AgneiyaIV
第一章 さすらいの皇女 
2.白銀の貴公子(4)


 一通り手紙に目を通したスタシアは、ぶるぶると肩を震わせた。信じられぬ、そんな面持ちでじっと書面に見入っている。
 彼女の様子からディグルはその内容を察して。また、あの曖昧な笑みを浮かべた。彼は指を伸ばし、スタシアの手から手紙を抜き取る。それを明かりにかざして、素早く目を走らせた。

「ご側室を、借り受けたい」

 要約すれば、そのような内容であった。

 できれば毎日。剣の稽古と遠乗りの相手をしてもらいたい。勿論、夕刻にはそちらへ返す。
 彼女がそばにいれば、何よりの見張り役となるだろう。

 暗に示された事柄を読み取り、ディグルは目を細めた。面白い娘――これを本気で言っているのだとしたら――本当に面白い娘である。つまらぬ嫉妬からくる、側室へのいじめでも夫への嫌がらせでもない。妃は、一人の人間として。彼女を――ルーラを求めているのだ。愉快な娘が嫁いできたものだ、と思う。皇女は二人いたのに、選んだかのように奇妙な娘が送り込まれた。いな、双子というものは容姿だけではなく性格も似ているというのだ。おそらく妃の片翼も、似たような性格なのではなかろうか。
(なるほどな)
 それで納得した。ルーラが放った刺客。その男を取り込んだというアルメニア皇太子。ディグルの義理の妹は、その奇異なる性分で刺客を味方につけたのであろう。そうさせる何かが、彼女たちにはあるのだ。アルメニアに生まれた、運命の双子には。
「スタシア」
 沈黙する守役に、声をかける。スタシアは、ゆっくりと顔を上げた。彼女は複雑な表情のまま、ディグルを見つめ。その目をやや鋭くして、にらむように。上目遣いになっていく。
「近いうちに、あれのもとに渡る」
「殿下?」
「――嬉しいだろう。お前の願いがかなったぞ」
 あの、異国の娘と話してみたい。初めて、ディグルはそう思った。話してみればわかる。妃がどのような娘なのか。宮廷に巣食う女狐たちとどう違うものなのか。確かめることができる。その日まで。側室は貸しておいてやろう。
(目だけは節穴ではないのだろうな)
 ひそやかな苦笑。だが、スタシアは、その笑みにすら気づかなかった。



 ホントに悪趣味、と。クラウディアは口に出して呟いた。
 よりによって暴れ馬に妻の妹の名をつけるなど。どうかしている。しかもそれが、側室の乗用馬だというのだから。どれだけ自分たち姉妹を馬鹿にしているのか。考えただけでも胸が悪くなる。
「妃殿下」
 傍らに馬を寄せたルーラが、低い声で告げる。
「お気持ちを静められませんと、馬が興奮します」
 クラウディアの騎乗馬、シェルカは不安げに耳を立てている。乗り手の感情に、敏感に反応しているのだろう。ともすれば、わずかな刺激で暴走してしまうこともありうる。ルーラの忠告をありがたいとは思うが。今は理性よりも感情のほうが勝っていた。

 アグネシア。暁の星を意味する女性形の名。アグネイヤも、皇太子でなければこの名をつけられるはずであった。現在ルーラの騎乗している馬は、その名を持った牡馬。いな、セン馬である。気性が荒すぎて、男性機能を奪われた馬だ。

