AgneiyaIV
第一章 さすらいの皇女 
2.白銀の貴公子(1)


 地図。それを見るとき、人は何を思うだろう。
 人。ことに、王侯貴族たちは。
 まだ見ぬ土地への憧れか。それとも、自らの版図の広大さか。その卑小さか。
 為政者たちは遊戯のように、おのが領土を賭けた戦いに興じている。
 国を豊かにするため、ひいては、自らを豊かにするため。戦いに身を投じているのだ。
 そんな時代が長く続き、ひとときかりそめの平和をはさんで、また戦が始まる。
 戦の女神と、平和の女神は双子で、どちらかが目覚めたときにはどちらかが眠るといわれているが。
 いま、この時代。戦の女神はまどろみの中にいるらしい。だが。
 平和の女神の瞼もまた。重く下がってきているようであった。

「雪、か」
 窓越しに散り行く冬の花を見つめて。彼は小さくつぶやいた。
 珍しくもないが、と。

 フィラティノアの首都・オリア。一年の半分を、雪で装う街。その優美なる姿を以って、人々はこの都を『白銀の貴婦人』と称するのであるが。実際にここに暮らしてみると、その貴婦人がどれほど冷ややかな心の持ち主であるか、すぐにわかるであろう。
 オリアの冬は、言うまでもなく厳しい。
 雪に閉ざされた白き都は、人が暮らすには向かない街である。木々に眠る小鳥が、寒さのために凍死することも、貧しき暮らしをする人々の指が、凍傷で欠けていくのも。現実であった。貴婦人の白き衣は、守り手ではなく。傷つけるための刃にしかならぬ。
 しかし、それが幸いして。この街は古くから難攻不落の都市として名を馳せてきた。
 雪の恩恵を受け、また、雪によって傷つく。そうやって、時を刻んでいく街。

 オリア――その市街の中心にそびえるのが、白亜宮。
 フィラティノアの王宮を、人はそう呼んでいる。先代の国王が、いくつもの都市を征服し、統一した結果生まれた国。フィラ・ティノゥアーとは、古き言葉で『大陸』をあらわすものでもあった。ゆえに、この名を冠した国が産声を上げたとき。周辺諸国は戦慄したものだ。
 大陸統一を狙った新興国が登場したのか、と。
 ことに、フィラティノアと国境を接している、アルメニア、カルノリア、セグは早々に対抗するための同盟を各々結んだのだが。その心配は、杞憂に終わった。フィラティノアは、かつて神聖帝国と呼ばれていた地域の一部統一を図ると、それ以外の地域には目もくれず。矛先をあっさりと布でくるんでしまったのである。
 それから、数十年。フィラティノアは、沈黙を守っていた。
 周辺国家の間で小競り合いが起こっても。そ知らぬ顔を決め込んでいた。ただひたすらに、おのが国力を高めることだけに邁進し、他国には目もくれなかったのだ。そう、あのときまでは。

(アルメニア。混血美の帝国。麗しの、黄昏の都)

 ほんの些細なきっかけからフィラティノアは沈黙を破った。そうして、建国以来はじめての同盟国を得た。それが、アルメニア。緑豊かな経済大国。古王国・ミアルシァの財源として、各国の垂涎の的となっている国。異民族同士の混血によって生まれた、大陸の華。そして、大陸の膿。
 その帝室から彼の元に幼い花嫁が送られてきたのは、一年ほど前のことであったか。


