AgneiyaIV
第一章 さすらいの皇女 
3.巫女(4)


 夜の街は、当然ながら暗い。盛り場の続く表通りであれば別だが、閑静な住宅街ともなれば、全く勝手が違う。街灯の明かりも少なく、道行の頼りとなるのは、家々の灯りのみである。それも、多くは寝静まっているのか。この時刻になればさすがに消えていることが多い。祭の夜だけに、使用人も殆ど出払い、主たちは早めに床に就いたのだろう。
 それはそれで、ありがたいのだが。
「……」
 やはり、何処か不気味な空間であった。男子のなりをしていても、アグネイヤはうら若き乙女。十六になるやならずの少女である。闇を行けば、恐怖心も生まれる。
 そういえば。
 ジェリオと出会ったのも、こんな月の細い晩ではなかったか。
 彼女は数日前に思いを馳せる。

 まちなかで、殺気を感じたアグネイヤは刺客を誘い出すべく、郊外の森に足を踏み入れた。人気がなくなれば、刺客も攻撃を仕掛けてくる――その読みは、当たっていた。それが、露骨に殺気を感じさせた刺客の罠とも知らずに、アグネイヤはひたすら森の奥を目指した。
 と。
 月明かりに淡く照らされた木立の向こう。アグネイヤと刺客しか存在しないはずの森に、人影が見えた。森番か、それとも、帰り損ねた樵か。無関係のものを巻き込むことは出来ない、と、彼女が踵を返したときだった。闇の中から伸びた手が、彼女の腕を掴んだのである。
 悲鳴を上げる間もなかった。
 均衡を失った身体は、引きずられるようにして大木の幹に押し付けられる。したたかに打ち付けた背の痛みに顔をしかめたアグネイヤの前に、銀光が迫った。
 刃である。それも、研ぎ澄まされた、剣先。
 アグネイヤは咄嗟に凶刃を交わし、短剣を引き抜いた。金属がぶつかり合う耳障りな音が、耳を打つ。痺れた手を持て余して、アグネイヤは後方に飛びのいた。と、すかさず次の攻撃が繰り出され、凶刃がアグネイヤの髪を払う。
 最初は、心臓。
 二度目は、頚部。
 急所だけを的確についてくる、無駄のない動き。
 アグネイヤの反応が少しでも遅ければ、彼女はあっさりと剣の錆となっただろう。
 今までの刺客とは違う。フィラティノアも、更に強力な刺客を送り込んできたのだ。
 アグネイヤは恐怖に声を失いながらも、ひたすら相手の剣を弾いていた。しかし、長剣と短剣では間合いが異なる。敵を滅ぼすためには、懐に飛び込まなくてはならない。アグネイヤは刺客の一瞬の隙をついて、一歩踏み出した。
 それもまた、相手の罠だったのだ。

 ――うっ。

 咄嗟に、何をされたのかわからなかった。
 刺客は、アグネイヤの短剣を片手で受けて。もう一方の手を――空いたほうの手を伸ばして。あろうことか、彼女の胸を掴んだのである。

 ――い、や。

 口に出来た言葉は、それだけだった。急所を捉えられたアグネイヤの手から、短剣が落ちるまでにそう時間はかからない。ぽとりと下生えの中に潜り込む愛剣を目で追いつつも、アグネイヤにはどうすることも出来なかった。
 刺客は動きを止めたアグネイヤを、先程と同じように木に押し付ける。左手の剣を地面に突き立て、彼はアグネイヤの胸元に手をかけた。彼が何をしようとしているのか。答えは明白である。押し広げられた胸元から侵入した手が、ゆっくりと乳房を包み込む。同時に、顔が近づけられた。
 唇を、奪うつもりだ。
 迫る双眸は、冷ややかな黒。もしくは、褐色。是が人間の眼かと疑いたくなるほど、無機質で恐ろしくて。アグネイヤは口を硬く閉じ、顔をそむけた。刺客は、その無防備な首筋に唇を押し付ける。柔肌を強く吸われて、彼女は痛みに眉を寄せた。その視線が、彼の、刺客の手放した長剣を捉える。
 迷いはなかった。アグネイヤは素早く手を伸ばし、それを引き寄せる。気配に気付いた刺客が、応戦しようと身体を離しかけたが間に合わなかった。

 ――っ!