「私がこの馬に騎乗しているのが、お気に召さないのですか?」
 尋ねられて、クラウディアはかぶりを振った。
「あなたに腹を立てても仕方のないことです。責められるべきは、ディグル・エルシェレオスでしょう」
「殿下、ですか」
「当然です。馬鹿にしています。彼は」
「妃殿下を、ですか」
「私だけではなく。妹もです。さらには、母も。――アルメニアを豊かなだけの腰抜けの国とでも笑っているのでしょう。圧力に屈して、簡単に皇女を差し出してしまった。気骨があれば、ここで一戦交えるところでしょう。それもせずに、あっさりと。皇帝を失ったとはいえ、これではあまりにも情けない。そこを笑っていらっしゃるのでしょうね」
 皮肉でも当てこすりでもなく、そのものズバリを口にする。この、歯に衣着せぬ物言いが、いずれあだになると言われたことがある。母后はそれを案じて、輿入れの前に滔々と彼女を諭したものだが。人の性格は簡単に変わるものではない。波風を立てぬようにするのであれば、誰とも言葉を交わさないことだと、クラウディアはそう思っている。彼女でなくとも、誰でもそうだ。誰もが同じ言葉に反応するわけではない。他の誰もが聞き流すような言葉に目くじらを立てる輩もいる。それをいちいち考えていたのでは、それこそ終始無言で過ごさねばならない。
(ばからしい)
 気を使っていたとしても、失言はある。そんなものを恐れていて、人の上に立てるだろうか。上に立つものは、多かれ少なかれ誰かを傷つけているのだ。いな、上に立たなくとも。誰も傷つけずにいる人間など存在するわけがない。
 第一、とクラウディアは考える。
 相手の痛いところ、物事の真実、本質、それらすべてを真正面からぶつける性分は、他でもない。母后から受け継いだものだ。これはアグネイヤとて同じであったが。妹は、どこかしら人に対して気を使う、遠慮する一面があったので、思っていても余程のことがない限りきついことは口にしない。その分、クラウディアが矢面に立つことが多かった。ゆえに、輿入れするのは自分ではなく妹のほうがよいのでは、と母后も考えるようになっていたようなのだが。

 ――私が、皇帝になる。『僕』が、アグネイヤになる。

 彼女が、その言葉を言ってしまったから。
 あの時、クラウディアを庇うために。クラウディアの身を気遣って。あのようなことを口にしてしまったから。
 そんな片翼を甘いと思う。愛しいと思うと同時に、甘い、と。そうも思う。
(あの子だったら。ここにこうして押し込められていても。何も言わなかったのかもしれない)
 生涯、形ばかりの妃として。あの人形のような男の元にいるのだろう。外に出られず、一切の自由を奪われたとしても。甘んじてそれを受けたであろう。片翼のために。母后のために。祖国のために。そして、フィラティノアのために。思ったことも口にせず、すべてを己の中だけに秘めて。
「よかった」
 知らず、呟きが口をつく。ルーラが訝しげに眉を寄せる。
「よかった。ここに来たのが、私で」
「妃殿下?」
 ルーラにはわかるまい。彼女には、おそらく一生。
「妃殿下の行動は、唐突過ぎます」
 これが側室の答えであった。唐突で、強引で。後に続く言葉を予測して、クラウディアは笑った。
「そう。強引です。――強引ついでに、もう少し。今日は付き合ってくださらないかしら」
「どういうことでしょう?」
「宮殿の外に出たいのです。あなたが監視していれば、ディグル・エルシェレオスも国王も。安心でしょう?」
 珍しく、ルーラの顔に表情が表れた。「やれやれ」、おそらくそんなところであろう。表情豊かな女性であれば、大袈裟に顔をしかめて溜息のひとつもついたに違いない。


 騎士のなりをした女性二人。城の裏門を抜けたところで、誰も注意を払わなかった。いな、それはそのうちの一人が王太子の寵姫・ルナリアだということを、衛兵達が関知していたゆえである。ルナリアに同行する、少女騎士。彼女には見覚えはなかった。流れる黒髪、暁の光を宿す古代紫の瞳。稀有な容姿を持つ美少女は、衛兵に気さくな笑顔を向け。颯爽と馬を駆っていった。
 その人物が王太子妃、その人であると。後に気づいた彼らは不思議な思いで互いの顔を見つめたものだった。

