも、なんでもいいわ。そのほうが、あなたも気が楽じゃなくて?」
 クラウディア、というあからさまに南方系の名を、この土地で呼ぶには無理があるのかもしれない。確かに、黒髪に紫の瞳を持つクラウディアは存在自体が特殊で、そんな彼女をフィラティノア名で呼ぶほうが奇異なることであると思われるが。
 かつては、女性は嫁いだ国の名を与えられたものだ。
 今ほど宗教色が薄れてはいなかった時代。神聖帝国に嫁いだアルメニア王女は、全て帝国風の名に改名されていた。それは、故国を捨て、縁付いた国に全てを捧げるという証であったのかもしれない。その慣習に倣って、クラウディアも改名を考えているわけでもないが。クラウディア、という名をルーラを初めとするフィラティノアの人々が発音しにくいことは感づいていた。もともとフィラティノアは、神聖帝国の傍系にあたる国である。帝国起源の名にあたる『アグネイヤ』はたやすく発音できても、ミアルシァ起源の名である『クラウディア』の発音は彼らにとっては難しい。ゆえに嫁いでからというもの、
『クラウディア姫』
 といった呼ばれ方を今までしたことはなかった。
「妃殿下」
 ルーラは、今一度クラウディアに声をかけた。それに僅かに眉をひそめたクラウディアだが。ルーラは構わず先を続ける。
「妃殿下は、エルシュアード――エリシュ・ヴァルドをご存知ですか?」
「え? ええ、少しは」
 意外な発言に、クラウディアは目を丸くした。
 アルメニアにあったころ、アグネイヤと共に習い覚えた大陸の歴史。その中に、かの人の名はあった。
 エリシュ=ヴァルド。正確には、エリシュは人名でヴァルドは地名である。
 ヴァルド地方に住むエリシュ――それが組み合わされたものが訛って、エルシュアードという言葉が誕生したのだ。
 ヴァルドはセグとカルノリア領タティアンとの国境近くに存在する、商業都市である。アルメニアのセルニダと同じく、中継貿易で財を成した小国だ。富はあるが、その分武力に欠け、また立地条件から他国や盗賊の襲撃を受けやすいこと。男性は皆商人として家を空けることが多く、残されるのは武器や戦闘とは縁遠い婦女子のみ。そういった環境から、エルシュアードは誕生した。
「確か、女性の自警団だったわよね?」
 クラウディアの問いに、ルーラは頷く。
 自警団の発足を提唱したのが、エリシュ。街の有力商人の妻である。才色兼備の誉れ高い彼女は、他国から軍師や剣士を招き、自らを鍛えつつ率先して組織作りに励んだ。
 ――女性として、故郷を守る。
 これを信条として。エリシュと彼女に従うものたちは、決して男装することはなく、衣裳のまま剣を取り、闘う術を自主的に開発していったのだ。
 今から、二百年以上前。まだ、神聖帝国がその威容を大陸全土に響かせていたころである。エルシュアードは女性だけの組織ということで、各国の後宮警備に重用されることも多かった。神聖帝国は、アンディルエの巫女を守護させるとの名目で、エルシュアードを呼び寄せ、自国の娘たちにその技を学ばせた。この部分が、現在はカルノリアにのみ受け継がれているという。
「それが? どうかしたの?」
「いえ。妃殿下が、どことなくそのエリシュと重なって見えるような気がして」
 ルーラは幽かに口元を綻ばせる。
「エリシュさま、と。呼ばせていただいて宜しいでしょうか?」
 無論、今回の旅行の間だけですが、と言葉を添えて。ルーラが尋ねる。クラウディアは一瞬目を見開いたが。
「光栄だわ。伝説の女傑と同じ名を戴けて」
 大仰に頭を下げる。
 そういえば、と、クラウディアはふと昔を思い出し。
「アグネイヤと、盗賊ごっこをして遊んだものだわ」
 くすくすと笑い出す。盗賊ごっこ、の言葉に呆れたのか。ルーラは軽く肩をすくめる様を見せ、先に馬を走らせる。
「エリシュ様。笑っていると、置いていきます」
 声をかけられて、クラウディアも慌てて鞭をとる。暫く乗馬を休んでいたからとて、他人に遅れをとるわけには行かなかった。
「負けないわよ」
 ピシリ、と愛馬に鞭をくれて。クラウディアはルーラの後を追った。


