AgneiyaIV
番外編/淑女たちの休日

 遠乗りに行きたい。

 クラウディアが言い出したとき、ルーラは呆れたように眉を顰めた。またですか、と視線が告げている。無論、彼女の表情の変化など微妙なものだ。クラウディア以外には、眉が動いたことすら解らぬだろう。あまつさえ、その意味するところも。
「昨日もそう仰られていたようですが」
 北の離宮の中庭、近頃漸く種々の花が咲き乱れるようになったその場所で。ルーラ相手の剣の稽古にも飽きたのか――単に、「外に出たい」だけなのだろうが。王太子妃・クラウディアは、無造作に下生えのうえに座り込んで空を見上げた。北国特有の雪模様。の空は、今は綺麗に晴れている。鮮やかに澄んだ青空を眺めていると、気持ちが逸って仕方がないというのがクラウディアの言い分であった。
「こんなに天気がいいんだもの。たまには、ちょっと遠出したいと思わない?」
「妃殿下」
「わたしのおもりばかりじゃ、あなたも退屈でしょ? 思い切って、宿泊付きで。出かけてみましょうよ」
 宿泊つき、というところにルーラが難色を示した。人質同然でこの国に嫁いできた妃を、簡単に王宮の外に連れ出すことは出来ない。いくらルーラが王太子の側室で、王太子自身の信頼が厚かったとしても。妃と二人で外泊など、許されるはずもないだろう。
 また、クラウディアの我侭が始まった、と。渋い顔をするルーラに、クラウディアは屈託のない笑みを向けた。
「要は、ディグルの許可を取れればいいんでしょ?」
 また、これである。
 誕生日の際は、馬と剣と稽古の相手がほしいとごねた挙句、王太子から見事にそれらをせしめた――もはや、せしめたとしか言いようがない――クラウディアである。言い出したら聞かないのは、周知のとおりだ。ルーラは半ば諦めたように、それとわからぬ溜息をついた。
「ごちゃごちゃ言うようなら、あなたも一緒にくればいいのよ、なんて書いてみたら。ディグルはどんな顔するかしらね」
「――妃殿下」
 また、趣味の悪い。
 そうとでも言いたげな目を向けるルーラ。
 結局、クラウディアは、【無表情】【冷徹】と呼ばれるディグルと、その側室の反応を楽しんでいるのかもしれない。ともあれ、クラウディアがルーラと接するようになってから。フィラティノア王宮の雰囲気は少しずつ変わりつつあったのである。以前は、この国の空気そのもの――ひやりとした氷にも似た、とげとげしさが漂っていたというのに。この、南国――といってよければ――の皇女が嫁いできて。王太子との奇妙な文通を始めるようになってから。徐々にだが、気配が和らいできているようであった。それはあたかも、春の訪れに雪が溶けるような。花が開くような。光がさすような。そんな印象を王宮の人々に与えているのかもしれない。けれども、大半の人々が、その【氷解】の理由を知る由もないだろう。その中心にいるのが、アルメニア第一皇女・クラウディア――滅びの名を持つ娘であることを。



 クラウディア直筆の手紙を受け取ったディグルは、ルーラと同じく。人にはそれとわからぬほどの苦笑を浮かべた。
(我侭娘が)
 妻といえど、正式に対面したのは、彼女が到着した日の宴。婚約式の席でのみである。そのあとは、特にこれといって逢う口実もなく。逢う気持ちもなく。ディグルは王宮、クラウディアは彼女のために建てられた離宮に篭ったきりで。顔をあわせることなど皆無であった。こうして、夫婦でありながら対面もせず、【文通】まがいのやり取りをするようになったのは、クラウディアの十六歳の誕生日からである。
 文通といえども、甘い愛の言葉が書かれているわけではない。