 手ごたえは、あった。剣は彼の左脇腹を確実に抉ったのだ。その場にくずおれる刺客の姿を確かめるまでもなく、アグネイヤはここから逃れるように走り出した。枯れ草に埋もれかけた短剣を拾うと、後ろも振り返らずに森を後にする。
 漸く森を抜けて人家の明かりが見える場所に差し掛かったころ。彼女の双眸から涙が溢れ出した。

 嫌なことを思い出してしまった。
 アグネイヤは、そっと自身の身体を抱きしめる。ジェリオとの出会いは、最悪だった。あんなケダモノのような人物と少しの間でも旅をしてきたかと思うと、ぞっとする。今も、この通りのどこからか。彼の手が伸びてきて、強引に自分を捉えるかもしれない――そんな恐怖が生まれてくる。
 ありえない話なのに。
 アグネイヤは苦笑を浮かべ、顔を上げた。
 老婆から教わった、ルカンド伯の屋敷。その前に立ったアグネイヤは、闇の中に佇む館をじっと見つめる。このなかに、イリアは囚われているのだ。
 夜半も過ぎ、祭も終わった頃だろうに。使用人たちはまだ戻らぬのか。それとも、既に戻って就寝してしまったのか。ルカンド伯の館は静まり返っていた。イリアが捕らえられているとすれば、人目につかぬ地下室か、それとも伯の部屋か。まず、伯の部屋を調べたほうがよかろうと考え、アグネイヤは屋敷の全景を見渡した。
 別邸、というだけあって、思ったよりも小ぢんまりとした屋敷である。
 全体の形としては、鳥が翼を広げたような――貴族が好むつくりになっていた。大体において、主人は最上階に居を置くものであるから。あとは、左右どちらかの『翼』かを探るだけなのだが。これがなかなか難しい。
 アグネイヤは、狙われるほうではあるが、狙うほうではない。
 常に防御をせねばならぬ立場にいるのだ。
「そうか」
 で、あれば。
 自分であればこうする、ということを考えればよいのではないか。
(僕だったら)
 警備がしやすく、しかも終日日が当たる部屋を選ぶだろう。で、あれば、東側。向かって右側の棟を選ぶ。
 アグネイヤは、三階のその部屋を見上げた。重い(カーテン)は下ろされているものの、その部屋に明かりが灯っていることは確実であった。このような時刻まで灯りの使用を許されるのは、屋敷の当主のみである。
 そうとめぼしをつければ、後は行動あるのみだった。
 アグネイヤは塀の低い部分を見つけると、そこに足をかけてよじ登る。
「――っ」
 体重を支えた腕が痛んだが、この際弱音を吐くことは許されない。彼女は歯を食いしばり、庭へと足を踏み入れる。意外にこの屋敷、警備はずさんなのか。犬でも放されているかと思ったが、その気配はない。別段罠が仕掛けられている様子もなく、アグネイヤは呆れるほどあっさりと中への侵入を果たした。
(おかしい)
 ここまで何事もないと、かえって疑いたくなる。この手薄さこそが罠なのではないか。そういえば、警備の剣士ひとり、見かけてはいない。これが、かつては一国を支配した人物の末裔の屋敷か。別宅といえど、甘すぎる。
 彼女は裏庭に回り、そっと窓を動かした。普通は、木戸の内側に鍵をかけているものだが、なぜかここも開いている。鍵どころか、開口部を隠す戸自体が僅かに開いていた。アグネイヤは不審に思いながらも、その隙間から身を滑り込ませる。ギイ、と軋みを発する古い木戸に肝を冷やしたが。これにもやはり反応はなかった。
(どういうことだ?)
 上階に続く階段に足をかける。
 せつな、背に戦慄が走った。
 覚えのある感覚。冷ややかなる殺気。アグネイヤは、思わず短剣を握り締める。
「……」
 幸いにも、それはこちらに向けられたものではない。けれども、この屋敷でただならぬことが起こっていることは事実であった。アグネイヤは細心の注意を払い、二階を抜け三階に向かう。
 と。
 くぐもった呻き声が聞こえた。男性の声である。見れば、踊り場に二、三の人影があった。人影――もとは、人であったもの。骸と成り果てた成年男子の体が、無残に床に転がされている。今の呻き声は、その中でも息の残っているものの声なのか。アグネイヤは息を殺して彼らに近づき、そっと一人一人の顔を覗き込んだ。