 結局、心配された馬の疲れもなく、二人は思ったよりも早く離宮へと到着していた。王太子妃到着を告げる音楽が鳴り響き、使用人たちが一斉に門に集まるなか、クラウディアは身軽に下馬し。最初に口上を述べようと先頭に平伏している騎士然とした男性に手にした包みを差し出した。
「こちら、エルミラ産の葡萄酒です」
 ルーラが傍らに歩み寄り、素早く包みを取り払う。中から現れたのは、細身の壜。騎士は恭しくそれを受け取った。
 エルミラ産の葡萄酒は、特殊な製法で作り出される。氷点下の極寒地で、凍結寸前の葡萄を収穫し、そこから酒を作るのだ。これが、とろりとした甘い酒となり、貴族の間では大変に好まれている。貴重品というだけあって、広く出回ることのないそれを、まるで赤子でもあやすように抱きしめた騎士は。
「こちらにあう食事を用意させていただきます。まずは、お寛ぎくださいませ」
 そのようなことを、グランスティア訛りの強い言葉で告げる。
 彼が、クラウディアとルーラを中へ促すと同時に、馬丁がそそくさと近づき二人の馬を厩舎へと導いていく。その姿を見るとはなしに見つめていたクラウディアだが。ふと歩みを止めて振り返る。
「厩舎は、どこにあるの?」
 尋ねれば、騎士は
「後ほどご案内いたしましょう」
 と答える。彼は一刻も早く王太子の妃たちを離宮に入れたいらしい。その気持ちはわからぬでもなかったが。
(まさか、刺客が送り込まれることもないでしょうに)
 失笑するクラウディアの脇で、ルーラが渋い顔をする。
「妃殿下が剣の名手ということは、存じていますが。くれぐれも、ご油断召されぬよう」
 囁かれた言葉に、クラウディアも顔をしかめる。
「ルーラ、それって」
「殿下からのご伝言です。刺客に用心されるように、と」
 刺客。クラウディアは溜息を吐く。
 親同士が交わした同盟のためとはいえ、他国に嫁いだ自分は、故国にとっては危険分子にかわりはない。たとえ異国の色に染まらずとも、彼女の存在はそのまま毒にも薬にもなってしまう。継承権をもたぬ皇女であるが、肝心の皇太子である片翼が落命すれば、フィラティノアはクラウディアの継承権を主張するであろう。
 そのまえに。
 一度嫁がせて、フィラティノアを納得させてから花嫁を殺害する。
 密かな計画が動いていることに気付かぬクラウディアではない。
(本当は)
 嫁ぐのは、片翼の――アグネイヤのはずだった。だが、どうした手違いからか。片翼が皇太子となり、自分が花嫁となってしまった。アグネイヤは、アグネイヤとなった片翼は、その優しさゆえにより過酷と思われる道を選んだのだが。実際は、クラウディアとなった自分を窮地に追い込んでいる。

 フィラティノア妃となるものを殺害せよ。
 
 おそらく、その密命が下されたことを、アグネイヤはもう知ったかもしれない。それを知ってしまった彼女は、心優しく弱い彼女は。どうするだろう。
(あの子なら)
 こう動くだろう、と。予想が出来てしまうことが怖かった。
「私も、微力ながら妃殿下をお守りさせていただきます」
 ルーラの言葉はありがたかったが。クラウディアは素直に頷くことが出来なかった。


 離宮の者たちの心づくしの夕餉の後。
「このような田舎ゆえ、なにもございませんが」
 離宮を取り仕切る騎士――ヴァーレンティンは、せめてもの余興にと旅の楽士を招いたという。
 聞けば楽士はまだ若い男性で、アルードなる南方の弦楽器を演奏するらしい。
「アルード? 懐かしいわね」
 クラウディアが呟くと、ヴァーレンティンは嬉しそうに顔を綻ばせた。
 かの楽器は、ミアルシァを起源とするもので、アルメニアにも広く普及している。ダルシアやそれに近い諸国では、専門の学院もあるという。ただ、アルメニアではアルードよりも、更に一回り大きいアリューダ・ナシュの方に人気があった。双子の乳兄弟に当たる人物が、ミアルシァに遊学したときに持ち帰ったのを見たのが、彼女がアルードを見た最初である。以降、乳兄弟が酔った際には必ずアルードをかき鳴らし、自作の下手な歌を聞かされる羽目になろうとは、そのとき双子は思いもしなかったが。
「懐かしいわね」
 乳兄弟・バディールの面影を思い出し、クラウディアは目を細めた。
「妃殿下は、何か楽器を嗜まれるのですか?」
 ヴァーレンティンの問いに、クラウディアはかぶりを振る。貴族の娘の嗜み程度にしか、楽器には触れたことはない。神殿におかれた、弦楽器を改造した鍵盤楽器を悪戯に叩いたことはあるが。特に自分から何かを演奏したいとか、そういった欲求はなかったような気がする。
「そうですか」
 クラウディアの返答に、彼はややがっかりしたようであったが。故郷を懐かしむ皇女、という構図が彼の中に出来上がっていたのか。楽士を大広間に招きいれ、クラウディアとルーラ、ふたりの妃の前に披露した。
 下座に侍るのは、予想はしていたが黒髪の青年だった。長く伸ばされた髪を女性の如く結い上げ、胸元に垂らしている。彼は顔を上げることを許されると、ゆっくりと面をクラウディアに向けて。
「田舎楽士の拙い詩をひとつ。お耳汚しさせていただきます」
 艶然と微笑んだのである。
 その、端整な面差しに。含みのある視線に。クラウディアは見覚えがあった。いな、忘れるはずがない。
(バディール?)
 胸のうちで彼の名を叫んだ皇女の前で、バディールは静かに弦を弾き始めた。


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