 ――遠乗りに出る。宿泊も予定しているので、二、三日ご側室をお借りする。

 素っ気無いほどの文章が、要件を語るのみである。
「殿下」
 クラウディアからの書状を見せられた女官長スタシアは、またしても卒倒せんばかりに驚いた。ティノア人特有の青い瞳に涙すら浮かべて。主人である王太子を見上げている。
「妃殿下は、お寂しいのですわ。もう、おわかりでしょう? このようなことを仰るなど……ああ、きっと、殿下のお越しを待っていらっしゃるのです。ですから、こんな。側室を借り受けるなどと」
 夫の愛を求めるために、その寵姫を手元にとめおく。スタシアはそう考えているのだ。そしてそれは、世の【男性の愛を受けたい女性】が考える、愚かしいこと。嫉妬から始まる、不毛なる地獄である。
 けれどもディグルは気づいている。クラウディアの意図が別のところにあることに。彼女は、夫である自分に対する興味はまるでなく。純粋に気に入ってしまっているのだ。一般論的には【恋敵】に当たる、夫の側室を。
 勿論、妻に妙な趣味があるとは毛頭思ってはいない。
 クラウディアはクラウディアなのだ。男でもない。女でもない。《クラウディア》という一個の人間なのだ。
「【あれ】の言いそうなことだな」
 低く、ディグルの喉が鳴った。クラウディアは並みの女性ではない。だから、面白い。だから、寵姫を差し向けたのだ。
 彼は侍女を呼びつけ、妻への返事を託した。クラウディアからの書状に対して一言。【許可する】と。簡潔な答えを添えて。侍女は一礼して退室した。ディグルの返答は、半時も経たぬうちに妻のもとに届くであろう。
「――アーディンアーディンに、離宮があったな」
 ポツリと漏れる呟きに、スタシアが反応する。
「ございます」
 王太后が、隠居後に滞在していた館である。王太后亡きあとは、僅かな使用人たちのみが、建物の維持のために残っているに過ぎないが。そこは、使えそうだった。首都・オリアから馬を飛ばせば約半日。距離も近い上に、保養地としても名高いその街には、確か温泉などもあったはずだった。
「アーディンアーディンの離宮に知らせを出せ。王太子妃と、側室が出向くゆえ、迎える準備をしろと」
「殿下っ」
 スタシアは声を上げた。血圧が上がったのか、それとも精神的な疲労か。彼女は額を押さえて、項垂れた。



 ――アーディンアーディン。セグとの国境沿いの街である。街自体は、それほど大きいものではない。貴族や富裕層の別荘地、というだけで、一般の旅人に向けた宿などは殆ど作られてはいない。ゆえに、セグから訪れる旅人は、ここを素通りして。更に北、もしくは少し西に寄った宿場町に宿を取るようになっている。が、それは春から秋にかけてのことであり。冬場はこの街自体が閉ざされてしまう。そのために、国境を越えることを断念して、もしくは、陸路ではなく海路を選んでこの場所を迂回する人々も少なくはない。
 そんな通り一遍の知識だけは、クラウディアも持ち合わせていた。
 今はもう、季節は春――晩春と呼んでも良い。夏は、すぐそこまで来ている。
 北に位置するオリアでこそ、まだ寒さを感じるものの。首都よりも更に南下したこの街では、涼やかな風の中にも陽光の強さを感じることが出来る。さすが別荘地であるだけに、気候も空気も景色も、申し分はなかった。向かって右手にアルメニアとの国境をなす山脈と、そのふもとに広がる平原。緑豊かな土地に囲まれるようにたゆたう湖――ほとりに佇むのは、贅を尽くした館などではなく。ティノア人らしいごく簡素な建物である。貴族の家といえど、華やかさはなく。王族の離宮もそれらの建物よりも一回りほど大きいだけの、重厚な城であった。
「お待ちいたしておりました」
 門番が恭しく馬上の二人を迎える。
 騎士のなりをしたクラウディアとルーラ。美少女と美女――王太子の正室と側室の姿に何を思っているのか。心の内をまったく読ませぬ態度で、門番は彼女らを庭へと導き、中から現れた女中頭らしき女性が、代わって二人の案内を引き受けた。
「道中ご無事で何よりです」
 形式的な挨拶に、クラウディアは頷いた。ルーラは何も応えない。
 道中も何も、ここから首都オリアまで半日である。彼女らの馬術の腕を持ってすれば、それ以上に時間を短縮することが出来る。現に、彼女たちが王宮を出たのが朝食のあと。今は、昼を少し過ぎたころである。異例の早さであるが、女中頭はそのようなことなど知りもしないし、知ろうとも思わぬだろう。早速、昼食を勧める彼女に対して、
「せっかくだけど、ここでは戴かないわ」
 クラウディアは素っ気無いと思われる口調で、断りを入れる。
「汁物以外は籠に詰めて。葡萄酒か林檎酒を用意してくださるかしら。外で戴きたいの」
 これには、さすがに女中頭の眉が動いた。
 救いを求めるかのようにちらりとルーラに視線を走らせるが。側室のほうは、無表情である。女中頭は諦めたように頷いた。「すぐにご用意させます」と、返答をしたのち。
「支度が整いますまで、お部屋でお休みくださいませ。湯を、用意いたします」
 この街のもうひとつの利点。【温泉】を勧めたのである。

