AgneiyaIV
第一章 さすらいの皇女 
3.魔手(4)


「強情な子ね」
 アグネイヤの抵抗に、カイラは諦めたのか。唇を離し、溜息をついた。彼女は口に含んでいた薬をはき捨て、カイルを振り返る。
「ごめん、やっぱりあなたに譲るわ」
「お、俺?」
 カイルは先ほどとは打って変わって、おどおどした目でアグネイヤを見た。今の彼の目は、小動物を前にして捕らえるかそれとも森に返すか悩んでいる少年の目である。あの屠殺人の目ではない。彼はカイラが差し出した短剣を恐る恐る握り締め、アグネイヤに近づいた。
「心臓か、頚動脈か。楽に死ねるところを。ああ、顔に血が付いたら、かわいそうね。……失血死のほうが、よいかしら?」
 首筋と、胸と。カイラが示す部分に、カイルの視線が走る。彼は長身をかがめ、アグネイヤの前に膝をつき、まるで臣下がそうするように恭しくアグネイヤを見上げた。いや、傍目には恭順の姿勢のように見えるが。実は違う。この仕草は、かつて見たことがある。
 ミアルシァの果て。蛮族と呼ばれる人々の行う、人身供儀の作法である。彼のとる仕草は、神官が生贄に対して行うものだ。その一族のいけにえは、獣や捕虜などではない。一族の主たる高貴な一族の娘をその年の豊穣を祈願して屠るのだ。カイルは、それと同じ行動をしている。おそらくそれは、彼に刷り込まれたもの。刺客としてではなく、聖職者として。彼はアグネイヤを殺そうとしている?
「できない」
 あの残忍さはどこへやら。カイルは縋るようにカイラを見た。
「かわいそうだ。かわいそうだ。この子」
「そうね、可哀相ね。でも、殺さないと、もっと可哀相よ。……わたしたちが」
 びくん、とカイルの肩が震えた。彼の中で葛藤があるのだろう。歳不相応の幼い瞳の中に、恐れと不安と、憐憫と。そして、なにか。他の感情が淀んでいる。カイルは血が出るほどに強く唇をかみ締め、こちらに手を伸ばしてきた。先ほどアグネイヤを突き飛ばした大きな手である。アグネイヤは反射的に身を硬くした。カイラの足から逃れた手を庇うように抱きしめて、きつくカイルをにらみつける。やがて、その肩にカイルの手が触れた。身を交わす前に、服を掴まれ、強い力で引き寄せられる。
「殺せない」
 アグネイヤは、彼に抱きしめられていた。
「やめよう、もうやめよう、カイラ。俺はいやだ」
 父親が、子供を庇うように。カイルはカイラからアグネイヤを庇っていた。その大きな胸に抱きこんで。
「聞き分けなさい、馬鹿ね。私情を挟むなといったでしょう? だからあなたは」
 言いかけて、カイラは言葉を止めた。彼女はそっと手を伸ばす。床に落ちていた、カイルの剣に。それを彼の肩越しに見て、アグネイヤは息を飲んだ。カイラは、殺すつもりだ。カイルを。アグネイヤとともに。彼女はカイルの身体越しにアグネイヤを貫こうと、剣を逆手に構える。