 誰もが頚動脈を一気に掻き切られている。剣を合わせることは愚か、抜くことも出来ずに斬られたのだ。どれほどの手錬が、ここに侵入したのだろう。冷えていく胃を抑え、アグネイヤは屍から一歩離れた。いや、離れようとした。
「すまん」
「ひっ」
 ぐっ、と、足を掴まれる。まだ、息のあるものがいたのだ。アグネイヤは息を整え、そっとその場に膝を付く。
「閣下が、奥に。頼む」
 そのようなことを、彼は必死に訴えていた。侵入者の目的は、ルカンド伯の命。護衛の騎士たちは、それを阻むことなく落命したのだ。
「頼む」
 最後の力を振り絞っての言葉に、アグネイヤは頷いた。すると青年の手からゆっくりと力が抜けていく。アグネイヤは一度強くその手を握ってから、その場を離れた。
 一体、何が起こったというのだろう。
 イリアは無事なのだろうか。
 もしも、伯と共にいるのだとしたら、彼女の命も危険に晒されているはずである。
(イリア)
 心の中で、彼女の名を呼びながら。アグネイヤは一気に階段を駆け上がった。
 三階に辿り着いた彼女を待ちうけていたのは、鼻をつく異臭。血の匂い。アグネイヤは、思わず口元を押さえ、一瞬立ち止まる。賊は、既に去ってしまった後なのか。妙に静かであった。
「……」
 ゆっくりと顔を上げれば、奥の部屋の明かりが目に入った。扉が薄く開かれ、そこからこぼれるように室内灯の光がこぼれている。闇に慣れた目には、その光すら眩しく感じられた。アグネイヤは用心深く音を立てぬよう部屋に近づく。
「うっ」
 開口部から僅かに見えた光景。その光景を、彼女は生涯忘れることは出来ないだろう。血に染まる絨毯、その上に横たわる四肢をもがれた男。体に申し訳程度にこびりついている衣装は、最早衣服としての用は成しておらず。ただの布切れと化していた。
 もがれた手足は、それ自体何かの芸術作品であるかのように、剣に貫かれる形で壁に刺されている。おそらく、ひとつ部位を切り離しては見せ付けるように壁へと『飾って』行ったのだ。
(ひどい)
 横たわり、言葉を失った人物。あれがルカンド伯なのだろう。では、彼をそのような目にあわせたのは、一体何者なのか。
「無駄足だったな」
 扉の向こう。アグネイヤからは死角になる位置にその人物はいるらしかった。低くくぐもった声で、独りごちると、つまらなそうに血にまみれた剣を床に投げ捨てる。その、無造作に動く手だけがアグネイヤから見えた。
 続いて、長靴(ちょうか)に包まれた脚が、こちらにやってくるのが見える。アグネイヤはそっと視線を上に向けた。南方には珍しい、目にも鮮やかな金の髪。それに縁取られた顔は、男性のものだろう。顔半分を隠す仮面のせいで、素顔を見ることは出来ない。アグネイヤは彼から身を隠すべくそっと背後に退いた。せつな。
「何を見た?」
 首筋に、冷ややかな感触があった。いつの間にそこにいたのか。背後から硬い声が降ってくる。背に当たるのは、男性の胸の感触。ジェリオのそれを思い出し、アグネイヤは思わず身を硬くした。
「おんなか?」
 問いというよりは、確認。無骨な手が前に回り、アグネイヤの胸の辺りをまさぐる。彼女は悲鳴を上げる代わりに、身を翻し、するりと彼の凶刃から逃れた。
「おまえこそ、何者だ?」
 鋭く問い返せば、相手は不審そうにアグネイヤを見据える。
「おまえは? この屋敷のものではないのか?」
 アグネイヤはかぶりを振った。否定したからと言って、相手が信じるとも思えぬが。アグネイヤは即座に応戦できるよう、短剣を構え、男性を見上げる。
 こちらもやはり仮面で顔を隠してはいたが。白い面を彩る髪は、黒。南方の艶やかなる黒髪ではない、やや色が薄れた柔らかな黒髪である。彼は感情を宿さぬ瞳でアグネイヤを見つめていたが。
「おまえも、か?」
 ――ルカンドの命を狙っていたのか。
 そう、尋ねた。
「で、あれば残念だったな。もう、彼奴はこの世にはいない」