 館の地下に、湯殿は設えられていた。浴衣(よくい)に着替えたクラウディアは、女中に導かれるように、石造りの階段を降りていったのだが。立ち上る湯気と、独特の匂いに辟易して顔をゆがめた。温泉に入るのは、初めてではない。むしろ、他の人々よりも多いくらいである。ちょうどこの山脈の向こう側。アルメニア領にある湯治村には、傷の治療のためによく出向いたものだった。
 そこの湯は、透明で匂いもなく、飲用することによっても効能が得られるということで、セルニダに帰郷した後も湯を取り寄せては服用していた。
 ともあれ、クラウディアにはその記憶がはっきりと残っていたものだから。今回のこの温泉――白濁した水と、鼻を突く悪臭――は、少し意外であった。
「こういうものだったのね」
 だから、ルーラは「一緒に行きましょうよ」というクラウディアの誘いを
『遠慮いたします』
 あっさり断って。旅装を解くべく部屋に行ってしまったのか。
 それならそれで、一言告げてくれればよいものを。
(意地悪)
 ルーラに悪態をついて。クラウディアは舌を出した。
 それでも。ルーラと一緒でないことは、少しばかり都合が良かった。案内の女中――湯女も兼ねているのだろうが――を下がらせて、クラウディアは静かに白濁した湯の中に身を沈めていった。着衣のまま湯につかるのは好きではないが。これは、この地方の風習のようであった。水圧で身体にまとわりつく服を不快に思って。クラウディアは湯の感触を楽しむ間もなく、すぐに立ち上がった。
 薄手の浴衣は、まるで第二の皮膚のごとく肌に張り付いている。
 例え湯に入る場合でも、女性が肌をさらすのははしたないとされているようだが。この姿のほうが、よほどはしたなく見える。水分を含んだ服が、体の線をいやがうえにも誇張するのだ。白い浴衣の向こうに透けて見える、柔肌。まろやかな肩。かたちよく膨らみ始めた乳房。なだらかな腹と。そこから続く――
「銀髪じゃないところがまた、生々しいのよね」
 苦笑を浮かべて、彼女は傍らの布を手に取った。身体を拭いてから、上衣を羽織り。部屋に戻るしかないだろう。さすがにこの姿を女中とはいえ人にさらしたくはない。
 それに。
 クラウディアは、ふと、背に手を回した。
「これも見えているってことよね」
 他人には――フィラティノアの人々には、決して見せられないもの。隠さねばならぬもの。その存在を思い浮かべて。彼女はもう一度苦笑した。