「出来損ない」

 言葉とともに、カイラは剣を振り下ろす。だが。普段使い慣れていないせいだろう。それは狙いを外れ、カイルの肩を浅く切り裂いて床に刺さった。カイルはアグネイヤを抱いたまま立ち上がり。小さく頭を振った。
「俺を連れてこないほうがよかった。カイラ一人のほうが。きっと、よかった」
 それは、どういう意味なのだろう。おそらくは、言葉そのままの意味かもしれないが。カイルは悲しそうな目で相棒を見つめ、――それから。アグネイヤの身体をきつく抱きしめて。
 一気に走り出した。
「カイル!」
 アグネイヤとカイラの声が重なった。何をするのだという問いかけを含んだその声に。彼はしかし答えなかった。答える代わりに床を蹴り、窓を突き破って宙に身を躍らせたのである。
「うっ」
 耳元を切る風邪に、思わずアグネイヤは息を詰めた。しかしそれは一瞬で、カイルは軽々と地上に降り立つ。
「大丈夫か?」
 不器用に尋ねる声が、なぜかとても優しくて。アグネイヤは呆気に取られて、間近に迫る彼の夜色の瞳を覗き込む。彼はその視線から逃れるように首を動かし、階上のカイラを見上げた。アグネイヤもつられるように顔を上げれば。窓辺に佇む妖艶な刺客は、口元に笑みを刻み。
「忘れ物よ」
 大きく振りかぶって。
「……!」
 何かを投げつけた。
 街灯の明かりを受けて銀に輝くそれは、高い音を立てて石畳に――その隙間に突き立つ。大地を射殺す凶刃は、他でもない。アグネイヤの短剣だった。
「逃げられるものなら、逃げて御覧なさい、カイル」
 挑発的な言葉に、カイルはかぶりを振った。それはできない、と。また、同じ言葉を繰り返す。
「そうね。あなたは、わたしから離れて生きることは出来ない。そうでしょう?」
 鈴を転がす笑い声が、彼女の喉から漏れた。それは決して負け惜しみなどではなく。カイラは確信しているのだ。カイルがいつまでも彼女に逆らえないことを。アグネイヤを逃すことなど出来ないことを。
「……」
 カイラの魔性の瞳から逃れるためか。カイルは彼女から視線を外し、アグネイヤを抱えたまま走り出す。途中、足元に突き立った短剣を爪先で蹴り上げると。彼は器用に片手で受け取り、
「おまえの」
 アグネイヤに渡したのである。
「ありがとう」
 礼を述べれば、カイルは照れくさそうに笑った。その笑顔は、まさしく少年のそれであり。しらず、アグネイヤの心を和ませてくれた。



「馬鹿ね」
 二人が消えた窓を見やり。カイラは肩をすくめた。カイルは、あれで逃げたつもりなのだろうか。彼女から。一族から。無駄なことだ。また、薬が切れれば彼はここに戻らなくてはならなくなる。均衡を失った精神に至る前に、彼女から薬を受け取らねばならなくなる。そうしなければ。
 彼は、殺戮者になってしまうのだ。
(そのときに、彼女を殺さないように。祈っていてあげるわ)
 くすりと笑うその首筋に。冷たい刃の感触があった。横目で見やれば、頚動脈のあたりに剣が突きつけられている。こんなことをする人間は、今、この時点で一人しかいないはずだ。カイラは振り返ることなく、切っ先に指を当てた。そこに力を入れて、そっとどけようとする。が。
「仲間割れか? みっともねーな」
 揶揄するような口調で話しかけられ。わずかに眉を動かした。
「呆れた。動けるの? 動物並みの体力ね」
「言ってろ」
 はき捨てるせりふの中に、かすれた吐息が混じっている。カイラは身体を横に滑らせ、刃から逃れた。振り返れば、当然のごとく。そこに先程の青年がいる。世慣れたような雰囲気を漂わせつつも、どこか少年らしさが抜けていない。奇妙な不均衡さを持つ青年が。
 カイラは彼の足に目をやった。彼女が先程薬を注入した部分。そこは大きく切開されていた。あふれる鮮血を押さえることもなく。彼は失血するに任せている。血とともに毒を流しているのだろう。たいしたものだ、とカイラは内心舌を巻いた。
「おまえら、誰に頼まれた?」
 青年の問いかけに、カイラは唇の端を吊り上げる。
「言うと思う?」
「言わねぇだろうな」
「じゃあ、聞かないことね」
「そんでも聞きたくなるもんさ。『東方の毒薬師』を雇ったやつが誰か。興味あるだろう」
「あら?」
 カイラは、まんざらでもない顔で青年を見つめる。
「私を知っているの?」
「有名だろう? ドゥランディアのカイラ。その道で知らないやつはいない」
「ご同業ってことかしら?」
「さあな」
「で、彼女に篭絡された? 処女をあげるとでも言われたのかしら」
 あの娘にそのようなことができるとは思えぬが。
 何か交換条件がない限り、刺客が獲物と行動を共にすることはない。青年が善良なる一般市民を装って、彼女の護衛を引き受けたのなら話は別だが。その場合は、すぐには刺客としての本性を現さず、獲物が完全に信頼を寄せたころ、その首を取ることになるのだ。だが、これも違う。この青年も、そんな器用な芸当ができるような人物ではない。むしろ殺意をむき出しにして襲い掛かるほうだ。獲物の命と、身体を求めて。
「あんなお子様な身体が、あなたを満足させられるとは思わないけどね」
 挑発に、青年は応じなかった。また、「言ってろ」と短く吐き捨てると。糸が切れたように扉に肩を預ける。失血のせいで体力を奪われているのだろう。強がってはいるものの、その顔は死者のごとく蒼白であった。
「止血をしたほうがいいんじゃなくて? 辛そうよ?」
「誰のせいだ、誰の!」
「そんな口を利く気力は残っているのね」
 くす、と笑って。彼女は青年に近づいた。何事かと警戒する彼の前に膝をつき。徐に傷口に顔を近づけた。赤い舌が、獣のような動きで患部に触れる。薄い、犬を思わせる舌。それがゆっくりと患部を舐め始めると、青年は喉を鳴らした。強く眉を引き絞り、何かをこらえるように顔を背ける。