「妃殿下が、ご側室と外出されるのか?」

 誰もが感じる疑問を、一人が口にすると。衛兵たちはそろって肩をすくめた。


 長かった冬が終わりを告げ、ようやく光あふれる季節がやってくる。その喜びに沸き立つ街は、華やかで活気があって。セルニダを思い出させた。
 オリアよりも遥か南、常春とは言えぬまでも一年を通して温暖な気候のセルニダは。商業都市ということもあって各国からの来訪者で常ににぎわっていた。時々宮殿を抜け出して、市井にまぎれた双子は、露天で堂々と果物や菓子を買い、それを食べながら街を歩き回った。異国から運ばれたばかりの珍しい布にアグネイヤが歓喜すると、クラウディアはそれに見合った装飾品を探しに走った。これがほしい、とねだる皇女二人のわがままを、護衛として同行した侍従武漢は苦笑を浮かべながらもできる限りの範囲で聞いてくれた。
 それでも、双子のもっぱらの関心は、東のカルノリアからやってくる毛艶のよい駿馬たちにあったのだ。馬産地として知られるカルノリアからは、古来より名馬が数多く輸入されてきた。よりよいものはまず帝室に献上されるが、そうでないものは必ず市場にだされる。貴族たちでさえも、セルニダの中央広場に立つ市で己の馬を買い求めるのだ。
 そこで、あるときアグネイヤが珍しく駄々をこねた。
 この馬がほしい、と。柵にしがみついたまま一歩も動かず護衛を困らせたことがある。
 そのときに彼女が購入した馬が、のちにアグネイヤの愛馬となる黒鹿毛の馬であった。

 あの馬は、今、どうしているのだろうか。
 一人残されたアグネイヤを慰めてくれているのだろうか。

 今の乗用馬と同じく月姫の名を持つ馬を思い出し、クラウディアは思わず手綱を取る手を握り締めた。それを合図と受け取ったのか。シェルカ――彼女が騎乗する牝馬は、ぴたりと足を止める。
「どうかされましたか」
 雑踏の中から、ルーラの声が聞こえる。クラウディアの斜め後ろから付き従っていた彼女は、馬を並べて。先程と同じように正室の顔を覗き込んだ。その顔は相変わらずの無表情で。心配しているとは到底思えぬが。クラウディアは、「なんでもありません」と短く答え。そのあとに「ありがとう」と付け加えることも忘れなかった。
 形式的な気遣い。それをありがたいとは思わない。だが、されぬよりはましだろう。
 ルーラは、必要以上には口を利かぬ女性だった。クラウディアが話しかければ、頷きもするし相槌も打つ。短い意見も言えば、クラウディアの言葉に時折考え込むような風も見せ。まったく感情がないわけではないようだった。
 それでも。表情豊かな片翼と比べてしまうと、物足りなさは拭えない。
 今日は双子の誕生日。アグネイヤも遠くセルニダの地で祝福を受けているのだろうか。
 逢いたい、と思う。逢って、色々話したいと思う。もしも、祝宴を開いてもらえれば、アグネイヤがオリアを訪れることは可能なのではあるまいか。しかし、もしも彼女がこの地に足を踏み入れたならば。その命の保証はないだろう。
 アルメニアにいた折ならば、そばにいてほしいと思うときは必ず来てくれた。何があっても、黙ってクラウディアのそばにいて。声をかけることもなく、そこに膝を抱えて座っていてくれた。双子の持つ不思議、と人は言うけれども。確かに自分とアグネイヤには、心を通わせる何かがあった。
 だから、余計に物足りない。アグネイヤの代わりになるものは、この世には存在しないのだから。

「あ?」
 目抜き通りの雑踏の中に、黒髪の娘を見つけてクラウディアはどきりとした。アグネイヤと一瞬見間違う。が。野菜を両手に抱えた娘は、アグネイヤとは似ても似つかぬ顔立ちの少女で。真っ黒に雪焼けした顔を汚れた掌でごしごしこすり、余計黒くしていた。