「知っていたんでしょ?」
 問いかければ、ルーラは
「何をです?」
 彼女らしくなく問い返してくる。「温泉のことだ」と説明を添えると、彼女は更に
「それがなにか?」
 本当にわからないのか。小首をかしげた。――傾げたかどうか、実際はあやしいものである。
 湖畔を訪れた二人は、そこで馬を止めて。遅めの昼食と休憩をとることにした。
 女中たちが用意してくれたのだろう。ふたつの大振りの籠のひとつには、この地方の特産と思われる果実をふんだんに使用した、焼き菓子と生菓子。それに、果実酒が。もう一方には、家禽の肉と麺麭(パン)が入っている。
 ――こちらは、離宮内で飼育されている鶏の肉です。
 籠を差し出す若い女中が、誇らしげに言ったのをクラウディアは聞いている。野菜も果物も、よそから取り寄せたものではなく。全て離宮内でまかなっているというのだから。考えてみると王太后という人は、かなり贅沢にしてこだわりを持った生活を楽しんでいたのだろう。
「もともと、裕福な農家の令嬢でしたから」
 ルーラの説明に、クラウディアは納得した。
 間に肉と野菜を挟んだパンを手に取ると、それはまだほのかに温かかった。女中たちが温めなおしてくれたのだろう。心遣いに感謝しつつ、彼女はそれにぱくりとかぶりつく。
「妃殿下」
「おいしい」
 呆れたようなルーラの声と、クラウディアの感想が重なる。クラウディアはルーラの言葉が、深窓の令嬢らしからぬ自分の行為に対してのものだと気づいたが。それを無視して更にもう一口。ほおばってみる。肉の中に閉じ込められていたうまみが、咀嚼のたびに口中に広がって。彼女の舌を満足させた。香草を飼料に混ぜているのだろう、肉の臭みはまったくない。ともに挟まれている野菜が、脂のしつこさを消しているので、空腹を覚えている限りいくらでも食べられそうだった。
「ルーラは、食べないの?」
 小食、というよりも殆ど食に対して興味を示さぬルーラは、器用に果実酒の栓を抜き、ふたりぶんの碗に注ぎ分けていた。漂う芳醇な香りを楽しみつつ、酒を口にするルーラは、生身の女性というよりも、まるでその行為自体がひとつの芸術作品であるかのごとく。ぬくもりも現実味も感じさせはしなかった。
 そういえば。ルーラが食事をしているところを、クラウディアは見たことがない。
 昼食に誘っても、彼女はクラウディアが手ずから入れた香茶を楽しむだけである。それ以外は一切手をつけようとはしない。時々ふざけて
「毒なんて入っていないわよ」
 と声をかけるのだが。
「承知しております。妃殿下」
 相変わらずの抑揚のない声で応えるのみで。じっくりと煮込まれたスープや、彩り豊かな前菜、柔らかな肉料理にも、高級な砂糖菓子にも。興味を示さなかった。
 今もルーラは、食事に手をつけることなく。果実酒のみを味わっている。
 これが、彼女の細いが無駄なく筋肉をつけている体型を維持する秘訣なのだろうか。密やかに彼女の様子を盗み見ながら、クラウディアは残りの昼食を片付けた。
「妃殿下は、何をなさるのも手早いですね」
 一息ついて、果実酒に手を伸ばすと。それをクラウディアに手渡しながら、珍しくルーラのほうから話しかけてきた。今も二人分の昼食をあっさり片付けたクラウディアに、嫌味よりも感嘆の声を漏らしたに違いない。
「俗っぽい皇女だと思っているでしょ?」
「……」
 沈黙は、肯定。
「なんだかいやなのよね。お人形みたいに生きるのって。ミアルシァの公女たち、見たことある? みんな綺麗だけど、それだけなのよね。魂がないというか、覇気がないというか。人間的魅力に欠けているって感じ?」
 そういうひとは、きらい。
 きっぱりと言い切ってから。クラウディアは瞳を和ませた。
「あなたもそういう人かと思ったけど。違うから、好きかな」
「妃殿下」
 好きだというと、ルーラはいつでも困ったような、悲しそうな。――少なくともクラウディアだけにはそう見える顔をする。【恋敵】の立場にある相手から、そういわれて嬉しく思う女性は少ないとは思うが。それでも。クラウディアはこの言葉を口にする。折りあるごとに。それは、ルーラにとっては迷惑な言葉かもしれないが。クラウディアにとっては、心からの言葉であるから。
「あなたにとっては、わたしは【妃殿下】で。そのうち【王后陛下】になるのかもしれないけれど。でも」
 クラウディアはそこで一度言葉を切った。
「できれば、クラウディアでありたい。【滅びの娘】であっても、【不吉の兆し】であっても。あなたにとっては、【クラウディア】でありたいのよ」
「妃殿下」
 ――そうだ。フィラティノアに嫁ぐ皇女が決まったときから。自分は【クラウディア】になったのだ。アルメニア皇女ではなく。【アグネイヤ】ではなく。【クラウディア】に。かつて、神聖帝国最後の皇后にして皇帝となった女性の、その名を戴いて嫁いだ日から。
 クラウディアは、無意識のうちに背に手を伸ばしていた。肩甲骨の下、心臓の近く。ここに残る醜い傷跡。これを、ルーラに告白する日は、そう遠い未来ではないだろう。ディグルと正式な婚姻を結んで、初夜の(とこ)に入れば。嫌でも知れてしまうことである。ディグルにも。彼を通じて、ルーラにも。
「――妃殿下は、私のことをご存じないから、そう仰るのです」
 青い瞳に一抹の憂いを宿らせて。ルーラが呟く。意識の海から引き戻されたクラウディアは、いちどゆっくりと瞬きをした。
「【私のこと】を知れば、妃殿下は私を軽蔑するでしょう」
 ルーラはクラウディアを見ていた。見ていたが、心はここにはなかった。どこか遠くを見てしまっている。
 夏の訪れを告げる風がルーラの銀の髪をすり抜けていくさまを、クラウディアは無言で見つめていた。

 秘密を抱える、ふたりの女性。
 それを互いが知ることになるのは、もう少し先のことであった。

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