 快楽を、覚えているのだ。

 それがはっきりと伝わってくる。カイラは満足げに笑った。カイラやカイル、彼女らの一族の舌は独特で、その愛撫は他に例を見ないほどの快楽を、相手に与えることができるのだ。それが彼らが獣の一族と呼ばれる所以。ドゥランディアとは、大陸の古語で『快楽の獣』を意味している。この青年も今、身をもってそれを知っているのだろう。上気していく頬と浅くなる呼吸が、彼女に彼の変化を伝えていた。
(仕込んであげてもいいかしらね。カイルの代わりに)
 カイラの掌が、青年のしなやかな下肢を辿り始める。この男は、もう自分のとりこだと。彼女がほくそ笑んだとき。

 その視界が、真紅に染まった。

「な、に?」
 一瞬、何が起こったのかわからなかった。カイラは大きく弾き飛ばされ、危うく床に倒れ付しそうになってから初めて。自分が蹴られたことに気づいた。視界に散る朱は、青年の血液。彼は、患部をそのままカイラの顔に叩きつけたのだ。
「やるじゃない」
 唇に付着した血を舐め取って。カイラは青年を見据えた。
「名前くらい、聞いておいてあげるわ。わたしに無礼を働いた男として。記憶に刻んであげる」
「遠慮しておく」
「あら。なぜ?」
「名をとられれば、全てをとられる……迷信だろうがな。ドゥランディアに名乗る馬鹿が大陸にいるか」
 プッ、と血に染まった唾を吐き。青年は揺らめく身体を剣で支えた。
 そろそろ、限界が近いのだろう。傷口から大半は流れたものの、いくらかは体内に毒が残っているはずだ。失血と、その毒の効果と。双方が、彼の心身を蝕んでいる。それがわかるからこそ。カイラは余裕を失わない。
「詳しいのね、色々と」
 彼女は毅然と顔を上げて、体勢を立て直す。先程青年に引き裂かれた胸元を、自身で更に大きく開き。乳房も露に彼に迫った。
「ほしいでしょう? この身体? わたしの下僕になれば、好きなだけ抱かれてあげるわ。そうね、正気がなくなるくらい。記憶が蕩けてしまうくらい」
 ずるずると床に屑折れていく青年の前に立ちはだかり、カイラはゆっくりと手を差し伸べる。熱に浮かされた患者の如く、潤んだ瞳を正面から覗いて。彼女は青年の頭を優しく腕の中に抱える。
「さあ。名を、教えなさい」
 胸を、彼の頬に押し付ける。これで最後だ。媚薬の香りが、彼の意識を根こそぎ奪うはず。彼女はほくそえみ、彼の耳元に甘く囁いた。
「さあ」
「……う」
 何事かを、彼が呟く。
「なあに?」
 優しく、甘えた声を出して。カイラは耳を近づける。青年は、掠れた声で自らの名をつげる――彼女がそう確信したとき。思わぬ言葉が耳朶を打った。
「ロウ」
「え?」
「エルディン・ロウ」
 エルディン・ロウ。大陸中に名を轟かせる、暗殺者集団。主に、貴族・元首、そして僧侶の依頼のみを受け、その成功率は、十割と聞く。彼らは組合によって運営され、どこに潜んでいるのか――普段は市井にまぎれて本性を見せず。いざ、仕事となると、獲物に対して牙をむく。闇を彷徨う狼、尾を隠した蠍として恐れられる、謎の一族。
「あなたが、まさか」
 カイラは眉を引き絞り、彼から離れようとした。
 その、せつな。
「ひっ」
 がっしりと、喉を掴まれた。青年の無骨な指が、強く彼女の細首を締め上げている。片手だというのに、凄まじい力だ。カイラは悲鳴を上げることも出来ず、弱々しく悶えた。と、彼女の鳩尾に、彼の拳が叩き込まれる。
「……」
 カイラは瞬時にして意識を手放した。黒く染まる視界の中、眼に焼きついたのは、褐色の双眸。冷ややかに光るその二つの月を、記憶に刻み込んで。彼女は彼の腕の中に倒れこんでいった。


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