「窓を閉められてはいかがですか? お体に障りますよ」
 口うるさい古参の女官の言葉を無視して。彼は細い指を伸ばした。指先で舞い散る雪をすくい、それが手の熱で溶けていくさまを見つめて。微かに笑った。
「なにがおかしいのですか。また、そんな子供のようなことを」
 口の中で文句を言いながら、女官は窓を閉めた。彼女の大事な王太子殿下が、風邪を引かぬように。体を壊さぬように管理するのも、幼いころから彼の守役を務めてきた自分の責任であると、公言してやまぬ女性である。彼女――スタシアは、新参の侍女たちがその美しさに憧れはしても、「怖いお方」と恐れているフィラティノア王子に対して、意見を言うことのできる数少ない存在なのだ。
「俺にも、体温はあるのか」
「当たり前です。死人ではないのですから」
 (カーテン)をぴったりと閉ざして。スタシアは彼に向き直る。銀色の髪の王子は、まるで表情を変えずに。肩をすくめて見せた。
 笑わぬ王子。感情のない王子。そのひとならぬ冷たさをして、人は、彼を白亜の都に喩える。
 ――白銀の、貴公子。
 フィラティノア第一王子にして、次期国王。ディグル・エルシェレオスを人が影でなんと呼んでいるのか。彼自身、気づいているのだ。
 白銀の髪、深い青い瞳。雪の色と、北の海の色。典型的なフィラティノアの容姿が、彼のまとう冷ややかな空気をさらに強めているようであった。同じ色の髪と瞳を持ってはいても、スタシアは温かい。心根が温かいからなのか。
 魂なき彫刻の貴公子は、そんな己の身を嘆くわけでもなく。戯れに口にしては、スタシアを困らせる。
「つまらぬことを仰ってないで。妃殿下のもとにお渡りになられてはいかがです?」
 スタシアの言葉に、ディグルの眉がわずかに動いた。
「まだ、正式な婚姻は結んでいない。形式的にも」
「いずれは、奥方になられる方です。そして、フィラティノアの御国母となられる方。この地に骨を埋める方なのですよ。早く馴染んでいただかなくては。それには、夫君たる殿下の支えが必要なのですわ」
 もっともらしく語るスタシアに、ディグルは他人にはそれとわからぬ苦笑を向けた。
 アルメニアから来た花嫁は、はじめから彼には心を開いていなかった。用意された離宮に引きこもり、一度として白亜宮を訪れたためしがない。ディグルもまた。異国の娘に興味はなく。彼女と心を通わせる気にもならなかった。
(孕ませて、子供を生ませればいいのだろう?)
 結局はそれだ。父は、将来的にはアルメニアとフィラティノアの統合を視野に入れている。そのときに両国の上に君臨する主君として、アルメニアの血を受けた男子が欲しいのだ。
 そのために、アルメニア皇太子アグネイヤが邪魔だった。彼女が命を落とせば、否応なく継承権はその姉に。第一皇女クラウディアに移るのである。ゆえに、父は躍起になってアグネイヤの命を狙っているようだったが。
 いまだ、その目的は達成されていない。
 そればかりか、アグネイヤの消息すら、掴めていないのではないか。
(おろかな男だ)
 野心家の祖父から、野心のみを受け継いでしまった哀れな男。己の器がどれほどの大きさなのか。把握することもできずに。ただ、走ることしか知らぬ男。それがいずれ身を滅ぼすことになるのだとしても。彼は止まることを考えぬのだろう。
 アルメニアの背後には、古王国が控えている。大陸最大級の版図を誇り、その血の高貴さを広く世に知らしめているミアルシァが。かの国がある限り、アルメニアは手に入らぬ。そのことを、父はどう思っているのだろうか。
 同盟の条件として、皇女を貰い受けたまではよかったが。その皇女が、完全に継承権を剥奪された存在である場合、国王の目論見は空論に終わるのだ。アグネイヤが落命しない限り。紫の帝冠は、クラウディアの頭上には輝かない。

「失礼いたします」
 スタシアが去った後。寝室の扉が軽く叩かれた。名を問うまでもなく、ディグルは訪問者が誰であるかわかっていた。彼は起き上がり、燭台に明かりをともす。ぽぅっ、と闇の中にひとつ、光の輪が生まれる。彼はそれを机に置き、ゆっくりと扉を振り返った。
「ルーラか」
 いらえはなく。扉が静かに開けられた。入室してきたのは、若い娘である。いや、娘にしては、若干長身で。その体に丸みがないことが気になる。例に漏れずフィラティノア独特の銀の髪と青い瞳を備えたその娘は、まるで気配を感じさせずに、彼の元に歩み寄った。
「遅くなりました」
 軽くこうべをたれるが、まるで悪びれた様子はない。むしろ堂々として彼女は主人を見上げた。蝋燭の薄明かりの中で、青い瞳が不可思議な輝きを帯びている。
 美しい娘であった。こうしてディグルと並ぶと、まるで一対の彫刻のようであった。
 白銀の貴公子と、貴婦人。いな。この娘には、貴婦人といった風情は似合わぬ。どちらかといえば、尊さよりもそれを通り越した透明感のようなもの。ひとならぬ、精霊といった雰囲気を持つ娘だった。
「皇太子殿下は、現在セグの街に潜伏されている模様です。フィラティノアの国境近く。ヴァルディナあたりに」
 前置きもなく彼女は告げた。ディグルは咎めるわけでもなく、無言で耳を傾ける。
「私の放った刺客と合流。ともに行動しているのではないかと思われます」
「小娘が。篭絡したのか」
 蔑むような呟きに、ルーラと呼ばれた女性は軽く肩をすくめる。
「他の刺客を送りますか?」
「いや、いい」
 即答して、彼はルーラの肩を抱き寄せた。彼女はそれに抗わず、ディグルに身を任せる。
「今宵は冷えるな」
「雪が、また降り始めましたから」
 言葉を最後まで紡ぐことはなかった。彼女の唇は、彼のそれに塞がれる。しばしの抱擁の果て、ルーラは朱唇を彼の耳に近づけた。
「妃殿下のもとに、お渡りにならなくて宜しいのですか」
「おまえも、スタシアと同じことを言うのか」
「スタシア殿は、当然でしょう」
 表情も変わらぬ。声も立てぬ。冷ややかな笑みがルーラの白い(おもて)の中に滲んだ。
「ご存じないですから。『私のこと』を」
「そう、自らを卑下するものではない」
 ディグルはルーラを抱く手に力を込める。お前のせいではない、と低くひとりごちて。
「浅ましき身に落ちたのは。あの女狐のせいだ。お前は関係ない。おまえも。……あの娘も」
 あの娘。ディグルが妻となる皇女を決して名で呼ばぬことを、知るものは少ない。
「ルーラ。今宵は、久しぶりにお前を抱きたくなった」
「お召しのままに」