 見ての通りだと、彼は顎をしゃくる。アグネイヤはもう一度室内を一瞥すると、男に向かって問いかけた。
「伯の側に、娘がいなかったか? 僕と同じ年頃の、黒髪の少女だ」
「黒髪の、娘?」
 知らないと。男性は即答する。尤も、知っていたとしても賊が素直に答えるかどうか。疑問ではあったが。なぜか、彼が嘘をついていないことだけは解かった。
「――何を遊んでいる」
 室内から出てきた金髪の青年が、二人の会話に終止符を打つ。彼はアグネイヤを捕らえようと、無造作に手を伸ばしてくる。それを軽く交わして。アグネイヤは体勢を整え、ふたりを睨みつけた。
「刺客、か」
 すると、賊ふたりは互いの顔を見合せ。金髪のほうが素っ気無い返事を返す。
「そんな、下賎な輩と一緒にしないで貰いたい」
「やっていることは、同じだ。なぜ、ルカンド伯を?」
「おまえに、話す義務があるとは思えんが」
 黒髪の青年が、苛立たしげに言い放つ。彼はアグネイヤの前に踏み出すと、その大きな手で彼女の頭を掴んだ。
「――!」
「遊びは終わりだ。下賎の娘」
「見られたからには、消えてもらわねばなるまい」
 金髪の青年がすらりと剣を引き抜く。蝋燭の明かりが銀の刀身のうえを転がっていく――それを目で追って。アグネイヤはすっと身を低くした。獲物を失った黒髪の青年は、一瞬驚いたように動きを止める。それが、好機だった。
 アグネイヤは彼の間合いに飛び込み、その胸に短剣を一気に突き立てようとする。しかし、青年はすんでの所で身を交わし、鋭く自身の剣を抜き放った。
「っ!」
 かろうじて短剣で刃を弾き返す。同時に、背後から迫る剣を紙一重で交わし、大きく飛びのく。壁を背にし、彼女は息を整えつつ短剣を構えなおした。
「きさま」
 金髪の青年が、忌々しげに舌を打つ。
「ただの小娘ではないな」
 アグネイヤは答えず、背後の壁を探る。この辺りに、窓があったはずだ――その勘は、当たっていた。木戸の鍵が指先に触れ、アグネイヤは敵に気付かれぬよう手早く鍵を引き抜く。
「その太刀筋。玄人か?」
 金髪の青年が、切っ先を彼女に向ける。
「どこの手のものだ? ミアルシァか? アルメニアか?」
 答えろ、と。言うと同時に、青年が剣を繰り出してくる。アグネイヤは背を木戸に押し付け、そこに全体重をかけた。
「――?」
 目の前の賊が、驚きに瞠目する。
 がたりと開け放たれた窓。そこから、アグネイヤは宙に舞ったのだ。
「ばかな」
 彼らは信じられぬ、といった表情でアグネイヤを凝視している。その視線がなぜか心地よくて。アグネイヤは奇妙な微笑を浮かべた。が。
 そんな悠長なことは言っていられなかった。
「――っ!」
 なんといっても、三階の窓から飛び降りたのである。落ち方によっては、無事では済まされない。よくて打撲――悪ければ、骨折。最悪の場合は落命する。アグネイヤは覚悟を決めて眼下の植え込みに身を投げ出した。
「痛っ」
 ざくり、と枝が肉を切り裂いた。先程受けた傷も、衝撃で開いたようである。アグネイヤは一瞬息を止め、身を起こす。ずきずきと、左腕が痛んだ。脱臼でもしてしまったのか。腕が重く垂れ下がり、思うように動かない。
「――」
 それでも、他には目立った外傷も打撲もなく。アグネイヤはよろめきながら壁伝いに歩き始める。ぐずぐずしていれば、彼らに追いつかれる。追いつかれてしまえば、今度こそ殺される。
(殺される)
 ひんやりとした掌に、心臓がつかまれたような気がした。アグネイヤは痛みを堪えてひたすら歩いた。もう少し。もう少し歩けば、出口だった。
 そう思った瞬間。
 ふいに、後ろからなにものかに抱きすくめられる。悲鳴を上げる間もなく、口を塞がれた。アグネイヤは手にしたままの短剣を振り上げ、背後の敵を切り裂こうとしたのだが。
「――くっ?」
 一瞬早く拳に鳩尾を抉られ、意識を手放した。


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