 ここに、いるわけがない。
 わかってはいるのに。来てほしいと思う。それは自分のわがままなのだろうか。

 野菜売りの娘が、クラウディアの視線に気が付いて、にっこりと笑った。クラウディアはそれに形ばかりの笑顔を返す。娘は自分と同じく黒い髪の彼女に親近感を持ったのだろう。
「これ、新鮮だよ。とれたて」
 一抱えもある青物をクラウディアに向けて差し出した。
 午後の日差しを受けて、春野菜の葉がキラキラと輝いた。見れば、娘の瞳も、その葉と同じく若葉色をしている。クラウディアは迷わずその野菜に手を伸ばし、泥が付いたままの葉に触れた。
「――御方様」
 ルーラが咎めるような声を出した。さすがにここで、「妃殿下」と呼ぶことはできぬ。一瞬口ごもった彼女の気まずそうな顔がおかしくて、クラウディアは思わず吹き出した。
「御方様、お手が汚れます」
「かまいません。――これは、いかほどですか?」
 尋ねると、娘は値段を答えた。セルニダの相場よりはかなり高めであったが。この地方では仕方のないことなのであろう。
「もう少し、安くなりませんか?」
「御方様っ!」
 庶民から直接品物を買おうとしたばかりか。値切りまで試みる王太子妃を側室は奇異の目で見つめていた。その視線を気にもせず。クラウディアは娘に笑いかける。その陽だまりのような笑顔に溶かされたのか。娘は「負けたよ」と苦笑を浮かべた。
「お姉さん美人だから。おまけして、こいつもつけちゃう」
 傍の籠にあった果物を、一緒に差し出す。クラウディアは小指にはめていた指輪をはずし、彼女に差し出した。娘は不思議そうな顔でそれを受け取るが、それがあまりにも高価なものであると気づいたらしく。激しく首を振った。
「だめだよ。おつりが払えない。あたしの野菜、全部出してもおつり出せないよ」
「では、これは支度金としましょう」
「したく、きん?」
「前払い、といえばわかりますか?」
「うん」
 半信半疑で頷く娘に、クラウディアは。
「明日から毎日。あなたの野菜を届けてください。場所は、そう――」
 北の離宮の名を告げた。娘は目の前の少女騎士が誰であるかを、瞬時に悟ったらしい。ひっ、と短く声を上げて、その場にへたり込んだ。


「妃殿下。お戯れが過ぎます」
 城下からの帰路。ルーラが渋い声を上げた。
 小言は覚悟している。クラウディアは小さく頷いた。
「アルメニアにいらしたころから、あのように下町にお出かけになられていらしたのですか?」
 世間慣れしているクラウディアを見て、そう思ったのだろう。ルーラは、小言の好きな古参の侍女のように、渋面を作っていた。が、それを見て。彼女にもこんな表情ができるのだとクラウディアは却っておかしくなった。その反応が、またしてもルーラの目には奇異に映ったらしい。彼女はますます怪訝そうに眉をひそめる。
「将来上に立つものは、基層の生活を知らねばならない。――初代皇帝のお言葉を、守っておりますから」
 アグネイヤ一世は、貴族の出とはいえ、野に育ったも同然であった。彼は第一に民衆のことを考え、まつりごとを行ったのである。その家訓は現在まで脈々と受け継がれ、将来皇帝となるものは、市井に出て暮らすことも必要とされていた。セルニダの下町での生活、地方都市での生活。加えて、他国の都市での生活。帝位継承者としてではなく、一人の人間として。雑踏の中で己の立場を見つめることを義務付けられていた。

(そう。アルメニア大公の義務として)

 自分は、将来アルメニアを背負う人間として。教育された。
 十四歳のあの日まで。どちらがアグネイヤで、どちらがクラウディアになるのか。己の意思で判断するあの日まで。
 双子は、どちらでもなかった。
 アグネイヤでも、クラウディアでもなかった。
 ただ、アルメニア皇女であったのだ。


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