 ふっと明かりが吹き消される。
 あたりに落ちるのは、闇。北国の、冷ややかな、闇。



 地図を広げて。思うことは、人それぞれ異なるもの。
 邪心なき心で、己の広大な領土を見つめるものもまた。存在するのだ。
「ここが、アルメニア」
 白い指が、大陸の左半分を占める広大な領地の境界線をたどる。その境界線に囲まれた土地こそ、大陸の穀物庫。古王国の財政庫。そして、彼女の故郷である大アルメニアであった。
 首都のセルニダは、国土のほぼ中央に位置し、すべての道がこの街から放射状に伸びている。これは、古い歴史を持つ都市の特徴であり、計画された都市であることを象徴するものでもあった。そして、そのさらに中央に君臨するのが、
紫芳宮(しほうきゅう)
 アルメニア皇宮。紫の芳しき宮。彼女の瞳と同じ名を頂いた、アルメニアの宝。
 そこから、道を辿っていくとフィラティノアの首都に通じる。異国の街であるから、当然アルメニアの地図にはオリアの詳細図は載ってはいない。いつ敵国になるかも知れぬ相手である。国土の情報は、できるだけ漏らさないようにする。これが、当時の護身の方法であった。
 だから。この地図のことは秘密。アルメニアの詳細が描かれているこの地図を持って嫁いできたことは、絶対の秘密。これを知られてはならない。夫にも義理の両親にも。
(私は、アルメニアの皇女だから)
 十五歳にして異国に嫁がされ、正式な婚姻の発表はないものの既に公にはアルメニア皇女としてではなくフィラティノア王太子妃として扱われているのだ。アルメニアはふるさとではあるが、既に異国。同盟が破綻すれば、敵となる。
 そうなったときには。
 自分はどうすればよいのだろうか。
 アルメニアを完全に捨て、フィラティノアの王族として。全力で故国と戦うのだろうか。
 それとも、アルメニアに逃げ帰るのか。母后は、『妹』は。自分を救い出してくれるのだろうか。
 クラウディアは溜息をつき。先ほど侍女が運んできた飲み物を口に含んだ。冷めないように工夫された器。北国らしいその細工のおかげで、まだそれは温かかった。庶民には高級といわれる砂糖をふんだんにに使った、香茶と呼ばれるその飲み物はアルメニアにもあったが。ここでは飲み方が少し違っていた。
 アルメニアでは中に果物を切ったものを浮かべるのだが。フィラティノアは動物の乳を入れる。さらには、きつい香りの香辛料を加えていて、初めのころはとても舌が受け付けなかったのだが。
 その年初めて雪の降った日。寒さに負けて、「温まりますよ」と差し出されたそれを飲んでみたら。
 香辛料のせいだろうか。体がかっと熱くなり、それまで感じていた寒さを和らげることができたのだ。
 そのときのことを思い出して、クラウディアは微笑んだ。
 こうして。少しずつこの国に慣れていくのだ。
 もしも、身も心も完全にフィラティノアの人間になりきるときがきたら。そんなときがあるのだとしたら。
(この地図は、焼いてしまおう)
 彼女は幾度も触れたセルニダの中心に、そっと指を置いた。


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